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オリンピックとパラリンピック

(日本の社会では)障害児をもつ母親の表情は、一様に暗い。その表情を見るたびに、私の気持ちも暗くなる。なぜなら、それは、日本の社会全体がが「病んでいる」証しに他ならないからである。障害児は社会の役に立たない、「厄介者」である、障害など「無い」方がいいに決まっている、障害者が居ることでその集団は迷惑する、障害者は隔離すべきである、障害者は「断種」すべきである、等々・・・。そうした見解、価値観で大半が占められている社会、その中でわが子を育てなければならない、だからこそ障害児をもつ母親の表情は、一様に暗いのである。「病んでいる」社会とは、弱肉強食の社会である。強者だけが生き残り、弱者は切り捨てられる社会である。だが、強い、弱いなどという基準は、所詮は「相対的」なもの、強者の栄光は、すぐにでも取って替わられる代物でしかない。そんな折、ロンドンではオリンピックに続いてパラリンピックが開かれた。陸上競技の会場は超満員、各選手の「正々堂々とした」(懸命な)闘いに、感動の嵐が巻き起こる。トラック、フィールド、スタンドに集結した人々の表情は、一様に明るい。その表情を見るたびに、私の涙は止まらない。なぜなら、そこにこそ人間本来の、あるべき社会が映し出されているからである。イギリスでは、オリンピックもパラリンピックも、その価値を「区別」しない。パラリンピックの閉会を待って、双方のメダリストが(一堂に会して)凱旋パレードするとのことである。しかるに日本は、といえば、オリンピックが閉会するや、(パラリンピックの開会以前に)、さっさとパレードを終えてしまったではないか。日本の社会では、オリンピックとパラリンピックのメダリストは「器(役者)が違う」とでも思っているのであろう。悲しくも、心貧しい「現実」である。 
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(2004/06/18)
高橋 明

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「禁断の実は満月に輝く」というドラマの《核心》

 「禁断の実は満月に輝く」(NHK・Eチャンネル)というテレビドラマを観た。そのあらすじは以下の通りである。(ネットサイト「まんたんウェブ」より引用)
 ◆「ダウン症のイケメン」を自負する主人公・光司(略)はある日、自分の障害が原因で大好きな兄の結婚が中止になったと知り、ショックを受ける。そこで障害を治そうと、統合失調症の真(略)と食べると障害が治る代わりに記憶を失うという「禁断の実」を求めて旅に出る。その実がなるという村にたどり着いた二人は、実が熟するまでの3日間を過ごす宿泊先の民宿で四肢欠損の娘・真由子(略)を見つける。真由子は、父である民宿の主人・那須(略)が、障害を隠すために外出を禁じられていた。真由子に一目ぼれした光司は外へと誘い出す。一方、親から「こんなこともできないのか」と言われ続けてきたことがトラウマとなっていた真は、那須の母で、認知症の駒子の手伝いをして感謝されたことから、自信をつけていく。そして「禁断の実」が熟すという3日目の夜がやってくる……というストーリー。
 このドラマには、①「ダウン症」、②「統合失調症」、③「身体障害(四肢欠損)」④「認知症」と呼ばれる人物が登場する。①②③はいずれも、そう呼ばれる当事者が演じるという趣向で、文字通り「迫真のドラマ」に仕上がっていた、と私は思う。脚本を書いた桑原亮子も「聴覚障害」、〈障害をもってから、人と関わることが少し苦手になりました。相手に迷惑がられるのではないか、同情の目で見られるのではないか、そう思うと、新しく人と出会うのが怖くなるのです。ですが、人は互いに触れ合ったりぶつかったりしながら、少しずつ強くなっていくものだと思います。そのためには、いつまでも居心地のいい場所にいるわけにはいかない。そんな巣立ちを、このドラマで描いたつもりです。〉(NHK・オンラインより引用)というメッセージを寄せている。
 このドラマの眼目は、「親子関係のあり方」とされているが、私自身はタイトルにある「禁断の実」(のあり方)の方に、興味をそそられた。「禁断の実」とは、「食べると障害が治る代わりに記憶を失う」という効能をもっている。ダウン症の幸司は、兄の結婚が成就するために自分の障害を治したい。しかし、それを食べれば記憶を失い「自分は自分でなくなる」とう副作用を伴うのだ。それは過去の清算であり、これまでの自分自身を「全否定」、つまり「死」を意味する。つまり、「兄のために自分は死んでもよい」と幸司は思っている。本当にそれでいいのか、友人の真は心配するが、そんな折も折り、幸司の前に美しいマドンナ・真由子(の顔)が現れた。幸司は、たちまち「一目惚れ」、イケメンの面目躍如で積極的にアタックする。やがて真由子は(四肢欠損の)全貌を露わにしたが、幸司は「動じることなく」彼女をデートに誘い出す。その強靱な、温かい「感性」こそがこのドラマの核心である、と私は思った。やがて、「禁断の実」が輝く満月の夜がやってきた。幸司と真はその実を採りに山に入るが、見つからない。さもありなん、その実はすでに民宿の主人、真由子の父がゲットしていたのだから。幸司と真が民宿に戻ると、「イヤだ、イヤだヨー」という真由子の叫び声が聞こえる。見れば、「禁断の実」を食べさせようとする父、きっぱりと拒否する娘の「修羅場」であった。幸司、たまらず駆け込んで、父からその実を奪い取ると、庭の暗闇に向かって放り棄てた。この瞬間、すべては終わり、新しい「すべて」が始まったのである。「今のままでいい」「今のままがいい」と泣きじゃくる真由子の姿には、これまでの俗情を払拭する、清々しいオーラ(仏性)が漂っているように、私は感じた。 
 民宿の主人・真由子の父親役を演じた神戸浩の演技も輝いていた。「障害児」と呼ばれる愛娘を慈しむがゆえに、「治したい」「治ってくれ」と、逸る気持ちを抑えられない。わが子に「障害」を負わせてしまった苦渋と悔恨、それが真由子の言霊によって浄化される有様は、アップになった号泣の映像の中に、見事に結実化していた、と私は思う。彼自身もまた、ポリオ罹患者と聞く。その独特の口跡が、たいそう魅力的であった。
 このドラマの舞台は、バリバラ(バリアフリー・バラエティー)劇場、スタッフ、キャストの一同が、「禁断の実」の誘惑を「投げ捨てて」、「障害」という俗情と果敢に闘う姿は、多くの俗流番組を凌駕している。敬意を表し、今後ますますの発展をお祈りする。(2015.12.6)



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