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いじめの「根源」

「いじめ」の根源は、私たちの心の中にある。「からかう」「あざける」「さげすむ」「もてあそぶ」「悪ふざけ」などという言葉で表現される心情が、「いじめ」の根源である。一方、私たちは「人間の存在価値はすべて平等である」「基本的人権は守られなければならない」という理性をもっている。この理性が、「いじめ」の心情をどのように克服するかという一点が、学校教育(公教育)の喫緊の課題 となってきた。
 いうまでもなく、人間は、顔かたち、能力、性格、思想、信条において「みな同じ」ではない。その「違い」を「価値判断」(評価)することは「差別」であり、「人間の存在価値はすべて平等である」という理念に反する。とりわけ、能力の「優劣」で、その人間の「価値判断」をすることは、「基本的人権」の侵害である。
 しかし、学校教育では、教員が児童・生徒の能力(「学業成績」)を評価している。それが、教員自身の指導(業務)成績を評価する限りにおいては有効であろうが、その「結果責任」をとらされるているのは、児童・生徒(保護者)の側である。「がんばりましょう」「努力を要す」等という評価は、本来、教員に向けてなされるべきものではないか。
 一教員の言動が動機となって、一中学生が「いじめ」られ、自殺した。その教員を知る生徒たちは、「悪ふざけも多かった」と評価しているとのこと(東京新聞10月17日付け夕刊)だが、その教員に「いじめ」の心情があったかどうかにかかわらず、能力(「学業成績」)の評価を児童・生徒(保護者)の側に「結果責任」として「押しつけているかぎり」、教員一般の言動は、つねに「いじめ誘発」の要因になっていることを銘記する必要がある、と私は思う。(2006.10.18)
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「バスケ部主将の自殺」という《問題》

東京新聞朝刊(5面)に「学校に体罰はいらない バスケ部主将の自殺」という見出しの社説が載っている。そこでは、体罰が学校教育法で禁止されているにもかかわらず、全国の学校で、依然と「横行」している実態、それを隠蔽しようとする学校の体質、スポーツの強豪校では、戦績を挙げるために教育的指導の名の下で体罰が黙認される風潮、当該顧問教員が18年間も同一校に勤務している人事の不公正さ、等が指摘されているが、今回の「事件」の問題は、以下に要約される、と私は思う。①顧問教員は、なぜ「体罰」を行ったか。②バスケ主将は、なぜ自殺したか。
 ①顧問教員が「体罰」を行った理由は、単純である。バスケットの強豪校として、自分が(18年かけて)育て上げた大阪市立桜宮高校バスケット部の戦績・栄光を「守る」ためである。バスケット部は、自分の財産(私物)だと思い込んでいる。生徒を、自分が自由に操れる「手駒」(兵隊)だと、信じている。「三十発、四十発殴ったとしても、あいつはオレについてくる」、そうした思い上がりがあったに違いない。しかし、その背景には、「インターハイ出場」は素晴らしいと、その栄誉を讃える「世間」(父母、地域住民)が居ることを、見落としてはなるまい。大阪市長は「事実なら犯罪だ。完全な暴行、傷害だ」と憤慨したそうだが、もし、このような問題が明るみにでなければ、当該校、当該部、当該教員の「功労」を讃えていたはずである。なぜなら、「18年も同一校に勤務させる」という不公正人事を、容認していたのだから。「知らなかった」では、すまされまい。そのことによって、人ひとりが命を絶っているのである。憤慨する前に、自らを「処断」する方が先決であろう。
 ②バスケ主将が「自殺」した理由は、単純ではない。「体罰」が原因だとすれば、なぜ「今、この時期に」という疑問が生じる。主将就任後、「体罰」は日常化(チームの叱られ役)しており、我慢に我慢を重ねてきたが、もう耐えられない、ということだろうか。彼は高校2年生、まして主将を務めるほどの「実力者」なのだから、そんな弱音を吐くとは思えない。社説には「バスケが大好きで、テスト期間中でさえ自主練習に励んでいたという男子生徒。その無念さを思うと胸がつぶれる」と、述べられているが、その「無念さ」こそが、自殺の「動機」に他ならない、と私は思う。「自殺」とは、大好きなバスケットを捨てることである。家族、友人との絆を断つことである。「絶望」することである。「絶望」とは、文字通り「望みを絶つ」ことだが、彼には、どのような「望み」があったのだろうか。私の独断と偏見によれば、彼の「望み」は、「主将を続けること」だった、と思う。しかし、(執拗な)「体罰」を受けることによって、その「望み」は絶たれた(と感じた)。チームメートに対する「申し訳なさ」、自分に対する「ふがいなさ」「情けなさ」、家族に対する「感謝とお詫び」、顧問教員に対する「憤り」「恨み」等々の感情が入り混じって、彼は「孤立」する。その「苦しみ」から逃れるためには「死ぬしかない」・・・、と思ったかどうか。社説の末尾は「体罰を情熱や熱血とすり替え、教育を放棄してはならない。男子生徒の死を無駄にできない」と結ばれている。そのためには、ぜひとも、②バスケ主将は、なぜ自殺したか、という問題が解明されなければならない。(2013.1.11)
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「いじめ」による小・中学生の自殺

衆院教育基本法特別委員会で、文部科学大臣は、「いじめ」による小・中学生の「自殺」の問題に関連して、「いつの時代、どの集団でも(いじめは)あることと思うが・・・」と述べた。はたしてそうか。「いじめのない時代」「いじめのない集団」は、「絵に描いた餅」なのだろうか。文科省の調査では、過去数年間にわたって「いじめによる小・中学生の自殺」の発生は0件であった。しかし、「友だち関係」や「厭世」による自殺は数十件に及んだという。政治家は、教育委員会や文科省の「隠ぺい体質」「事実誤認」を問題視しているが、問題は別のところにあるのではないか。
 毎年、理由の如何を問わず数十名の小・中学生が「自殺」しているという「現実」をどう考えるか、が喫緊の問題である、と私は思う。自殺の原因が、「いじめ」以外であれば許容できるのだろうか。大人ですら困難な「自殺」という行為を、「子ども」がいとも易々と(?)決行してしまう社会の「あり方」を問題視すべきではないのか。「人の命は地球よりも重い」という理念もまた、「絵に描いた餅」に過ぎなくなってしまったのだろうか。政治家が、「いじめ」「自殺」という「言葉」を軽々に使いまくることによって、「いつの時代、どの集団でも、あることと思うが・・・」などという「鈍感」な「感性」が国民の間に涵養されることは許されない。
大切なことは、未来永劫にわたって、「いじめによる小・中学生の自殺」の発生を0件にすることである。その覚悟が、文部科学大臣にあるか。総理大臣にあるか。審議に参加した政治家にあるか。報道関係者にあるか。そして、私自身にあるか。そのことが今問われているのだと思う。
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「小中高いじめ7万件 子ども自殺最多200人」の《責任》

東京新聞朝刊(1面)に「小中高いじめ7万件 文科省調査 子ども自殺最多200人」という見出しの記事が載っている。それによると(2011年度に)〈自殺した200人のうち、いじめが原因なのは4人だった。115人(57.5%)は動機が「不明」で、24人(12.0%)は父母らに叱られたこと、20人(10.0%)は進路の悩みが原因とみられる〉とのことである。私が知りたいことは、調査者は、自殺の原因をどのような方法で特定したか、という一点である。例1、遺書があった。そこに「私はいじめられました。だから自殺します」と書かれていた。したがって、この場合は、「いじめが原因」と特定できる。例2、自殺者の周囲に目撃証言があった。友人、家族、担当教員等々が「彼はたしかにいじめられていました」と言っている。したがって、この場合も「いじめが原因」と特定できる。おそらく、その程度の「確証」でしかない、と私は邪推するのだが、では、父母に叱られたこと、進路の悩みは、「いじめ」とは無関係と断定できるだろうか。言うまでも無く、自殺の原因は(大人でも)「単一」ではない。まして、子どもが自殺するなどということは「あってあられんごと」なはずなのに・・・。私の独断と偏見によれば、「子ども自殺」の原因は、動機が「不明」と感じている関係者の「無関心さ」である。加えて、「子どもを叱った父母」、「進路の悩みに対処できなかった関係者」の「鈍感さ」である。自殺志向者は悩んでいる。苦しんでいる。生きる希望を失っている。死ぬことだけが「解決の道」だと思っている。しかし、周囲の関係者の大半(57.5%)は、そのことに気がつかない。だからこそ、動機は「不明」などと、ノーテンキな言辞を吐くことになるのである。大切なことは、自殺志向者の苦悩に「寄り添い」「共有」することである。「そのままでいいんだよ。あなたの苦しみを私も引き受けよう」という、「理解者(責任者)」の存在である。父母の「養育責任」は言うに及ばず、(「文科省」を筆頭にした)学校関係者の「教育責任」は、途方もなく重い。「いじめ」の原因が、弱肉強食の競争社会にあることは明々白々、そのことを百も承知で、子どもの「苦悩」を野放し・傍観している「大人社会」もまた然り・・・、その責任をとって私もまた「自殺」しなければならないのは、確かであろう。(2012.9.12)

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「小中高自殺・最多200人」の《原因》

文科省の調査によれば、「昨年度(2011年度)、全国で自殺した小・中・高校生は200人、そのうち、いじめが原因は4人、父母に叱られてが24人、進路の悩みが20人、動機不明が115人だった」そうである。合計が200人にならないので、その他の原因もあるようだが、いずれにせよ、最も多いのは動機不明で、全体の57.5%に相当する。つまり、200人のうち半数以上が「動機不明」まま、自殺したということである。いうまでもなく「動機不明」とは、本人が「わけもわからず」自殺した、ということではない。本人には「確かな動機」があったにもかかわらず、周囲がそれを理解していない(いなかった)、ということである。
子どもの生死に関わる重大事を、周囲の関係者、(祖)父母、兄弟、友人、教員等々が理解していない。そのこと自体が、「小中高自殺」の最大要因である、と私は確信する。そのこととは、言い換えれば「コミュニケーションの断絶」である。同世代、異世代にかかわらず、日本人のコミュニケーションは断絶している。様々なコミュニケーション媒体が開発され、外見上は活発な情報交換が展開されているように見えても、実は最も大切なコミュニケーションが欠落しているのである。東日本大震災以来、「復興」「絆」「家族」「がんばろう」等々、空しい「合い言葉」が飛び交っているが、まず「相手を理解する」ことが、コミュニケーションの「第一歩」であろう。自殺した200人の子どもたちの大半は、自分を理解してくれる人に巡り会えなかった、また、理解できる相手を見つけ出せなかった。文字通り「孤立状態」、すでに「社会的には死んでいる」のだが、健気にも「生きている」振りをする。だから周囲は気づかない。そうした悲劇が、今もまた、日本全国津々浦々で繰り返されているのではあるまいか。「我が子は急に話をしなくなった」「何を考えているのか、見当もつかない」、昔なら、それは「親離れ」(社会的な自立)の第一歩として寿ぐべき現象の一つだったのだが・・・。(2012.9.14)
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