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東日本大震災・《被災地の「学校教育」》

 今日から新学期がスタートした。しかし、「東日本大震災」被災地の学校は、教育活動の再開に困難を極めているとのことである。過日のテレビ報道では、①学校が避難場所になっており「教室」が使えない。②「教科書」など教材・教具が欠乏している。④「教員」が不足している。といった問題点が指摘されていたが、本当にそうだろうか。一方で、〈先生も、子どももいるのに「学校教育」が始められないのが現状です〉などというコメントも添えられていたようだが、私は肯けない。「みんなと一緒に勉強したい」という子どもたち(被災児)の願いが、単に「教室」の中で、机に向かいながら、「教科書」を手元に置いて、黒板の字を写したり、先生の質問に答えたりする「学習活動」に終始する限り、東日本(被災地)の復興は覚束ない、と私は思う。未曾有の災害をどのように認識し、今一人一人が何を考え、どのようにしなければならないか、が喫緊の「学習課題」として設定されなければならないのではないか。被災地の学校教育関係者並びに(被災地の現状を取材する)報道関係者は、今日から「新学習指導要領」(小学校)がスタートすることを御承知か?文科省のホームページには以下の宣伝記事が掲載されている。〈新学習指導要領・生きる力新学習指導要領、全面実施!! 小学校:平成23年4月~(以下略)〉〈生きる力を育むために、子どもたちの未来のために。 新しい学習指導要領は、子どもたちの現状をふまえ、「生きる力」を育むという理念のもと、知識や技能の習得とともに思考力・判断力・表現力などの育成を重視しています。これからの教育は、「ゆとり」でも、「詰め込み」でもありません。次代を担う子どもたちが、これからの社会において必要となる「生きる力」を身に付けてほしい。そのような思いで、新しい学習指導要領を定めました。「生きる力」を育むためには、学校だけではなく、ご家庭や地域など社会全体で子どもたちの教育に取り組むことが大切です。子どもたちの未来のために。新学習指導要領、スタート 〉。被災地の「学校教育」とって、今、最も必要な教育内容(教育課程)は何か。①〈第3章 道徳第1 目標 道徳教育の目標は,第1章総則の第1の2に示すところにより,学校の教育活動全体を通じて,道徳的な心情,判断力,実践意欲と態度などの道徳性を養うこととする。(後略)②〈第1章総則第1の2(前略)道徳教育は,教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき,人間尊重の精神と生命に対する畏(い)敬の念を家庭,学校,その他社会における具体的な生活の中に生かし,豊かな心をもち,伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛し,個性豊かな文化の創造を図るとともに,公共の精神を尊び,民主的な社会及び国家の発展に努め,他国を尊重し,国際社会の平和と発展や環境の保全に貢献し未来を拓(ひら)く主体性のある日本人を育成するため,その基盤としての道徳性を養うことを目標とする。道徳教育を進めるに当たっては,教師と児童及び児童相互の人間関係を深めるとともに,児童が自己の生き方についての考えを深め,家庭や地域社会との連携を図りながら,集団宿泊活動やボランティア活動,自然体験活動などの豊かな体験を通して児童の内面に根ざした道徳性の育成が図られるよう配慮しなければならない。その際,特に児童が基本的な生活習慣,社会生活上のきまりを身に付け,善悪を判断し,人間としてしてはならないことをしないようにすることなどに配慮しなければならない。③〈第5章 総合的な学習の時間第1 目標 横断的・総合的な学習や探究的な学習を通して,自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育成するとともに,学び方やものの考え方を身に付け,問題の解決や探究活動に主体的,創造的,協同的に取り組む態度を育て,自己の生き方を考えることができるようにする。〉
④〈第6章 特別活動第1 目標 望ましい集団活動を通して,心身の調和のとれた発達と個性の伸長を図り,集団の一員としてよりよい生活や人間関係を築こうとする自主的,実践的な態度を育てるとともに,自己の生き方についての考えを深め,自己を生かす能力を養う。〉以上を要するに、①道徳的な心情、判断力、実践意欲と態度を養うこと、②人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を具体的な生活の中に生かすこと、③教師と児童及び児童相互の人間関係を深めること、④児童が自己の生き方について考えを深めること、④自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する質や能力を育成すること、⑤集団の一員としてよりよい生活や人間関係を築こうとする自主的、実践的な態度を育てること、等々が図られなければならない、と私は思う。以上の「教育内容」(教育課程)を展開するのに、はたして「教室」は必要か、「教科書」は不可欠か。 今こそ、「教員」(学校教育関係者)自身の、「生きる力」、(創意・工夫による柔軟な)「問題解決能力」(災害復興のための実践的な「教育課程)が求められている時ではないか。先生と子どもさえいれば「学校教育」は、「いつでも、どこでも」始められるのである。(2011.4.1)
これからを生きる君たちへ―校長先生からの心揺さぶるメッセージ (SHINCHO MOOK)これからを生きる君たちへ―校長先生からの心揺さぶるメッセージ (SHINCHO MOOK)
(2011/04/26)
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「英語教育」の《誤り》

私は、中学校で3年間、高校で3年間、大学で4年間、合計10年間「英語教育」を受けた。しかし、英語を「話す」ことができるようにはならなかった。それは、ひとえに、私自身の「努力不足」「能力不足」の結果であることは、重々承知しているが、周囲にも、私同様の方々が、多数見受けられるところをみると、あながち「それだけ」とは言い切れない気がする。はたして、日本の(学校の)「英語教育」は、児童・生徒にとって適切・妥当なものであったかどうか。私の独断と偏見によれば、多くの(致命的な)「誤り」を犯してきた、またこれからも、犯し続ける虞がある。以下、その根拠を述べたい。
①英語を「聞く・話す」活動を、極端に「軽視」している。
②まだ音声言語を習得していないのに、文字言語を学習させようとしている。
③英語を「聞く」(ヒヤリング)能力よりも「話す」(スピーチ)能力を「重視」している。以上の3点は、言語学習にとっては、完全な「誤り」だが、日本の学校教育は、それを「意図的」に継承してきた。その理由は、単純、「聞く」学習を「評価」する方法が、指導者にとって「複雑」「難解」だったからに他ならない。加えて、「話す」学習(発語・発音)もまた、媒体が「音声」(一過性)である限り「評価」が「困難」といった具合で、要するに、「聞く・話す」領域は「評価ができない」、もしくは、それを評価できる指導者がいなかった、ということである。欧米諸国の文化を学ぶためには、まず「文献」から、そのためには、まず「英文解釈」ができなければならない。さらに、そのためには、「英文法」の理解が先決・・・といった風潮の中で、申し訳程度に「発音記号」も導入される、といった「惨状」は、今も続いているようだが・・・。
民間では「英語は絶対勉強するな!」という書物(CD教材)も出回っているそうだが、「筆答」で成績を「評価」される「勉強」は、本来の「英語教育」(英語学習)とは無縁であることの「証し」であろう。
「英語教育」の「誤り」を正すためには、以下の点が肝要である。
①「英語教育」は、まず「音声言語」の習得を図ること。
②「音声言語」の習得は「聞く」学習から始めること。
③「聞く」学習が、成立・熟達すれば、おのずと「話す」こともできるようになる。したがって、「話す」学習(いわゆる「発音練習」は行わないこと。
④「音声学習」が熟達するまで(日常会話が成立するまで)、「文字学習」は行わないこと。
⑤「英語教育」は、成績の評定を行わないこと。
(2013.1.19)
英語は絶対、勉強するな!―学校行かない・お金かけない・だけどペラペラ英語は絶対、勉強するな!―学校行かない・お金かけない・だけどペラペラ
(2001/01)
鄭 讃容

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徳育の「根幹」

「徳育」(道徳教育)を教科に位置づけても、すべての子供たちに高い規範意識を身につけさせることはできない。なぜなら、そのためには、すべての大人たちが高い規範意識を身につけていることが前提であり、まず大人の社会が子供の「手本」にならなければならないからである。しかし、規範意識に欠ける大人の行動が社会の隅々にまで蔓延しているのが現状ではないか。学校という社会、教員という大人だけに、その高い規範意識を望むことには無理がある。まして「徳育」の根幹は「心を育てること」であり、「知識」を注入することではない。善悪の判断は、「知識」として教えることはできるだろうが、それを行動に移すかどうかは「心情」の問題である。だからこそ、現行の「学習指導要領」においては、「道徳」「特別活動」を「領域」として位置づけ、学校生活全体を通して指導することにしているのである。「真善美」という理念を「知識」として「頭」のなかに入れたところで、「社会規範」として「行動化」されなければ意味がない。大切なことは、「徳育」の格上げではなく、「集団の一員としての自覚を深め、協力してよりよい生活を築こうとする自主的、実践的な態度を育てる」(小学校学習指導要領)ことを目標にした「特別活動」の充実を図ることである。「教育再生会議 第2次報告」を読んでの感想を述べた。(2007.6.2)
渋沢栄一 徳育と実業ー錬金に流されず渋沢栄一 徳育と実業ー錬金に流されず
(2010/09/17)
渋沢 栄一

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バスの中で

ある土曜日の午後、松戸駅から市川駅行きのバスに乗ると、五人の小学生が乗り込んで来て、私の前の座席にすわりました。〈騒がしくなりそうだな・・・。〉乗客の誰もがそう思ったに違いありません。小学生たちと隣り合わせになってしまった老紳士は、そっと他の座席に移りました。バスが走り出すと、小学生たちはてんでに窓の外を見ながら話し始めました。男の子が二人、女の子が三人、これから社会科のグループ調査にでも行くのでしょうか、五・六年生にみえました。春雨橋を渡った時、一人の女の子が叫びました。「あっ、坂川だ。汚いなあ」すると、もう一人の子が言いました。「みんな江戸川に流れて行くんだね」四人はうなづきました。〈どうも様子が違う・・・〉私はそう思い始めました。そう言えば、誰かの声が大きくなりそうになると、右端の男の子が指を口に当てて「シーッ」と制止するのです。次の停留所でお婆さんが乗ってきました。五人は顔を寄せ合って何事か相談すると、一人の男の子がさっと立って、お婆さんに席を譲り、他の四人は体をくっつけ合うようにして座席をつめ合いました。私はびっくりしました。四人は体と体がぴったりとくっついていても平気でいられるのです。〈何て仲が良いんだろう・・・〉先の老紳士が小学生たちをじっと見つめるようになりました。〈どこの学校の子どもたちだろう・・・?〉私は、女の子が胸に付けている名札を見ました。しかし、どの名札も『赤い羽根』の陰に隠れてよく見えませんでした。五人は上矢切で降りました。バスの中には、何ともいえないさわやかな空気が、しばらくの間残っていました。(昭和63年11月29日)
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道徳「教科化」の《問題点》

 東京新聞朝刊(1面)に、「難しい心の評価 道徳教科化 指導要領改定案」という見出しのトップ記事が載っている。その内容を要約すると、以下の通りである。
①文部科学省は4日、現在は小中学校の教科外活動の道徳を、正式な教科とする学習指導要領の改定案を公表した。
②文科省は「教材を読むだけの読み物道徳から、考え、議論する道徳への転換を目指す」と説明している。
③改定案は「数値などによる評価は行わない」とし、一般教科と区別して「特別の教科」と位置づけた。担任教諭が原則、授業を行い、現行の週1回程度の年間35コマ(小1は34コマ)を維持する。
④各学年の学習内容は、新たに設けた「節度、節制」「親切、思いやり」「国や郷土を愛する態度」「生命の尊さ」などのキーワードごとに列挙した。(以下略)
 今、その学習内容の中から新たに設けたものを「小3・4年」を例にして挙げると、以下の通りである。
①自分でできることは自分でやり、安全に気を付け、よっく考えて行動し、節度のある行動をすること(「節度、節制」)。
②相手のことを思いやり、進んで親切にすること(「親切、思いやり」)。
③わが国や郷土の伝統と文化を大切にし、国や郷土を愛する心をもつこと(「国や郷土を愛する心」)。
④生命の尊さを知り、生命あるものを大切にすること(「生命の尊さ」)。
 その他にも、以下のような内容が示されている。
⑤働くことの大切さを知り、進んでみんなのために働くこと(「勤労、公共の精神」)
⑥友達と互いに理解し、信頼し、助け合うこと。(「友情、信頼」)
⑦自分の考えや意見を相手に伝えるとともに、相手のことを理解し、自分と異なる意見も大切にすること。(「相互理解、寛容」)
⑧他国の人々や文化に親しみ、関心をもつこと{「国際理解、国際親善」)
⑨約束や社会のきまりの意義を理解し、それらを守ること。(「規律の尊重」)
⑩美しいものや気高いものに感動する心をもつこと(「感動、畏敬の念」)
 この「学習内容」は合計で20項目示されているが、③⑩の「~心をもつこと」のように「情操」に関するものと、①⑤⑥の「~行動をすること」「~働くこと」「助け合うこと」のように「行動」に関するものが、《混在》している。
 従来は、「特別活動」では「望ましい行動能力」を養い、「道徳」では「豊かな情操」を育てるという区分があったが、その点が極めて曖昧である。また、それらは、いずれも「領域」(の指導)として位置づけられ、「時間を設けて」指導するだけでなく、学校生活全体を通して指導するものとされていた。「行動能力」も「情操」も、「教える」ことはできないからである。一例を挙げれば、教科の学習中に、友達が鉛筆を落としてしまった。「気の毒に」思い(道徳)、拾ってあげる(特別活動)ことができるような子どもを育てることが、「領域」の指導なのである。学校教育は、教科の指導を行いながら、《同時に》「道徳」「特別活動」といった領域の指導も行わなければならないのである。今回の「改定案」には、そうした教育課程の「構造」を無視して、とにかく「教えなければならない」「教えればできるはずだ」といった焦りが感じられる。
 現代の子どもたちが「友達と互いに理解し、信頼し、助け合う」ようになることを望むなら、まず、すべての「教科」の指導において、「数値などによる評価は行わない」ようにすることが《先決》である。以下は、私が2年前に綴った「駄文」である。(2015.2.5)

《学校教育の「誤り」》
  学校教育の「誤り」は、以下の2点に集約される。①児童・生徒の成績を評定すること、②卒業を認定し、いわゆる「学歴」を授与すること。①によって、児童・生徒は、当然のことながら、「優秀」「普通」「劣等」に分類され、それが「社会の評価」にまで敷衍される。「優秀」に分類された児童・生徒は、自尊心が満たされ、得意満面の様相だが、つねに「普通に落ちたくない」というストレスに苛まれる。「普通」の場合も同様に、「優秀」になれない苛立ちと、(油断すると)「劣等に落ちる」不安がつきまとう、さらに「劣等」は、最悪。「自分は最低だ」という自責、「どうしようもない」という絶望、「どうにでもなれ」という投げやり、さらには「優秀」「普通」に対する嫉妬、怨恨までが生じる、といった案配で、どこに分類されようが、児童・生徒の「情緒は安定しない」。本来、児童・生徒に「能力差」があることは自明であり、「できない」ことを責められるいわれはない。どんなに努力・精進を重ねたところで、「できない」ことは「できない」のである。学校はその「能力差」を認めずに、児童・生徒の成績を「一律」に評定する。成績を評定することによって(「ストレス」を加えることによって)、児童・生徒の「学習意欲」が高まると信じている。しかし、それは「誤り」である。「学習」は、「安定」「安心」に基づいた「好奇心」によって、はじめて「成り立つ」ものなのだ。にもかかわらず、学校がその「誤り」(成績を評定すること)に拘るのはなぜか。それは、学校が、一般(経済)社会からの「要請」に応えるためである。社会で役立つ人材を「選別」するためである。児童・生徒は6歳で「義務教育書学校」(小学校又は特別支援学校)に入学する(させられる)と同時に、将来、社会の役に立つか立たないか、という観点で「選別」され、その「結果」を保護者に「通知」される。「劣等」に分類された児童・生徒は、「努力が足りない」と決めつけられる。しかし、「劣等」は、どんなに努力しても「優秀」になることはない。なぜなら、入学前の調査(就学時健診)によって、児童・生徒はすでに「優秀」「普通」「劣等」に選別されており、その資料に基づいて「学級編制」が行われるからである。例えば、「優秀」は7%、「普通」は86%、「劣等」は7%、といった具合に配分される。したがって。児童・生徒の「成績」は、学習が始まる以前から
(本人の努力とは関わりなく)決まっているのである。そうした、「からくり」のもとで、性懲りも無く、児童。生徒の成績を評定している。それが、学校教育の(最大の)「誤り」である。さらにまた、②によって、「優秀」「普通」「劣等」の烙印は、駄目を押され、「固定化」する。「中卒」よりは「高卒」、「中退」よりは「卒業」、「高卒」よりは「大卒」の方が「優秀」である、といった(いわれのない)「社会的評価」が、児童・生徒、さらにはその保護者にまでものしかかる。「学歴」が、その人物のステータスとなる。しかし、本来の勉学に「卒業」(終わり)はない。まして、義務教育は、その年齢に達すれば、おしなべて「卒業」が認定され「証書」が(履修の有無にかかわらず)授与されるのが現実である。だとすれば、そのことに、どれだけの意味があるのだろうか。「高卒」「大卒」にしても、学習課目を「本当」に履修したかどうかは、疑わしいではないか。いずれにせよ、学校は児童・生徒に「学歴」(卒業証書)を授与することによって、その人物の「社会的評価」(処遇)に荷担していることは、間違いない。そのこともまた、本来の教育とは無縁であり、学校教育の「誤り」である。「成績をつけない学校」「卒業のない学校」、それこそが「あるべき学校」の姿なのである。(2013.1.14)
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道徳「教科化」・学習指導要領改訂案の《誤り》

 文部科学省は、「道徳」の学習内容に、「節度、節制」「親切、思いやり」「国や郷土を愛する態度」「生命の尊さ」といった徳目(キーワード)を加え、《教科化》するという「学習指導要領改定案」を公表した。しかし、それは、「教科別の指導」と「領域の指導」を混同しているという点で、《完全な誤り》である。「教科別の指導」は、「知識や技能」を、一定のコマ(学習日課表・時間割)の中で、「座学」(机上学習中心)として展開する。一方、「領域の指導」は、学校生活全体の中で、実生活・活動を通して、ダイナミックに展開する。たとえば、「学校教育法第18条」では、小学校の目標について、以下のように規定されている。
一  学校内外の社会生活の経験に基き、人間相互の関係について、正しい理解と協同、自主及び自律の精神を養うこと。
二  郷土及び国家の現状と伝統について、正しい理解に導き、進んで国際協調の精神を養うこと。
三  日常生活に必要な衣、食、住、産業等について、基礎的な理解と技能を養うこと。
四  日常生活に必要な国語を、正しく理解し、使用する能力を養うこと。
五  日常生活に必要な数量的な関係を、正しく理解し、処理する能力を養うこと。
六  日常生活における自然現象を科学的に観察し、処理する能力を養うこと。
七  健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養い、心身の調和的発達を図ること。
八  生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸等について、基礎的な理解と技能を養うこと。
 これらの目標は、①「~精神を養うこと」、②「~理解と技能を養うこと」、③「~能力を養うこと」に大別されるが、その目標を達成するためには、それぞれの方法(指導形態)を工夫しなければならない。①のために「領域の指導」、②③のために「教科別の指導」という形態をとることは、「教育課程」の《常識》である。言うまでもなく、「道徳」は、上記目標の一、二を達成するために設けられた「領域」であり、「教科《化》」することはできない。「領域」には他に、「特別活動」があり、そこでは、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」(教育基本法第一条)という教育の目的を目指した「活動」が展開される。いわば「特別活動」で、《行動能力》を養い、「道徳」で《精神》を育てる、といった「表裏一体」の関係が存在する。従来の「学習指導要領」では、「特別活動」の(ダイナミックな)《活動》を通して、「道徳」(心)を育てることが企図されている。子どもたちは「特別活動」での様々な(集団的)「活動」を通して、友だちとの対立、葛藤を「経験」し、それを「道徳」で省みることによって、相手の立場を理解したり、協力し合おうとする「気持ち」(精神)を、(みずから)育てていくようになることを目指しているのである。
 今回の改訂案では、そうした(学校生活全体の中で行う)「領域の指導」、「道徳」と「特別活動」の関係を《無視》して、「道徳」だけを切り離し、(「道徳科」を)〈最上位の教科として学校教育の中核〉(「東京新聞・「社説」・2015年2月6日)に位置づけようとしている。それは《完全な誤り》である。(2015.2.6)
小学校学習指導要領 第4版―平成20年3月告示小学校学習指導要領 第4版―平成20年3月告示
(2009/08/21)
文部科学省

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学校は何のためにあるか

学校は何のためにあるか      

 学校は「人間の生活」を学ぶためにある。「人間の生活」とは何か。それは、母親(またはそれに代わる人)と一緒にいることから始まる。多くの場合、「抱かれる」「背負われる」という形で、母親と直接的に触れ合いながら、互いに「生きていること」を感じ合うことから始まる。その時、母親も子どもも「快感」を感じていなければならない。そうすることがとても楽しく感じられるようでなければならい。だから母親は子どもを「肌身離さず」の状態にしておくのである。何かの都合でそのような状態が保たれなくなったとき、子どもは泣いて母親を呼ぶ。これが人間のコミュニケ-ションの第一歩である。母親と接触していることが「快感」であり、母親と離れることが「不快」(不安)であると感じる感覚をもつこと、これが「人間の生活」の第一歩である。 子どもは母親と一緒にいながら、母親のしていることをマネしようとする。しかし思うようにはできない。そこで母親に助けを求める。ある時は泣いて、ある時は怒って、ある時は指をさして、そしてある時はコトバを使って助けを求める。母親は無条件に応じる。子どもは、自分でできないことを母親の力を借りてできるようになる。そしてその楽しさを知る。母親に対する「信頼感」を感じる。これが「人間の生活」の第二歩である。
 やがて子どもは、自分のしたいこと(周囲の人のしていること)を自分の力でやりたがる。そしてできるようになる。自分の力でできたことに大きな喜びを感じる。自分のすることが自分のためになることを知り、充実感(成功感)でいっぱいになる。もう母親の手を借りようとはしない。これが「人間の生活」の第三歩である。 さらに子どもは、それだけでは満足しない。自分のすることが他人のためになることを知り、その充実感(使命感)の方がより楽しいものに感じるようになる。自分のすることを他人が喜ぶ、その姿を見てうれしいと感じるようになる。子どもがお手伝いをするのは報酬を得るためではない。母親が喜ぶ姿を見たいからである。子どもが万引きをしないのは罰せられるからではない。母親が悲しむのを見たくないからである。「名誉や栄光のためではなく」人間は生きるのである。これが「人間の生活」の第四歩である。       学校は「人間の生活」を学ぶためにある。前述した母親を教師に、他人を級友に置き換えれば、家庭であっても学校であっても「人間の生活」を学ぶことに変わりはないのである。「国語」「算数」「社会」「理科」などといった各教科の学習は、「人間の生活」を学ぶための素材であって、内容ではない。むしろ「道徳」「特別活動」といった領域の学習こそが「人間の生活」の内容なのである。                    
 <事例・1>
 ある小学校で入学式が行われた後、一人の母親が担任のところへやってきてこう言った。「先生、うちの子どものことをもうご存じと思いますが、何とぞよろしくお願いいたします。手が不自由なのです。」担任は、学年の教師との話し合いの中で、その子の名前や手の指の数が足りないことについて知っていたので、「ハイ、わかりました。」と答えた。
 その子の様子をみると、とても明るく素直でのびのびと行動しており、指のことなど全く気にしていないように見受けられた。学級の生活が始まって一週間が過ぎた。幼稚園からの資料によると、その子の指は「右手が一本欠損している」とのことだったが、担任はそれをたしかめるのがこわいような気がした。授業中に机間巡視しながらそれとなく様子を見ると、二本欠損していることがわかった。学級では出席をとるとき呼名されて挙手することになっている。その子は何の抵抗もなく「ハイ」と答えて三本指の右手を挙げる。「しかし・・・」と担任は思った。「このままにしてよいだろうか。今は、クラスの子どもたちは気づいていないかもしれない。でもいずれはわかるときがくるだろう。クラスの子どもたちだけではなく、他のクラスや他の学年の子どもたちにも知れわたってしまうかもしれない。三本しか指がないことはそのこと自体としてはどうということはない。しかし、そのことで他の子どもから好奇の目で見られたり、からかわれたり、いじめられたりしたらどうすればよいか。その子の指が三本しかないことを、どのようにしてクラスの子どもたちに知らせ、そのことが何ら問題とすべきではないことをどのように理解させればよいのだろう。」
 担任は「どうすればよいか」学年主任に相談した。学年主任は、自分だけでは判断できないと言って教務主任、教頭、校長に相談した。教務主任は「担任は学級の子どもたちにそのことをはっきりと知らせ、からかったり、いじめたりしてはいけないことを教えるのがよい。また、教職員全員にもそのことを知らせ、しかるべき指導を事前にしておいた方がよい。」と判断した。校長は「その方法はとてもむずかしい。今は誰も気づいていないし、その子自身も明るい性格なので、その場その場で個別に対応していく方がよいのではないか。事前に指導することは、寝た子を起こすことにもなりかねない。」と判断した。その結果、しばらく様子を見ることになった。
 数日後、担任はクラスの子どもたちが、その子の指のことに気づきはじめている場面を目撃した。「あれ、どうして指が三本しかないの?」という問いかけに、その子は「小さいときにケガをしたから」と答えたり、しつこく聞かれたときのは「いいの」と答えたりしていた。
 担任は再び校長に相談した。「クラスの子どもたちは気づきはじめています。担任としてはこのままにしておくことは不安なので、家庭訪問をして保護者の判断をあおぎたいと思います。」校長は承諾した。担任は家庭訪問をして両親にどうすればよいか判断を求めた。両親は、家庭訪問をしてくれたことを非常に感謝し、「他のお子さんが不思議に思うことは当然です。どうすればよいかは先生の判断におまかせしますので、よろしくお願いいたします。」担任、はその結果を校長に報告した。校長は翌日、教職員全員にその子の様子について知らせ、その子のことでトラブルが生じないよう配慮してもらいたいと要望した。
 担任は再び家庭訪問し、その子自身と指のことについて話し合った。クラスの友だちから指のことを聞かれいちいち答えるのは大変だから先生がみんなに話してあげようかと言うと、その子は「どっちでもよい」と答えた。
 その後、担任はそのことについて何もしないて、様子を見ている。現在まで特別な問題は生じていない。その子は、算数の引算の学習で「8ひく5」をするとき、両手を挙げてみんなに見せ「ボクの指ちょうどいいよ、ホラ。」と言った。みんなは「ア、本当だ。」と言ってうなづき、ほほえんだ。体育の「のぼりぼう」では、はじめすぐに落ちてしまったが、現在では一番上まで登ることができるようになった。「雲梯」は、今でもすぐに落ちてしまうが「ボク、得意じゃないんだ。」と言って屈託がない。母親は、音楽で使う「たて笛」を特別に業者に注文している。
 担任は、その子の指のことがほとんど気にならなくなった。今では、そのことが全くあたりまえのことであり、自然な気持ちで教室に入れるようになっている。しかし、自分の見ていない場面や、今後のことになるとどうなのか「不安」がないわけではない。。

 <事例・2>
 「母の日」が近づくと学校では赤いカ-ネ-ションが配られる。ある学級では父子家庭の子がいた。担任は、その子にカ-ネ-ションを配っていいのか、配るとすれば何と言って配ればいいのか「不安」になり、学年主任に相談した。学年主任はどうすればよいか、児童会担当、教頭、校長と話し合った。児童会担当は、一律に配り、父子家庭の子どもに対しては「母親がいなくても試練に耐えなくてはならない。世の中で母の日をなくすわけにはいかないのだから。」ということを話せばよいと主張した。担任は、カ-ネ-ションに「お母さん、ありがとう」という言葉が添えてあるので、その子がさびしい思いをするのではないか、自分だけがみんなとは違う感じてしまうのではないか、という「不安」があると言った。児童会担当は「その子ひとりのために母の日をなくすわけにはいかない。体の不自由な子がいるから運動会をなくすわけにはいかないのと同じだ。」と主張した。どうすればよいか、なかなか考えがまとまらず、「カ-ネ-ションの言葉を書き変えればよい」「カ-ネ-ションの言葉を切り取って配ればよい」「カ-ネ-ションを配るだけで胸につけさせなければよい」などという意見も出された。教頭は「昔は、父子家庭の子には白いカ-ネ-ションを配ったこともあった。昔よりも今の方がよいのではないか。」と言った。話し合いは平行線のまま終わった。
 担任はかつて父子家庭の子どもにカ-ネ-ションを配ったとき、その子がカ-ネ-ションを持ってきて、「先生、ボクお母さんいないから、この言葉を、おばあちゃんありがとうと書きかえてよ。」と言ったことが忘れられなかった。そのときは忙しさのまぎれて、そのまま渡してしまったことを後悔していた。だから、児童会担当の主張を受け容れる気持ちにはなれなかった。
 翌日(カ-ネ-ションを配る日)、校長は全教職員に次のように話した。
 「今日、母の日のカ-ネ-ションを配ることになっています。お母さんのいない子もいるので、配り方をいろいろ考えてください。ただ一律に配ってしまうのも一つの方法です。またその子に対しては、言葉の部分をふだんお世話になっている人の名前に変えて配る方法もあります。家庭に対しては、母の日の趣旨を説明し理解を求める手紙を添えることも考えられます。父子家庭に限らず、子どもひとりひとりの問題にいつも気を配り、それぞれに対応した配慮ができるよう心がけてください。」
 担任は、カ-ネ-ションの言葉の部分を書き変え、手紙を添えて、その子に配った。しかし、どうしても胸につけさせることはできなかった。
 児童会担当は、担任のところへ来てこう言った。「私の考えは間違っていたようです。母親がいなくても試練に耐えなくてはならない、というのは単純な理屈であって、子どもには理解できないということがわかりました。」(2002.7.31)




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「学力」とは何か・《ある私立中学校の入試問題》

ある私立中学校の入学試験(算数)に、「2時から3時の間で、長針と短針がぴったり重なる時刻は何時何分でしょうか」という問題が出された。はたして、この問題を何人(の大人)が解けるだろうか。この問題を解くためにどうすればよいか。実物の時計で確かめるのが手っ取り早いとは言え、いくら時計を眺めてみても、正確な答は得られまい。なぜなら、長針と短針がぴったり重なる時刻には、該当する目盛りが無いからである。つまり、2時10分と11分の間であることは目測でわかるが、それが何時何分であるかを特定することはできない。ではどうすればよいか。とりあえず、1分間に進む長針と短針の距離に注目することにする。距離といっても、それは長さではなく角度である。長針は、1分間で、時計の1目盛り進むから、360度÷60目盛り=6度、進む。短針は、1時間で時計の5目盛り(30度分)進むから、1分間では30度÷60分=0.5度進む。そのことを念頭に置いて、2時以降の長針・短針の位置を角度で示すと、2時00分時、長針0度、短針60.5度、2時01分時、長針6度・短針60.5度、2時02分時、長針12度・短針61度、2時03分時、長針18度・短針61.5度、2時04分時、長針24度・短針62度、2時05分時、長針30度・短針62.5度、2時06分時、長針36度・短針63度、2時07分時、長針42度・短針63.5度、2時08分時、長針48度・短針64度、2時09分時、長針54度・短針64.5度、2時10分時、長針60度・短針65度、2時11分時、長針66度・短針65.5度、となる。ここでも、2時10分時、長針は短針よりも「上」にあったが、2時11分時には「下」になり、その間に「ぴったり重なる時刻」があったはずだが、何時何分であったかは分からない。したがって、この問題の答は「2時10分から11分の間」としか答えようがないのだが、それでは×しかもらえない。学力優秀な小学生(数学者の卵)は、そんな「具体的な思考」にとらわれてはいないからである。彼らは明解に答えるであろう。「2時00分時における長針と短針の角度の差は60度。それが1分毎に縮まって0度になった時刻が答である。長針と短針の差は1分間で5.5度縮まる(60度-0.5度)から、60度÷5.5度と計算すればよい。60÷5.5=10.9・・・となって割り切れないから、分数処理をして60÷5.5=10と11分の10。答は2時10と11分の10分である」。なるほど、そうか、恐れ入りました、と言いたいところだが、はたして、その学力優秀な小学生は、どのようにして、そのような「抽象的(数学的)な思考」を身につけたのだろうか。学力劣等な私の邪推によれば、おそらく受験生の大半が件の入試問題を正解するに違いない。彼らは、事前にその問題の「解き方」を知っているからである。なぜ?今さら言うまでもなく、彼らは「受験塾」でその「解き方」を買っていたのである。いわゆる「過去問」(カコモン)の情報をかき集め、その「解き方」を知っていればいるほど「学力優秀」(頭脳明晰)という墨付きがもらえるというカラクリは、今も昔も変わらない。ただ一点、その「学力」とは、所詮「解き方」を憶えまくる「記憶能力」に過ぎず、新たな問題に直面、試行錯誤を繰り返しながら「解決」の糸口を見つけ出そうとする「生きる力」(創造力)とは無縁であるような気がしてならない。そこで問題、「11時と12時の間で、長針と短針がぴったり重なる時刻は、何時何分でしょう」。(2011.8.31)
学力とは何か (新書y)学力とは何か (新書y)
(2008/12/06)
諏訪 哲二

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「学校教育」の《誤り》

学校教育の「誤り」は、以下の2点に集約される。①児童・生徒の成績を評定すること、②卒業を認定し、いわゆる「学歴」を授与すること。①によって、児童・生徒は、当然のことながら、「優秀」「普通」「劣等」に分類され、それが「社会の評価」にまで敷衍される。「優秀」に分類された児童・生徒は、自尊心が満たされ、得意満面の様相だが、つねに「普通に落ちたくない」というストレスに苛まれる。「普通」の場合も同様に、「優秀」になれない苛立ちと、(油断すると)「劣等に落ちる」不安がつきまとう、さらに「劣等」は、最悪。「自分は最低だ」という自責、「どうしようもない」という絶望、「どうにでもなれ」という投げやり、さらには「優秀」「普通」に対する嫉妬、怨恨までが生じる、といった案配で、どこに分類されようが、児童・生徒の「情緒は安定しない」。本来、児童・生徒に「能力差」があることは自明であり、「できない」ことを責められるいわれはない。どんなに努力・精進を重ねたところで、「できない」ことは「できない」のである。学校はその「能力差」を認めずに、児童・生徒の成績を「一律」に評定する。成績を評定することによって(「ストレス」を加えることによって)、児童・生徒の「学習意欲」が高まると信じている。しかし、それは「誤り」である。「学習」は、「安定」「安心」に基づいた「好奇心」によって、はじめて「成り立つ」ものなのだ。にもかかわらず、学校がその「誤り」(成績を評定すること)に拘るのはなぜか。それは、学校が、一般(経済)社会からの「要請」に応えるためである。社会で役立つ人材を「選別」するためである。児童・生徒は6歳で「義務教育書学校」(小学校又は特別支援学校)に入学する(させられる)と同時に、将来、社会の役に立つか立たないか、という観点で「選別」され、その「結果」を保護者に「通知」される。「劣等」に分類された児童・生徒は、「努力が足りない」と決めつけられる。しかし、「劣等」は、どんなに努力しても「優秀」になることはない。なぜなら、入学前の調査(就学時健診)によって、児童・生徒はすでに「優秀」「普通」「劣等」に選別されており、その資料に基づいて「学級編制」が行われるからである。例えば、「優秀」は7%、「普通」は86%、「劣等」は7%、といった具合に配分される。したがって。児童・生徒の「成績」は、学習が始まる以前から
(本人の努力とは関わりなく)決まっているのである。そうした、「からくり」のもとで、性懲りも無く、児童。生徒の成績を評定している。それが、学校教育の(最大の)「誤り」である。さらにまた、②によって、「優秀」「普通」「劣等」の烙印は、駄目を押され、「固定化」する。「中卒」よりは「高卒」、「中退」よりは「卒業」、「高卒」よりは「大卒」の方が「優秀」である、といった(いわれのない)「社会的評価」が、児童・生徒、さらにはその保護者にまでものしかかる。「学歴」が、その人物のステータスとなる。しかし、本来の勉学に「卒業」(終わり)はない。まして、義務教育は、その年齢に達すれば、おしなべて「卒業」が認定され「証書」が(履修の有無にかかわらず)授与されるのが現実である。だとすれば、そのことに、どれだけの意味があるのだろうか。「高卒」「大卒」にしても、学習課目を「本当」に履修したかどうかは、疑わしいではないか。いずれにせよ、学校は児童・生徒に「学歴」(卒業証書)を授与することによって、その人物の「社会的評価」(処遇)に荷担していることは、間違いない。そのこともまた、本来の教育とは無縁であり、学校教育の「誤り」である。「成績をつけない学校」「卒業のない学校」、それこそが「あるべき学校」の姿なのである。(2013.1.14)
学校って何だろう―教育の社会学入門 (ちくま文庫)学校って何だろう―教育の社会学入門 (ちくま文庫)
(2005/12)
苅谷 剛彦

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