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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年」再読・序

《序》
「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年)を再読する。この本は今から22年前に刊行され、私はほぼ20年前に一読した。「自閉症」の《謎》とされている部分に対して、第三者(学者)として、大変わかりやすく解説されており、多くの示唆を与えられた。あらためて再読しようと思い立ったのには以下の理由がある。①当時は、教員として第三者(児童・生徒)の治療教育に携わりながら、参考書として精読したが、今は立場が変わった。まもなく5歳になる孫(自閉症と診断された男児)の祖父として、いわば「身内」の立場から「自閉症」の《謎》について考えてみたい。②私はここ数年の間に「自閉症・治癒への道」(ティンバーゲン・新書館・1987年)、「自閉症治療の到達点」(太田昌孝、永井洋子・日本文化科学社・1992年)、「広汎性発達障害児への応用行動分析(フリーオペラント法)」(佐久間徹・二瓶社・2013年)、「愛着障害」(岡田尊司・光文社新書・2011年)を読了した。それらの内容と「比較対照」しながら再読すれば、自分にとって新しい何かを見つけることができるのではないか。
 20年前は、(私自身が)いわば白紙の状態で一読したが、今回は「祖父」という立場で、またある程度の「知識」を踏まえて、《批判的》に精読したいと思う。




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・1

《はじめに》
【要約】
・自閉症とは、現在では、出生前もしくは出生後のごく初期に発生する発達障害の独特なタイプであると考えられている。それは、未完成な、また、それだけに爆発的な発達を遂げる幼い脳に起きた小さな出来事の結果によるものである。最初は小さな異変であったものが、大きな建築物の大事な骨組みにできたわずかな亀裂のように、その後につくられる構造に重大な歪みを生じたと考えられる。
【感想】
・「脳に起きた小さな出来事」により、その後につくられる構造に重大な歪みを生じたという考えには同意できる。はじめから「自閉症」の症状があらわれるということではなく、徐々に「自閉症になっていく」もしくは「自閉症児として扱われるようになる」という経過を辿るのではないだろうか。
・「脳に起きた小さな出来事」とは何だろうか。そのことを解明することが喫緊の課題だと思う。

【要約】
・本来同じ人間として生をうけた仲間の一部が、思いがけずも。微少ではあるが結果の重大な障害をうけ、孤独な旅に出ることとなったと考えるべきである。
・自閉症者が見せる融通のきかなさ、混乱したときに示すパニックなどは、健常者にもその面影を認めることができるものである。それらの行動は、特定の条件に限っていえば、私たちの生存に欠かせないものでさえある。私たちは、発達の分岐点において、かろうじて「正常」なほうの道を選ぶことができたので、右のような行動の発現のメカニズムを調節できるようになっただけである。
【感想】
・自閉症者「特有」の行動は、「私たちの生存に欠かせないものでさえある」という指摘には同意できる。それらを、私たちとは全く「異質な」ものであるという認識はあやまりではないだろうか。では、なぜ私たちは、「かろうじて、『正常』なほうの道をえらぶことができたのだろうか。それを選ばせた要因は何か。興味深い問題である。

【要約】
・ヒトの人間としての旅の始まりは、私たち一人一人が物心つくよりもずっと以前のことである。それは、多くの危険をはらんだ旅立ちでもあった。私たちは、この未明の嵐のことを忘れ、その後のもっと静かな光景だけを見ながら人生という旅を続けている。しかし、自閉症の人たちは、この時の嵐の激しさとその傷跡を克服することのむずかしさを身をもって私たちに警告していると考えることができる。
【感想】
・私たちの人間としての旅における「未明の嵐」とは、周産期から出生時に受ける大きな「ストレス」のことであろう。出生とは、胎内という安定した環境を脱出して、大気圧の空間に「投げ出される」ことである。その環境の激変にどれだけ耐えられるか、が人間には問われるのである。しかし、出生時の有様を記憶している人間は皆無であろう。「謎」は、その時に始まり、以後、解明されぬまま拡大していくのである。

【要約】
・「自閉症」とは、その名前から、私たちに顔をそむける、一風変わった人たちを示す症状としてだけ受け取られがちである。しかし、そうではなく、それは早期の障害によって、一人の人間のすべての構造が根こそぎ揺り動かされた結果を示す症状である。
【感想】
・「自閉症」の原語は「オーティズム」である。本来は「自動」という意味であり、「閉じこもる」という意味はない。それを「自閉症」と翻訳したのはなぜだろうか。行動特徴に「顔をそむける」といった「回避」行動が見られるというだけで「閉じこもる」と断定してよいだろうか。「回避」行動は、動物が自分の身を守るために必要不可欠であり、私たちの生存に欠かせないものではないだろうか。

【要約】
・そこから生まれる問題は、治療や教育の問題であるばかりではなく、脳とこころの全般的な問題であり、言語や、認識や、行動や、感情の問題であり、哲学の問題ですらある。そんな広い世界についての問題提起を、自閉症の人たちはおこなっているのだと思う。
・しかし、自閉症という障害は多くの人に知られるものとなり、私たちと彼らの間のより良い係わりのあり方がけんとうされるようになってきた。分岐した道は長い旅のあとで再び近づいてきたのである。今こそ、たがいの旅の道筋を振り返り、私たち人間のこれからの旅の目安にしたいものだと思う。
・以下、各章の冒頭では、自閉症にまつわる謎を一つずつ示していくことにする。読み進むうちに、謎として示されていたものはそれほど大きな謎ではなく、本当の謎は人間が普遍的に抱える問題であることに気づかれるのではないかと考えている。
【感想】
・はたして「自閉症」という問題は、「脳とこころの全般的な問題」であろうか。私には「幼い脳に起きた小さな出来事」の問題に過ぎず、その出来事に「適切に」対応できなかった結果だけの問題であるように思えてならないのだが・・・。
(2015.10.12)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・2

《第1章 自閉症の発見》
【要約】
◎発端となる謎
・自閉症の発見は、1943年と翌1944年に、米国の小児精神科医カナーとオーストリアの小児精神科医アスペルガーによって相次いでなされた。しかも「自閉症」(オーティズム)という全く同じ病名を用いることによって。大きな謎として迎えられたこの障害は、かなり解明が進んだとはいえ、半世紀が過ぎた今も深い謎として論議されている。
・そんな謎の一つが私のところにも時折、届けられてくることがある。
【ある手紙】
・遠方の自閉症児の父親から一通の手紙を受け取った。手紙には、15歳になる長男の出生から現在に至るまでの記録が詳しく書かれてあった。正常に育っているとばかり思っていた2歳半頃までのこと。「パパ」「ブッブー」など、いったん出始めた言葉がいっこうに増える様子がなく、視線が合わないと気になりだした頃から、数少ない言葉も消えてしまったこと。さらに、その後、追い打ちをかけるように、高い所に登ったり戸外に飛び出したり、いわゆる「多動」と呼ばれる行動が目立ってきたこと。

《感想》
・ここまでの「謎」は、2歳半頃までは正常に育っているとばかり思っていたが、①いったん出始めた言葉がいっこうに増える様子がなく、消えてしまったこと、②視線が合わないこと、③「多動」と呼ばれる行動が目立ってきたこと、それらの徴候が「なぜ」生じたか、ということである。この「謎」は、当然、親が「親の立場で」感じている「謎」である。専門家は、「第三者の立場」で、この「謎」を究明しなければならないが、今も論議され続け、はっきりとした答が見つからないということであろう。
・大切なことは、専門家が「第三者の立場」(子どもを「彼」とみなす)ではなく、「第二者の立場」(子どもを「あなた」とみなす)から、この「謎」に取り組むことである、と私は思う。
・具体的に言えば、子どもが「パパ」「ブッブー」という言葉(もしくは声)を発したとき、周囲の者(多くの場合は親)は、どのように反応したか、という観点が必要である。子どもは、それより以前から「オックン」「アブブブー」などという声を発していたかもしれない。親はその「声」を「言葉」として受け止め、応えてきたか。「そう、お話ししてるの。うれしいの、おもしろいの、よかったわねえ」などと言いながら、こちらも、子どもの発する声を真似することで、「気持ちのやりとり」をしていたか。
・親は「していました」「普通に育った上の子と、《同じように》育てました」と言うだろう。しかし、専門家は、その言葉を「鵜呑み」にしてはいけない、と私は思う。なぜなら、その「現場」を見ていたわけではないからである。
・また、大切なことは、親の「育て方」ではなく、「かかわり方」「接し方」である。
・以後は、私の推測だが、①子どもが声を出していても応えなかった、②泣かないように「先回りして」世話をした、③幼児音や幼児語を使いたくなかった、初めから正しい言葉を使えるように、大人の言葉で話しかけた、④子どもの目を正面から見て接することが少なかった、⑤「いないいないばあ」「いいお顔」など「表情」のやりとりを楽しむことが少なかった、⑥「ダメ」「アブナイ」「バッチイ」などという言葉で子どもの行動を「制止」する前に、「ブロック」「拘束」「捕縛」などで危険を防止した、というようなことはなかったか。
・「多動」とは、「親の立場」「第三者の立場」から見た評価である。健全に育った子どもは、すべて多動である、と言っても過言ではない、好奇心、探索心のあらわれである。親は、多動を調整するために「手をつなぐ」。その(掌の)「温もり」を感じながら、子どもは「移動」し、「探索」する。したがって、⑦親は子どもと手をつなげるか(手首や腕を掴むことではない)、⑧子どもの方から手をつなごうとするか、⑨手を握ると、強く握り返すか、⑩ある程度の時間、握りしめていられるか、といったことも重要なチェックポイントになるだろう。 
・いずれにせよ、専門家が「第三者の立場で」、親からの情報をそのまま「鵜呑み」にしている限り、自閉症の「謎」が究明されることは難しい、と私は思った。
(2015.10.21)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・3

【自閉症の診断】
・自閉症は単一の原因によって生まれるものではなく、複数の原因に由来した障害をもつ症候群である。しかも、その症状は一人一人微妙に違うため、自閉症者の数だけ自閉症の物語があると言ってもいいほどである。
・自閉症の第一発見者であるカナーが自閉症児の中に認めた症状は、要約すると、次の五項目のようになる。一、周囲からの極端な孤立 二、言葉の発達の歪み 三、強迫的な同一性保持の傾向 四、物に対する特別な技能やすぐれた記憶力 五、潜在的な知能
・カナーの診断に続いて、多くの専門家によるおびただしい数の診断法が提起されてきた。その中で、英国のラターによる診断項目が、現在用いられている種々の診断法のエッセンスのような役割を演じている。それは、次の四項目からなるものである。一、生後30カ月以内に発症する。二、社会的発達に障害が見られる。三、言語発達に遅れと偏りが見られる。四、同一性への固執が見られる。
 
《感想》
・ラター以後、イギリスの精神科医ローナ・ウィングは、自閉症の特徴として「自閉症の3つ組」を示した。それは以下の通りである。
《ローナ・ウィングの『自閉症の3つ組』》
1.社会性の障害(対人関係の障害)……他者との相互的な人間関係や母親との愛着関係を築く事が苦手で、相手の感情や思いに配慮する共感能力が殆ど欠如しているという『社会性の障害』を示す。他者に興味や関心を全く示さないか、一方的な感情や欲求を押し付けるコミュニケーションしか出来ないなどの社会性の障害を示し、社会的環境において自閉的な孤立に陥りやすい。発達早期の乳幼児期に見られる特徴としては、母親と視線を合わせず微笑みを見せることがない、母親がいなくなっても母親を求めないといった特徴が見られる。
2.言語的コミュニケーションの障害……言語発達の遅れや失語を見せて、他者との言語的コミュニケーションが不可能になったり困難になったりする。自閉症に良く見られるコミュニケーションとして、相手の発話した単語をそのまま繰り返す『オウム返し』や相手の感情や意図を無視して一方的に質問し続ける『疑問文による要請』などがある。
3.こだわり行動への固執性……いつも同じ遊びだけを機械的に繰り返したり、物を規則正しく並べ続けて飽きることがない。同じ道順や方法、食べ物、お菓子でないとパニックを起こしたりする。毎日毎日同じ行動を繰り返す常同行動・反復行動が顕著に見られ、手をひらひらと動かしたり、頭を床にコツコツぶつけたりする自己刺激行動への固執が見られることもある。特定の行動パターン・遂行の手順・規則的な並び方・自分好みの方法に強迫的な欲求やこだわりを見せて、パターン化した常同行動や反復行動以外の新しい行動や手段を身につけることが非常に困難である。
((http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/biblio/development003.htmlより引用)
  
 カナー、ラター、ウィング、三者の見解は共通しており、いずれも①社会性の発達の遅れ、②言語発達の遅れ・歪み、③同一性への固執を、自閉症の行動特徴として挙げているが、さらにその三項目を「並列」して見ていることも共通している。
 私の独断と偏見によれば、その「並列的」な見方こそ、自閉症の「謎」をさらに深めてしまう原因であり、明らかな「誤り」である。三項目のうち、すべての発端は、カナーのいう「周囲からの極端な孤立」、ラターのいう「社会的発達の障害」、ウィングのいう「社会性の障害」に始まることを見落としてはならない。「他者との相互的な人間関係や母親との愛着関係を築く事が苦手で、相手の感情や思いに配慮する共感能力が殆ど欠如している」からこそ、言語発達の遅れや同一性への固執といった問題が生じてしまうのである。したがって、自閉症の診断基準は「他者との相互的人間関係を築けるか」「母親との愛着関係を築けるか」の二点に絞られなければならない。ウイングが「言語的コミュニケーションの障害」で指摘する「オウム返し」「疑問文による要請」、さらには「代名詞の誤用」等々は、一・二語文期(2~3歳台)の幼児には頻繁にみられる現象であり、自閉症の診断基準にはならない。また、「こだわり行動(同一性)への固執」にしても、たとえば、くるくる回る物を求めるといった行動特徴は、誰にでも見受けられる。「風車」といった玩具は、その遊びの恰好なアイテムに他ならない。「言語発達の遅れ」「同一性への固執」は、「社会性」(他者との人間関係・母親との愛着関係)が阻害された結果、まだ乳幼児段階に留まったままであることの「現れ」なのではないだろうか。
著者の熊谷高幸氏は「その症状は一人一人微妙に違うため、自閉症者の数だけ自閉症の物語があると言ってもいいほどである」と述べているが、その裏を返せば、「人は千差万別」「十人寄れば気は十色」ということを指摘しているにすぎない。つまり、自閉症として共通する(完全に一致する)症状は「存在しない」ということである。しかし「自閉症」と呼ばれる子どもは「存在させられてしまう」。そこに大きな矛盾を私は感じるのである。大切なことは、その子が「他者との人間関係を築けかった、築けないでいる」のはなぜか、「母親との愛着関係を築けなかった、築けないでいる」のはなぜか、を具体的に究明することである。いうまでもなく、「関係」(社会性)とは一人では築けない。つねに「他者」を必要としているのであり、その「関係」は「他者」のあり方によって大きく左右されるものであることを見落としてはならない、と私は思う。
 蛇足だが、カナーは自閉症の診断基準として 「四、物に対する特別な技能やすぐれた記憶力 五、潜在的な知能」を挙げている。他者よりすぐれた能力、潜在的な能力までが《症状》としてみなされるようでは、「自閉症児」は浮かばれない。実を言えば「自閉症」などという疾患はもともと「存在しなかった」と考える方が、「謎」を解く第一歩になると思うのだが・・・。
(2015.10.23)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・4

 《第2章》自閉症の幼児期
【要約】
《謎をさかのぼる》
・自閉症というきわめてユニークな症状をもたらす原因の大本となっているものは必ずしもユニークなものではなく、知能障害などとも共通する非常に多くの病因が考えられるのだった。それらの病因が、何故しばしば自閉症へ発展するのか、その理由として考えられる二つの事柄について、この章では考えてみたい。第一に、人の脳は、その構造から、すなわち、その設計的な特色から、自閉症を生み出すような因子をもっているのではないか。第二に、人は、他の動物とはかけ離れた出生後まもなくの育ち方の特色から、自閉症となる可能性をもっているのではないか。
【感想】
・この仮説に、私は肯けない。その理由、①自閉症の症状はユニークではない。人間の発達過程で、誰でもが行う「行動特徴」を《症状》と見なすことは誤りである。通常なら、その「行動特徴」は成長するにつれて軽減・消去されていくが、なぜか「そのまま留まった」状態が続いているに過ぎない。だからこそ、その原因の大本はユニークなものではないのである。②自閉症を生み出すような因子が、人の脳の構造、設計的特色にあった、また、他の動物とはかけ離れた出生後まもなくの育ち方の特色が自閉症となる可能性をもっている、とすれば・・・、1943年まで「自閉症が発見されなかった」のは何故か、その理由が判然としない。

【要約】
《幼児期のエリー》
「彼女には、ただこの一つの場所(くるくると回るための床の一点)しか眼中にない。1歳半になって、物に触ったり、物を口に入れたり、指さしたり、探し回ったりしる時期になっているはずなのに、こうしたことは何一つしない。歩きもしないし、階段を這い上がることもしない。物をとろうとにじり寄っていくこともしない。彼女はなに一つほしがらない」(クララ・パーク)
 にもかかわらず、エリーの運動発達はそれほど遅れているわけではなかった。このときには這うことができたし、少し遅れたけれども、1歳7カ月には歩くこともできたのである。さらに「エリーの動作は正確で、その慎重な挙動は気味の悪いほど統制がとれていた」と母親は述べている。そして、エリーの外界に対する知覚も決して劣ったものではなかった。彼女は必要に迫られれば、狭い通路を人や物にぶつかることなく目的地に到達することができた。すると、ここで述べられているエリーの特徴は、やはり文中にあるように「なに一つほしがらない」ところにあるのではないだろうか。エリーの母は、別のところでは。娘はすべてに対して「超然としていた」と述べている。わが子が自閉症の診断を受けた後で、両親が赤ちゃん時代の印象としてよく語る言葉が「落ち着いていた」「おとなしかった」「扱いやすかった」というものである。それらは多くの場合、やがて現れる子どもの障害を覆い隠す役割を果たしている。しかし、エリーよりも前に三人の子どもを育てたこの著者は、このような印象の背後にある深刻な問題をすでに見通していたと言えるのでは内だろうか。
【感想】
・本当にそうだろうか。「エリーの物語」を著したクララ・パークは「エリーよりも前に三人の子どもを育てた」ことがあったとしても、エリーを育てたのは初めてであり、背後にある深刻な問題を見通していた、とは私には思えない。たしかに、「彼女はなに一つほしがらなかった」ことを「見落としていない」。しかし、その特徴(実は、それこそが自閉症の本質ではないだろうか、と私は思っているのだが・・・)に対して、クララ・パークは「どのように関わった」のだろうか。私が「エリーの物語」から読み取れる情景は、一つの場所でくるくる回り、物を触ったり、口に入れたりすることもなく、歩くこと、指さすこともしない娘を、ただ(なすすべもなく)「見つめている」、あるいは他の仕事に追われながら「時々、必要な世話をしている」母親の姿でしかない。前の三人の子どもも同じように育てたかもしれない。しかし、エリーの兄姉たちは、「自分から欲しがってきた」、だからエリーが「なに一つほしがらない」のは、エリー自身の「脳」の中に異変が生じているのではないか、ということになる。
 著者の熊谷高幸氏は、クララ・パークの「育て方」「関わり方」を実際に見聞したのだろうか。私は「エリーの物語」をそのまま「鵜呑み」にすることはできない。
 余談だが、私が知る幼児の両親は、①子どもが寝ているときは、起こさないように声をひそめて、大きな音を立てないように心がけた。②入浴では清潔を保つために「一番風呂」に入れた。③食べ物は、極力、添加物のない自然食品を与え、また、つねにアレルギーを心配していた。④異物を口に入れないよう、「手で食べる」ことをさせなかった。⑤子どもが泣いて要求するまえに、「先回りして」世話をした。⑥子どもとじゃれあって遊ぶことよりも、音楽を聞かせること、本を読み聞かせることを重視した。⑦声や幼児語でやりとりすることよりも、大人の標準語で接した。⑧危険防止のため、引き出しはロックし、ダイニングのイスは(テーブルに登れないように)倒しておいた。⑨本棚にはすき間なく本を詰め、抜き取れないようにした。⑩子どもが「泣いて嫌がる」ことは、無理強いしなかった。
 その結果(かどうかは判然としないが)、幼児は3歳の時に「自閉症」と診断された。
エリーと同様に「なに一つほしがらなかった」。同じ場所を行ったり来たり、くるくる回ることが目立つ。1歳半で「仰げば尊し」の唱歌を歌い、絵本の文章をすらすら暗誦するのに、名前を呼ばれても返事をしない。同年齢の子どもたちとは交じらず「超然としている」。また、耳ふさぎ、独り言、偏食も目立つ、といった状態が続いている。
 両親の「育て方」「接し方」と、幼児の行動特徴に《「因果関係」ありや、なしや》、そのことを究明することが、今、私の喫緊の課題なのである。
(2015.11.5)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・5

【脳の設計思想】
《要約》
・ヒトの脳の各部位は、一般に、①脳幹、②視床下部、③大脳辺縁系、④大脳皮質、⑤前頭葉という名称で表されているが、米国の生理学者ポール・マクリーンは、進化という観点から、①爬虫類脳、②古哺乳類脳、③新哺乳類脳という三層構造の模式図を提案した。爬虫類脳は、脳幹・視床下部に、古哺乳類脳は大脳辺縁系に、新哺乳類脳は大脳皮質・前頭葉に対応している。この中で、大脳皮質・前頭葉はヒト以外の哺乳類では広い範囲を占めず、ヒトに至って爆発的に増大したものである。
・このことは、私たちに非常に重大な課題を投げかけた。脳幹、視床下部、辺縁系といった脳の深部は、生命維持、欲望、感情というホットな働きを担当する。皮質部はクールで敏速な情報処理を担当する。深部の脳はアナログ的で、皮質部はデジタル的である。私たちは、一つの脳の中に、異なる活動原理をもった二つの巨大組織を抱えてしまったのであり、これが人間に独自の問題を生み出すことになる。
・左半球皮質は言語脳と呼ばれ、右半球皮質は非言語脳と呼ばれ、それぞれの役割を分担しているが、同時に、広大な皮質と深部の脳をつなぐ調整役としての前頭葉皮質も巨大化することのなった。
・巨大組織をいくつも抱えた人の脳は、全体として調和的に機能するときには驚くべき能力を発揮するが、統合を欠いたときには、方向性を見失った迷える生き物になってしまう。これは、障害者だけでなく、すべての人間について言えることだろう。
・このバランス感覚は、システムを構成するすべての組織の働きがかみ合っている時にだけ成立する。皮質という高度の情報処理装置に故障が現れても、原始のエネルギーを色濃く受け継ぐ深部の脳に故障が現れても、システムの方向性は失われやすくなるに違いない。自閉症児の場合は、後者の原因によるつまずきと考えられるのである。
・自閉症はこの設計思想の一番弱点となっているところから現れた障害である、というのが私の仮説である。
・エリーや他の自閉症児の示す幼児期の「超然としていた」「落ち着いていた」「おとなしかった」という印象は、システムのエネルギー的側面に何らかの問題が生じたことを推察させる。この小さな事件が、進化の過程を色濃く受け継いだ脳と、生後、次第に発達し始めるもう一つの新しい脳との間に断絶を生み出したのではないだろうか。
《感想》
・熊谷高幸氏の仮説は、脳幹・視床下部・大脳辺縁系といった「進化の過程を色濃く受け継いだ脳」と、生後、発達する大脳皮質・前頭葉野という「もう一つの新しい脳」との間に「断絶を生み出した」ことが、自閉症の原因ではないか、ということである。たしかに、自閉症の行動特徴をみると、前頭葉野と大脳辺縁系との連絡が「断絶」しているように感じられないこともない。ウィキペディア百科事典では、前頭葉野が障害を受けると、以下の現象が生じると記されている。①精神的柔軟性や自発性の低下。しかし、IQ の低下は起きない。②会話の劇的な増加または減少。③危険管理や規則の順守に関する感覚の障害。
④社交性の増加または減少。⑤眼窩前頭野の障害は独特な性行動を引き起こす。⑥背外側前頭野の障害は性的興味の減少を引き起こす。そのいくつかは、自閉症の行動特徴に該当している。しかし、ではいったい何故に前頭葉野が障害を受けたのか、ということになると判然としない。また、著者が述べている「脳の設計」は、自閉症が発見される1943年以前から、とうの昔に「出来上がっていた」とすれば、「なぜ1943年まで発見されなかったか」という問題には答えていない。もし「巨大組織をいくつも抱えた人の脳は、全体として調和的に機能するときには驚くべき能力を発揮するが、統合を欠いたときには、方向性を見失った迷える生き物になってしまう。これは、障害者だけでなく、すべての人間について言えることだろう」ということであれば、自閉症は「人類の歴史」とともに「存在」していなければならないはずである。
 私自身も、かつては「視床下部」の感覚機能不全(感覚過敏、又は感覚鈍磨)が「大脳辺縁系」に影響をもたらし、それが「前頭葉倻」の障害を招いているのではないか、と考えたこともあった。しかし、今は、自閉症の行動特徴は、「人間を含めた哺乳動物のすべてに備わっている《回避反応》《葛藤行動》の現れに過ぎないのではないか」と思っている。その理由は、ただ一点、自閉症児を「第三者」(彼)として観る立場から、「第二者」(あなた)として観る立場に「変わらざるを得なかった」(私の身内に自閉症児が誕生した)からである。(2015.11.7)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書・1993年」再読・6

【生後1年間の謎】
《要約》
・人間は、脳の設計思想から。また「生後1年間に及ぶ無力な状態」から、自閉症になる「可能性」をもっている。
・ヒトの胎児は、大きな脳をもった自分自身を胎内に収めるために、他のすべての器官の発達を最小限に抑えなければならなかった。体のバランスとそれに伴う活動の水準が他の哺乳類の新生子なみになるのに、一年間を要する。だから、私たちが親となってわが子と対面するとき、目の前で息づく神秘的な存在は、見えないカプセルの中で二度目の胎内生活を送っているのだ。
・ヒトの子どもは、もともと大きかった脳の容積を、さらに増大させていく。将来の人類の脳の働きの精度を格段に高めるためである。しかし、この特別な機能アップの方法は、非常に危険な方法であった。どんな機械を作る場合でも、試運転の過程が入ってくる。それによって全体の仕組みがうまくかみ合っているかどうかを確かめるのである。しかし、人間の脳の場合、生後まもなくの脳と身体の未熟な状態がこの試運転の過程を困難にしているのである。
・生まれてまもない人間の子どもの場合、現実からの充分なフィードバックを経ることなく、将来の膨大な情報処理に備えて脳の各部分は増大し続ける。このため、外部との接触による点検を受けない非実践的な脳が生まれてくる可能性がひそんでいるのである。
・自閉症でない子どもの場合は、このような制約のもとにあっても、わずかな手足の動きや泣き声などによって周囲の人に働きかけ、外部の世界と自分の位置を確かめ始める。それは、彼らの脳がこの時期から人々への働きかけを徐々に始めるように仕組まれているからに違いない。それは、彼らの社会的な行動の出発点である。ヒトや高等哺乳類の社会的行動は、大脳辺縁系の機能と強く関係すると言われている。
・自閉症児の場合は、社会的な行動やもっと基礎的なところでそれと関連している欲望や感情の発生源(大脳辺縁系・視床下部・脳幹)に機能的な障害をもっている可能性がある。
・生物としてのヒトの特有な生い立ちが、この「自閉症化」のプロセスに拍車をかけてしまったと言えるのではないだろうか。
《感想》
・「生後1年間に及ぶ無力な状態」から、自閉症になる「可能性」をもっている、という熊谷高幸氏の指摘には同意できる。また、「生まれてまもない人間の子どもの場合、現実からの充分なフィードバックを経ることなく、将来の膨大な情報処理に備えて脳の各部分は増大し続ける。このため、外部との接触による点検を受けない非実践的な脳が生まれてくる可能性がひそんでいるのである」という指摘にも、十分、肯ける。《外部との接触による点検を受けない非実践的な脳》が、自閉症児の様々な行動特徴を生みだしているのだろう、と私も思う。とりわけ「外部との接触による点検を受けない」とは、具体的にどういうことかを明らかにすることが重要ではないだろうか。自閉症ではない子どもの場合は「手足の動きや泣き声などによって周囲の人に働きかけ、外部の世界と自分の位置を確かめ始める」が、「自閉症児の場合は社会的な行動やもっと基礎的なところでそれと関連している欲望や感情の発生源(大脳辺縁系・視床下部・脳幹)に機能的な障害をもっている可能性がある」とも述べているが、はたしてそうか。私の独断と偏見によれば、以上の二つの場合に加えて「手足の動きや泣き声などによって周囲の人に働きかけても、外部の世界がそれに応じなかったため、自分の位置が確かめられない」場合もあるのではないだろうか。サルなどの動物実験によって、人為的に「母子を分離」すれば、その子どもが「自閉症」と酷似した行動を示すことが証明されている。もし、「社会的な行動やもっと基礎的なところでそれと関連している欲望や感情の発生源(大脳辺縁系・視床下部・脳幹)に機能的な障害をもっている可能性」、すなわち米国の生理学者ポール・マクリーンのいう「爬虫類脳」「古哺乳類脳」に障害が生じている可能性を疑うなら、サルが自閉的な行動特徴を示すに至った「外部の世界」との共通点を追求する方が有効的ではないだろうか。
 私の知る自閉症児は、0歳時から唱歌、童謡、童話に「親しまされ」、喃語やジャーゴンに対して「正確な日本語」で「応じられた」。その結果、「外部の世界と自分の位置を確かめ」ことができずに、「仰げば尊し」「年の初め」「ジングルベル」などを巧みに歌い、絵本の全文や、駅構内のアナウンス、バスの音声案内をススラスラと暗誦しているが、4歳になった今も、同年齢の子どもと「会話を交わす」ことがほとんどできない。まさに「外部との接触による点検を受けない非実践的な脳」の持ち主に成長してしまった、ということである。(2015.11.9)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・7

【生後二年目の飛躍】
《要約》
・人の発達は、生後一年間の不自由があるからこそ、その後の発達が飛躍的なものとなる。・直立し、高い視野と達者な足腰をもつようになった人の子どもは、ハイスピードで世界を拡大し始め、そのまま、彼の養育者である母の視野の外まで飛び出してしまいそうに見える。しかし、そうしないのは、そのときすでに母との感情的な結びつきができているからにほかならない。母との共生状態にあった一年間は、母なしではすべてが始まらない日々であり、そのとき味わった感触はその後も彼のこころにとどまるのである。母は母であるばかりでなく、安らかさを与えてくれる何ものかであり、苦痛を和らげてくれる何ものかであり、彼が生きている場所の彩りだった。その母は、彼が歩き始めても後からついてきてくれる温かな視線であり、一緒に視野を拡大していく彼自身の半分なのである。
・このような関係を感知するのは、外界の光や音からなる情報を正確に認知する脳の皮質の働きではないに違いない。そのような知的な方法だけで母を認知したとしたら、その輪郭は整いすぎて、母は温かな光を発するのをやめてしまうに違いない。
・人の子どもは、人類が祖先から受け継いだ原始のエネルギーを愛着という感情に育てながら、母またはそれに代わるひとにめぐり合うのではないだろうか。このエネルギーの発生源は、進化の古い段階から私たちが受け継いだ脳の深部の諸領域であると考えられる。自閉症児の脳の機能障害がこのあたりの脳に関係しているらしいことは、先に述べたとおりである。
・多くの自閉症児が、二、三歳となり、自由を獲得したとき、母の視野から離れて戸外に飛び出したり、高い所に登って人々を驚かせたりするようになる。このような事件を起こす背景には、脳の機能障害に関係した母と子の感情生活の不成立が横たわっているのではないだろうか。それは、生後一年間の母と子の蜜月時代に、目立たないけれどもゆっくりとつくられるものなのである。
【言葉のリモコンスイッチ】
・自由になった手足によって生きる世界を拡大した人の子どもは、さらに、もう一つの武器によって世界を支配するようになる。それは言葉という武器である。
・だが、この武器を使いこなすのは、たやすいことではない。彼はそれまで、他の動物と同じように、生来もっている泣き声や表情や手足の激しい動きを用いることによって他者と交信してきた。その状態を打ち破り、言葉を武器にするようになるということは、一種の革命であり、新しい武器の発明である。
・「アー」とか「ウー」という音に代表される、言葉となる前の幼児の不明瞭な音声は喃語と呼ばれる。この喃語が言葉に発展するのは、大人の言葉の模倣によるといわれている。しかし私は、模倣という受動的概念だけでは、この革命的な出来事は説明できないと思う。子どもは、このあやふやな音の中に未知なる力を発見するようになるのである。
・このことを、私の長男が10カ月の頃に私と交わした音声のやりとりをもとに考えてみよう。長男はその頃、「アグー」という喃語らしき音をよく発していた。そこで私は、長男のかたわらで、その音を小さな声で真似してみた。すると長男は、そのどこからともなく聞こえてきた音に探りをいれるかのように、「アグー」と自らの音声を発し始めた。そこで私がまたその音を繰り返すと、今度は、やや挑戦的に、少し大きめの声で長男は、この音を発するのだった。「アグー」(私)→「アグー」(長男)→アグー(私)→「アグー」(長男)。この過程は一見、模倣による学習そのものに見える。しかし、長男にとっては、最初の私の音声はきっかけであったにすぎず、外部からくるこの音の発生を自分の発声によって再現させては確かめていたのではないだろうか。
・そして、彼の発達を楽しみにするあまり私が一方的に音声の見本を示すときよりも、長男の口からもれたかすかな音を私が追ったときの方が音声活動は活発となるのだった。 
・こうして人の子どもは、手も足も使うことなく、わずかな口の動きだけで外部の世界に影響を及ぼすことができることに、かすかに気づき始めるのである。「マンマ」と一言いうだけで、まわりの人に食物をすぐ目の前に持ってこさせる働きをするものなのだ。
・ところが自閉症児は、言葉のもつこのリモコンスイッチとしての役割に気づかないまま成長してしまうようである。
《感想》
・ここでは、子どもの発達上不可欠な、極めて重要なポイントが指摘されている、と私は思う。その一は、生後まもなくから1年の間に形成される、母子の「愛着関係」であり、その二は、声(音声)が言葉{信号)として使われるようになるプロセスである。
・著者の熊谷高幸氏は、自閉症の原因を「脳の機能障害」に求めているので、母子の愛着関係が形成されにくいのも、言葉のもつリモコンスイッチに気づかないのも、すべて自閉症児の側に問題が生じていることになるが、私は肯けない。
・第一に、「母との共生状態にあった一年間は、母なしではすべてが始まらない日々であり、そのとき味わった感触はその後も彼のこころにとどまるのである。母は母であるばかりでなく、安らかさを与えてくれる何ものかであり、苦痛を和らげてくれる何ものかであり、彼が生きている場所の彩りだった。その母は、彼が歩き始めても後からついてきてくれる温かな視線であり、一緒に視野を拡大していく彼自身の半分なのである」と述べているが、もし、子どもが《母なしでもすべてを始めなければならない日々》を強いられたとすればどうなるだろうか。また、《母は母であるばかり》で《安らかさを与えてくれ》ない何ものかであり、少しも《苦痛を和らげてくれ》ることがなかったとすればどうなるだろうか。
・第二に、「人類が祖先から受け継いだ原始のエネルギーを愛着という感情に育てながら、母またはそれに代わるひとにめぐり合うのではないだろうか。このエネルギーの発生源は、進化の古い段階から私たちが受け継いだ脳の深部の諸領域であると考えられる。自閉症児の脳の機能障害がこのあたりの脳に関係しているらしいことは、先に述べたとおりである」とあるが、人類が祖先から受け継いだエネルギーを愛着という感情に育てるのは誰か、その主体が判然としなかった。母か、それに代わるひとか、それとも子ども自身か、あるいは母と子どもの両方か。そしてまた、「人類が祖先から受け継いだ原始の」生活は、この文明社会において著しく変容していることを見落としてはならない、と私は思う。人類が祖先から受け継いだ原始の「出産」「育児」の方法は、今、どこを見ても見当たらない。しかし、エネルギーだけは「存続」していると断言できるだろうか。
・第三に、子どもが発している喃語を、大人が真似しながら、言葉のもつリモコンスイッチに気づかせていくという熊谷氏の方法は、全く正しい。とりわけ、「彼の発達を楽しみにするあまり私が一方的に音声の見本を示すときよりも、長男の口からもれたかすかな音を私が追ったときの方が音声活動は活発となるのだった」という《事実》(真実)は、極めて重要である。それゆえに、①もし、親が熊谷氏のような方法を採り入れなかったら、②もし、子どもの「発達を楽しみに(促進しようと)するあまり」親が「一方的に音声の見本を示し」続けたとすれば、どのような結果になるだろうか。
 私の知る自閉症児の親は、生後8カ月頃から、「略画の絵カード」(楕円形)を見せ、童謡のCDを聞かせ、「絵本」を読み聞かせ続けた。子どもは、その絵カードの上下を正しく見分けることができ、その名称を聞き分けることができるようになったが、絵カードを手に持ってヒラヒラと振ったり、自分の頬にこすりつけたりする行動も目立った。また、1歳半頃には、童謡・唱歌を「音程正しく」歌い始め、絵本の文章をスラスラと暗唱するようになったが、言葉で「返事」をしたり「要求」したり「会話を楽しむ」ことは、4歳になった今でも、極めて不十分である。(2015.11.14)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・8

【「私」の芽生え】
《要約》
・外部の世界に手ごたえを感じ始めた幼児が用いるのは、言葉だけではない。言葉の獲得期に言葉よりもはるかに高頻度に用いられるのが、指さしである。
・この指さしの現れも、自閉症児の場合、非常に遅いのである。「指さし行動が生後数ヶ月までにできることはめずらしい」(メアリ・コールマン「自閉症のバイオロジー」学苑社)言葉の遅れとともに指さしの発生の遅れが自閉症児のコミュニケーションの発達障害を特徴づけている。
・複数の人が居合わせる物理的空間には、人々の注意を引き付ける枠組みは存在しない。その大きな空間の中の一点に「私」と「あなた」の視点を合わせるということは、実はかなりむずかしいことなのではないだろうか。そこで力を発揮するようになるのが指さしなのである。
・幼児期に指さしや言葉によって他者と視点合わせをすることの少なかった自閉症者は、自分自身の視線の方向にもあまり敏感でなく、その視界は茫漠としている可能性がある。自閉症児が幼児期に見せる「うつろな」まなざし、「超然とした」まなざしは、おそらく多くの情報を映し出しているまなざしであると思われる。
・幼い子どもは、頻繁に指さしを行うばかりでなく、他者の指さしに対しても敏感に反応するようになる。
・私たちは、多量の情報をインプットするだけでは、巨大なスクリーンの中の映画を楽しんでいるようなものである。そこには三人称のクールな世界はあっても一人称・二人称のホットな係わりの世界はない。情報をしぼり込んでスポットライトを当てたとき、「私」の意図と「あなた」の意図は衝突したり、あるいは探り合いが生まれ、外界のいろいろな場所に「私」と「あなた」が投影されるようになると考えられる。
・二歳代になると、子どもは「パパノ」「ママノ」「○○チャンノ」というふうに所有権を示す言葉をよく用いるようになる。自分にとって自分の姿は見えにくい。外部の世界の占有権をめぐって、次第に「私」の存在も自覚されてくる。
・一方、自閉症児は、少なくともこの時期は「超然」としていて、外部の世界の所有権をめぐって他者と争うことはなく、その分、自分の姿も不確かな状態である。
・自閉症者は「自閉」という言葉で表されながら、本当は自他の区別が明確でなく、「私」の芽生えが遅れている人たちなのである。
《感想》
・ここでは、自閉症児の「指さし行動」が見られないこと、遅れること、また「私」(自意識?)の芽生えも遅れていることが述べられているが、その原因については判然としない。
・私の独断・偏見によれば、自閉症児の場合、母子の「愛着」関係が不十分であり、その結果「私」と「あなた」という関係が、いつまでたっても成立しないためである。母は子どもを「あなた」と感じる。子も母を「あなた」と感じる。「あなた」は「私」にとって《特別な存在》である。「あなた」は、他の人、事物と違って、「かけがえのない」「喜びと安心、充実感」(原始的エネルギー)を与えてくれる大切な「存在」なのである。子どもは、母から「抱擁」「愛撫」を受け続けることによって、「心地よい」と感じる自分(「私」)に気づくのではないだろうか。「指さし行動」は、外界にある事物の「一点」を「私」と「あなた」で「共有」する手段である。「私」と「あなた」という関係が成立していなければ、「指さし行動」が現れるはずがない。
・これも私の偏見だが、自閉症児をもつ親の多くは、「わが子」を「彼」「彼女」と三人称で呼ぶことが多いように感じる。聴き手は第三者なので、もちろん誤りとはいえないが、親子だけの場面においても、どこか「自閉症児である彼・彼女」といった意識・感覚から抜け出せないのではないか、と邪推してしまうのである。どこか醒めている・・・、「彼」は自閉症児である前に、かけがえのない「わが子」(マイ・サン、マイ・ドーター)だという愛着心(人類古来の原始的エネルギー)が感じられない、といえば言いすぎであろうか。(2015.11.15) 
・以下は、「指さし行動」について、昔綴った駄文である。
《指さし行動の意味》
生後1年ほどになると、乳児は「マンマ」「ブーブ」などと片言を話すようになるが、同時に(人差し指1本で)「指を差す」行動が現れる。この行動は、「人間」特有の行動であり、他の動物には見られない。そしてまた、その行動は、「指差し確認」とか「人から後指を差されないように」とか「指示する」とか、言われるように、「特別な意味」を含んでいるのである。その意味とは、「今、私はこれ(それ、あれ)を見ている」ということである。さらに、人間はその行動を、コミュニケーションの手段として使っている。相手に向かって、「今、私が見ているのは、これ(それ、あれ)です。あなたも見て下さい」という気持ちを伝えているのである。乳児が、事物を指さして「アッアー」などと言うのは、「それを取って」「あれは何?」「これが欲しい」「あれは前にも見たことがあるよ」 などという意味や気持ちを、周囲の人に伝えているのである。また、乳児は、相手からの問いかけに対する「返事」として、「指を差す」行動があることを学ぶ。絵本を見ながら、「ワンワンはどれ?」「ブーブはどれかな?」などと問いかけられると、「指を差して」応えるのである。このとき、乳児は、「犬や自動車を見分けること」(認識活動)と、「指を差して応えること」(コミュニケーション行動)の二つを「同時に」要求されているのだが、いずれかに支障が生じていると、正確に応じることができない。その一の例、「ワンワンはどれ?」と尋ねられても、「ワンワンはどれ?」とオウム返しをするだけで、指を差さない。その二の例、「ワンワンはどれ?」と尋ねられても、よく絵を見ないで、手当たり次第、目に入った物を指さす。一の例は、(おそらく)認識活動は正常だが、コミュニケーション行動が未熟だということになる。反対に、二の例は、コミュニケーション行動は正常だが、認識活動が未熟だということになる。一の例の場合、「指を差す」代わりに、「手(首)を引っぱる」行動(クレーン行動)をすることがある。この行動は、自分の欲求を満たそうとする直接的な行動であり、コミュニケーション行動とはいえない。相手の手を、自分の手の延長(道具)として活用しているにすぎないからである。二の例は、まだ事物を正確に「見分ける」(弁別する)ことができないだけであって、相手とのコミュニケーションを通して、様々な学習を進めていく態勢が整っている。したがって、相応の時間をかければ、調和的な発達が期待できる。しかし、一の例は、周囲の事物や生活習慣、等々を、相手からではなく(コミュニケーションを媒介とせずに)、直接的に「自学自習」してしまうおそれがある。「認識活動」は正常であっても、そこで身につけた知識や技能を、集団の中で「応用できない」という事態に陥るおそれがある。そこで、一の例の場合には、以下のような取り組みが必要になる、と思われる。
【目標】人(相手)との「やりとり」ができるようにする。
《領域1》相手と「表情」で「やりとり」ができるようにする。
・相手に笑いかけられると、笑い返す。(あいさつ)
・にらめっこ、あっぷっぷ、いないいないばあ、などの遊びを「楽しむ」。
・「変な顔」を見て笑う。
・「怖い顔」を見て泣く。
・「いいお顔」をする。
《領域2》相手と「声」で「やりとり」ができるようにする。
・泣いて、相手を呼ぶ。
・相手の声を聞いて、しずまる。(泣き止む、落ち着く)
・相手の声を聞いて、声を出す。
・声を出して、相手を呼ぶ。
・相手の声(語調)を聞いて、まねする。(えっ?、あっ!、あーあ等)
・相手の「ことば」を聞いて、まねする。
《領域3》相手と「身振り・動作」で「やりとり」ができるようにする。
・相手の「身振り」を、まねする。(指遊び、手遊び、グウチョッキパー、指差し等)
・相手の「動作」を、まねする。(おいかけっこ、かけっこ、ぴょんぴょん、ダンス等)
・「おうまさんごっこ」を楽しむ。(スキンシップ)
・「おすもうごっこ」を楽しむ。(スキンシップ)
・ジャンケン遊びを楽しむ。
・「幸せなら手をたたこう」「むすんでひらいて」などを一緒に楽しむ。
・「鬼ごっこ」「かくれんぼ」を楽しむ。
《領域4》相手と「物」の「やりとり」ができるようにする。
・相手から、物を「受け取る」。
・相手に、物を「手渡す」。
・欲しい物を、「指差して」「受け取る」。
・相手が「指差した」物を「手渡す」。
・相手に「ちょうだい」と言って、「受け取る」。
・相手に「どうぞ」と言って、「手渡す」。
・「お店屋さんごっこ」を楽しむ。
《領域5》相手と「ことば」で、「やりとり」ができるようにする。
・相手に、名前を呼ばれたら、振り向く。(相手の顔を見る)
・相手に、名前を呼ばれたら、「返事」をする。(手を挙げる)
・相手に、「パパ」「ママ」などと言って、呼びかける。
・相手に、「わんわんは、どれ?」と聞かれて、指差す。
・相手に、絵を指差して、「なーに?」と尋ねる。
・相手に、「これはなーに?」と聞かれて、「わんわん」と答える。
・相手に、「お名前は?」と聞かれて、答える。
・相手に、「おめめは?お耳は?お口は?」などと、尋ねられて、その部位を触る。
・相手に、「たっち、えんこ」などと言われて、その動作をする。
・相手に、「これ、なーに?」と頻繁に尋ねる。
【留意点】
 以上の取り組みの中で、最も重要なものは、「笑顔」の「やりとり」である。「好きこそものの上手なれ」という言葉があるように、そのことが「好き」になることが上達の早道である。いずれの活動も「楽しく」「遊びの中で」行うことが大切である。また、乳児の反応が「あいまい」であったり、「誤り」であったとしても、それを「指摘」「訂正」することは禁物である。なぜなら、そのことによって、乳児は「自信」を失い、たちまち意欲が半減してしまうから。大切なことは一点、「コミュニケーション行動」と、その「意欲」を育てること、言い換えれば、こちらからの働きかけに「応じ」られるようになりさえすれば、それでよい、ということを肝銘すべきである。(2013.4.6)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・9

【認知の革命】
《要約》

◆前操作期・・・2歳→6歳
◆具体的操作期・・・6歳→12歳
◆形式的操作期・・・12歳→
 このモデルは、人間が人生の初期であればあるほど、急勾配の坂を駆け上がりながら認知構造の変革をおこなうことを示してくれている。このとき必要とされているエネルギーは、計り知れないものであるに違いない。
・「行為はエネルギー的側面と、構造的側面とを持っている。前者は感情であり、後者は認識である」(ピアジェ・「知能の心理学」・みすず書房)・ジャン・ピアジェは、スイスの発達心理学者であると同時に構造主義者であり、子どもの活動を入念に観察したうえで、認知構造の発展という側面から発達理論の構築を行った。彼の示した発達段階のモデルを非常に簡単にまとめて示すと、以下のようになる。
◆感覚運動期(Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ・Ⅴ・Ⅵ)・・・0歳→2歳
・子どもの発達を推進させる影のエネルギーがどのようなものなのか、ここで正しく言い当てることはむずかしい。しかし、それは一種、破壊的な力をもったエネルギーであると言うことはできると思う。
・成長期の子どもは、(積木の塔が倒れるのを見て喜ぶように)完成させたものをそのままの形でとっておこうとしたりはしない。壊してはまた作り直す中で成長していくのである。破壊の激しさは、創造のエネルギーを表していて、新たな挑戦を意味するから革命的である。
・(しかし、そのエネルギーが、子どもの内部に不足していたらどうなるか。自然が残した設計図には、そのアフターケアまでは書き込まれていないようである。)
・自閉症児の示す活動は、パニック時を除くと、決して破壊的ではない。むしろ彼らは「同一性保持」の傾向をもっている。彼らの生き方には浴がなく、自己完結した世界の中で安住しようとする気配が見える。
・自閉症児は、人特有の激しい欲望がわずかばかり不足した状態で生育してしまったと思えるのである。ただし、自閉症児の脳は、いつまでも欲求しない脳、感情をもたない脳であるわけではない。彼らの成長を見守っていると、それらの働きは、遅れながらも、やがて芽生えてくることが窺える。
・この自然の設計外の展開は、彼と彼をとりまく環境との間にさまざまな衝突を引き起こさざるを得ない。幼児期を終えた自閉症の人たちが社会という巨大装置にめぐり合ったとき、どのような不適応現象が生じるのか、また、私たちはそれをどのように受けとめ、どのようなアフターケアを求めるべきか、次章以下で考えていきたい。
《感想》
・ここで述べられていることは、要するに、子どもの発達(行為)には、エネルギー的側面と構造的側面がある、前者は感情であり後者は認識である、というピアジェの見解を自閉症児に当てはめると、エネルギー的側面の「激しい欲望がわずかばかり不足した状態で生育してしまった」ということになる。しかし、著者の熊谷高幸氏は「子どもの発達を推進させる影のエネルギーがどのようなものなのか、ここで正しく言い当てることはむずかしい。しかし、それは一種、破壊的な力をもったエネルギーであると言うことはできると思う」と述べているだけで、その不足しているエネルギーの正体を明らかにはしていない。
しかし、自閉症という問題が、「認識」ではなく「感情」に起因していることを、図らずも明らかにしている。
・自閉症が「情緒障害か、認知障害か」という問題は大きく意見の別れるところだが(動物行動学者、ニコ・ティンバーゲンは「自閉症治癒への道」の中で、明確に「(環境要因による)情緒障害である」と《断定》しているが、世界の大勢は、ローナ・ウィングの「(先天的な脳の機能障害による)認知障害」説に傾いているようである)、熊谷氏の見解は、「脳の機能障害による《情緒障害》説」ということになるのだろうか。
・私の独断・偏見によれば、自閉症児の「エネルギー的側面」(感情)が「不足」しているわけではない。彼らは、自分の感情や欲求を「表出」する機会を(生育環境の中で)「奪われ続けてきたため」、そのような行動(活動)を「回避」しているに過ぎない。(私の知る自閉症児は、「偏食」である。しかし「食欲」が不足しているわけではない。「同一性保持」のため、目新しい食物を「回避」している(いわゆる「食べず嫌い}な)のである)。
・熊谷氏の「脳の機能障害による《情緒障害》説」では、氏自身が述べている「自閉症児の脳は、いつまでも欲求しない脳、感情をもたない脳であるわけではない。彼らの成長を見守っていると、それらの働きは、遅れながらも、やがて芽生えてくることが窺える」という現象を説明することはできないのではないか。彼らの成長は、以後の「生育《環境》・教育《環境》の変化」によって《もたらされたものではない》、と断定できるだろうか。
・いずれにせよ、自閉症は「感情」(情緒)の障害か、「認識」(認知)の障害か、という問題は、極めて重要であり、以後の展開を興味深く読み進めたい。(2015.11.16)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・10

《第3章 自閉症の行動世界》
《要約》
【行き先についての謎】
・自閉症者の動きは特有である。一挙手一投足がどこか私たちとは違う。違うことはわかるが、どのように違うかは実はよくわかっていない。彼らは、私たちの目の前を横切り、どこにいこうとしているのだろう。その行き先をこの章では追求してみることにする。
【異星人たち】
・自閉症児の父親であるAさんは、息子さんにまつわる驚きの経験を話されてから「まるで宇宙人と一緒に暮らしているようなものです」と結んだ。エリーの母も、娘をこの世の人ならぬ「妖精」にたとえている。
・自閉症者を動かしているのが、宇宙人からの信号でないとしたら、その発信源はどこにあるのだろうか。それを突き止め、私たちの手で信号をコントロールすることができたら、彼らにこの星の住人らしい行動を育てることができるかもしれない。
【選択肢を立てられない】
・ところで、私たちが自閉症児の行動を理解できないのと同じく、彼ら自身も自分の行き着く先を理解できないのだと考えてみたらどうだろうか。 
・私たちは、何をするか、どこに行くか、たえず自分自身に尋ねながら行動している。そして問題にぶつかると、いろいろと案を出しながら、もう一度行き先を確認する。行動のプログラミングと呼ばれるこの過程が自閉症児には欠けているのではないだろうか。
・「何をしたいの?」「どこに行きたいの?」自閉症児は、このような質問に答えることがまったく苦手である。それは、質問を無視しているのではなく、それに答えるプロセスを頭の中で実現できないからだ。「パズルをする?」「パン屋さんに行く?」と具体的な選択肢を与えてやると、答えることができる者が多くなるのである。
・選択肢を立てて選ぶことができないために生じるトラブルは、自閉症児がぶつかるいろいろな局面で現れる。(事例)I君は、家や学校でつらいことがあると、大学での学習に響きやすい青年だった。ある日、I君は落ち着かず、学習のほうもなかなか進まない状態だった。私が「今日はこれでおしまい。家に帰ります」と宣言すると、彼はいったん学習の手を止めかけるのだが、再び学習を開始しようとする。「今日は終わり」と再三声をかけるのだが、彼はときどき叫び声を上げ。怒りで教材を小突きながらも学習を続けようとするのだった。I君は、このとき同時に二つの信号を受け取っていたのだ。目の前の教材からは「続けろ」という、私の口からは「やめろ」という。それぞれに対して反応してしまい、揺れ動いていたのだ。それら二つの信号を付き合わせ、自分の行動を一方に「決める」ことができない。この「選んで、決める」という心の働きを身につけることは、すべての自閉症児にとって苦手なことなのである。しばらくして、私はやっとこの場を脱するための妙案を思いついた。「あと三回やったら終わりだよ」。一回、二回、三回。はい終わり。これで、やっと息の詰まるような数分間が終了した。
【道順へのこだわり】
・けれども、反対に、自閉症児はプログラムを作るのが得意であるように見えることもある。(例・外出時の道順、予定外の行動を拒否する、給食を食べる順序、帰宅後の過ごし方の順序などについてのこだわり)
・しかし、彼らがこだわっているのは、自分自身が創造したプログラムではないように思える。彼らの敏感なこころの内側に最初に飛び込んできた刺激から強い印象を受け、以後は、それにもとづいて行動を決定していく傾向があるようだ。しかも、その最初の刺激は親や教師が意図的に与えたものではない場合がほとんどだ。
・道順や順番へのこだわりは自閉症児のすぐれた記憶力の所産であって、プログラミングの所産ではない。本当のプログラミングとは、状況に合わせて行動計画を変更できるところにこそ、その真髄がある。自閉症児はプログラムをつくることが苦手だからこそ、道順や順番のプログラムをよりどころとし、堅持しようとする態度が生まれたと考えられる。
・だが、自閉症者の行動の問題をもと根本のところから考えてみるためには、人や動物の行動の成り立ちの問題にまでさかのぼってみる必要があるだろう。
《感想》
・筆者は、自閉症児を「静画写真」では見分けられないが「動画画像」にするとわかるようになる、という。それは「自閉症者の動きは特有である。一挙手一投足がどこか私たちとは違う」からだが、しかし「違うことはわかるが、どのように違うかは実はよくわかっていない」とも述べている。それは、筆者が自閉症児・者を「第三者」として、客観的に観ているからに過ぎない。私の独断・偏見によれば、自閉症者の動きは特有ではない。一挙手一投足は、私たちと「少しも」変わらない。彼らの行動は、誰もが「かつて」行ったことがあり、また、今でも「時と場合によれば」行っている「自然な行動」である。
・したがって、彼らを「異星人」呼ばわりし、「彼らにこの星の住人らしい行動を育てることができるかもしれない」などと考えることは、甚だしい「人権侵害」であり、僭越の極みである、と私は思った。(同様の見方の代表は、門野晴子著「星の国から孫ふたり」)
・著者はまた、「ところで、私たちが自閉症児の行動を理解できないのと同じく、彼ら自身も自分の行き着く先を理解できないのだと考えてみたらどうだろうか」と述べているが、その仮説は、「私たちが自閉症児の行動を理解できない」理由を「彼ら自身も(自分の行き先を理解できない」ことに求めてようとしているという点で、私は同意できない。「私たちが自閉症児の行動を理解できない」のは、私たち自身の責任であり、《私たちが理解できないのはなぜか》というテーマにこだわるべきではないだろうか。その原因を相手に求めようとすればするほど、謎は深まり、袋小路に迷い込んでしまう、と私は思う。
・著者はさらに、自閉症児が「行動の選択肢を立てられない」根拠として、「何をしたいの?」「どこに行きたいの?」という質問に答えることが苦手であることを挙げているが、「パズルをする?」「パン屋さんに行く?」と具体的な選択肢を与えてやると、答えることができる者が多くなるとすれば、単に「何を」「どこに」といった疑問詞の理解が不十分だったために答えられなかった、とも考えられる。私の独断・偏見によれば、自閉症児は、「行動の選択肢を立てられない」のではなく、「行動しない」ことを選択しているのである。彼らは「彼らの敏感なこころの内側に最初に飛び込んできた刺激」によって、「行動しない」(つまり回避する)というプログラムを「創造」しているのだ。それは「君子危うきには近寄らず」という諺にもあるように、誰もが危険回避のために活用しているプログラムに過ぎない。
・またI君の事例は、(学習を)「止めるべきか」「進めるべきか」といった問題に当面し、進退窮まったという、《誰にでもある》「葛藤」場面であり、「選んで、決める」(折り合いを付ける)能力は「個人差」の「程度問題」に過ぎないのではないか。それが、「自閉症特有の行動」だと断定することは、(私には)とうてい、できないのである。
・本節末尾の「だが、自閉症者の行動の問題をもと根本のところから考えてみるためには、人や動物の行動の成り立ちの問題にまでさかのぼってみる必要があるだろう」という、著者の指摘には、十分肯ける。期待を込めて読み進めたい。
(2015.11.19)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・11

【状況・行動規制】
《要約》
・どのようなときには何をしなければならないか。人間も含めてすべての動物の脳にはおのことについての無数のルールが組み込まれている。雨が降れば傘をさすし、部屋に入るにはドアを開ける。つまり、状況が行動を生み出す。
・すばやく状況を認知し、行動するためのルールは、状況・行動規則と呼ばれ、「IF~THEN~」のように表される。IF以下はIF部と呼ばれ、THEN以下はTHEN部と呼ばれる。動物は、非常に多くのIF・THENルールをもっている。巣作りをするときの蜜蜂の行動や狩りをするときのライオンの行動は、実に精巧にできたIF・THENルールの複合を私たちに見せてくれる。
・自閉症児・者にも、このIF・THENルールは出来上がっているが、彼らの行動が異常に見えるのは、私たちの人間の行動が単純なIF・THENルールだけにもとづいているわけではないからである。
・いったん身につけたIF・THENルールを守ろうとする行動がある自閉症児に対して、それを教育に生かすのも一つの方法である。ある状況で、ある行動をしたならば、ほうびが与えられる、というパターンを基本とした指導方法が自閉症児に対してはよく用いられている、「オペラント教育」とか「行動療法」と呼ばれるアプローチである。自閉症児が大変混乱した状態にあったり、ごく基本的な行動も形成されていないときは、この指導法は効力を発する。しかし、オペラント教育では。単純なIF・THENルールしか形成されにくいところがある。
・問題は、自閉症児が状況に合わせて、分岐のある長い道のりを進んでいけないところにある。人以外の動物の場合には、AならばBというパターンで行動がつくられていることが多い。いわゆる本能的行動と呼ばれるものである。本能的行動の中には、A→B→C→D・・・というように非常に長い行動の連鎖でできているものもある。しかし、本能的行動に比較的強く依存しながら生きていけるのは、同一環境のもとで一生を送る、ヒト以外の動物の場合だけである。他の動物と違って、さまざまな環境のもとで暮らすことになった人間の場合には、A→B→C→D・・・というように一直線に進むわけにはいかず、節目ごとに立ち止まり、方向を確かめながら行動しなければならなくなったのである。
・ここに至って、人は自然によって与えられたプログラムではなく、自分自身が創造したプログラムにもとづいて行動することになった。このような働きに強く関係しているのが、大脳皮質の前頭葉野であると言われている。
《感想》
・すべての動物の脳に組み込まれている「状況・行動規則」は、動物と人間、さらに自閉症児・者との間に、どのような共通点、差異点があるか。筆者の論述を整理すると以下のようになるだろう。
◆動物の場合:同一環境のもとで一生を送るので、A→B→C→D・・・という本能的行動の連鎖で生きて行ける。
◆人間の場合:さまざまな環境で暮らすことになったので、A→B→C→D・・・というように一直線に進むわけにはいかず、節目ごとに立ち止まり、方向を確かめながら行動しなければならなくなった。自然によって与えられたプログラムではなく、自分自身が創造したプログラムにもとづいて行動しなければならなくなった。
◆自閉症児・者の場合;AならばBというパターンで行動を形成することはできるが、状況に合わせて、分岐のある長い道のりを進んでいけない。(自分自身でプログラムを創造することができない)
 そして、この「状況・行動規則」は、大脳皮質の前頭葉野が強く関係している。 
・私は前節の最後に「自閉症者の行動の問題をもと根本のところから考えてみるためには、人や動物の行動の成り立ちの問題にまでさかのぼってみる必要があるだろう」という、著者の指摘には、十分肯ける。期待を込めて読み進めたい、と記した。たしかに、本節で筆者は「人と動物の行動の成り立ちの問題」について言及しているが、人と動物の「差異点」が強調されているばかりで、両者の「共通点」は見落とされているように思われる。人は動物に比べて未熟な状態で出生し、生後1年間は、他の動物の「胎内生活」に相当する時間を過ごさなければならない。自閉症という問題は、まさに「その時間」の中で発生するのではないか、という観点は、筆者も指摘していたと思うが、動物の新生子、人間の新生児にとって「共通」している点は、肺呼吸、哺乳の開始といった「生命維持」活動に加えて、「自分の身を守る」ための「愛着」(親への接近)行動、さらに「敵の攻撃をかわす」ための「回避」行動ではないだろうか。
・自閉症の行動特徴は、この「愛着」行動が乏しすぎる、あるいは激しすぎて、つねに「回避」行動というプログラムが優先し、定着・固定してしまう結果として現れるのではないだろうか。
・筆者はこれまでに、自閉症は「脳幹・視床下部・大脳辺縁系」といった脳の部分に「機能的な障害をもっている可能性がある」と述べている。だとすれば、自閉症の問題を「状況・行動規則」不全に《特化》して、大脳皮質・前頭葉野に「関係づける」ことは、論理の「飛躍」ではないだろうか、と私は思った。(2015.11.21)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・12

【大脳の三つのブロック】
《要約》
・第1ブロックは脳幹、視床下部、大脳辺縁系を含む領域で、欲望や感情に関係するだけでなく、大脳皮質の興奮水準を調節している。第2ブロックは、大脳皮質、すなわち頭頂葉(筋肉感覚と触覚刺激の入力)、側頭葉(聴覚刺激の入力)、後頭葉(視覚刺激)からなる領域であり、情報の受容・分析・貯蔵を担当している。第3ブロックは、前頭葉からなる領域で、運動の実行や制御(運動野と運動前野)と行動のプログラミング(前頭前野)を担当している。つまり、第2ブロックは入力機能を、第3ブロックは出力機能を担当している。この中で第3ブロックは一番最後に成熟してくる。また、前頭前野は、第1ブロックと密度の濃い神経繊維によって結合しているわけだが、自閉症児の場合は、早い時期に第1ブロックに障害が現れたために、結果的に前頭前野にも発達の遅れが現れてこざるをえない、というのが私の中心的な仮説である。
・第3ブロックでプログラミングされる人の行動は、第2ブロックからの視覚・聴覚などの入力情報や第1ブロックから発する情動や興奮によって絶えず調節されている。プログラムは、目標や状況に合わせて絶えず修正されなければならないし、大きなプログラムを実行するためには、中途に小さなプログラムをたくさん入れなければならない。つまり、試行錯誤をしながらゴールへと向かい、また、個々のゴールはより大きなゴールへの中継点となる。
・私たちは、今日の午前中を過ごすプランをもっているが、それは今日一日のプランに組み込まれ、さらにそれはこの一週間のプランに組み込まれる。最終的には人生という最上位のプランをあれこれ考えながら、私たちは生きているのである。このように下位の構造が次々に上位のものに組み込まれて成り立つようなタイプの構造を「階層構造」という。行動プログラムは典型的な階層構造を成していると言えるだろう。
《感想》
・ここでは、旧ソビエトの神経心理学者ルリアのモデルを通して、脳の構造と働きが説明され、「自閉症児の場合は、早い時期に第1ブロックに障害が現れたために、結果的に前頭前野にも発達の遅れが現れてこざるをえない、というのが私の中心的な仮説である」という見解が述べられている。しかし、「早い時期に第1ブロックに障害が現れた」という説明だけでは、私は同意できない。早い時期とはいつか(受胎以前か、胎内か、出生後かが判然としない)、第一ブロックのどこ(脳幹か、視床下部か、大脳辺縁系か)に、どんな障害が生じたのか、について説明されていないからである。
・筆者は、自閉症児が「欲しがらない」「感情表現に乏しい」といった行動特徴を拠りどころにして、そのように推測したにすぎない。
・私の独断・偏見による仮説は、以下の通りである。自閉症児は、もともと感覚過敏な体質であったかもしれない。しかし、そのこととは関わりなく、親の過度な不安(もしくは消極的拒否、放置、放任)に影響されて、極めて不安定な「新生児期」を強いられた(過ごさざるを得なかった)ため、人(親・家族)との「愛着関係」を容易に築くことができなかった。それゆえ、自閉症児の、行動プログラムは、基本的には「回避」である。人、場所、物に対して、まず「回避」するというのが特徴である。それは自分の身を守るために、必要不可欠なプログラムであり、至極当然な方法である。「愛着関係」が不十分なため、「安心感」「好奇心」も乏しく、結果として「学習」は遅滞する。したがって、この「回避」という行動プログラムが修正されなければ、自閉的行動はいつまでも存続し、さまざまな形に変化しながら拡大、固定していくのである。(2015.11.23)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・13

【カード分類テスト】
《要約》
・自閉症児は、状況と関連させながら行動を進めることができない。一度プログラムを手にしてしまうと、それを変更しようとしない。また、微妙な感情のレベルで障害が見られる。
・自閉症児の振る舞いを見ていると、前頭前野における発達障害を疑わせるところが非常に多いのだが、この仮説はまだ学界であまり検討されていない。
・私は「ウィスコンシン・カード分類テスト」(このテストが前頭葉の働きを調べるうえで有効であることを発見したのは、カナダの神経心理学者ミルナーだった。彼女は、このテストを前頭葉の皮質を切除した患者に適用し、固執的な反応が多く見られることを発見した。)
・テストには、色・形・数の違う記号が描かれている128枚のカードが用いられた。検査は、横に並べられた4枚の刺激カードを見て、手渡された1枚の反応カードを、刺激カードの下に置いていく、被験者は、どこにおけば正しいかを知らされていない、という方法で行う。(例えば手渡されたカードが「赤・丸・3」のとき、赤の刺激カードの下におけば「よろしい」と実験者から言われることもある。しかし「間違い」と言われることもある。「赤」ではなく「丸」または「3」の下に置かなければならないときもあるからである。)
・被験者は、いろいろな場所に置いた後に、色が同じカードの下が正答であることを知る。正答が10回続くと、今度は形の同じカードの下が正答になり、さらに10回正答が続くと。数の同じカードの下が正答になる。その後は色、形、数という順序の判定基準が繰り返され、128枚のカードが終わるまで検査は続けられるのである。
・この検査のむずかしいところは、判定基準が被験者に知らされずに次々に変わっていくところにある。色から形に基準が変わったらなるべく早くそれに気づかなければならない。ところが、ミルナーによると、前頭葉皮質の切除者の場合は、前の基準に固執して反応する傾向が強く現れたのだった。また、被験者が実験者の評価におかまいなく自分で基準としたものに固執して反応する場合も多く見られた。
【自閉症児の固執反応】
・私は、このカード分類テストを自閉症児群10名と比較対照群の知能障害児群10名に適用してみた。その結果。誤反応総数(自閉症児群56.0%・知能障害児群55.9%)固執性誤反応(自閉症児群44.8%・知能障害児群32.0%)
・反応の具体例を示すと、自閉症児群の撃ち1名は形に、他の1名は数に最初から強く固執してしまい。こちらの「マル」とか「バツ」などの評価にはおかまいなくカードをおいていくもだった。2名の自閉症児は第一カテゴリーの色への固執が、他の3名の場合は第三カテゴリーの数への固執が強く現れ、なかなか次のカテゴリーへと移行できないのだった。
・(一方)多数の知能障害児には、①迷いながら反応し、カードを置きながら実験者の顔を窺う。②「マル」や「バツ」の評価に対して情緒的な反応を示す、ことが頻繁に見られた。彼らは、実験者が、何らかのプランにもとづいて「マル」とか「バツ」と言っていることを知っていた。被験者は実験者のこころの中に答があることに気づいていたのである。そして、実験者のプランを予想して行動した結果の当たりはずれに一喜一憂していたのである。
《感想》
・私は昔(1998年頃)、本書を参考にして、「カード分類テスト」を行ったことがある。対象児は中学3年の女子で「トランプカード」を使って実施した。結果は、著者の述べた通りで、固執性誤反応は80%近くに達したばかりか、彼女はいきなり「トランプカードを破り捨てる」という反応を示したのであった。当時は、私自身も「自閉症児の脳疾患説」を信じていたので、「なるほど」と納得してしまったが、「ではどうすれば、その疾患を改善・治癒できるか」という点については、全くの「お手上げ状態」で、なすすべもなかったことを思い出す。
・著者は「知能障害児」の反応として、「迷いながら・・・実験者の顔を窺う」「実験者の評価に・・・情緒的な反応を示す」ことを挙げているが、私の対象児の場合も、「私の顔を窺った」(その時は視線を合わせた)ことは鮮明に覚えている。また、「トランプを破り捨てる」という行動は、「怒り」という情緒的反応であることは明らかである。一見、(中学生として)常軌を逸しているようにも見えるが、ただ感情表現が未熟なまま「育ちそびれている」だけで、それを「自閉症」特有の症状(パニック)に結びつけることは誤りである、と私は(その当時も)思っていたが・・・。(2015.11.25)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・14

【こころの理論】
《要約》
・人のこころの内側を想像しながら行動することは、自閉症者にとって非常にむずかしいことなのである。
・私たちは、たえず他人のこころの内側まで判断しながら行動している。つまり、こころの法則のようなものに気づいていて、自分なりの「こころの理論」を構成している。ところが自閉症児は、かなり知的能力が高いものでも「こころの理論」らしきものをもっていない。(ウタ・フリス「自閉症の謎を解き明かす」東京書籍)
・バロン=コーエンという人が行った「アンとサリーの実験」という二つの人形を使った研究がある。まず、被験者の前で簡単な人形劇が演じられる。サリーがカゴの中にしまったビー玉を、彼女の留守中にアンが箱の中に隠してしまった。帰宅したサリーはどこを探すでしょう?という問題である。ほとんどの児童は、劇の中途で「意地悪なアン!」などと言って笑い、「サリーはカゴの中を探すに違いない」と確信をもって言い当てたが、自閉症の子どもだけは、知的レベルの高い場合でも、いまビー玉の入っている箱のほうを示したとのことである。彼らは、事実の結果を見ていただけでサリーのこころの中は見ていなかったのである。それは、アンのこころと、サリーのこころと、観客である自分のこころとが別々のものであることに気づいていないからだ。
・こころがわかるとは、その人の行動がどのような方向に向かい、どのような心づもりでいて、どのような知識内容をもっているかがわかることだ。
・相手のこころが一番よくわかるのは、欲求がぶつかり合ったとき、たとえばオモチャを取り合うときである。二人の行動のゴールはオモチャへと向かっていて、自分のこころも相手のこころもそこに投影されている。そこで今度は、相手に気づかれないうちにオモチャを手にしてしまえば、相手のこころの内容を自分のこころの内容と別の状態にしておける。このような場面を繰り返す中で、だんだん相手のこころを察するようになるのではないだろうか。
・自閉症児は超然としていて、他者とのぶつかり合いが少ない。障害を排して目標を到達しようとする中でこそ目的や手段が吟味され、行動プログラムが錬られるようになると思うのだが、この種の闘争本能が彼らには不足しているように思える。また、自閉症児は、このように策略家としての性質が乏しいので、嘘をついたり人をだますことがまったくできない。これも、相手のこころがみえていない証拠である。
・「こころの理論」が作られるのは、争いやだまし合いのような穏やかならぬ世界においてだけではないに違いない。母子の愛着行動や友達との共感の中で、お互いのこころが一つところに向かうときも、こころの状態についての感覚が芽生えてくると考えられる。しかし、闘争の中のほうがこころの内容は見えやすいようである。人がこころという見えにくいものに気づくためには、内側に少しばかりワイルドな部分をもっていることが必要なのかもしれない。
《感想》
・ここでは、自閉症児・者が、人(相手)のこころの内側を想像しながら行動することが非常にむずかしい、ということについて述べられている。
・「人は、欲求がぶつかりあったとき、相手のこころが一番よくわかる。しかし、自閉症児は超然としていて、他者とのぶつかりあいが少ない。闘争本能が不足しているように思える。その結果、「こころの理論」が構成されにくい」といったあたりが著者の「仮説」だと思われる。
・自閉症児・者が、人のこころの内側を想像できないということは、「事実」として肯けるが、私たちもまた「彼らのこころの内側を想像できない」という「事実」を見落としてはならない、と思う。著者は「母子の愛着行動や友達との共感の中で、お互いのこころが一つところに向かうときも、こころの状態についての感覚が芽生えてくると考えられる」と述べているが、それよりも「闘争の中のほうがこころの内容は見えやすいようである」という見解には同意できない。子どもはまず「母子の愛着行動」で「安心」「喜び」を共感、相手のこころを想像できるようになる方が先ではないだろうか。「乳幼児精神発達診断法」(津守真、稲毛教子・大日本図書株式会社)によれば、「玩具を取り合う」のは生後1歳3カ月以後であり、その前に、2カ月「あやすと、顔をみて笑う」、3カ月「気に入らないとは、むずかって怒る」、6カ月「母親が手をさしのべると、喜んで自分から体をのりだす」、7カ月「欲しい物が得られないと怒る」、10カ月「『いけません』というと、ちょっと手を引っ込めて親の顔をみる」、11カ月「物などを相手に渡す」といった行動で、すでに相手のこころの内側を十分に想像・理解していなければならないはずある。・また、著者は「(自閉症児は)障害を排して目標を到達しようとする中でこそ目的や手段が吟味され、行動プログラムが錬られるようになると思うのだが、この種の闘争本能が彼らには不足しているように思える。また、自閉症児は、このように策略家としての性質が乏しいので、嘘をついたり人をだますことがまったくできない。これも、相手のこころがみえていない証拠である」と述べているが、それが自閉症児自身の「脳疾患」に起因することを前提にしているとすれば、私は肯けない。私の独断・偏見によれば、自閉症児は「そのように育てられたから」「そのように」成ったのである。
・私の知る自閉症児の両親は、「いけません!」と子どもを叱らなくてすむように、あらかじめ、子どもがいたずらをしないように、散らかさないように、本棚の本を抜き出せないようにぎっしりと詰め込んだり、引き出しのすべてをロックしたり、テーブルによじ登れないようにイスを倒しておく等の工夫をした。その結果、子どもは(親との関わりを通して)「障害を排して目標を到達しようとする中で」「目的や手段を吟味」すること、「行動プログラム錬る」経験が著しく不足し、かつ、兄弟や友達との接触もほとんどないまま。闘争本能を自らの中に芽生えさせることができなかった。また、1歳半健診で「指さしをしない」ことを指摘され、2歳過ぎに「気持ちが通じ合えない」と言われたが、両親は「2歳児で気持ちを通じ合わせるなんて難しい」と思っていた。一方、8カ月頃から童謡・唱歌のCDを聞かせ、また「絵本の読み聞かせ」を頻回繰り返した。そして、3歳児健診では「自閉症スペクトラム」「軽度の知的障害」と診断されたのである。(2015.11.28)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・15

【遊べない子ども】
《要約》
・子どもは、早くから所有欲をもち、長い期間、他者とのぶつかり合いを経験して、充分自我を育てた後、三歳を過ぎた頃から他児との歩調を合わせて共同遊びができるようになる。それは、共感の世界が芽生える時期で、「こころの理論」が新しい局面でつくられるときである。
・しかし、共同遊びが始まる前に、子どもは長い間、一人遊びの時期を経験する。自閉症児は、この世界でも特徴ある行動を見せる。ここでは行動プログラムの問題と関連させながら一人遊びの発展について考えてみることにする。
・子どもが最初に行う遊びは、反復的な遊びである。(積木を打ち鳴らす、オモチャを手にしたり落としたりを何十回も繰り返す)ピアジェが「循環反応」と呼んだもので、A⇔B(A→B→A→B→A・・・)のような図式で表されるだろう。これが行動プログラムの出発点で、誰でもこのような遊びを経験するのだが、やがてこの行動のサイクルに物を落とす方向を変えてみるというような変化をつけるようになり、そのうちA→B→C・・・というように、閉じた回路の外に抜けて別の対象を探索するようになる。けれども、自閉症者の中には、その行動の中にこの閉じた回路を引きずっているものがよくいる。(目の前で手をヒラヒラさせたり、石ころを拾っては落とす行為を飽きもせずに何十回も繰り返したりする)行動の終点は別の行動と結合することなく再び始点に復帰して循環してしまうのである。
・面白いことに、このような行動は一人きりにされ、何もすることがないときに現れることが多い。自閉症者は、自らゴールを決め、行動を起こすことが苦手である。
・「自閉症の子どもにとって、何をしてもいい時間は、何をしたらいいか分からない時間なのです。」(ショプラーほか「自閉症の治療教育プログラム」)
・このプログラム(TEECHプログラム)では、自閉症児が何をしたらよいか気づくことができるようにわかりやすい環境を準備しているが、このような働きかけが途絶えたとき、自閉症者は退行ともいえる循環的な行動に戻ってしまいやすいようである。
・けれども多くの場合、自閉症者の行動も、A→B→C→D・・・というように次第に長い系列へと発展する。しかし、そのつながりは固定していて行き先が一つしかないことが多い。つまり、遊びがないのだ。
・自閉症児にはほんとうに遊びが発展しにくい。遊びとはもともと行き先不明の自由な発想から生まれる創造的な活動だからだ。
・粘土遊びの場面:知能障害の子どもたちは粘土玉でだんごを作ったり、おかずを作ったり、それらを皿の上に乗せて食べる真似をしたりして、一般の幼児の場合とあまり変わらない。けれども、自閉症児の場合は、もっぱらクッキー用の型どりの中に粘土を押し込んで花の形や犬の形をくりぬいているだけなのである。
・自閉症児はゴールがはっきりしていると実に正確に行動できることがある。けれども行き先不明の状態で、展開そのものを楽しむというようなことができない。だから、自閉症児は一般に、遊びの世界を受けつけにくいのである。
《感想》
・ここで、著者は、①自閉症児の遊びは「循環反応」(ピアジェ)による「反復遊び」の段階にとどまっていることが多い、②循環的な回路をぬけ出した後も、行動のつながりは固定していて、行き先(ゴール)が一つしかないことが多い、という特徴を述べている。
では、なぜ自閉症児の遊びは「反復遊び」の段階にとどまりやすいか、という点については述べられていない。しかし、著者は、「図らずも」その原因は、著者の仮説(自閉症の原因は脳の機能障害である)とは対立する「環境要因」によるものであることを露呈して(述べて)しまったように感じられた。それは「面白いことに、このような行動は一人きりにされ、何もすることがないときに現れることが多い。」という一文に示されている。私の独断・偏見によれば、「循環反応」による「反復遊び」は《誰にでも》あった。(大人に成長した後でも、「クセ」もしくは「無意識な行動」としてしばしば現れる。たとえば「ビンボーゆすり」「爪噛み」、その他のルーティーン)。通常は、その中に「誰か」が介入して反復遊びの「回路」からぬけ出すことができるが、自閉症児の場合は「一人きりにされ」ることが多く、いつまでもその状態に「とどまる」ことを余儀なくされている、と考えられる。以後「反復遊び」は、様子を変えて「常同行動」へと発展する。そのことは、動物園の檻に収容されたチーター、ライオン等の「行動」でも例証できる。檻の中を行ったり来たりする行動は、野生という「環境」では《決して》見られないだろう。
・「自閉症の子どもにとって、何をしてもいい時間は、何をしたらいいか分からない時間なのです。」(ショプラーほか「自閉症の治療教育プログラム」)という指摘は「その通り」だとしても、それは彼が「自閉症児」だから、ではなく、「一人きりにされ」た(物心ともに周囲からの断絶状態に置かれ続けた)ために、行動の手がかりを見つけられないでいるに過ぎない。子どもが、「反復遊び」を卒業して「やがてこの行動のサイクルに物を落とす方向を変えてみるというような変化をつけるようになり、そのうちA→B→C・・・というように、閉じた回路の外に抜けて別の対象を探索するようになる」ためには、「一人きりにされない」こと(親という安全基地)が不可欠であり、そこで育まれた「安心感」「好奇心」が探索行動を可能にするのである。
・著者は、①自閉症者は、自らゴールを決め、行動を起こすことが苦手である。②自閉症者の行動も、A→B→C→D・・・というように次第に長い系列へと発展する。しかし、そのつながりは固定していて行き先が一つしかないことが多い。つまり、遊びがないのだ。③自閉症児にはほんとうに遊びが発展しにくい。遊びとはもともと行き先不明の自由な発想から生まれる創造的な活動だからだ、というように《断言》しているが、私は、自閉症児に最も欠けているものは「安心感」、そこから芽生える「好奇心」ではないか、と思っている。(2015.12.4)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・16

【身体に現れた症状】
《要約》
・自閉症者は行動のプログラムの立て方に問題があり、その結果、(略)長時間固定した姿勢を保ったり、歩行を続けたりすることができなくなる。その状態が10年、20年と積み重ねられているうちには、身体を動かしたり支えてりする骨や筋肉にも異常が生じてくるはずである。
・自閉症児は、乳幼児期を比較的おだやかに過ごす。3歳か4歳頃になって一転して多動となることが多い。突然、外に飛び出したり、高い所に登ったりするようになり、一般の児童とはかなり違って見える。ところが10歳を過ぎた頃から、動きが緩慢となり寡動といわれる状態となることが多い。
・自閉症児の行動の足跡を、足の裏の写真で見ることができる。(平沢弥一郎氏が開発したピドスコープという装置を用いる)
・自閉症児に一番よく見られるタイプは、全体に細長く、足指の部分の付きが悪い。また、外反足(扁平足)、内反足の例もある。骨が柔らかいうちから安定しない歩き方(または走り方)を繰り返したり、高いところから飛び降りたりという負荷をかけてきた結果が、このような足がつくられる可能性を強めたと考えられる。
・歩行とは、全身の協応的な動作を伴うものだから、大脳の統合的な活動を必要としている。また、歩行のスタイルは、子どもが人間の集団の中で長距離の移動を経験する中で徐々に形成されるものである。しかし自閉症者は、大脳の統合的な活動という点でも、集団への参加という点でも重大な障害を背負っている。だから、彼らの歩行の様子は、障害の程度やその克服のレベルを如実に物語っていると言えるのである。
《感想》
・ここでは、自閉症の足の裏写真を見ると、健常児とは「大きく異なっている」ことが述べられている。その原因は、自閉症児の行動が「多動」から「寡動」へと変遷していく中で、通常とは異なった歩行、姿勢を「長時間」重ねてきたため、ということである。そのこと自体は、体の「動き」が「形」を決めるという意味で、あたりまえのことだ、と私は思う。不自然な動きを継続すれば、「形」が異常になる例は、畑仕事に従事した老人の姿で証明されているのだから。したがって、自閉症児は「なぜ不自然な動きをするのか」という点が解明されなければならないのではないか。著者は、それは「行動のプログラムの立て方に問題がある」から、また「大脳の統合的な活動に障害を背負っている」からと考えているようだが、私は肯けない。「不自然な動き」は《誰でも》する。とりわけ「精神的な不安定」が生じている場合には、協応動作、姿勢、摂食、排泄等々、様々な活動が影響を受け、「金縛り」「拒食」「不眠」「下痢」「便秘」といった症状が現れることは珍しくないからである。
・しかし、自閉症児の足形を撮り、それを実態把握(症状の程度)の資料にすることは、有効かもしれない、と私は思った。(2015.12.7)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・17

《第4章 自閉症の言語世界》
《要約》
【オウム返しの謎】
・自閉症児の言語は、彼らの行動と同じように捉えどころがない。けれども、「言語行動」という言葉があるように、言語を使うのも行動の一種なのであり、外部環境に働きかけたり取り込んだりするための手段なのである。自閉症児の言葉の問題には、行動の問題と共通した障害のメカニズムが隠されているに違いない。本章では、この問題に取り組んでみることにする。
【消失する言葉】
・発音ができ、単語を口にできることと、言語世界が成立することとは同じではない。その証拠に、エリーもサマーもテッドも、早い時期に「ママ」や「ダッド」などよく耳にする言葉を口にしたのに、その後の言語発達はかんばしくなかった。
・エリーの場合は、獲得した言葉はある期間がたつと消失していき、通算では何十という言葉が現れながら、各時点で実際に使える言葉は五、六語どまり、という現象が続いたとのことである。何十もの言葉が一度はエリーの口から発せられたとうことは、この少女がよく聞き分けられる耳と構音機能の具わった口をもっていた証拠である。しかし、それらの言葉は互いにバラバラであり、結びつきながら増殖して行く働きに欠けていたようである。
・ただし、このような言語発達の危うさは、普通の子どもにとっても無縁なものではない。一歳前後に獲得されたいくつかの言葉は、その後あまり増加することなく。一年ほどにわたって言語の停滞期ともいうべき時期が続くのである。そして、二歳前後に。たとえば「ワンワン・キタ」というような主語と述語を伴った二語文が現れる頃から、言語の爆発的な増加期が始まることになる。
・この爆発的増加期は、誰でも決まって二歳前後に始まるわけではない。かなりの個人差が見られるのが現実である。アインシュタインが四歳になるまで話さなかったというのはあまりにも有名なエピソードとなっている。
《感想》
・ここでは、自閉症児の言葉が、一度は獲得したものの、その後、停滞するか消失してしまうことが述べられている。しかし、著者が見ているのは「子ども」の側に限られており、相対する大人(親)の側については、無頓着である。つまり、エリーの母親の供述を「そのまま」鵜呑みにしているように、私は感じる。エリーが「ママ」「ダッド」とという言葉を口にしたのは、《どんなとき》《どんな場面》であったのか、また、その言葉に対して両親はどのように応じたのか、という点については全く触れられていない。
・通常、子どもが言葉を口にするのは1歳前後だが、それ以前に、子どもと親は「声」「表情」「動作」などを媒介にしてコミュニケーション(気持ちや意味の伝え合い)を行っている。もし、そのレディネスが不十分であれば、「その後の、言葉の発達がかんばしくなかった」ということが生じることは当然である。
・著者は〈「言語行動」という言葉があるように、言語を使うのも行動の一種なのであり、外部環境に働きかけたり取り込んだりするための手段なのである〉と述べているが、「言語」そのものは、必ずしも「行動」に直結しない。それは「認識・表現」の《過程》であり、音声・文字はその《媒体》に過ぎない。それゆえ、「言葉を口にする」「文字を読み書きする」ことができるようになっても、「言語」本来の機能を発揮することとは無縁である。私が知る自閉症児は、バスや電車の「車内アナウンス」を「巧みに」表現できるが、通常の会話能力は極めて乏しい。それは、まず音声の「やりとり」(交信)を、「泣き声」「喃語」「ジャーゴン」を媒体として、十分に行って来なかったためと思われる。両親は熱心に「絵本の読み聞かせ」を行ったが、子どもはそれを単なる「感覚遊び」の「音刺激」としてしか「取り込んで」こなかったことは明らかである。「泣き声」「喃語」「ジャーゴン」は、それぞれの場面で「意味」「感情」を伴っているが、それを周囲が「共感」「理解」しなければ、子どもの交信は「一方方向」で終わるに違いない。子どもは発信しているのに、それを両親が受け止めてくれないとすれば、空しい「独り言」を繰り返す(言語の停滞)か、口を閉ざしてしまう(言語の消失)他はないだろう。さらに、両親の教育方針として「幼児音・幼児語で話しかけない」「子どもが発する幼児音・幼児語は無視する」といったことが加われば、その傾向に拍車がかかることは明白である。その自閉症児は、「レリレリレリレリ・・・」などというジャーゴンを繰り返していたが、「ママ」「パパ」「マンマ」などという言葉を使うことなく、1歳過ぎには、童謡・唱歌を歌い出し、「オジーチャン」「オバーチャン」「カボチャ」「ニンジンジュース」などと言い始めた。以後、「言葉が消失」することはなく、4歳時には「○○コウエン・イク」「○○ヤナノ」「(テレビを)ケスケス」「ジ(字)・カコウカ」「ジ・カイテ」などの二語文レベルで「停滞」している。
・いずれにせよ、「言語の機能」の中で最も重要なものは、コミュニケーションの手段であり、「表情」「声」「動作」によるコミュニケーションが十分に行われない限り、「言語」の発達が「かんばしく」なくなるのは当然である、と私は思う。(2015.12.10)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・18

【指さしから言葉へ】
《要約》
・人の子どもは一歳から二歳までの間、いったい何をしているのだろう。その間に、もしくはそれに先立つ時期から、子どもは言葉以外のコミュニケーション手段をさかんに使うようになっている。その代表というものが指さしである。
・他の指を心もち曲げ、ひとさし指だけを立てておこなわれる指さしが、生得的なメカニズムによって現れるのか、または、対象へと手を伸ばす動作の変形として現れるのかはまだ不明である。ただし、それが、こころや行動が向かう方向を自分やまわりの人に宣言する役割をもつようになることは確かだと思う。私たちはたとえ同じ物理的空間の中にいても、視界や視線の方向によって別々の世界をこころに映している。だから、一、二歳児がおこなう指さしには、次のような意味が込められている。【ぼくは犬のオモチャを見ているんだよ。一緒に遊んでほしいんだ】
・この頃、子どもは、まわりの人が自分が注目する対象に気づいてくれたほうが、出来事が面白く展開することを理解するようになったのではないだろうか。それは、彼にとって大きな変化なのである。まだ自分自身は非力であるこの時期の子どもは、大人の力を借りて外界を動かすプログラムを実行しようとする。彼は演出家としての自分にかすかに気づき始めたのである。そして、指示をさらに細かく正確に出すために、指さしだけでなく、言葉を使うようになるのだろう。
(・これに対して、自閉症児は、そのような大人の利用価値について気づいていない。彼は大人を巻き込んだ迫力のあるプログラムを企画することができない。自分だけで実行するプログラムは、どうしても循環的なものになってしまいがちなのである。)
・ただし、指さしだけでは、視界の中にないものは指し示せない。そこで登場するのが言葉である。「ワンワン・キタ」「ブッブー・イッチャッタ」など、この頃現れる言葉は、視界を出入りするものを示す場合が多い。指示対象が視界の中だけで収まりきれなくなったとき、指さしから言葉への飛躍がおこなわれるようである。
《感想》
・ここでは、子どもが言葉を発するようになる以前(1歳前後まで)の、コミュニケーション手段について述べられている。著者は、その代表として「指さし」を挙げている。子どもは、それまで「声」(泣き声、喃語、ジャーゴン)「表情」「動作」で「気持ち」(こころ)の「やりとり」を行ってきたが、「指さし」は、その中の「動作」の一つである。私は、著者の言う「対象へと手を伸ばす動作の変形」として現れるものだと思う。その前に、子どもは「両手を前に差し出して」、「だっこ」を要求したりする。また、欲しい物があると「片手を差し出して」「指で」掴もうとする。さらに、その前に、子どもは、「見る」(視線を向ける)という動作をしている。だいて欲しい人の顔を見ている。欲しい物を見ている。この「見る」という動作と「手を伸ばす」という動作が協応(結合)して「指さし」に発展するだろうことは、「ほぼ確実」である。また、さらに、その前には、「見る」ことが「楽しい」「面白い」という気持ちに結びつき、物を手渡されたり手渡したりする「喜び」が芽生えていなければならない。一言でいえば、まわりの人との「愛着関係」が成立していなければならない、と私は思う。著者は「自閉症児は、大人の利用価値にきづいていない」「大人を巻き込んだ迫力のあるプログラムを企画することができない」と述べているが、それが《なぜか》については言及していない。
・私の知る自閉症児は、危険防止のため「手を使う」動作を著しく制限された。本箱から本を抜き取ること、引き出しから物を取り出すことができないような「環境」の中で、親が「安全」と思う物ばかりを与えられた。例えば、「絵カード」「絵本」「ミニカー」。「積木」は放り投げる、おはじき、ビーズなど小さい物は呑み込む「危険」があるので、与えられなかった。その結果、子どもの興味・関心は「狭められ」「偏った」。異食を防ぐために、「手で掴んで食べる」ことも制限された。そして「一歳半健診」のとき「指さしをしない」ことを指摘されたのである。
・著者は、自閉症児は「大人の利用価値に気づいていない」と述べているが、私は肯けない。「指さし」のかわりに「クレーン現象」(相手の手または手首を持って対象物に向かう)で、大人を動かそうとすることがあるからである。「指さし」と「クレーン現象」の違いは、《象徴》機能の有無にあると思われるが、それが自閉症児の「認知能力」と関連しているかどうか。私の独断・偏見では、「声」を使った「間接的なコミュニケーション」の機会が、致命的に不足していた(している)ためであろう。だが、確証はない。(2015.12.13)





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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・19

【物から出来事へ】
《要約》
・周囲の世界ががらりと変わるときがある。それは、目の前で何かが起きたときである。「ツミキ・オチチャッタ」、二歳児の口からこんな言葉が発せられることがよくある。
・積木はまだ視界の中にあるけれども、「机の上の積木」はもうない。これは情報的には大きな意味をもつ事実である。だから、彼はその発見を大人に伝えたいのである。彼は物に執着し、それを奪い、手に入れようとする志向の強い時期から、物を介して他者と共感したり、情報交換を活発に行う時期へと移行してゆく。
・目の前にあって変化しない事物は、情報として大きな意味をもたない。事物の出現・消失と変化、つまり出来事と呼ばれるものごそが言葉で表したい世界である。だから、「なにが・どうした」という動詞述語構文が現れる頃、言葉の世界は急に広がり始める。
【羅列的な事物の世界】
・8歳になる自閉症の少女は、場面の絵(「ことばのテスト絵本」・ブランコ)を見て、「この絵を見てお話ししてください」と言われたが「無言」であった。しかし、「何しているの」「誰がいるの」「ここ、どこ」「何の絵かな」などという問いかけには、「ぼく、わたし、せんせい」「小学校」「ブランコ」「ぼく・・ブランコ・・ひっぱった。かわいそう」などと答えることができた。一つ一つの物は見ているのだが、それらはバラバラに捉えられていて、出来事としてまとまっていないのだ。そこには関係を表す言葉が出てこないし、出来事を引き起こすもととなっている動作を表す言葉がでてこない。
・出来事は時間的に展開するものだが、テーマ画は、その一瞬を表現するだけである。だから、絵を見るものは自分自身の体験と照らしして時間の前後を補わなければならない。そのため、様々な行動の展開というものに実践的に係わってこなかった自閉症児にとっては特にむずかしいものとなる。この少女は「ひっぱった」「かわいそう」というテーマに関係のある言葉を口にしているので、漠然とは、絵の中の出来事を理解している。しかし、断片的な言葉をつないで絵の内容を把握できるようにする結合子がみつかっていない。
・私たちは、まわりの人たちと一緒に出来事を観察したり、あるいは出来事に参加する中でその文法形式を学習していくのである。
【動詞と助詞の役割】
・断片的な言葉をつないで絵の内容を把握できるようにする結合子の役割を果たしているのは、「動詞」と「助詞」である。(「男の子・が・女の子・の・ブランコ・を・ひっぱった)
・神経心理学者ルリヤによると、人間は前頭前野の損傷によって行動のプログラムを失うだけでなく、言語のプログラムも失うことがあるとのことである。(「人間の脳と心理過程」・金子書房)行動の単位となる運動も、言語の単位となる発音も、同じく、大脳の三つの基本的ブロックの中の運動野と運動前野によって生み出される。
・言語のプログラミングの障害は「力動失語症」と呼ばれるタイプで、一つ一つの言葉に問題はなく、人の言葉をそのまま模倣することはできるが、独力で文をつくることができなくなる。また、名詞の語彙と比べて動詞の語彙を思い出すことができなくなる。行動のプログラムに問題をもっていると考えられる自閉症者は、言語のプログラムにも問題をもつのではないだろうか。
・私は10年ほど前に、言葉を有する自閉症児を対象に動詞と助詞の習得状況についての研究をおこなった。(「自閉症児の言語障害の特性」1986年)その一は、動詞の絵カード20枚。名詞の絵カード20枚を見せて、何が描かれてあるか話してもらう「実験」である。自閉症児群10名、知能障害児群10名、3歳から6歳までの健常児群30名の平均得点は、名詞カードでは自閉症児群が最も多いのに、動詞カードでは最も少なかった。自閉症児群は「泳ぐ」を「プール」、「乗る」を「バス」、「弾く」を「ギター」のように、動詞カードでも名詞が現れてしまうことが多かった。自閉症児がもっている語彙の多くは名詞であり、それらを結合していく動詞の習得は遅れがちであることが示されている。
・その二は、場面の絵二枚(自動車が犬を轢いてしまった。クマが魚を釣り上げた。)を見て「何が描かれているか」文をつくってもらった。結果は、自閉症児群が最も文の作成で誤りをおかしやすいことがわかった。(例「車が犬に轢かれた」「クマで魚を釣る」)
・文の誤りのパターン(助詞の誤用・文節の省略・能動、受動の誤り・助詞の省略)は、自閉症児群では「助詞の誤用」が最も多い。健常幼児群では「助詞の省略」が最も多い。
・《感想》
・ここで著者は、自閉症児が獲得している言語が「名詞」に偏っていること、「動詞」や「助詞」の未習得や誤用が目立つことを「実証」し、「以上の結果から、自閉症児には行動にも言語にもプログラミングの障害が現れており、前頭葉の発達障害(直接的な損傷ではない)が考えられるのである」と述べているが、本当にそうだろうか。たしかに、自閉症児の言語には特徴がある。独特な抑揚、紋切り型の文体、名称の誤用等々・・・。
・自閉症児の行動特徴(症状)の中で、最も顕著なものは、人・場所・場面・物に対する「回避」「葛藤」(周囲からの孤立)である。「言語」の主な機能は、①感情の表現、②思考の手段、③伝達の手段(コミュニケーション)だと思われるが、「回避」「葛藤」が優先されれば、伝達の手段を「学習」する機会が乏しくなるのは当然である。この節に登場した8歳の少女が「ことばのテスト絵本」に応じる場面でも、基本的には「回避」の気持ちが働いていることは十分に考えられる。つまり「不安」と「緊張」で、「お話をするどころではない」と切羽詰まった場面に、追い込んではいないか。その時点ではそうでなかったとしても、少女は8年間、そうした「回避」を重ね続けてきただろうことは確かである。したがって、そこで発せられた言葉だけを分析しても大した意味はない、と私は思う。
・著者は「私たちは、まわりの人たちと一緒に出来事を観察したり、あるいは出来事に参加する中でその文法形式を学習していくのである」と述べている。まさに、その通りだが、自閉症児は、その前の段階で、学習を「回避」してしまうのである。したがって、自閉症児はなぜ「まわりの人たちと一緒に出来事を観察したり、あるいは出来事に参加する」ことを《しようとしない》もしくは《できない》のか、について研究をしなければならないのではないか。
・自閉症児の「言語」の問題は、自閉症児に《特有》と思われがちだが、乳幼児が「ことば」を獲得していくプロセスで、誰もが共有していることを肝銘しなければならない。それは、著者自身の研究結果からも明らかである。すなわち、「絵の叙述における誤りのパターン」、「助詞の誤用」「文節の省略」「能動・受動の誤り」「助詞の省略」のパーセンテージを比べていえることは、健常幼児であれ、知能障害児であれ、同様の誤用・省略がみられる、ただ自閉症児より「相対的に」少ない、というだけのことなのである。もし、著者が「自閉症児には行動にも言語にもプログラミングの障害が現れており、前頭葉の発達障害(直接的な損傷ではない)が考えられるのである」というのなら、健常幼児、知能障害児の「誤答」者もまた、前頭葉の発達障害があると考えなければならないのではないだろうか。
(2015.12.15)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・20

【言語の階層構造】
《要約》
・絵カードを使っておこなった研究の結果から言えることは、知能障害児も健常幼児も、大ざっぱなレベルでは、文の表す内容を正しくつかんでいるらしいことである。これに対して自閉症児は名詞、動詞、助詞など、多くの単語を使うことはできても、それらが組み合わされてつくられる文全体の構造への配慮が乏しいように思われる。つまり、個々のレンガは見ていても、それらによって組み立てられていく家の構造には目を向けていないかのようである。個々のレンガにあたる発音や文字の習得はすぐれているケースが多い。
・自閉症児には、このように、全体でなく、部分からものを捉えていく傾向が随所に見受けられるようである。たとえば、(ジグゾーパズルでは)絵や写真の全体の構図を手がかりとしてチップを結びつけていくのではなく、個々のチップの形だけを見て、ピッタリするもの同士を次々に結合していく。彼らのつくっていくジグゾーパズルは、全体にこだわらないので普通の人よりもかえって速くできることが多い。
・けれども、言葉の場合は、このような組み立て方は方向を誤らせてしまうのである。言葉は、単に音や単語を連ねていくだけでなく、もっと見通しをもって、文やさらには会話の方向まで見定めて展開していかなければならないものだからである。言語にも上位のプロセスと下位のプロセスがあり、階層構造を成している。
◆「音の階層」⇔「単語の階層」⇔「文の階層」⇔「会話の階層」
・私たちが言語を使うときは、最下層の音素を発声しながらも、同時進行的に、それらがより上層の単語や文、さらには会話をどのように構成していくか、ミリ・セカンド単位の素早いチェックを行っているはずなのである。
・最上層に位置する「会話」は、複数の人が共同でおこなう言語活動の場合で、個人の中でそれがおこなわれると思考や作文の文章となる。読んだり話したりする物語は、会話や思考や文章をも包み込むさらに上層の大きな流れである。
・自閉症の人たちは、言語の階層構造の上のほうにはほとんど注意を向けずに言葉を使っているように見える。会話らしい会話を続けることのできる自閉症者はきわめて少ない。
・健常幼児や知能障害児の用いる言語は正確ではない。しかし、ぼんやりと全体の流れをつかんでいる。
・言語の階層を上層へと上っていく認知の働きを「ボトム・アップのプロセス」と言う。音を連ね、単語に、文にと結合いていく働きはこれに相当する。しかし、そのとき、同時に会話の流れや文としての意味など、上からの視点でも点検をおこなっているわけで、その過程を「トップ・ダウンのプロセス」と言う。人の子どもは、ごく早いうちから視線や泣き声や表情で大人との「会話」を始めていたわけだから、このトップ・ダウンのプロセスのほうが基本であり、それが次第に言葉による「会話」へと発展したと考えられる。
・発達の初期にこのような「会話」を育てることができなかった自閉症児は、トップ・ダウンの働きにもとづいて言葉を育てることができなかった。そこにこそ、彼らの言語発達のもっとも大きな問題がある。だから、自閉症児の言語指導では、発音や単語を教えるよりは、日常場面での様々な機会を利用したやりとりから出発すべきであるという主張がなされるようになってきている。つまり、言語発達の出発点に戻り、最も遅れた部分に手をかけようという考え方である。これはもっともな意見だが、相当な時間を要する指導法である。そこで私は、一方で、会話もできない自閉症児が音を聞き分けたり、仮名文字や漢字を覚えてしまうという現象を指導に積極的に採り入れていくべきだと考えている。つまり、ボトム・アップの過程にもとづく指導法も加えていくべきだと思う。
・自閉症児には人々が自分のまわりにで構築している言葉の巨大な建造物の全体的な姿は目に入っていない。しかし、彼らが建造物をつくるレンガともいうべき一つ一つの音や文字を識別し、身につけ始めたのは、この世界を少しでも理解しようとする彼らなりの努力の表れといえるのではないだろうか。過ぎ去った時間は取り返せない以上、彼らが見つけたレンガの組み立て方を、先輩である私たちがていねいに教えていく、ということも必要なのだ。だから、トップ・ダウンとボトム・アップの両面から、彼らの言語世界を少しずつ構築していくのが言語指導の正道なのではないかと考えている。
《感想》
・ここで、著者は「自閉症児は名詞、動詞、助詞など、多くの単語を使うことはできても、それらが組み合わされてつくられる文全体の構造への配慮が乏しいように思われる。つまり、個々のレンガは見ていても、それらによって組み立てられていく家の構造には目を向けていないかのようである。個々のレンガにあたる発音や文字の習得はすぐれているケースが多い」と述べ、さらにそのことをジグゾーパズルの組み立て方を例にして説明しているが、私は肯けない。「言葉の表現活動」において、私たちは初めは誰でも《自閉症児と同じように》、「単語」を《羅列》することからスタートする。その「単語」が「句」や「文」に構成されていくためには、「文法」が正しく理解されていなければならない。その「文法」は、周囲の人たちの「話」を聞き、「記憶」することによって蓄積されていく。初めから、大脳の言語野にプログラミングされているものではない。アメリカ人の子どもが英語を話せるようになるのは、周囲の人が英語を話しているからである。アメリカ人の大脳に、生得的に英語のプログラムが備わっているわけではない。もし、日本に在住し、日本語の環境の中で育てば、日本語で話しはじめることは当然であろう。「喃語」「ジャーゴン」は《万国共通》だが、「発語」は言語環境に左右されるのである。
・「単語」を組み合わせて「文」を構成するためには、「文法」を習得しなければならない。その「文法」は、「聞く」「記憶する」ことによって蓄積されるが、その場面、場面で行われる相手との「会話」(こころの交流)によって、より「確かな」ものになっていく。私たちは、乳幼児期《誰でも》「不完全」もしくは「誤った」言葉を使っているのであり、それが周囲(環境)との交流(会話)によって、徐々に「修正」され、「文全体の構造」を配慮できるようになる、という「事実」を見落としてはならない。ジグゾーパズルの「試行錯誤」は、その子ひとりの「単独作業」(しかも、言語学習とは無縁な「視覚運動」回路の学習)だが、言語の獲得は、周囲の大人との「共同作業」が不可欠なのである。。
・自閉症児が「語音」や「単語」を並べるだけで「文」を構成できないのはなぜか。それは、私たちの「英語(会話)能力」が乏しいことと「同じ」である。私たちは、まずアルファベットの「音」と「文字」を学習する。次に単語のスペルと発音を憶える。次に「文の構成」(文法)を「読む」ことによって理解する。まさに著者のいう「ボトム・アップ」のプロセスで英語学習を行ってきたはずである。しかし、それだけでは、「作文」したり「会話」することはできない。自閉症児も言語をそのように学習したのである。
・言語を正しく理解し表現するためには、まず「聞く」ことが必要であり、かつ「音声」で相手と「やりとり」(こころの交流)をすることが不可欠である。自閉症児に欠けているものは、そうした活動の「経験」であり、もし彼自身の中にその要因があるとすれば、「聞く活動」「相手とやりとりする」場面からの《回避》反応に他ならない、と私は思う。
・著者は、自閉症児の「言語指導」について、〈発音や単語を教えるよりは、日常場面での様々な機会を利用したやりとりから出発すべきであるという主張がなされるようになってきている。つまり、言語発達の出発点に戻り、最も遅れた部分に手をかけようという考え方である。これはもっともな意見だが、相当な時間を要する指導法である。そこで私は、一方で、会話もできない自閉症児が音を聞き分けたり、仮名文字や漢字を覚えてしまうという現象を指導に積極的に採り入れていくべきだと考えている。つまり、ボトム・アップの過程にもとづく指導法も加えていくべきだと思う〉と述べているが、その「ボトム・アップの過程にもとづく指導法」こそが、自閉症児の「言語発達」「会話能力」を滞らせることに気づいていない。また、もっともな意見による指導法が「相当な時間を要する」というが「相当な時間」とは《どれくらい》の時間だろうか。自閉症児・者にとって、言語を獲得・学習する時間は、その人生が終わるまで、保障されているはずである。(2015.12.20)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・21

【出来事の基本構造】
《要約》
・出来事を表すのに必要な動詞や助詞の役割をうまく説明している文法理論がある。(フィルモアが提案した「格文法理論」)この理論にもとづいて、認知心理学者リンゼイとノーマンは出来事の構造を図式的に表現している。(ノーマン「情報処理心理学入門Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ」サイエンス社)
◆「行為」→時(右方向)、「行為」→行為者(左方向)、「行為」→受け手(右上方向)
「行為」→対象(左上方向)、「行為」→道具(右下方向)、「行為」→場所(左下方向) 「行為」→その他(下方向)
・この図式では、出来事の中心に行為がきて、そこから行為者・対象・場所などの矢印が出ている。たとえば、行為が「拾った」ならば、誰が・何を・どこで、というように、出来事の構造が調べられ、それと並行して文も作られるわけである。頭の中にこのような輪郭をもった図式に相当するものをもっているために、私が「財布を拾ったんだ」と言えば、あなたからは「どこで?」とか「いつ?」という質問が飛び出してきて、会話へと発展していくことができるようになる。
・ところが、自閉症者には、このような図式がまだ育っておらず、また他の人のこころの中にそれがあることにも気づいていないようである。このことが、彼らの会話が発展しにくい理由となっているのだろう。
・なお、上記の図式は、以下の通り、日本語の格助詞に置き換えることができる。
◆行為→時(に)、行為→行為者(が・は)、行為→受け手(に)、行為→対象(を)
行為→道具(で)、行為→場所(で)
・このように、日本語の助詞は出来事の構造を表すうえで重要な役割を果たしているのである。
《感想》
・ここで述べられていることは、要するに、自閉症者には「出来事の構造」を表す「図式がまだ育っておらず、また他の人のこころの中にそれがあることにも気づいていないようである」という推測に過ぎない。しかし、その推測は、自閉症児・者に《限定》されるわけではなく、健常な2~3歳児、知的障害児に対しても「十分」言えることではないだろうか。
・大切なことは、健常幼児や知的障害児ががその後、順調に(あるいは自閉症児よりも)「出来事の構造」を理解し、相手のこころの中を「共感」できるのに、なぜ自閉症児だけが2~3歳レベルに留まった状態に「置かれる」のかという観点であり、それはひとえに「言葉をコミュニケーションの手段として使う機会が失われたことに因る」という認識である、と私は思う。
・いうまでもなく、コミュニケーションは、初めから「言葉」によって交わされるわけではない。「声」「表情」「動作」や「物のやりもらい」によって、「意味」だけでなく「感情」の交流(ノン・バーバルなコミュニケーション)が十分に行われた結果、それが「言葉」に結実化されていくのだから。したがって、そのノン・バーバルなコミュニケーションが不十分な段階で、他人との「対話」(共同作業)を抜きにした、いわば「独学」で身につけた「言葉」が「会話」に発展しないことは、当然の結果なのである。
・今、もし「コミュニケーションは、初めから言葉で行われる」(「初めに言葉ありき」)と勘違いしている親がいたとしたら、どうだろうか。彼らは、言葉以前に発せられる子どもからの情報(声・喃語・ジャーゴン・表情・動作など)を的確に受け止めて対応することが不十分になるかもしれない。あるいは、意図的に無視して「取り合わない」かもしれない。さらには、大人の正しい言葉だけを「教えようとする」かもしれない。コミュニケーションは、一人で(一方的に)行うものではない。だとすれば、子どもの側だけでなく周囲の大人(親など)の側の「育児態度」やコミュニケーション能力も「検証」しなければならないのではないか、と強く思った。
・もし、自閉症児の会話が「単語を羅列する」だけに留まっているとすれば、それはまだ言語(会話)能力が「1歳レベル」の段階にあるという《だけ》のことであり、こちらがそのレベルでの会話を「頻回」繰り返すことによって、何よりも「言葉(声)を交わし合う」ことの《楽しさ》、「こころが通じ合う」ことの《喜び》を、双方で「味わう」ことが最も大切ではないだろうか。(2015.12.22)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・22

【なぜ遊べないのか】
《要約》
・自閉症児は、言葉をその意味と結びつけるうえでもトラブルを起こしやすい。このことは、自閉症児がうまく遊べないことと深く係わっている
・砂場遊びでは、砂をご飯に「見立てる」、ごっこ遊びでは、「お父さん」「お母さん」の意味。役割を「演じる」ことができなければ、遊びは成立しない。
・自閉症児はこのような自由な発想をもちにくい。その理由は、「見立て遊び」や「ごっご遊び」が、言葉や概念と共通した次のような構造をもつからである。
・言語学者ソシュールは、記号というものの成り立ちを説明するのに、能記(意味するもの「シニフィアン」)と所記(意味されるもの「シニフィエ」)という概念を利用した。実物の「イヌ」は所記であり、「犬」という記号は能記である。イヌを表すものは、「イヌ」でなくとも「ワンワン」でも「DOG」でもよい。所記のほうも実物でなくても、オモチャのイヌでもこの関係は成り立つのである。だから能記と所記は一対一に対応していない。両者はお互いに似た特質をもっていなくてもかまわないのである。能記と所記は絶対的な結びつきはなくて、社会的な約束事として成立した関係なのである。このような能記と所記の関係は、「見立て遊び」や「ごっこ遊び」にもあてはまる。
・スイスの発達心理学者ピアジェは、このソシュールの理論を遊びの構造分析に利用して、「砂場遊び」で使う容器の中の砂を能記、本物のご飯を所記と考えた。ご飯の能記は、すなでなくても小石でもよい。このように、私たちは目の前の世界を「見立て」や「つもり」を通して見つめることができるので、人々と共感的な世界に旅立つことができるようになったのである。
・自閉症児は、能記と所記の関係をしっかり把握していないために、遊びが発展しにくいだけでなく、言語の世界でもよくトラブルを起こすことになる。言葉とそれが表す対象は一対一には対応していないのだが、そのような柔軟な関係を飲み込みにくいようである。
・自閉症のある男の子はある日、近所の子が母親のことを「おばさん」と呼ぶのを聞いて、「これはお母さんだ」と怒ったとのことである。(玉井収介「自閉症」講談社新書など)
・自閉症児の教育の世界では、物の呼び名を指導者の間で統一しておくべきだと唱えられている。彼らにとってわかりやすい一対一の対応関係から出発して、物と名前の対応の基礎ができたところで徐々に複数の名前があることを指導していくべきだろう。
《感想》
・ここでは、①自閉症児は「言葉」(能記)と「実物」(所記)が「一対一対応」しないと混乱する。②生活や遊びの場面で、私たちは「言葉」と「実物」を完全に「一対一対応」させているわけではない。③そこで、自閉症児は「見立て遊び」や「ごっこ遊び」にスムーズに参加することができない。というようなことが述べられている。
・節のタイトルが「なぜ遊べないか」とあるので、付言すれば、自閉症児は「遊べない」わけではない。感覚遊び、運動遊び、構成遊びなどの「一人遊び」は得意であろう。つまり、遊びの種類が1~2歳の段階に留まっているに過ぎない。コミュニケーションのレベルも1~2歳レベルに留まっているとすれば当然の結果なのである。健常な1~2歳児も自閉症児と《同様に》「見立て遊び」や「ごっこ遊び」はできないはずである。
・したがって、(言葉のやりとりで行う)「ごっこ遊び」ができないことも当然だが、「見立て遊び」ができないのはなぜだろうか。自閉症児自身の認知能力が未熟なためだろうか。
・私の独断と偏見によれば、それは「声」「表情」「動作」などによるノン・バーバルなコミュニケーションの「経験」が不足しているためである。その段階でも、すでに能記と所記の関係が生じていると思われるが、両者はまさに「一対一対応」していない。時と場面によって「千変万化」しているはずである。子どもと周囲の大人(親)は、「手探り」で「関わり合う」。両者の「思い」が一致すれば、そこから「共感」「信頼」「安心」が生まれる。著者は「能記と所記には絶対的な結びつきはなくて、社会的な約束事として成立した関係なのである」と述べているが、自閉症児には、その《社会的な約束事》を(0歳から1歳半頃までに)学ぶ経験が《致命的》に不足しているのである。
・幼児語の「まんま」(能記)は「食べ物」(所記)を意味する。「食べ物」は「ご飯」「くだもの」「お菓子」「ミルク」など、食べられるものであれば何でもよい、それが《社会的な約束事》なのである。しかし「まんま」ではなく「ゴハン」「パン」「バナナ」「ミルク」などという言葉を「一対一対応」で学んでしまえば「まんま」という概念は生まれない。同様に「あんよ」は「足」であり「歩くこと」、「くっく」は「靴」であり「靴下」でもある。子どもは、「幼児語」でまず、おおざっぱな概念を(トップ・ダウンのプロセスで)学び、次に一つ一つの事物を(分析的に)身につけていくのである。
・もし、親が「子どもに幼児語を使わせない」というような育児方針で育てれば、どのような結果になるだろうか。子どもは、つねに「コミュニケーションの手段」を奪われたまま成長していくことになりはしないか。幼児語の使用に限らず「声」「喃語」「ジャーゴン」「表情」「動作」などによるノン・バーバルなコミュニケーションの「経験不足」が、彼らの言語発達を1~2歳レベルに留まらせている要因だ、と私は思う。(2015.12.23)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・23

《なぜオウム返しをするのか》
《要約》
・自閉症児が「オウム返し」をするわけを知るには、言語の問題の中だけで考えず、行動の問題に戻って考えてみる必要がある。
・自閉症児には行動プログラムを立てる力があまり育っていない。ゴールを自分で定め、道筋をつくっていない。彼らは、意思決定者としての自分に気づいていないのである。
・だから、「どこに行くの?」と聞かれても、ゴールが明確となっていない。また「何を食べる?」と聞かれてもゴールを選べない。
・さらに、「みかん食べる?」というような具体的な質問に対してもイエス・ノーの答を出せない。健常な子どもが三歳頃のいわゆる「第一反抗期」によく言うような「イヤ」という言葉を、彼らはなかなか口にできないのである。
・行動プログラムというものは、自分の意図と他人の意図が衝突したり、自分の気持ちをまわりの人に意思表示する中で明確になり、強められるものである。だから、行動プログラム発達のためには、人々と共にいること、そして言葉を獲得することが欠かせない。言葉は人々が互いの行動プログラムを照らし合うために発生したが、次第にその働きは過去や未来にも及び、前節で考察したような出来事の分析装置となったと考えられる。
・以上の理由で、自閉症児は、質問者が自分のことを意思決定者として見つめ、行動のおもむく先を尋ねているのだと理解できない。そこで、表層の音のつながりだけを再現して。その場を切り抜けようとしているのだ。
・このような子どもには、まず、複数の物(または事柄)の中から一つを選ぶことから指導していく必要がある。目に見えやすい形で選択肢を用意し、どちらがいいか、または正しいかを聞き、取るか、指さすか、または言葉で答えさせ、その答を確認していく。こうして、自分の意志を人に伝えられるようになっていくことが、オウム返しを解消するための前提となると考えられる。他方、「みかん食べる?」に対して「ミカンタベルヨ」と言わせる、会話のルールに合わせた技術的な方法は、言葉の表面だけを捉えさせるだけで、その答は、本当に彼自身の意思となっているかどうかは疑わしい。このような方法がうまくいくのは、すでにその自閉症児自身が行動の方向を自覚しつつある場合なのではないだろうか。
《感想》
・ここでは、自閉症児が「オウム返し」をするわけについて、「質問者が自分のことを意思決定者として見つめ、行動のおもむく先を尋ねているのだと理解できない。そこで、表層の音のつながりだけを再現して。その場を切り抜けようとしているのだ」と述べているが、それでは自閉症児はなぜ質問者の意図を理解できないのだろうか。
・まず、「何」「どこ」「いつ」「誰」などという《疑問詞》の意味を正しく理解されているか、またそれらを使った《疑問文》で自分が「尋ねられている」という(立場の)関係を理解しているか。これまでに、《質問→答える》という「やりとり」をどの程度「経験」してきたか、という観点が必要だ、と私は思う。「オウム返し」は、「その場を切り抜けようとしている」場合も「ない」とは言えないが、相手の言葉を「確かめる」「模倣する」ためにも使われることの方が多いのではないだろうか。1~2歳の幼児には誰にでも見られる「言語活動」である。大切なことは、自閉症児の言語発達が「まだそのままの段階に留まっている」と認識すること、だと思う。
・著者はまた「行動プログラムの発達のためには、人々と共にいること、そして言葉を獲得することが欠かせない」とも述べているが、人々と共にいて、言葉を獲得するためには何が欠かせないか、ということについては言及していない。私の独断・偏見では、それは言葉以前の、ノン・バーバルなコミュニケーションの「経験」である。子どもはその中でイエス・ノーの「気持ち」、「何?」という問いかけの「気持ち」を体験し、また「相手の模倣」をすることによって言葉を獲得していくと考えられる。「オウム返し」の段階に留まっている自閉症児は、「相手の模倣」という行動は学んでいるが、相手と共にいることの「楽しさ」「喜び」を味わうことが不足しているのだろう。相手が登場するのを見て「誰?」と思い、差し出された物を見て「何?」と思うのが自然な姿なのに、彼はそれ以前に、その場面を「回避」してしまうからである。通常、子どもは2歳頃になると、さかんに何?と問いかける。3歳を過ぎると「どうして?」「なぜ?」と問いかける。   
・自閉症児には、そうした「質疑ー応答」のやりとりが《致命的に》不足していると思われる。著者は「まず、複数の物(または事柄)の中から一つを選ぶことから指導していく必要がある。目に見えやすい形で選択肢を用意し、どちらがいいか、または正しいかを聞き、取るか、指さすか、または言葉で答えさせ、その答を確認していく。こうして、自分の意志を人に伝えられるようになっていくことが、オウム返しを解消するための前提となると考えられる」と述べている。それも一つの有効な方法だと思われるが、さらに指導者と自閉症児の立場・役割を「交換する」ことが重要である。自閉症児を「受け手」の立場に置いたままにするだけでなく、相手に対しても「問いかける」役割を与え、その応答の「正誤」を「判断」(意思決定)できるようにすることも加える必要があるのではないか、と私は思った。(2015.12.24)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・24

《第5章 自閉症の記憶世界》
《要約》
【視線の謎】
・うつろな、あるいは遠くを見ているような自閉症者の視線は、いったい何を写し取っているいるのだろう。そして、何を記憶世界に送り込んでいるのだろうか。
・本章では、自閉症者に観察される記憶の世界を訪ねてみることにする。
【時間的世界と空間的世界】
・外部世界は、物を中心に見つめている限り、静止した空間世界だが、他の人の介入によって生じる出来事に注目すると時間的な変化を伴う世界となる。ところが、自閉症者は他の人々を無視し、その介入を好まない。また、自閉症者にはプログラミングの力があまり育っていない。すると、彼らの捉える世界では、目に映る空間的な構造のほうが強調され、時間的な展開のほうは無視されやすいのではないだろうか。彼らの認知や記憶の方法は、時間よりは空間を重視した構造をもつようになる可能性がある。
◆ハームリーとオコナーの実験(ウィング編「早期小児自閉症」星和書房)
〈横に三つ並んだ窓〉の付いた窓枠が三つ横に並んでいる。実験者は(初めに)左の窓枠の「右の窓」から《3》、(次に)中の窓枠の「左の窓」から《9》、(最後に)右の窓枠の「中の窓」から《7》という数字を提示し、どんな数字が出てきたかを被験者に聞くという実験である。
・健常な児童(10名)のほとんどは「397」と再生したが、自閉症児(10名)は多くの場合「973」というように、左からの空間的順序で数字を再生した。また聾児(10名)の場合も自閉症児と同じような反応の傾向を示した。
・自閉症児も聾児も、発達の初期に音声言語の影響を受けにくい世界で育ったために、外部からの刺激を時間的に捉えることは少なくなり、結果的に空間的な枠組みのほうを重視した捉え方をするようになったとも考えられるのである。
・しかしこのことは、自閉症児の孤独なこころのあり方が外部世界の空間的な構造の重視につながったという可能性を打ち消すものではない。音声言語も、人々が出来事に参加する中でコミュニケーションの必要から生まれたものである。だから両者は連動しているのであり、それらの時間的流れから外れて育った自閉症児は、外部世界を空間的な枠組みにもとづいて捉えるようになったのではないだろうか。聾児の場合も、言語使用の不自由さのために、まわりの人との共同的な世界への参加が遅れることはよくあることなのである。
《感想》
・ここでは、外部世界を空間的な枠組みで捉えようとするか、時間的な展開の中で捉えようとするか、という問題が提起されている。3→9→7という順番で提示された数字を、健常児は。ほとんど「時間的な展開」通りに「397」と再生するが、自閉症児や聾児は「空間的な枠組み」を重視して「973」と再生することが多い、という実験結果はたいへん興味深い。外部世界を空間的な枠組みで捉えようとする傾向は、自閉症児《特有》ではなく、外部世界を聴覚的(時間的)に認知することが困難である聾児にも共通しているということが「実証」されたということである。つまり、自閉症児は「聴覚が正常」(聞こえている)であるにもかかわらず、聾児のような「捉え方」をしているのである。なぜだろうか。著者は「自閉症児も聾児も、発達の初期に音声言語の影響を受けにくい世界で育ったために、外部からの刺激を時間的に捉えることは少なくなり、結果的に空間的な枠組みのほうを重視した捉え方をするようになったとも考えられる」と述べている。その通りだと、私も思う。聾児は「聞こえない」ことが原因で、音声言語の影響を受けにくい世界で育った。自閉症児は、「人の発する音声を回避する」(聴覚過敏があるかもしれない)ことが原因で、あるいは、音声言語の影響が受けにくい「環境」の中で育ったために、外部からの刺激を時間的に捉えることが少なくなったのである。それが《結論》なのだが、著者は、さらに「しかしこのことは、自閉症児の孤独なこころのあり方が外部世界の空間的な構造の重視につながったという可能性を打ち消すものではない」と言って、「自閉症児の孤独なこころのあり方」などという《特有》の問題にこだわっている。以後「音声言語も、人々が出来事に参加する中でコミュニケーションの必要から生まれたものである。だから両者は連動しているのであり、それらの時間的流れから外れて育った自閉症児は、外部世界を空間的な枠組みにもとづいて捉えるようになったのではないだろうか」と述べられているが、《だから両者は連動しているのであり》の両者とは「何」と「何」なのか、私には判然としなかった。
・しかし、ここでは、「自閉症児の問題」が、「自閉症児《だけの》問題ではない」ということが《実証》されている、という点できわめて有益であった。(2015.12.25)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・25

【文字言語の世界】
《要約》
・(音声言語を獲得するためには)音と状況の同時進行的な世界を見守り、関連づけないと理解されない。これは非常にむずかしいことであり、健常な子どもでも、初期の言語発達には時間がかかるのである。自閉症児の注意の状態は、言語獲得には特に不利な面があると思われる。視線が一点にとどまることが少ない。彼らの視線は、他の人を見ないだけでなく、まわりで起きている出来事をもしつっこく追跡しない。このことは、言葉とその意味をつくる世界の同時進行的な動きを捉えるには不利な条件となっているのである。
・ところが、文字言語となると、それは決して消えていかず、目の前にとどまる。時間的な進行に従わなくても、前からでも後ろからでも何度でもう読むことができる。一人きりで接することのできる言葉の世界だ。だから、自閉症児が平仮名や漢字やローマ字に関心を示しやすく、ときには音声言語よりも早く文字言語を習得するのは、彼らの特性からすると当然のことなのである。
・10歳の自閉症児H君は、まだ人と話をすることもできないが、物語を書き始めると非常に集中力を示し、一気に書き上げてしまうとのことである。けれども、「どんなお話だった?」と聞いても、内容をまとめることができない。
・自閉症者の記憶世界は、第一に空間的な構造に依存しているようである。文字言語に興味をもちやすいのは、それが時間的な刺激の特性をもつ音声言語を空間的な構造に置き換えているからである。実際の音声は、左から右に進んだり、上から下に進んだりするものではない。しかしそれが文字になると、空間的な方向が与えられてわかりやすくなるのである。
・第二に、自閉症者の記憶世界では、情報の圧縮ができないようだ。H君は、物語を一字一字たどってしまい、先の方へと飛躍したり、物語の全体を鳥瞰したりすることができない。その理由は「出来事の基本構造」のような、いろいろな経験に当てはまるモデルをもっていないためと考えられる。(物語については、認知心理学者の中に、私たちが無意識に使っている物語理解のための枠組みを探究する研究分野があり、「物語文法」というモデルを提案している)自閉症者は、このようなモデルをもたないために、入ってくる刺激を機械的に記憶することになり、また、この能力については健常者以上になることもあるわけである。
・自閉症者のもつこのような特性は、知的な活動において有利な面もあれば不利な面もあることは充分想像できる。自閉症者の知能構造は非常にアンバランスなものになっているのである。次に、それをWISC知能診断検査の結果からみつめてみることにする。
《感想》
・ここでは、①自閉症児が、音声言語よりも文字言語を獲得しやすい理由、②自閉症児の記憶世界は空間的な構造に依存しているようだ、③自閉症の記憶世界では、情報の圧縮ができないようだ、ということが述べられている。
・しかし、私が知る自閉症児は、生後8カ月頃から「絵本を読んでもらいたがり」、1歳
を過ぎると、その文章を「暗誦」するようになった。また、童謡・唱歌を聞いて、「暗唱」するようになった。リズムやメロディーも、周囲の者が驚くほどに正確であった。2歳までに、「数字」「平仮名」「アルファベット」を「音読」できるようになった。だとすれば、「自閉症児の記憶世界は空間的な構造に依存している」とばかりは言えないのではないだろうか。一方、H君同様に「物語を一字一字たどってしまい、先の方へと飛躍したり、物語の全体を鳥瞰したりすることができない」ことは確かである。両者に共通することは「入ってくる刺激を機械的に記憶する」点であり、刺激が「音声」であっても「文字」であっても変わりがないのではないか、と私は思った。また、「音声」を「文字」化して「分かりやすく」する方法は、テレビ報道の常套手段であり、私たちの記憶世界と大差はない。・要は、なぜ「入ってくる刺激を機械的に記憶するか」という一点に絞られる、と私は思うが、それは必ずしも自閉症の「特性」とは言えない。知的障害児、学習障害児にもそのような傾向は見られるからである。私たち自身ですら、見知らぬ世界に放り出され、見知らぬ言語を浴びせられれば、まず「刺激(情報)を機械的に記憶する」他はないであろう。事実として、私たちの「英語学習」の方法、またその結果が、そのことを実証している。アルファベットや単語(文字言語)を《見て》「読み書き」できるのに、英語(音声言語)を《聞いて》「会話」することにはつながらない。なぜだろうか。
・自閉症の「問題」を「特性」として捉えようとするかぎり、「謎」を解き明かすことはできない。むしろ、私たちとの「共通点」を探ることの方が有効的ではないだろうか、と私は思った。(2015.12.25)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・26

【知能構造のアンバランス】
《要約》
・自閉症児のWISCの結果から第一に言えることは、空間的な認知に係わる課題の成績が良いことである。動作性検査の中の「積木模様」「組み合わせ問題」「迷路問題」は、空間的な認知や構成力を要する課題だが、標準得点以上の結果を出している。このことは、自閉症児が空間的な枠組みに従って情報をインプットしているらしい事実と符合している。
・第二に言えることは、空間的な課題の結果と対照的に、言語性検査の中のいくつかの検査の評価点が極端に低いことである。ただし「一般的知識」「算数問題」「数唱問題」のように、答が一つしかない場合はできて、「一般的理解」「類似問題」「単語問題」のよう
に、妥当なさまざまな答が考えられる場合はできないようである。つまり、行き先がきまっていないと動けない、という自閉症者の行動の特徴がここでも貫かれているのである。
・第三に言えることは、「数唱問題」の成績が非常に良いよいうことである。これは、自閉症児が外部世界の複雑な変化を関連させて捉えることができないために、刺激を機械的にインプットしていく中で具わった能力であると考えられる。
【マジカル・ナンバーは?】
・「数唱問題」とは、検査者が「7・2・6・4・・・」というように数の系列を唱え、被検査者はそのとおりの順番で、またはそれと逆の順番で系列を再生する課題である。このような条件だと、人は一般に七くらいの要素までしか記憶できないことがG・Aミラーによって明らかにされている。これが「短期記憶」と呼ばれる世界の記憶容量の限界である。
・しかし、被検査者のB君(青年の年齢に近い自閉症児)9個まで、D君(同じ)は8駒で再生することができた。なぜこのように長い数系列を暗記できるのだろうか。彼らの記憶の仕方は私たちの場合と違っているのだろうか。
・検査場面で、健常な子どもや青年は、「目を閉じる」「頭を抱え込む」など、周囲の刺激をシャット・アウトし、刺激痕跡に集中しようとするが、自閉症児は「ぼんやりあたりを見ている」だけで、態度に何の変化も示さない。健常な子どもや青年は、つねに注意を周囲の物事や人々の様子に向けている。いつでも、どこでも、新たな情報を受け入れようとしている。それが「言葉の働きを学習する」行動の現れだが、自閉症児は。雑多な刺激にわずらわされない。その分だけ、純度の高い注意を保てると言えるだろう。
【反対から読む時間】
・B君の「数唱問題」の結果には、驚くべき事実が隠されていた。「数唱問題」には復唱七系列と逆唱七系列がある。逆唱では時間もかかるし、成績も落ちてしまうのが普通だが、B君の場合の逆唱はまったく違っていた。逆唱は正確であり、再生していく速度も復唱とほとんど変わらない。
・自閉症児の中に逆唱の得意なものが多い理由としては、彼らの頭の中に黒板のようなものが準備されているという仮説をもたざるを得ない。もしそういうものが存在すれば、彼らは検査者が唱える数を次々にチョークで黒板に記し、直後に後ろから順番によみあげていくだけでよい。つまり、数系列は音声刺激として時間的順序を追って読み上げられるものだが、彼らはそれをイメージのうえで視・空間的な文字系列として処理している可能性がある。自閉症児は刺激をなるべく自分が処理しやすい形に変換しつつ記憶している可能性がある。
《感想》
・ここでは、自閉症児にWISC知能診断検査を実施すると「同じ傾向」の結果を示すといことが述べられている。動作性検査の結果に比べて言語性検査の結果が「劣る」という傾向であり、また「答が一つ」よりも「答が二つ以上」ある場合、「できない」ことが多い、ということである。それは、多くの自閉症児が「見れば分かる」、しかし「聞いても分からない」という状態にあることを示している。しかし、それは自閉症《特有》の問題であるとは言えない。「聴覚障害児」「学習障害児」にも、そのような例がある。また、私たち自身でさえ、言葉の通じない環境(外国)に置かれれば、同様の状態になるだろう。要するに、「環境に対する不適応状態」を示しているに過ぎないのである。
・また、「数唱問題」で、自閉症児が「驚くべき」高得点をあげている例が紹介されているが、それは「可能性」であり、「問題」「症状」として「採り上げる」べきことではない、と私は思う。
・筆者は、前節の末尾で「自閉症者のもつこのような特性は、知的な活動において有利な面もあれば不利な面もあることは充分想像できる。自閉症者の知能構造は非常にアンバランスなものになっているのである。次に、それをWISC知能診断検査の結果からみつめてみることにする」と述べているので、①動作性優位、②「答が二つ以上」の問題は苦手、③記銘力(記憶力)優位、といった結果を自閉症者の《特性》と考えているようだが、むしろ「環境不適応状態」の特性と言うべきではないだろか。




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・27

【質問しない子ども】
《要約》
・健常者と自閉症者には、記憶方法に違いが見られるが、その結果、脳に貯えられる知識の世界はかなり違ったものとなるに違いない。
・健常者は、互いに似たような対象に注目し、似たような方法で記憶していくから、知的な財産も互いに照合しやすいものとなる。自閉症者の場合は、私たちの場合とは異なる対象に注目し、彼特有の方法で記憶するから、その財産は公開しようがないのである。それらが絵画や音楽などの形をとって長年貯えられたとき、その世界は私たちには手の届かないものとなっていることがある。それが、イディオ・サヴァンの世界である。
・知的な世界を照合できるということは便利である。幼い子どもは、経験の乏しい自分の知識内容を大人のそれと比べて質問しては、足りないところを補っていく。幼い子どもは、物を取り合い、自分のなわばりを拡張しようとしているのと同じく、知識についても奪い合い、知のなわばりを拡張しようとする。それだけに、二~三歳も子どもの「コレナーニ?」「ドウシテ?」という質問癖は激しいのである。
・けれども、自閉症者はなかなか質問してくれない。それは、彼らが知識構造を人に合わせて構築してこなかったことを考えると当然の結果なのである。自閉症児の中にはときおり、「先生の名前は?」「どこから来たの?」と聞く者がいる。それは知識の範囲を拡げようとしているのでなく、質問・応答のパターンを楽しんでいるだけなのである。
・質問の乏しさは、自閉症者の根本的な問題に係わる特徴なのである。
・ただし、自閉症者も、漢字の読み書きや行事予定など、答のはっきりした事柄なら質問してくることがある。だから、そこから出発して知識の交換を増やしていけば、私たちと自閉症者の間には共通した知識の構造がつくられていく可能性があるのである。
《感想》
・ここで、「自閉症者はなかなか質問してくれない。それは、彼らが知識構造を人に合わせて構築してこなかったことを考えると当然の結果なのである」と述べているが、なぜ、彼らは知識構造を《人に合わせて》構築してこなかったのだろうか。彼らの「脳の機能」が原因なのか(著者はおそらくそう考えているだろう)、その他に原因があるのだろうか。/・私の独断・偏見によれば、「構築してこなかった」のではなく「構築してこれなかった」のである。通常、私たちは「知識構造を人に合わせて構築」するというより、「人を通して」「人から」学ぶと言った方が正確である。その方法は、「言葉」以前のノン・バーバルなコミュニケーションが土台となっている。初めは「泣き声」によるコミュニケーションである。次は「表情」「動作」に「声」(喃語・ジャーゴン)が添えられたコミュニケーションである。とりわけ、「声」の抑揚(イントネーション)による「やりとり」は重要である。その「声」を聞いただけで、おだやかに叙述しているのか、怒って要求しているのか、あるいは「質問」しているのか、が分かるからである。「声」が「音声言語」(一語文、二語文)に発展した以後も、この「イントネーション」による「やりとり」はますます活発になる。同じ「ママ」でも、「ママ、見て」(呼びかけ)、「それはママです」(叙述)、「ママですか?」(質問)といった内容を「イントネーション」によって使い分けるようになるのである。そのイントネーションは、いうまでもなく周囲の大人が発しているものを「模倣」することによって「学ぶ」(習得する)のである。
 もし、周囲の大人がノン・バーバルなコミュニケーションを「軽視」していたらどうなるか。もし、周囲の大人が「一本調子」の抑揚のない話し方をしていたらどうなるか。もし、周囲の大人が子どもに全く「問いかけなかったら」どうなるか。要するに《質問・応答》という「やりとり」の《手本》を「やって・見せなかったら」どうなるか・・・。
 そのような「言語環境」の中で、子ども自身が周囲から《孤立・断絶》「させられる」状態が続けば、①相手に尋ねるという気持ちが育たない、②質問特有のイントネーション(発声)の仕方を学ぶ(模倣する)ことができないのは、当然の結果なのである。
・自閉症児が「質問をしてくれない」のは、自閉症児自身の中に原因があると《断定》することは早計であり、彼自身が「どのような言語環境のもとで育ったか」「周囲の大人は、発達初期(乳幼児期)の段階から、どのような《かかわり方》《接し方》をしてきたか」ということも、併せて「検証」しなければならない、と私は思う。
・著者が指摘するように、私自身も自閉症児から、「先生の名前は?」「どこから来たの?」と聞かれたことがある。しかし、「それは知識の範囲を拡げようとしているのでなく、質問・応答のパターンを楽しんでいるだけなのである」とは思わない。次回からは、「先生の名前は○○だよね」「先生の家は○○市にあるよ」などと、明らかに「知識の範囲」を拡げていたからである。また、著者は「自閉症者も、漢字の読み書きや行事予定など、答のはっきりした事柄なら質問してくることがある。だから、そこから出発して知識の交換を増やしていけば、私たちと自閉症者の間には共通した知識の構造がつくられていく可能性があるのである」とも述べているが、その事実こそが、《環境が変われば》「彼らが知識構造を人に合わせて構築」しようとすることを《実証》しているのではないだろうか。(2015.12.28)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・28

《第6章 自閉症の時間世界》
《要約》
【時の遠近感覚の謎】
・自閉症者は、私たちと同じような時の遠近感覚をもっているのだろうか。
・自閉症者は、私たちとは異なる記憶世界を生きているようである。ということは、過去・現在・未来を対照しながらつくり上げていく時間認識の世界も私たちとは異なるものとなっている可能性がある。この章では、この問題を追求してみることにする。
【昨日・今日・明日がわからない】
・昨日よりも一ヶ月前は遠く、一ヶ月前よりも一年はさらに遠い。この遠さの感覚を、私たちは、現在からその時点までの間の出来事の量、出会った人の数に応じて、記憶内容が次第に不鮮明になっていくと感じる。出来事の量を測ったり、会った人の数を数えたりしないから、それはあいまいな量の感覚である。
・ところが、自閉症者には、時間のこのようなアナログ的な捉え方がむずかしいようである。エリーの母親は娘のそのような特徴について「今日、買い物にいかないと知って、落胆しているエリーを慰めるには、『明日』と約束するよりも『金曜日』といった方がよい。『今すぐ』よりも『三時に』の方がききめがあるのだ。そして、金曜日なり三時になるとちゃんと催促にくるのである。」(「自閉症児エリーの記録」)エリーが理解できないでいるのは、「昨日・今日・明日」の世界ばかりでなく「すぐに」や「さっき」の世界でもある。それらは、現在に視点をおいて、時間の流れの前方や後方をアナログ的な量にもとづいて眺めてみたときの表現である。現在時刻はたえず変動していくから、昨日・明日・さっき・すぐに、は特定できない相対的な位置にあることになる。エリーはこのことが理解できないので、何月何日何時何分という特定できる絶対的な時間表現の世界で生きているのである。
・テッドもまた「もうすぐ」や「ちょっとしたら」が理解できなかった。父親は悩んでいたが、「もうすぐ」ではなく「10分したらすむからね」と言い換えると、テッドは理解できた。(「見えない病」)
・このような特徴は、自閉症者が根底にもつ特徴につながるものである。
【三人称的な時間】
・コロンブスのアメリカ大陸の発見については、それが起きた年を1492年と年号で表すことしかできない。それは、私たちとは直接関係のない「三人称的な時間」の中で起きた事件である。
・これに対して、私たちがふだん経験する日常的な時間はまったく異質なものである。それは、まわりの人と一緒に経験する出来事の連続的なつながりの中で測られるものであり、「一・二人称的な時間」と呼ぶことにする。
・前者は「絶対時間」、後者は「相対時間」と呼ぶこともできる。
・自閉症者には「一・二人称的な時間」の感覚が乏しい。それは、彼らがもともと人々と一・二人称的な関係のもとで係わっていないから、また、それにもとづいて過去の出来事について語らうことがないから、であると思われる。彼は、人々の中にあってもひとりぼっちである。そこで、彼がまったく一人だけでも利用できる時間は、誰のものでもない時間、つまり三人称的な時間となる。
・私たちは、動・植物の観察するときなどは(私たちと直接には交渉のない世界で起きている事柄だから)「絶対時間」を使う。それと同じように、自閉症児は、成長のある時期に、他の健常な人々の世界に気づき、それを覗くようになったのだろう。その人々が暮らす世界の一角に時計やカレンダーがあることを発見したのだろう。そして、自分の世界に介入してくることのあるその世界の人々の動きを観察するために、こころの時刻をそこにある時計とカレンダーに合わせることをしたのではないだろうか。
《感想》
・ここでは、私たちが「昨日・今日・明日」「もうすぐ」「ちょっとしたら」という言葉で時間を表現したり理解しているのに,自閉症児・者はその意味(時間感覚)を理解できない(感じ取れない)。「それは、彼らがもともと人々と一・二人称的な関係のもとで係わっていないから、また、それにもとづいて過去の出来事について語らうことがないから、であると思われる。彼は、人々の中にあってもひとりぼっちである。そこで、彼がまったく一人だけでも利用できる時間は、誰のものでもない時間、つまり三人称的な時間となる。」と述べられている。
・私自身も、その内容に同意する。しかし、著者の言うように、「このような特徴は、自閉症者が根底にもつ特徴につながるものである」かどうかは《疑問》である。
・自閉症児・者が「もともと人々と一・二人称的な関係のもとで係わっていない」と言うとき、《自閉症児・者と人々との「関係」》自体が問題なのである。いうまでもなく、関係とは一人ではつくれない。自分と他人が(接近して)「私」と「あなた」と呼び合う(「ボク」と「キミ」でもよい)「関係」を成立させるためには、自分だけでなく相手の「あり方」も問われなければならない。私たちは通常、見知らぬ他人のことを「彼」「彼女」(三人称)という。それは「第三者」という関係であり、「他人の関係」である。ところが、自閉症児の両親は、時たま「わが子」のことを「彼」「彼女」と言う場合がある。私はそのたびに「違和感」を感じてきたのだが、もしかしたら、自閉症児の両親は「わが子」のことを「第三者」として見ているのではなかろうか。だとすれば、自閉症児自身もまた、両親のことを、「彼」「彼女」という「第三者」として見てもおかしくない。つまり、その家族においては、お互いを「第三者」として見る、そして係わる傾向があるのではないか。これは、私の独断・偏見による邪推に過ぎないが、自閉症児・者が「もともと人々と一・二人称的な関係のもとで係わっていない」要因は、自閉症児・者の側だけにあるのではなく、彼をとりまく周囲の人々の側にもあることが推測される。もし、両親が初めから彼を「第三者」として接し、係わっていたとしたら、彼が一・二人称的な関係を築けなくなることは当然の結果であろう。子どもの誕生以来、両親はじめ周囲の人々が「これまで、どのような接し方、係わり方をしてきたか」ということも、検証されなければならない、と私は強く思う。(2015.12.29)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・29

【M君のスケジュール帳】
《要約》
・自閉症児が外部世界の動きを壁にかけられた時計やカレンダーと関連させるようになると、こころの中でのそれらの意味は健常者の場合よりもずっと重要なものになるようである。彼らは、それによって現在の時刻を知るばかりでなく、過去から未来へのかなり広い範囲のスケジュールを管理するようになる。
・M君という22歳の自閉症の青年は、大学で行われる平成4年度の卒業式の日取りについて尋ねられると、以下のように説明した。「平成2年度の卒業式と平成3年度の卒業式は3月20日だった。ところが、平成4年度は3月20日、土曜日が春分の日になってしまったのだ。そこで、今年の卒業式はいつかというと、次の3月21日、日曜日を除いて3月22日、月曜日が怪しい」。卒業式はM君の予想どおり、3月22日に行われた。
・M君は、スケジュール帳はいっさい持っていない。すべてのスケジュールは彼の頭の中に、つまり、彼の記憶世界の中に収められているようなのである。
【カレンダー記憶の天才たち】
・M君と似た能力をもつ自閉症者の数は、非常に多い。その能力は、広範囲で日付けを言われても、その曜日を正確に当てられるという形で現れるものである。
・私は、知り合いの自閉症児の親10名に、この事実を確かめたところ、7名がカレンダーを記憶しているらしいことがわかった。そこで、その一人一人に会い、カレンダー記憶の検査をしてみた。検査は1988年の12月に「(今年の)○月○日は何曜日ですか」と質問して行った。(1月から12月まで10問)
・結果:12月の二日の日付けは全員が正解している。7名中4名(過半数)が10問すべてに正解している。すべての者が、こちらが日付けを言うと、即座に答を出してきた。
【カレンダー記憶のメカニズム】
・私が検査した7名のうち2名は、その年一年間のカレンダーをだいたい憶えている程度だった。しかし、他の5名は、前後数年間もしくは数十年間にわたって、日付けから曜日を割り出すことができた。
・1月1日月曜日から始まった年のカレンダーは、毎年、ズレを繰り返していくうちにいつか再び、最初と同じ月曜日から始まるカレンダーに戻るはずである。だから、カレンダーのパターンは無限ではない。カレンダー記憶の天才たちは、このことを利用していると思われる。
・そこで二人の自閉症の青年、22歳のM君と18歳のN君に登場してもらい、この点を検討してみた。二人に対して実施したのは、日付けを告げてから答えるまでの時間をテープレコーダーを用いて測定する方法である。日付けの書かれたカードを「ハイ」といって机の上に置き、その時点からの時間を測定することにした。検査は①1987年10月の一ヶ月の範囲、②1992年の一年間の範囲、③1981年から1990年までの10年間の範囲という三条件で行った。
・結果:①M君・3.31秒、N君・3.58秒 ②M君・3.44秒、N君・5.75秒 ③M君・4.15秒、N君・10.81秒
・N君の場合、各条件で検索時間の違いが如実に現れているが、M君の場合は各条件の差はわずかである。二人の違いはどこからきているのだろうか。
【カレンダ記憶のさまざまな方法】
・M君のカレンダー記憶の能力は特にすぐれている。しかし、その「秘技」の方法については教えてくれない。ただ一言「見える」と答えてくれたことがある。何が見えるのか。それは14パターンの年間カレンダー(スーパー・カレンダー)ではないだろうか。
・N君は、「視覚的」な方法だけでなく、「論理的」な方法も取っているようである。彼の場合は、1970年の1月から12月までのカレンダーをすべて憶えてしまったことからカレンダー記憶の才能が芽生えたようである。彼は「1931年の7月11日の曜日は?」という問に、まず70年では土曜日であることを確かめたうえで、一年ごとのズレを確かめていき(52年は金、51年は水、50年は火、49年は日→・・・というようにメモして)、やっと31年は土曜日という解答に行き着いた。
・1901年から200年間は、28年を周期としてまったく同じ順序で曜日の年ごとのズレが繰り返される。そのことを知っていれば、N君は、あれほど長いメモを書き付けなくてもすんでいたはずなのである。N君はいつでも1970年から出発するから、質問の範囲が広がると、検索に時間がかかる。N君の方法は私たちにもわかりやすい推理の方法を取っている。だから、私たちにもやり方を説明できたのだともいえる。
【循環する時】
・私たちは、時間を一次元的な軸の上を進むものとして解釈している。過去の出来事は時がたてばたつほど遠いセピア色の世界となっていく。
・自閉症者は、カレンダーという二次元的空間の上を移動しながら指定された日付の曜日を探し当てた。つまり、彼らは地図を見ていたのであり、二次元的なパターンを操作していたのだということができる。
・自閉症者の多くがカレンダーに詳しいのは、彼らが不幸にも広がりをもった時の中をいきることができず、循環する時の平面を生きてきたかもしれない。
・一方、時計もカレンダーも読めないのに、時間の進行に非常に敏感な自閉症者がたくさんいる。彼らにとっては、一日の事の流れが時計なのであり、一週間の出来事のつながりがカレンダーとなっているようである。I君は、週に一度、木曜日に大学に来ていたが、その日の朝になると「大学」と言い、中止になったり曜日変更されたりするとパニックを起こしたり、泣いたりした。I君にとって木曜日という位置は絶対的であり、それに異動が生じることは、時計の文字盤が壊れてしまうほど悲しいことだったのではないだろうか。
【健常児の中のカレンダーボーイ】
・イディオ・サヴァンの研究家トレファートによると、自閉症者が示すいくつかの特異な能力は、彼らの脳に障害があることの証明であるとのことである。彼らのもつ障害が一般人とは異なる脳の回路を生み出し、それが特異な才能と結びついたという解釈である。
・しかし、「カレンダーボーイ」といわれる少年たちは障害児以外の中にも見られる。
・幼稚園児のS君は、4歳の時点で、1991年の範囲だと、日付けを告げられるとすぐにその曜日を答えることができた。S君の始語は2歳半で「1」「5」「8」「赤」「青」の言葉だったが、その後の言語発達は順調であり、幼稚園での集団生活に溶け込んでいる。
・中学生のT君も言語発達はやや遅れ、会話が可能になったのは3歳を過ぎてからである。カレンダー記憶の能力に気づいたのは4歳の時、適当な日付けを言ってその曜日を聞くと、すぐに答えられた。この能力は今では少し衰えたが、それでも数年間の範囲ならカレンダー記憶がある。得意な科目は数学で、文章の読解は少し苦手らしい。
・この二人のカレンダーボーイの存在は、自閉症の人が見せる特異な能力が一般の人のもつ能力とまったく異質なものではなく、健常者も特定の条件で同じ能力を身につけることを物語っている。さらに、この事実は、自閉症の人は私たちとまったくかけ離れたところにいるのではなく、同じ人間として地続きのところに位置していることを物語っているのである。
《感想》
・ここでは、自閉症児・者の「カレンダー記憶」という特異な能力について述べられている。私自身も養護学校(現在の特別支援学校)に在職中に同様の経験をしたことがある。高等部の生徒K君は、「日付けを言うと曜日が答えられる」ということで有名だった。あるとき、私は出勤途中でK君と出会い、そのまま一緒に学校に歩いていた。そこに知り合いの(小学校に勤務する)M先生もやってきた。三人で歩きながら、私はM先生に言った。「このK君は、日付けを言うと曜日を当てることができますよ」。M先生は「じゃあ。K君。○○年○○月○○日は何曜日?」と尋ねると、K君は即座に「土曜日です」と答えた。その途端、M先生は「まあ・・・」といって絶句、涙を浮かべた。その日は数年前に他界された御主人の命日だったのである。私もまたK君に「どうして曜日がわかるの?」と尋ねると、「それは○○日が日曜日だからです」と答えた。なるほど、彼は頭の中に記憶されたカレンダーをめくっていたに相違ない。
・ところで、自閉症児・者が「カレンダー記憶」という特異な能力をもつことは《障害》であろうか。また、それは彼らが自閉症であることの証しであろうか。筆者は、健常児の中にも「カレンダーボーイ」が存在していることを示し、「自閉症の人が見せる特異な能力が一般の人のもつ能力とまったく異質なものではなく、健常者も特定の条件で同じ能力を身につけることを物語っている。さらに、この事実は、自閉症の人は私たちとまったくかけ離れたところにいるのではなく、同じ人間として地続きのところに位置していることを物語っているのである」と述べているが、私も全く同感である。
・さらに言えば、「特異な能力」と同様に「様々な症状」もまた「一般の人のもつ症状」とまったく異質なものではなく、健常者も《特定の条件》で同じ症状を背負わされることを物語っている、と私は思う。
・しかし、現状は、イディオ・サヴァンの研究家トレファートがいう「自閉症者が示すいくつかの特異な能力は、彼らの脳に障害があることの証明である。彼らのもつ障害が一般人とは異なる脳の回路を生み出し、それが特異なの能力と結びついたという解釈」の《能力》を《症状》に置き換えた学説、つまり「自閉症者が示すいくつかの特異な症状は、彼らの脳に障害があることの証明である。彼らのもつ障害が一般人とは異なる脳の回路を生み出し、それが特異な症状と結びついたという解釈」が支配的である。なぜだろうか。(2016.1.11)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・30

《第7章 自閉症の感情世界》
【表情の謎】
《要約》
・彼らの顔からは表情が消失していることが多い。また、彼らは他の人々の表情も捉えていないようである。
・捉えどころのない自閉症者の表情の裏にはどのような感情が動いているのか、本章では、この問題を考えていきたいと思う。
【闘争か逃走か】
・闘争か逃走か。この言葉は、野生動物が敵に遭遇したときの二者択一的な行動を意味する。そのとき、守るべきものが命をかけても惜しくないほどのものだったり、または敵が同格かそれ以下であると判断されれば、動物の行動は闘争へと向かう。そうでないときは逃走の道が選ばれることになるだろう。
・動物たちを闘争へと駆り立てる感情は怒りであり、逃走へと駆り立てる感情は恐怖である。動物の生存に係わるこのような極限状況で現れる二つの感情は、私たちがもつ感情のルーツと言えるのではないだろうか。私たちの深部の脳には、進化の早い時期に怒りと恐れという感情がまず宿ったと考えられる。
【抵抗を示さない子どもたち】
・ただし、私たちの文明化された環境のもとでは、かつて争いを繰り返していた原始の感情は、何重にもカモフラージュされていて表れにくい。しかし、内に眠る闘争本能は消えたわけでなく、ゲームなどの形で行き残り、いざというときの出番を待っている。人の子どもは幼いときから、勝ち負けのあるゲームの興ずるようになる。
・しかし、自閉症の子どもには決まってこの闘争心が観察されない。
・この闘争心の乏しさは、彼が遠い祖先から受け継いだ脳の働きにダメージを受けている証拠なのではないだろうか。あるいは、闘争と逃走のうちで闘争のほうの働きが極度に欠けた結果なのである。
【子ども同士の世界】
・自閉症児は、同年輩の子どもの集団に入ることを極度に嫌うようである。
・その原因となっているのは、幼い子ども同士の世界には、まだまだ「闘争」と「逃走」の名残が含まれているからである。彼らは、好きなオモチャを奪い合ったり、集団の中で優位な立場を取ろうと絶えず牽制し合っている。
・大人の世界はいちおう紳士的な世界であり、人と人とが闘わす感情の火花は表にあまり現れてこない。子どもには危害を加えないというルールが確立している。自閉症児がそこを彼らの避難所として選ぶことは、当然の結果と言えるだろう。
【なわばり的な行動】
・(野生動物の)怒りや恐れという感情は、なわばり的な行動に関係しているらしい。自分の生活圏を他の個体によって侵害されそうになったとき、激しい怒りが生じて闘争行動に結びつく。逆に、他の個体のなわばりの近所をうろつくときは恐れの感情を伴うことになる。
・人間社会には、わかりやすいなわばりはない。しかし、そこには目には見えにくいなわばりが到る所に張りめぐらされている。家族や集団における役割や勢力についてのなわばり。そこでの怒りの発現や争いがはなはだしいからこそ、法律をはじめとするおびただしいルールが定めらることになったと考えられる。
・人間という種は、なわばりを拡張しようとする志向の強い動物である。それは旺盛な知識欲となって現代の文明を築いてきたと考えられる。ある個体や家族が占有するなわばりだけでなく多数が共有したり共用する空間が増大し、それに伴うルールも数多くつくられことになったと考えられる。
・一方、自閉症者も自分のなわばりをもっている。しかし、それを拡張しようとする強い志向をもっていない。そしてこの原因は、発達初期における脳の深部の働きの障害であると考えられる。
・怒りや恐れの感情は、自閉症者にも現れる。しかし、そのときは、こころの他の働きによってコントロールされない極端な形で現れてしまう。自閉症者が示す「問題行動」と言われるものの多くは、実はなわばり的な行動なのである。
・道順にこだわったり、室内の模様替えに抵抗したり、常同的な行動に埋没したりするのは、彼らがささやかななわばりを守ろうとする行動であると考えられる。だから、そこに無神経に立ち入られると、激しい怒りを感じるのだろう。
・恐怖の感情には逃走が伴う。他の人たちから離れてすべり台の上、タンスの上、築山の上に陣取る自閉症児の姿は、逃走の結果、侵害者たちの様子を最もチェックしやすいわずかなスペースにたどりついた姿なのではないだろうか。
《感想》
・筆者の「動物たちを闘争へと駆り立てる感情は怒りであり、逃走へと駆り立てる感情は恐怖である。動物の生存に係わるこのような極限状況で現れる二つの感情は、私たちがもつ感情のルーツと言えるのではないだろうか」という説明は、雑駁すぎる。私たちがもつ感情のルーツは「恐怖」と「緊張」である。「恐怖」「緊張」に対置する感情は「安心」と「リラックス」である。新生児、乳児には「敵との闘争力」はなく、もっぱら親の保護能力に頼る他はない。したがって、闘争心、怒りの感情は極めて乏しい。親はまず、新生児、乳児からの要求(その大半は不快感である)に「無条件に」応じる。そのことによって、新生児、乳児の「恐怖」「緊張」(不快感)は緩和され、「安心感」「好奇心」に変わる。その「好奇心」が「探索」行動を生み、やがて「闘争心」(怒り)へと発展していくのである。そういった「発達」の筋道を辿ることなく、いきなり野生動物の「闘争か逃走か」といった二者択一的な行動を例にして、闘争は怒り、逃走は恐怖という感情を伴い、それが人間の感情のルーツでもあるというような説明は、いかにも「御粗末」である、と私は思った。
・同様に、「私たちの深部の脳には、進化の早い時期に怒りと恐れという感情がまず宿ったと考えられる」とか「自閉症の子どもには決まってこの闘争心が観察されない。この闘争心の乏しさは、彼が遠い祖先から受け継いだ脳の働きにダメージを受けている証拠なのではないだろうか」といった推測には、その根拠が示されていない限り、何の説得力もないのである。
・私の独断と偏見によれば、自閉症児・者の感情の大半は、新生児期、乳児期の「恐怖」と「緊張」(不快感)が、そのまま(「安心感」「好奇心」に変わることなく)「持続」しているということである。その感情は、私たちが生涯に亘って感じる「恐怖」「緊張」(不快感)と何ら変わることなく「共通」している。私たちは、その感情を適切にコントロールしながら生きていくが、時と場合によっては「不安定」になり「混乱」することもある。自閉症児・者もまた、その「一例」に過ぎないと考えた方がよい。
・動物行動学者、ニコ・ティンバーゲン博士は、自閉症児の行動を(つぶさに、日常生活場面で観察した結果)、相手もしくは場所・事物に対する「接近」(著者の言う闘争)、「回避」(著者の言う逃走)、「葛藤」(接近と回避、闘争と逃走の中間)に分析し、自閉的行動(自閉症状)とは、「回避」と「葛藤」の現れ(に過ぎない)と定義している。誰もが「発達初期」に恐怖、不安、緊張を感じた時に示す行動であり、それが「安心感」や「好奇心」にもとづく行動に発展していかないのは何故なのか。「脳の深部」「脳の働き」にその原因を求めるまえに検証すべきことは、まだたくさんあるのではないか、と私は思った。(2016.1.15)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・31

【顔のない人々】
《要約》
・ヒトという種は、他の動物にはないいくつかの表情を生み出した。その代表格が、笑顔によって表される感情である。「裸のサル」(角川文庫)の著者として有名なデズモンド・モリスは、笑顔の起源は泣き顔であり、微笑は、怒りや恐れの感情が発展して現れた可能性が大きいと述べている。つまり、相手に恐れも怒りも呼び起こす必要がないことを請け合い、安心させる目的で発生したものである。それは、人において表情筋が発生した原因であり、結果である。
・自閉症児の場合も、怒りや恐れの感情が発生する。しかし、その後の感情分化が乏しく、それゆえ表情にも、またそれを生み出す顔という場所にも注意を向けない傾向があるようだ。
・事例:自閉症の男児K君が10歳の頃よく描いていた風景画の特徴は、独特な三次元的な描画法にある。車のボディ、電柱、変圧器、看板などが折り紙細工のような立体構造で描かれている。しかし、路上の人物の頭部は、車や自転車のタイヤと同じように、ただ丸いだけであった。(「顔」(目・鼻・口)がない)
・自閉症者が人の顔に注目しない理由として、特別なタイプの脳の障害の結果起きる相貌失認であるかもしれないと考えられたことがある。この障害になると、人の顔の見分けがつかなくなる。しかし、ほとんどの自閉症者は人の顔を見分けている。けれども、そこに表情という付加価値を認めていない。この付加価値のついていない場所(顔)は、彼らにとって重要な意味をもたない。
【感情の同調】
・私たちは、人に満面の笑みで迎えられると、つい同じような笑みを返してしまうものだ。このような表情の交流は、感情の同調によるものである。私たちがいつこのこころの働きを手に入れたかは定かではない。しかし、それが人生の最初のほうにおいてだったことは確かだと思う。
・ところが、自閉症者とはこのような感情の交流をおこないにくい。
・感情の交流・同調は、言葉や動作による場合と比べて、非常に難しい。相手の感情を最も明瞭に捉えることができるのは顔の表情だが、それは視覚によって認知される。一方、自分自身の表情について認知しようとすると、目には見えない顔面の筋肉感覚によるしかない。目に見える相手の変化に対応するものはすべて内部的なものであり、両者は近いようでいて本当は遠い世界である。しかし、乳児は早くも零歳の前半に、おそらく本能的なメカニズムによってこの能力を身につけてしまうのである。
・このように考えると、自閉症者にとって、感情の世界が言語や行動の世界以上に了解困難なわけがわかるような気がする。彼らは、異なる感覚様式で捉えられたものの間を結ぶ共通感覚を育てることができなかった人たちと言える。
・よく泣き、よく笑う幼い人たちの集団は、そうしながら共通感覚の基礎を固めているが、自閉症児は、そのような感情の渦から一歩も二歩も退き、外部世界をあまりにもクールな目で見つめながら成長していくことになってしまうのである。
《感想》
・ここでは、人間の感情が怒りと恐れをルーツにしていることを前提として、それが「笑顔」によって表される感情に発展することが述べられている。その感情とは「相手に恐れも怒りも呼び起こす必要がないことを請け合い、安心させる目的」をもつものであり、つまるところ《安心感》という感情に他ならない。
・筆者は「自閉症児の場合も、怒りや恐れの感情が発生する。しかし、その後の感情分化が乏しく、それゆえ表情にも、またそれを生み出す顔という場所にも注意を向けない傾向があるようだ」と述べているが、それを私なりに言い換えれば、「自閉症児の場合、発達初期において恐れの感情が大きく、それが軽減され安心感へと変わることが乏しかった。そのため、つねに緊張(ストレス)状態にあり、周囲の人の顔や表情に注意を向ける(こころの)余裕がなかった」ということになる。
・では、なぜそのような結果になってしまったのか。筆者のとりあげた「特別なタイプの脳の障害の結果起きる相貌失認」とか「本能的なメカニズム(の欠如)」とは全くかかわりなく、以下のような事情によるものだと、私は推測する。筆者が動物行動学者、デズモンド・モリスの著書から引用しているので、私も、彼の著書「ふれあい 愛のコミュニケーション」の読後感想から引用する。
◆イギリスの動物行動学者デズモンド・モリスは、「ふれあい 愛のコミュニケーション」(石川弘義訳・平凡社・1974年)という本の中(第九章)で、20世紀のはじめ頃、かなり広く普及していたワトソン式育児法を引用しながら、貴重な「育児論」を展開している。まず、アメリカの高名な心理学者であるワトソンが提唱した育児法とはどのようなものか。モリスの引用によれば以下のとおりである。
〈無知な母親がいる。彼女たちはいつも子どもにキスを浴びせ、抱きかかえ、揺すり、体をなで、くすぐっているけれども、そういう猫可愛がりは、子どもの健全なエゴの形成を歪めるものなのだ。社会に出て、他人と互角に競争できないような人間を作っているのである。しかもこのことを彼女たちは知らない・・・。賢明な幼児教育はかくあるべきだ。子どもを、大人と同等に扱うこと。・・・絶対に、子どもを抱きかかえたり、キスしたりしないこと。ひざののせてあやさないこと。どうしてもキスしたいなら、「おやすみなさい」のとき額に1回だけにすること。・・・すべての猫可愛がりはやめて、懇切な言葉で説明してあげる、あたたかい微笑で愛情を伝えてあげるなどのように、母親が自己訓練しなければならないのだ。子守が雇えなければ、裏庭に外部からの危険な侵入が防げるだけの柵を設け、その中に一日中放っておくくらいがかえって子どものためになる。できるだけ早く、このような育て方をはじめなさい。・・・そんな放任育児はとても心配で、と思う母親は、のぞき穴かかくし戸を使って、子どもの目に自分の姿が見えないような工夫をすること。そうして最後に、赤ちゃん言葉やあやし言葉は絶対につかわないこと〉。
 この育児法について、著者のデズモンド・モリスは以下のように批判している。
①ワトソンは、(大人たちと同様に)母子がのぞき穴を通して接触するの理想としているらしいが、それこそ現代人が社会生活に自己を適応させる条件としてとっている「他人」への態度そのものではないか。
②ワトソン式のアプローチは、「人間にはもともと本能などないのだ。幼児期に獲得したものがすべて年齢を経て、表面に出てくるのである。人間の本性の中に眠っているかくれた能力などというものはあり得ないのだ」という行動主義の思想がその根本にある。鍛錬された大人になるためには、まず幼児の時から訓練することが、最も重要になる。訓練の開始が遅くなればなるだけ「悪い習慣」が形成されてしまう。これは、まったくの誤謬といわねばならぬ。
③人間の本性に反したこのやり方は、幼児に深いきずを与えてしまう。幼児が本能的に求める両親(特に母親)とのボディタッチによる親密性がたえず阻止あるいは禁止される結果、泣き声に表現される子どもの悲哀と絶望は、深いきずを作ってしまう。
④このようにして育った人間には、大きな欠点がついてまわる。他人への不信感がぬきがたく彼の性格に一部にあるということだ。つまり愛し、愛されるということへの強い衝動が、このように原初的な段階で阻止されていらい、愛するというメカニズムがいつまでも破壊されっぱなしの状態なのである。
⑤だが、このような人間も、世間の慣習通り、一人の男(女)として、配偶者を得、子どもを得ることだろう。そうしてこのサイクルがつづくと、血の通った両親の情愛というものが。地上から消えてしまうことになる。
 この育児法に対して著者・デズモンド・モリスは、以下のような「育児論」を展開している。〈最初から、赤ん坊をヤング・アダルトとしてではなく、「赤ん坊」として扱うだけでいいのだ。生まれたばかりの赤ん坊に、母親がありったけの愛情を与えることが何と言っても必要なのである。出し惜しみはいけない。「ほどほどの」愛情ではだめ、できるかぎり努力して愛情をあたえなくてはならない。事実、自分自身の幼児期に歪んだ育児体験を受けていない通常の母親ならば、人間の自然の情として、最高最大の愛情をわが子にふりそそぎたいという衝動にかられるはずなのだ。(中略)このようにして母親の愛情を充分に亨けて育った子どもはいわゆるだめな子になるどころか、年齢が多くなるにつれ、独立心にとむ個性となる。他人への情愛が、周囲の現実への生き生きした関心と探究心が、何にも阻害されないで同時に身につくので、間違っても「だめな子」になる心配などない。実際、幼い時に、自己についての安心感と保護感覚を充分に保障された子どもは、ある年頃になると、その生存への自信を基盤に、思いきり人生の開拓へと羽ばたきはじめるものなのだ。(中略〉満二年間十分な愛情ではぐくまれた子どもは、三年目になると、確かな足どりで外部の世界を歩みはじめる。(中略)以上のことはいいかえると次のようになる。愛情で全面的に結びついた関係が一度親子の間に確立されると、その子どもは、次の成長の段階にうまくすすむことができる。現実の世界のなかに全身でぶつかるこの段階へきたとき、はじめて、子どもは両親からしつけられ、教育される必要が出てくるのだ。赤ん坊のときにやってはならなかったことを、今度こそ、子どもは必要とするのである。子どもに対する過保護・溺愛を禁じるワトソン式育児法は、満二歳以上の幼児に限っては、あるていど正しいといえる。しかし皮肉なことに、赤ん坊のときにやかましいワトソン式しつけを強制された子どもが、せっかく正しいしつけを開始すべき満二歳以後になってから妙に反抗的になり、そのためにかえって親が過保護にこの子を扱うはめになりがちなのだ。一方、赤ん坊時代に、親に充分に愛情をかけられた子どもなら、へんに反抗したりしないに違いないのである〉。
 以上が、デズモンド・モリスの「育児論」の前半である。ワトソン式育児法は20世紀はじめに提唱されたそうだが、その一節を読んで共鳴する両親は、現代でも少なくないだろう。時代は21世紀に入り、「弱肉強食」「優勝劣敗」の傾向は、ますます顕著になっているように思われる。そんな折り、「社会に出て、他人と互角に競争できないような人間を作っているのである」といった警告には説得力がある。しかし、その根底には、自然の摂理に反した「合理主義」「功利主義」が潜んでいることを見逃してはいけない、と私は思う。はたして、デズモンド・モリスの、貴重な(動物行動学的)「育児論」が、どこまで行き渡っているか、それが問題である。〈2014年7月〉(2016.1,16)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・32

【関係についての感情】
《要約》
・ここまで述べてきたのは、一・二人称的な世界で起きる感情である。怒りも、恐れも、慈しみの感情も、「わたし」と「あなた」の間で起きるものである。しかし、感情が分化してくると、当事者の間で起きるもの以外にも多くの感情が発生してくる。
・嫉妬の感情は、幼児が自分の弟や妹の誕生後にたびたび示すものである。この感情は自閉症児には現れにくい。
・嫉妬とは、他者と他者の間の関係に対する感情である。その関係をつくる一項に自分が収まりたいのだが、それができないから、ある種の怒りを感じるわけである。
・私と目の前の人が友好的な関係だったり、楽しそうに遊んでいれば「羨ましさ」の感情が発生しやすくなる。
・このような状況では、自己の内部には不完全燃焼の感情が発生するから、その感情はかえって意識化されやすいものとなる。
・このような関係では「こころ」というものが意識の対象となりやすい状況にある。
・嫉妬や羨ましさの感情が現れにくい自閉症児たちは、「こころ」の存在を意識しにくく、「こころの理論」を構築しにくい。
・自分から距離のある人の中に「こころ」を想定して起きる感情の最たるものは「恥ずかしさ」の感情である。私を見つめる人は私に直接には何もしてこない。しかし、そこにある「こころの在りよう」を感じているからこそ、私は恥ずかしいのだ。
・自閉症者は、恥ずかしさを示すことが少ない。
・嫉妬にせよ、羨望にせよ、羞恥にせよ、私たちがそれを強く感じるのは、私たちの生きるこの世界が闘いの場だからである。人に特有ななわばりの拡張への意欲があればこそ、これら複雑な感情がつくられたわけである。
・これに対して、自閉症者とは、このような生々しい闘いの外にいる人たちである。だから、彼らの顔には、汚れのなさが現れているけれども、同時に、闘いからはじき出され、アウトサイダーとなった人の淋しさも現れているのである。
【感情のもつ持続性】
・現代社会では、感情はあまり高く評価されていないこころの働きである。感情的であることは愚かなことと同義語となってしまうこともある。怒りの感情は、怒りをもたらした情報が誤りだったと認知されてもすぐには引いていかないものである。
・これと違って、知能はまったく異なるこころの働きをする。ピアジェは、知能の特性をその可逆性に求めている。知能があまり発達していない段階では、丸い粘土をせんべいのように平たくすると、その量は増大したと考えられるが、発達した段階では「元に戻せば同じ」と可逆的に判断できるようになる。
・知能は非常に切り替えのよい働きをする。現代社会では、非可逆的で融通のきかない感情よりも知能のほうが歓迎されやすいのは当然といえる。しかし、感情は知能を支える土台のような役割を果たしているはずなのである。
・知能とは、問題が解決され、役割を終えるとすぐ立ち去ってしまうこころの働きである。ところが困難な課題は次々と待ち伏せしているから、目的を達成するためには次々に知能を駆使する影の力が必要だが、それが意志と呼ばれるものである。意志とは、目標とするものを手に入れようとする強い欲求と知的な経験が結びついたこころの働きである。このように、感情は世界との永続的な関係を作る原動力となっている可能性が強い。感情自体がしつこく、すぐには消え去らない性質をもっているからである。
【感情と創造性】
・感情を生み出す深部の脳と行動プログラムを生み出す前頭葉の間には、密度の濃い神経繊維の連絡が認められる。人の脳のこのような構造は、感情が行動のプログラミングというきわめて高度な知的働きにも関係していることを示唆している。
・ヒトという種は、なわばりを際限なく拡張していく動物であり、それに応じたおびただしい数の行動プログラムを必要とするようになったに違いない。
・自閉症者は、なわばりを拡張しようとしない。欲する対象の世界を限定している。
・文明化された社会では、自分でプログラムをつくる必要がないと感じさせるほど、多くのプログラムが用意され、分厚いマニュアルとなって街中にあふれている。そのマニュアルをクールに高速に読みこなす者ほどカッコよく見える。
・しかし、創造的な活動が要求される芸術や科学の世界では、マニュアルは用意されていない。自分自身でプログラムをつくっていく作業は、感情が渦巻くホットな世界であり、失敗だらけのカッコ悪い世界なのかもしれない。
・かつて人類の一人一人は、道案内のない荒野で、いつでもこれと同じような悪戦苦闘を繰り返してきたのではないだろうか。その闘いの中で、いま私たちの脳の中に見られるプログラムの領域がつくられてきたものと考えられる。
【感情のファジィ曲線】
・感情には、「持続的である」という特性の他に、もう一つ、「少しずつ変化する」という特性が具わっている。
・感情にはいろんな名前がついている。怒り、喜び、悲しみ、憎しみ・・・。しかし、それにどんなにたくさんの形容詞をつけてみても、現実の感情のもつ微妙な変化の色合いを表すことはできない。感情は連続的に変化するものであるのに対して、言葉はそれを大きく括って記号的に表現するものであるに過ぎないからだ。感情はもともとアナログ的な存在だが、言葉に代表される知的表現はデジタル的な表現様式をもつものなのである。
・私たちは、アナログとデジタルの二つの様式を利用しながら、自分の内部、外部の世界をキャッチしているが、自閉症者の場合は、感情がまだアナログ的に徐々に変化するところまで育っておらず、他人の中にもそのような変化を認めることがむずかしいようである。
・自閉症者は他者と視線を合わさない、または瞬間的にしか合わさない。彼らは相手の表情をその変化において見るのでなく、記号として見ている可能性が生じてくる。彼らにとって、怒りの表情は赤信号で、優しい笑みは青信号なのだろうか。
・映画「レインマン」の中には、感情のアナログ的な作用に関係のある一つの重要な場面があった。レイモンドが「青」から「赤」に変わった信号機を認めて、横断歩道の中程で立ち止まってしまう有名な場面である。
・私はファジィ理論を応用したグラフを示し、赤信号といえどもただ「止まれ」と言っているのでなく、10メートルの道路に入ったばかりのときの停止信号の命令の強度は最高レベルに近いけれども、向こう側に近づけば近づくほど命令の強度は0に近づくのだが、レイモンドは、信号機のこのようにアナログ的に変化する意味合いを捉えきれずに「赤信号」→「止まれ」とデジタルに理解してしまったわけである。
・このグラフのファジィ曲線は、命令の強度を表しているが、別の見方をすると、恐怖の感情の変化を表しているとも考えられる。停止信号となってから渡る道路の距離が長ければ長いほど、側面から接近してくる車に衝突する可能性は増大する。それはそのまま、恐怖の増大として感知されるに違いない。感情は、少しずつ変化するものを感じ取るにはもってこいのセンサーの役割を果たすものである。私たちは、横断歩道や一般道路を渡るたびにこのような感情的な経験をしているために、いつしか頭の中に、結果的には「きれいな」恐怖の度合いの変化を表す曲線を描くようになったのではないだろうか。
《感想》
・ここで述べられていることは、要するに、①怒りと恐れという原初的な感情は、「嫉妬」「羨望」「羞恥」という《関係についての感情》に分化していくが、それらの感情は自閉症児・者には現れにくい。②それは、「こころ」の存在を意識しにくく。「こころの理論」も構築しにくい状態にあるからである。③感情には持続性があり、それが意志(欲求)となって、(様々な困難を解決したり、目標を達成するために駆使する)知能の土台(原動力)の役割を果たしている。④自閉症者は、なわばりを拡張しようとしない。欲する対象の世界を限定している。⑤感情には「少しずつ変化する」という特性もあり、それが表情に表れるが、自閉症者は相手の表情を、その変化において見るのではなく、「記号」として見ている可能性が生じてくる。の5点であろう。
・筆者は「感情を生み出す深部の脳と行動プログラムを生み出す前頭葉の間には、密度の濃い神経繊維の連絡が認められる。人の脳のこのような構造は、感情が行動のプログラミングというきわめて高度な知的働きにも関係していることを示唆している」と述べており、
②④⑤の原因として、自閉症児自身の《「深部の脳」と「前頭葉」を連絡する神経繊維の不具合》を想定していることが窺われるが、はたしてそうか。
・私の孫(5歳)は、母親が甥(7歳)と親しく会話し世話をしている場面で、激しく甥に「つかみかかった」という。また、父親と姉(16歳)が話を始めると、嫌がって大騒ぎするという。私自身も父親と話を始めようとすると、必死に遮るように「泣き出した」。明らかに「嫉妬」の感情が芽生えていると思われるのだが・・・。大切なことは、そのような場面のとき、周囲の者がどのように反応するか、どのように孫と係わればよいか、という点である。その場面は、孫の《関係についての感情》を育てるための恰好の機会であり、歓迎し、頻回繰り返すべきである。筆者は「嫉妬とは、他者と他者の間の関係に対する感情である。その関係をつくる一項に自分が収まりたいのだが、それができないから、ある種の怒りを感じるわけである」と述べている。したがって、母親と甥、父親と姉、私と父親という「関係をつくる一項に」孫を収めることが、肝要なのである。
・しかし、両親は、孫の「怒り」や「嫉妬」の感情を、あまり歓迎していないように見受けられる。そのような場面を、あらかじめ「回避」しているようである。そのような対応(環境)が、芽生えつつある感情の分化を「妨げることにならない」と断言できるだろうか。自閉症児の問題は、「環境」によっても「生じる」一例ではないか、と私は思う。(2016.1.19)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・33

《第8章 自閉症への教育的接近》
《要約》
【謎から係わりへ】
・自閉症者は、自分にとってわかりやすい小さななわばりの中で生きている。このなわばりを拡げることが教育の仕事ということになる。
【なぜ教育が必要なのか】
・彼らを彼らの安心できるなわばりの中に住まわせておくだけでもいいのではないか、という根源的な問いかけを投げかけてくる人もいよう。この問かけに対する充分に満足できる答は、実のところ持ち合わせていない。ただ言えることは、自閉症者も私たちと同じ生物的特質に従うべく生まれついているはずだ。障害によって受けた制限を放置しておけば、脳の発達にも身体の発達にもひずみが生じてくるはずである。
・もうひとつ言えることは、私たちの社会というものが変動性をもち、その一角で暮らす自閉症者の生活も例外ではないということである。彼をとりまく家族、学校、施設やその構成員に異状が生じれば、新しい環境への適応を余儀なくされる。だから、そのような事態への適応力を身につけておくことは、彼らが生きていくうえで必要なことなのである。

《感想》
・著者には、自閉症児・者が「小さななわばりの中で生きている」ように見えるかもしれない。しかし、本当は、「私たちと同じなわばり」の中で生きているのである。彼らは自分のなわばりから「一歩を踏み出せない」状態にあるだけだと、私は思う。では、なぜ一歩を踏み出せないのか。それは、出生以来、つねに「逃走」(回避)という行動パターンから脱出できないからである。彼をとりまく環境(人・物・場所)に対して、つねに「不快」「恐れ」を感じている。同年輩の集団から「遠ざかる」のも、新しい食べ物を口にしないの(偏食)も、学習場面を「避ける」のも、「根は同じ」、つまり「恐れ」という感情に支配されているからに他ならない。
・したがって、彼らの教育は「なわばりを拡げる」ことよりも、心中に生じているこの「不快」「恐れ」という感情を「軽減」「払拭」することに特化されなければならない、と私は思う。
・自閉症児に「教育が必要」な理由は、一般の子どもに「教育が必要」なのと全く同じであり、それ以上でも以下でもない。大切なことは、自閉症児には「教育以前に」必要なことがある、ということである。著者は、「彼らを彼らの安心できるなわばりの中に住まわせておくだけでもいいのではないか、という根源的な問いかけを投げかけてくる人もいよう。この問かけに対する充分に満足できる答は、実のところ持ち合わせていない」と述べている。その根源的な問いかけに対して、私は以下のように答えたい。
 彼らには「安心できるなわばり」などない。つねに、環境に対する「不快」「恐れ」を感じており、そこは、そうした外敵から、(かろうじて)自分を守る「待避所」に過ぎないのだ。もしかしたら、私たちの存在自体(私たちが彼らと向かい合っていること、私たちが彼らを見つめていること、彼らに話しかけていること)が、彼らの「不快」「恐れ」を増長させているかもしれない。だから、まず、その「不快」「恐れ」を軽減し、取り除くことが、教育のスタートでありゴールでもある。「彼らを彼らの安心できるなわばりの中に住まわせておくだけでもいいのではないか」という考えは、彼らの「不快」「恐れ」を見落としているばかりか、その状態を放置して「強いる」結果につながる、という点で同意できない。さらにまた、「不快」「恐れ」という彼らの感情を「無視」(脳の機能障害の問題に転嫁)して、社会の変動性に対する「適応力」を身につけさせようとすること(それが「教育的接近」の現状であろう)もまた、私には同意・納得できないのである。(2016.1.31)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・34

【生活の立て直し】
《要約》
・自閉症者は、早い時期から社会のさまざまな状況に適応できるように、種々の学習に取り組んでおくことが望ましい。
・自閉症者を受け入れるにあたって、私たちはどのような準備をしておいたらよいのだろう。また、自閉症者は、どのような順序を経て私たちの世界に入ってくるのだろう。
《感想》
・自閉症者が社会のさまざまな状況に適応できるようになるために大切なことは、彼みずからが、「自発的」に、種々の学習に取り組めるように「支援」することである。そのためには、まず彼自身の「回避」(学習場面からの逃走)行動をコントロールしている「不快」「恐れ」の感情を取り除かなければならない。それが「快感」「安心」に変わり、学習の出発点である「興味」「関心」「好奇心」に移行していくような「係わり方」を、私たちは追求しなければならない。
・自閉症者は、生後間もなくの「不快」「恐れ」を払拭し、家庭(両親)という《安全基地》に見守られながら、好奇心を芽生えさせ、周囲の人々を《好き》になり、その言動(表情・音声・立ち振る舞い)を《模倣》するという「順序を経て私たちの世界に入ってくる」のである。その道筋は、一般の乳幼児と何ら変わるところはない。

【場所の意味と事の順序をつかませる】
・養護学校の経験では、私は、学校や学級のカリキュラムの流れに引き込もうと、自閉症児を追いまわしていたにすぎないところがあった。デイ・ケアの活動でも私は、計画した集団活動の渦の中に誘い込もうと、ともすると別行動をとる自閉症児を引き寄せることに熱心だったような気がする。しかし、私たちが計画した指導プログラムは、一人一人の自閉症児には実質的な影響を及ぼすことが少なく、指導者の頭の中だけの虚構として働くことが多かったのではないか、と思われるのである。
《感想》
・ここで述べられている、著者の「反省」に、私は全面的に同意する。要するに、指導者は、まず「集団」を準備し、その中に自閉症児を入れようとする、しかし、「回避」行動を基本とする自閉症児にその方法は通じない。彼の「不快」「恐れ」という感情を無視して、指導者の「思い」(虚構)を強制しているに過ぎないからである。指導者は、自閉症児が「別行動」をとる意味を理解できないまま、「指導しなければならない」という使命感だけが先行する、その結果「実質的な影響を及ぼすことがすくなく・・・」という状態を脱することができなかったのである。

*F君の事例(著者の個別指導)
①私はテーブルの上にいくつかのオモチャを置いてみたが。F君はそれらをまったく無視し、研究室内の物品に次々と触りながら、うろうろするばかりだった。私が近づいて話しかけたり、オモチャをいじってみせたりすると、彼はその場をスッと離れてしまうのだった。
②F君はカレンダーや文字カードに興味を示すことに、私は気づいた。カレンダーのカードや単語の文字カードを途中まで並べてみせると、F君はその続きをつくるようになった。回を重ねるうちに、F君にとって、私の研究室は目当ての活動を行う場所に見えてきたようだった。
③F君は好きなことだとすぐに完成させてしまい、後が続かなかった。そこで、私は学習のメニュー・カードをつくり「きょうは何から始めよう」「今度は何をしよう」「これはもう終わったね」と確認しながら、活動がつながっていくようにした。
④この視覚的な道案内を発展させて、学習予定板や行動メニュー表を作成した。これを用いて、順序を確認しながら進めると、手がかりがない場合よりも活動がつながりやすくなる。学習中、メニュー表を時々提示することによって、「一緒にやるのはこの範囲のことだよ」と安心させたり、「次は何をしようかな?」とメニューとして表された行動の選択肢を見ながら、学習の流れを確かめていった。
《感想》
・著者は、ここで、F君の学習は「後が続かない」ことに注目し、その「活動がつながっていくように」することを課題にしている。そのためには「学習予定板」「行動メニュー表」といった視覚教材(学習案内)が有効だったと述べている。
・しかし、私には①に記されているF君の行動特徴のほうが興味深い。F君は、研究室という初めての場所に、多少の「恐れ」を抱きながら、周囲の事物を「探索」している。著者は「うろうろするばかり」と評価しているが、その一つ一つの行動の中には「回避」と「接近」が入り混じった「葛藤」が窺われる。指導者が「近づいて話しかけたり・・」すると、「彼はその場をスッと離れてしまう」という《係わり方》も興味深かった。通常なら「ここは何をする部屋?」「おじさんは誰?何をするヒト?}「どうして机の上にオモチャがあるの?」などと問いかけて、自分の「恐れ」の感情を払拭する場面だが、F君はそれをしない。(できないからしないのか、できてもやろうとしないかは不明である)
②では、F君の「恐れ」は、カレンダー、文字カードといった物品によって、次第に軽減され、「興味」「関心」「好奇心」に変わっていったことが示されている。しかし、それが《長続きしない》。著者は、③でそのことを《問題視》しているが、はたしてそうか。「行動プログラムがたてられない」のが自閉症児の特徴であるという見解からすれば、当然のことであろう。私は、著者が④で 、図らずも(?)〈学習中、メニュー表を時々提示することによって、「一緒にやるのはこの範囲のことだよ」と安心させたり・・・〉と述べていることに注目する。つまり《安心させたり》という係わりが重要なポイントになるのだ。物品はF君に「話しかける」ことはない。だから《安心》できるのだと思う。大切なことは、F君が指導者(著者)の存在(見守ること、見つめること、話しかけること、手助けすること)自体に《安心》できるようにすることだと、私は思う。行動のつながりを物品の助けを借りて可能にすることよりも、「この人なら安心だ」「この人は面白い」「この人が好きだ」「この人のようになりたい」という「感情」(の共有)によって実現することはできないか、そのことを指導者は探究し続けるべきではないだろうか。
・著者の取り組みによって、F君の「学習活動」が活性化したことは素晴らしいと思う。しかし、そのことによって、F君の「恐れ」という感情、自閉的行動特徴(自閉症状)が軽減・払拭されなければ、「教育的接近」にはならないのではないだろうか。
(2016.2.2)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・35

【個別教育プログラム】
《要約》
・それは、従来の一斉授業中心の指導形態を改め、一人一人の障害児の実態に合ったプログラムにもとづいて指導をおこなおうとするものである。
・社会的な発達に重大な障害を持つ自閉症児の教育の目的は、それに適応できるようにすることである。
・自閉症児に対する個別教育プログラムの必要を早くから唱え、実施してきたのは、米国ノースカロライナ州で始まったTEACCHプログラムである。このプログラムは、場の意味や学習の順序についてもさまざまな工夫をほどこしている。場の意味を伝えるためには、教室をカーペットの色を変えることによって四つに区分し、それぞれが「あいさつ」「ブロック遊び」「滑り台とマット」「絵本」のコーナーであることを、目に見える形にして伝えている。製品組み立ての机の上には、部品コーナー、組み立てコーナー、完成品コーナーと、作業の各段階が場所として示されている。
・自閉症者は行動プログラムを立てることが苦手な人たちである。行動の各ステップを目に見える形にして案内することが必要である。
・TEACCHプログラムは、行動プログラムの未発達を自閉症の主要な障害とみなす立場を特にとっているわけではない。しかし、長年、自閉症児たちと取り組んできたこのプログラムが編み出してきた方法は、実質的にはこの点を配慮したものとなっているのである。
《感想》
・ここで著者は「社会的な発達に重大な障害を持つ自閉症児の教育の目的は、それに適応できるようにすることである」と述べている。しかし、本当にそうだろうか。社会に適応できるようにすれば、自閉症児の持つ《社会的な発達の重大な障害》は軽減・除去されるのだろうか。自閉症児は、「結果として」社会的な発達が遅れているのであり、その要因を究明し取り除く取り組みをしないまま、「適応できるように」したところで、自閉症という「本質」に変化(治癒)はもたらされない、。自閉症児は、自閉症という問題を抱えたまま、社会に適応し、自閉症者に成長していくだけのことであろう。
・TEACCHプログラムは、自閉症児を社会に適応できるようにするためのプログラムであり、自閉症の「本質」を改善するためのプログラムではない、と私は思った。(2016.2.16)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・36

【パソコン教材】
《要約》
・パソコンによって制御される教材の基本的な働きは、IF・THENの構造に尽きる。学習者は、「IF右のボタンを押せば、THEN画面の中の車がエンジンの音と共に動き出す」といった仕組みを学びながら、この機械とのつきあい方を理解していくことになる。
・このわかりやすいルールの世界は、自閉症児のなわばりの新しい領域になるに違いない。また、この教材を動かしながら、学習者と指導者は、新しいやりとりの領域を開発できるかもしれないと、私は考えた。
・実際、ふだんは机に向かうことが少ないような多くの自閉症児が、パソコン教材を前にすると、長時間それに取り組み、その間は情緒的にも安定している様子が見られたのである。
【突然わかるようになる】
・私が作った教材では、自閉症児はディスプレイを見ながら、その内容に合った絵カードや文字カードの付いたスィッチ板を押す。最初のうち、彼らはスイッチをでたらめに押し続けるのだが、ある時突然、正答が続き出す。だから、学習曲線によって各試行ごとの正答率の変化を追っていくと、非常に低いところから、ある時点を境に、突然100パーセントの正答率が続き始める。また学習の態度も、そこを境にして、突然充実してくる。けれどもその段階が訪れない限りは、彼らには進歩が見られず、パニック反応を示すこともあった。
・彼らは、わかるようになったプログラムに対しては、飽きることなく、集中力をもって何度でもつきあおうとする様子が見られた。
・自閉症児たちが見せるこのような学習の特徴は、私たちの場合と大いに異なっている。私たちは、自分にとっての不確定領域に大きな関心を示しやすい。既知の事柄の繰り返しには、非常に飽きやすい性質をもっている。自閉症者では、既知の世界と未知の世界が明瞭に区別され、前者の領域の中だけで生きようとする彼らの特徴をあらわにすることになったということができるだろう。
【発達のバイパスづくり】
・パソコン教材が自閉症児の教育に役立つと考えられるもう一つの理由は、それが再現性をもつという点である。私たちが経験する出来事は、たいてい一回きりで再現性をもたない。私たちが話す言葉も、その語調や音色は一回一回微妙に異なる。しかし、パソコンが呈示する画像や音の世界は、いつも同じである。常に同じ環境を求める自閉症児にとって、そこが魅力となるのではないだろうか。
・文字で表された情報は再現性をもつ。また手や腕を用いて表すサイン言語も、視覚的な方法でゆっくり何度も呈示できる性質をもっているために、音声言語と比べると自閉症児が学びやすいコミュニケーション手段となっている。自閉症児たちがたどるこれらの学習の過程は、一般の子どもが学び、発達していく経路とは異なるものである。しかし、自閉症という障害ゆえに通過しがたい、基幹道路の特定のポイントを迂回して進むバイパスの役割を果たしているのではないかと考えられる。
・パソコン教材による指導を通して学んだ知識やルールが、やがて彼らが基幹道路に戻っていくためのバイパスの役割を果たす日がくるかもしれないと、私は期待している。
【昔ながらの仕事のサイクル】
・農耕作業、草とり、柵づくり、苗・肥料・水・木材の運搬など、昔ながらの仕事のスタイルは、①プロセスがみえやすい、②反復性がある、③結果が形となって現れる、という三つの条件が整っているので有効である。(養護学校での取り組み例)
・現在、自閉症者の施設の中には、ぶどう畑、しいたけ栽培など、広大な自然の中で、仕事や行動のサイクルを、そのごく基本のところから獲得させようと試みているところが多数ある。そこで繰り返される生活は、現代人が送る毎日よりもずっとシンプルな構造をもつ分だけ、自閉症者にはわかりやすいものとなっていると考えられるのである。
《感想》
・ここでは、パソコン教材が自閉症児の指導に「有効的」であることが述べられている。それは、主として目と手を使った「視覚ー運動回路」の学習であり、耳と口を使った「聴覚ー音声回路」の学習ではない。私自身の経験でも、自閉症児は「いきなりパソコンに向かい、画面をタッチしたり、ボタンを押したり、し始める」といった光景は珍しくなかった。たしかに、集中して学習に取り組むことができるようになる。しかし、「ただそれだけのこと」であり、学習のレパートリー(学習場面への適応)は増えたかもしれないが、「自閉症」という本質的な問題には、大きな変化(改善)は見られなかったような気がする。
・筆者は、それが「発達のバイパスの役割を果たすかもしれない」と期待しているが、
それだけで、彼らが基幹道路に戻ってくることは難しい。なぜなら、パソコンは「人間ではない」からである。子どもが発達するための基幹道路は「人間から学ぶ」という一点に尽きるのであり、いくら機械と親しくなっても、パソコンは「喜んではくれない」。また、筆者は「この教材を動かしながら、学習者と指導者は、新しいやりとりの領域を開発できるかもしれない」とも述べているが、その《学習者と指導者》の《やりとり》こそが最も「重要視」されなければならないのではないだろうか。
・現代社会では、パソコンは広く人口に膾炙し「必要不可欠」なアイテムとなっている。とりわけ、情報の収集・整理・活用においては、目を見張るような進歩を遂げているが、一方、「人間らしさ」「情感の共有」「阿吽の呼吸」といったアナログの世界からは遠ざかりつつあるようだ。その世界こそ自閉症児・者が、最も「苦手」とする空間・時間であることを見落としてはならない。
・「昔ながらの仕事のサイクル」は、自閉症児のみならず、すべての子どもが健全に発達するための基幹道路に他ならない、と私は思った。(2016.2.22)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・37

《第9章 自閉症とわれわれ》
【われわれ自身の謎】
《要約》
・本章では、この本でとりあげてきた諸問題を整理しながら、「われわれ」の側の振る舞い方、コミュニケーションの仕方、内部世界の特徴について考えてみたい。それは、自閉症者の場合と同じように「一風変わった」働きをするものなのかもしれない。
【自閉症が教えること】
・「自閉症」の本質とは、またそれと比較したときの「われわれ」の本質とは、どのようなものだったのだろうか。両者の位置をできるだけ遠くから比較するために、ここでは、人間の集団のことを動物行動学的に「群れ」として眺めてみることにする。
・人の言語や行動は、人の群れの活動の様式に強く制約されながら育っていくようである。健常な子どもは、その愛着的な感情にもとづいて人の群れに引き寄せられながら、次第次第に、人間の目的をもった行動の様式を身につけることができた。ただし、その大部分は、人の群れの動きに従い、人々の動きを見よう見真似で自分のものにする中で獲得されたものではないだろうか。
・幼い子どもが用いるプログラムは不完全なものである。泣き声を要求表現として意味づけたり、なぐりがきを絵へと高めてやったりしながらプログラムの形を整えるのは、人という群れの中の大人の役割である。だから人間は、群れの中で行動しない限り、その発達に非常に大きなダメージを受けることになる。
・自閉症児の場合は、人の子どもを群れの動きに従わせる本能的なメカニズムの解発機構に問題が生じたと考えられる。彼は、母の腕の中から離れ、自分の足で動けるようになった頃に、群れの動きから外れてしまったのである。母の腕という強制力を失った後までも、群れの中にとどめておく力が彼の中になかった。
・一般の子どもは、様々な行動プランを独自につくらなくても、自分の行動を群れの動きに合わせていれば、いつのまにか群れの一員としての行動が具わってくる。彼がそのようにして身につけたプランを自覚するようになり、続いて独自のプランの創造にこだわるようになるのは、「第一反抗期」と呼ばれる三歳頃であると考えられる。
・群れから外れて育った自閉症児が、言語や行動のプログラムをつくり出そうとするときには、健常児の場合のような好条件での大人の援助や見本はない。彼はいきなり、私たちの社会の流儀に従って、自分でプログラムをつくることを要求されるのである。
《感想》
・ここまででは、まだ〈「われわれ」の側の振る舞い方、コミュニケーションの仕方、内部世界の特徴について〉は述べられてはいない。しかし〈「自閉症」の本質とは、またそれと比較したときの「われわれ」の本質とは、どのようなものだったのだろうか〉という問題には、「動物行動学」的観点から述べられているようである。つまり、「健常児は群れの中で、その動きに従いながら、行動や言語のプログラムを身につけていくが、《自閉症児の場合は、人の子どもを群れの動きに従わせる本能的なメカニズムの解発機構に問題が生じた》ために、《群れの動きから外れてしまった》ということであろう。しかし、「群れの動きに従わせる本能的なメカニズムの解発機構」という意味が私にはわからなかった。
「母の腕という強制力を失った後までも、群れの中にとどめておく力が彼の中になかった」とも述べられているが、「群れの中にとどめておく力」とはどのようなものだろうか。
・自閉症児が《群れの動きから外れてしまった》ということはよくわかる。しかし、その原因が自閉症児自身の「中にある」と断定する根拠は何だろうか。著者は「幼い子どもが用いるプログラムは不完全なものである。泣き声を要求表現として意味づけたり、なぐりがきを絵へと高めてやったりしながらプログラムの形を整えるのは、人という群れの中の大人の役割である。だから人間は、群れの中で行動しない限り、その発達に非常に大きなダメージを受けることになる」とも述べ、子どもと関わる「大人の役割」に言及しているが、もし大人の側がその役割を果たさなかったとしたらどうなるのだろうか。自閉症児が「群れの動きから外れてしまう」のは、その群れの「あり方」に「問題がない」とは言えない。一方的に「群れの中にとどめておく力が彼(自閉症児)の中になかった」と決めつけることはできない、と私は思う。
・著者が「健常な子どもは、その愛着的な感情にもとづいて人の群れに引き寄せられながら、次第次第に、人間の目的をもった行動の様式を身につけることができた。ただし、その大部分は、人の群れの動きに従い、人々の動きを見よう見真似で自分のものにする中で獲得されたものではないだろうか」と述べている部分は、その通り、納得できる。だとすれば、自閉症児の場合、その「愛着的な感情」が不足しているために、「群れの動きから外れてしまう」と考えることが自然であり、その「愛着的な感情」は、自分一人だけでは育てられないこともまた自明ではないだろうか。(2016.2.24)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・38

【人間の脳がもつ制約】
《要約》
・自閉症者が私たちと同じように生きていくことがこのように困難になったのは、彼らに特有な脳の障害が現れたからにほかならない。その制約をもって生きてきたことが、彼らを「自閉症」らしくしてきたのである。
・障害のない「われわれ」も、脳や認知の仕組みによってもたらされるさまざまな制約のもとで生きている。たとえば、記憶能力に関して非常に大きな制限をもっている。私たちの脳に貯蔵されてると考えられている記憶の量は膨大だが、今この時、出し入れできる情報の量は、七プラス・マイナス二の要素であるに過ぎない。つまり、私たちの記憶世界は順々に展開してみるととてつもなく広大であるけれどども、今この時かいま見ることができるのは、わずかな領域なのである。
・また、私たちは、喜怒哀楽に代表されるようなさまざまな感情をもっているが、今この時には、その中のいずれかの感情を経験できるだけである。さらに、それらの間での切り替えは悪く、今怒り出した「私」は、しばらくは平静な時の「私」にシフトできないのである。このように、人の脳は総体として見ると偉大でありオールマイティと思えるほど強力だが、瞬間瞬間に私たちが使える脳の働きはきわめて制限されたものなのである。
・だが、このような制限にもかかわらず、私たちは、今この瞬間の「私」だけが「私」ではないことを知っている。私たちは幸いにも、良い判断ができないときには、考えがまとまるまでしばらく待つことができるし、怒りの中でも、いつか平静な「私」が訪れることを期待することができる。このようにして、今の「私」は、別の「私」に引き継がれることを前提として生きているのである。
《感想》
・ここでは、障害のない「われわれ」も、自閉症者と同様に「脳や認知の仕組みによってもたらされるさまざまな制約のもとで生きている」ことが述べられている。著者は、その例として、①記憶能力の制限、②感情の制限、を挙げている。また、②では〈このような制限にもかかわらず、私たちは、今この瞬間の「私」だけが「私」ではないことを知っている。私たちは幸いにも、良い判断ができないときには、考えがまとまるまでしばらく待つことができるし、怒りの中でも、いつか平静な「私」が訪れることを期待することができる。このようにして、今の「私」は、別の「私」に引き継がれることを前提として生きているのである〉とも書かれているが、そのことと、自閉症者にもたらされている《制約》とは、どのような関係があるのだろうか。私たちは、「感情の制限」という制約を、今の「私」が別の「私」に引き継がれることを前提として克服しているが、自閉症者の場合は「それができない」という結論になるのだろうか。
・しかし、ともかくも著者が本章の冒頭で述べた《「われわれ」の側の振る舞い方、コミュニケーションの仕方、内部世界の特徴について》、話が及んできたようである。強い関心を持って、以下を読み進めたい。

【多重人格者としての人間】
《要約》
・だが、今の「私」と別の「私」の間に断絶が生じたらどのようなことになるか。その姿は、ダニエル・キイスの小説「五番町のサリー」「二十四人のビリー・ミリガン」の主人公たちで確認できる。彼らは、ある感情とそれにまつわる記憶によって支配された何人かの人格を内側にもっている。それらの人格の間での行き来はほとんどない。断続的に現れるある特徴をもった人格同士が結合し、他とは独立した記憶や感情のシステムをもっている。たとえば、「五番町のサリー」では、内気なサリーは耐えられない事件に出くわすと、無意識のうちに内部の四つの人格、デリー、ノラ、ベラ、ジンクスにスイッチしてしまう。そして、それぞれの人格は、自分が引き起こした出来事の後始末を次なる人格に押しつけたまま、自分自身はさっさと消えてしまうのである。
・健常者でも、その脳の働きからして、一つの揺るぎない人格をもっているわけではない。その意味では、誰しもが多重人格者であるということができるだろう。
・「五番町のサリー」の事態の推移に似た現象は、自閉症者にも時折見られる。ある時点の人格がそれに続くか、またはそれに先行する人格と無関係であるかのような振る舞い方をする点では、多重人格者に似ているのである。その好例が、パニック時の自閉症者の反応であるということができるだろう。パニックは、いったん始まると発火点まで上昇し、ガラスを割ったり、人や自分に危害を加えることもあるが、パニックが終わってしばらくすると、彼らは意外にケロリとしていて、先ほどの騒動は嘘のように感じられることが多い。今の「彼」に反省を促してみたところで、もはやパニック時の「彼」に働きかけるためのルートはなくなっている。
・もう一つ興味深いことは、パニックを生み出す状況と、その発現と、周囲の対応とがセットになっていることが多いということである。ある状況がつくられたときだけにパニックを引き起こす特定の人物が現れるわけで、種々の状況とセットになって現れる多重人格者にやはり似ているのである。たとえば、暴力をたびたびふるうことのある自閉症者の場合でも、まだ暴力をふるったことのない相手に仕掛けていくことはめったにない。しかし、一度、不快な状況でAさんに暴力をふるい、とりおさえられ、なだめることを経験すると、不快な状況を感じ取り、その場にAさんの姿を見かけると、前回と同じ感情爆発のルートをたどりやすくなってくる。そこで、このルートにあるAさんか、または「なだめ、すかす」という対処法を外してしまうと、パニックが起きにくくなるということもあるのである。
《感想》
・ここで述べられていることは、私にとって「わかったようでわからない」。要するに、健常者である「われわれ」は、今の「私」と別の「私」に《断絶》は生じていないが、多重人格者は断絶している。自閉症者も、パニックの場面の様子を見ると、断絶しているように思われる、ということであろうか。しかし、著者は「健常者でも、その脳の働きからして、一つの揺るぎない人格をもっているわけではない。その意味では、誰しもが多重人格者であるということができるだろう」とも述べているので、誰もが皆、今の「私」と別の「私」に断絶が生じているということになって、著者が「何を言おうとしているのか」理解に苦しむことになるのである。しかも、多重人格者の事例は小説に登場人物、虚構の産物に過ぎないではないか。
・私の独断・偏見によれば、自閉症者のパニックは、①「感情(不快感・怒り)の表現」と②「相手の注目を求める(愛着心の裏返しをする)」ための行動である。健常者である「われわれ」が、幼児期《誰しもが》経験した行動に過ぎない。自閉症者は、周囲とのコミュニケーションが《断絶》しているために、まだ幼児段階の行動パターンから脱出することができない、または「引きずっている」ということである。
・著者は〈たとえば、暴力をたびたびふるうことのある自閉症者の場合でも、まだ暴力をふるったことのない相手に仕掛けていくことはめったにない。しかし、一度、不快な状況でAさんに暴力をふるい、とりおさえられ、なだめることを経験すると、不快な状況を感じ取り、その場にAさんの姿を見かけると、前回と同じ感情爆発のルートをたどりやすくなってくる。そこで、このルートにあるAさんか、または「なだめ、すかす」という対処法を外してしまうと、パニックが起きにくくなるということもあるのである〉という事例を紹介しているが、その自閉症者は「暴力をふるう」ことによって、Aさんから「なだめ、すかされ」取り押さえられること自体(事態)を求めているかもしれない。そうした形でしかコミュニケーションがとれない(断絶している)のかもしれない。
・大切なことは、健常者である「われわれ」と、多重人格者、自閉症者と呼ばれる「人々」の差異ではなく、お互いの共通点を明らかにすることではなかったか。著者が本章で明らかにしようとしている《「われわれ」の側の振る舞い方、コミュニケーションの仕方、内部世界の特徴》は、未だに判然としなかった。(2016.2.25)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・39

【「私」から「私」への手紙】
《要約》
・私たちがいつも使っている言語一般こそは、今の「私」から別の「私」に向けて差し出される手紙まもだ。私たちの視覚や聴覚や触覚は、感覚器官によって入力される外部情報にもとづいているから「今ここ」の世界に支配されやすい。だから、それらの感覚に依存する限り、環境が一変すると、私たちのこころの状態も一変してしまう可能性がある。しかし、言葉は、今この時間やこの空間にないものも思い出させてくれるし、またそれらを通して未来の「私」に発信してくれることを可能にしてくれる。だから、どうしても忘れてはいけないことがあるときは、私たちは掌に印をつけたりして、(今の「私」から別の「私」への)伝達方法をとるのである。
・人格から人格へと受け渡されるもう一つの手紙は、言葉によって色づけられた感情である。言葉をもった人間は、他の動物とは比較にならないほど多種多様な感情をもつようになった。その結果として、今の「私」に支配されない「我慢」や「意志」や「躊躇」などの感情が発生したと考えられる。私たちがそれらの感情を感じるとき、私たちの耳もとには「後で後悔しないように」とか、「本当にそれでよいのか」などと、声なき声がささやかれているのである。
・自閉症者の場合には、感情と言葉との結びつきは、このように緊密ではない。感情は、時にはまったく不適切な言葉と結びついてしまうことがある。(気に入らないとき、課題がわからないとき、独り言を)言い出すことがある。これらの無意味な言葉は、私たちには無意味だが彼らにとっては意味があり、内部のモヤモヤとして捉えがたい感情につけられた個人的な名称だと考えられる。その名称を呪文のように唱えることによって、内部の混乱をいくぶんコントロールできることを彼らは自然に学んだのだろう。このような「呪文」を用いる自閉症者は、パニック場面で叫声をあげる者よりも自己コントロールが進んでいるということができる。
・一方、健常者のこころの中のパニックが、自閉症者のように外に現れにくいのは、もっと社会的な文脈に沿った言葉を選んで発しているからである。私たちが窮地に陥ったときに発する「困った、困った」とか「大変だ、大変だ」という言葉は、まわりの人にとってはわかりやすい悲鳴である。私たちはそうつぶやきながら、「今はそっとしておいてほしい」とか「もし名案があったら私を助けてほしい」という内容のサインをふりまいているのである。そのほか「頑張ろう」「だいじょうぶ」「まだ、まだ」「もう少し」など、感情が染み込んだ立ち直りの言葉を使いながら、自分を立ち直らせようとしている。
《感想》
・ここで述べられていることは、要するに「自閉症者の場合には、感情と言葉との結びつきは、(健常者ほど)緊密ではない」ということであろう。言葉の機能には、①感情の表現、②伝達の手段(コミュニケーション)、③思考の手段、④意思のコントロール、⑤記録などがある。自閉症児・者の「言語発達」をみると、音声よりも文字の習得の方が早かったり、感情よりも意味を重視した学習が強いられたり、といったケースがめだつ。特に、初期において、「喃語」「ジャーゴン」(無意味語)による《やりとり》が不十分であれば、「感情と言葉の結びつき」が緊密でなくなることは、当然の結果であると思われる。
・私たちのの「独り言」は、言語の機能の③や④に位置づけられるが、自閉症児・者の「独り言」は、初期における「喃語」「ジャーゴン」(発声遊び)が、(①感情の表出が、②伝達の手段に結びつくことなく、)そのまま固定しまった結果ではないだろうか。
・著者は、「これらの無意味な言葉は、私たちには無意味だが彼らにとっては意味があり、内部のモヤモヤとして捉えがたい感情につけられた個人的な名称だと考えられる。その名称を呪文のように唱えることによって、内部の混乱をいくぶんコントロールできることを彼らは自然に学んだのだろう」と述べているが、健常者である私たちもまた、時と場合によっては、何かを「祈願」するために、あるいは自分の気持ちを安定・集中(コントロール)するために、《呪文》を唱えることがあることを銘記しなければならない。(呪文とはまさにそのためにある言葉なのだ)
・実を言えば、自閉症児・者は、《「われわれ」の側の振る舞い方、コミュニケーションの仕方、内部世界の特徴》と何ら変わることのない行動を示しているに過ぎないのである。そのことが、「今、ここで」はっきりしてきた、と私は思う。
(2016.2.26)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・40

【統合者としての「私」】
《要約》
・「今ここ」に支配された「私」を、もっと安定した「私」に引き継がせようとする背後には、統合者としての「私」が隠れているはずである。それは私たちの中にあって不断に活動する一つの「機能」であるに違いない。
・現代の脳医学は、人格を統合するためのこのような機能の「場」が、人の脳の前頭葉皮質にあることを確認しつつある。前頭葉皮質の中でも前頭前野と呼ばれる領域に、自分自身を監視しつつ制御するシステムがあることを確認するようになったのである。前頭葉は、深部にある情動の脳と表層の知的な脳をつなぐ役割を果たしている。それだけでも人格の統合者としての役割を窺わせるところがあるのだが、行動プログラミングの実行者兼監視者としての役割も果たしている。プログラムは時間をかけて目標を実現していくためのものだから、当然、今の「私」と未来の「私」をつなげる働きをするのである。
・《卑近な例》私は、この本の原稿を今書いている「私」が、以後、原稿のこの部分を読み返す「私」とかなり異なる存在であることを知っている。「書き手」である今の「私」の頭は少し興奮していて、現在の思考の流れにとらわれている。だから、冷静な「読み手」の働きは、その時のもう一人の「私」にすっかり託しているのである。今の「私」は、自分の文章をいじられることを潔しとしないが、時がくれば、新しい「私」がこの文章に手を加えたり、削除してしまうのも致し方ないと思っている。これは、私が自分自身に植えつけてきたプログラムなのである。
・そのような仕事には、「見直し」というプロセスが必ず入ってくる。自分の中にさまざまな顔をした「私」がいて、それぞれの視点から仕事の「現場」をみつめているからこそ、私たちの企てるプランは大きな間違いなしで実現されるようになってくるのである。

【社会的な脳】
・私たちは、自分自身の中の「私」たちをとりまとめ統合しようとしているだけでなく、それら分身たちを自由に泳がせ、いざというときの協力者として見聞を広めさせているとも考えられる。つまり、たえず「なわばり」を拡張しようとしている人間の姿が、ここでもう一度、浮かび上がってくるわけである。
・自分自身の分身を増やしすぎると、収拾がつかなくなって分裂の憂き目にあう可能性も出てくるが、四方に散らばった分身たちと連絡をつけ、多くの情報を得るための方法を、私たちはたくさんもっている。
・これに対して、自閉症者は自分自身を拡張しようとしない。それは、拡張した世界の中にさまよい出た自己に連絡をとり、アドバイスを与えるための適切な方法を彼らがみつけていないためである。
・今、脳の科学は、人の脳の働きを社会的なシステムになぞらえ「社会的な脳」として捉える方向に向かっている。人間の脳は非常に複雑なシステムになっていて、比較的孤立して働く諸部分からなる連合体である。「本能が壊れ」、行動の方向が多様となった人間の内部には、自然によって与えられた絶対的な意思決定者は住まなくなった。代わりに、内部で行動の方向をいくつも提案し、協議するシステムがつくられたのである。前頭葉がつくるプログラムは、まず仮説として提案され、脳内でなんらかのシュミレーションがおこなわれた後に出力される。その出力の結果もすぐにフィードバックされ、プログラムの評価のために用いられるのである。このように同じ人間の中で複数の立場がとられるのは、私たちが多重人格的な特性をもっているおかげである。
・旧ソビエトの神経心理学者ルリアは、多数の前頭葉損傷者を観察し、これらの患者には自己批判能力が欠如していることを認めた。彼らは、自分が最初に打ち出した行動の方向の誤りに気づくことなく行動し続けていたのである。自分自身の活動方針を協議する「社会的な脳」が機能していなかったことになる。同じことは自閉症者にもよく観察される。彼らは、いったん始めた行動にブレーキをかけたり、行動の方向を修正することが苦手な人たちなのだった。
・また、諸部分の連合体である人の脳は、内部に指揮官や議長にあたる部分を具えているに違いない。自閉症者がパニックの状態に陥りやすく、適切な行動を選べないのは、この部分ができあがっていないためと考えられる。
・「社会的な脳」は、実際の社会のシステムを投影しているに違いない。人間の子どもは、人の群れの中で生きるうちに、この社会の構造を脳内に徐々に写し込んできたと考えられる。だとすると、自閉症者たちに対する私たちの教育的な課題は、彼らを社会的な行動へ誘う中で、彼らの内側に次第次第に「脳における社会」を築いていくことであると思われる。
《感想》
・ここは、本書の終章・終末の部分だが、著者が冒頭で述べた《《「われわれ」の側の振る舞い方、コミュニケーションの仕方、内部世界の特徴》》と自閉症児・者との「共通点」を見出すことは、ついにできなかった。
・著者は、〈「今ここ」に支配された「私」を、もっと安定した「私」に引き継がせようとする背後には、統合者としての「私」が隠れているはずである。それは私たちの中にあって不断に活動する一つの「機能」であるに違いない〉と述べ、その「機能」の「場」を「脳の中」(前頭葉皮質の前頭前野)に求めている。そして、ルリアが観察した前頭葉損傷者の行動と自閉症児・者の行動に「共通点」があることから、自閉症児・者の前頭葉皮質にも、何らかの異変が生じていると「仮定」している。しかし、そのことは。現代の「脳医学」でも未だに「実証」されてはいない。自閉症児・者の前頭前野が「損傷」されているという証拠はないのである。言い換えれば、自閉症児・者の「脳の中」と「われわれ」の「脳の中」に決定的な「差異」は見当たらない、つまり《同じ》なのである。
・たしかに、自閉症児・者の「情動」は乏しいかもしれない。相手の心中を窺うことが苦手かもしれない。行動のプログラムを立てることが不十分かもしれない。しかし、そうした特徴は、「われわれ」の乳幼児期には、誰にでも見られる。自閉症児・者の「情動」がその段階にとどまったまま、身体・運動能力、知的能力(記憶能力)等々、他の領域が「年齢並み」に成長してしまった、ということである。では、なぜそのような事態が生じるのか。著者は、その要因を自閉症児・者の「内部」(脳)に求めているだけで、彼らをとりまく周囲の「環境」を見ていない。自閉症児・者の「情動」が乏しいのは、親の「養育態度」に因るかもしれない。著者は本章を〈「社会的な脳」は、実際の社会のシステムを投影しているに違いない。人間の子どもは、人の群れの中で生きるうちに、この社会の構造を脳内に徐々に写し込んできたと考えられる。だとすると、自閉症者たちに対する私たちの教育的な課題は、彼らを社会的な行動へ誘う中で、彼らの内側に次第次第に「脳における社会」を築いていくことであると思われる〉と結んでいる。私も「全くその通り」だと同意するが、要は「人間の子どもは、人の群れの中で生きるうちに、この社会の構造を脳内に徐々に写し込んできたと考えられる」という一点に絞られる。とりわけ、《人の群れの中で生きる》というとき、その「群れ」のあり方がまず問われなければならない。その「群れ」とは、単なる群衆(集団)ではない。親子、家族、友達という存在の間に、「愛着」という絆が結ばれて、はじめて「群れ」が成立するのだ。そのことは、ハーロウによるアカゲザルの「代理母実験」を見るまでもなく、斯界の専門家にとっては自明のことではなかったか。したがって、「彼らを社会的な行動へ誘う」ためには、まず彼らと「一対一」で向かい合い(対面ではなく寄り添う形で)、「愛着」という絆を結ぼうとする《決意》が(「群れ」の側に)不可欠なのである。彼らを「第三者」(自閉症児・者)として見るのではなく、「第二者」(あなた、君)として『好き』になることが大切である。その「情動」が、《彼らの内側に次第次第に》染みこんで、やがて、彼らもまた「私」を『好き』になるかもしれない。「私」の「社会的な活動」に注目し、真似しようとするかもしれない。そのことこそが、「彼らを社会的な行動へ誘う」唯一の基幹道路なのである。
・「自閉症」の要因は彼自身の「脳の中」にあるという定説に従う限り、自閉症児・者の「未来」(社会的な行動への道)は開けない。「人格障害」「統合失調症」「躁うつ病」「発達障害」「多重人格」「パニック障害」等々、多種多彩なレッテル貼りと同様に、「われわれ」との「距離」(溝)が拡がる(謎が深まる)だけではないだろうか。(2016.2.27)




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「自閉症からのメッセージ」(熊谷高幸・講談社新書)再読・41

【あとがき】
《要約》
・私自身の遠い昔、小学校の低学年の頃だっただろうか。突然、ほかの子どもたちとの間に大きな距離を感じ始めた時期があった。ふと気がつくと、私は昼休みの校庭で一人きりで、級友たちのどの集団に、どのように近づいていったらよいのか、また数日前まで、私自身、集団の中にどのように収まっていたのか、皆目見当がつかない状態になっているのだった。時間が急に止まったような感じで、どうやったらそれを、もう一度動かすことができるのかわからなくなった。やがて、この距離感はふとしたはずみに解消され、私は集団の中に戻り、時間は元のように動き出したのだが、これが契機となって、人の振る舞い方や時間の進み具合というものを特別に意識するようになった。
・それから20年後、大学院の学生となっていた私は、ある時、プレイルームの滑り台を逆から上りだした一人の自閉症の男の子の行動を眺めていた。すると、その子の行動がふと止まった。彼は行動の行き先を見失ったかのようにしばらく動かず、次なる行動を探っている様子もない。私はこのとき、自閉症児とは行動プログラムを見つけられないでいるこどもなのではないかと、ふと思った。それは、うまく動いている間はほとんど意識されないが、それなしでは時間が動き出さないような重要なものなのではないか。もちろん、脳の固有の障害から生まれる自閉症を、私自身の実感だけにもとづいて解釈してはならないだろう。しかし、自閉症を深い次元で捉えようとするなら、実験データや観察事項の記述だけでは足りず、つまるところは、同じ人間としての自分自身を実験台とした、彼らの心的状態への共感が必要になってくるのではないかと思う。私は、本書の中で自閉症者のこころの状態を考えるとき、最初に紹介した私自身の体験を原風景のようなものとして何度か役立てたような気がする。
《感想》
・ここでは、著者が小学校低学年の時に体験した「級友、集団からの距離感」「時間が止まってしまった感じ」について触れ、研究者には「同じ人間としての自分自身を実験台とした、自閉症者の心的状態への共感が必要になってくる」と述べられている。そのことに私自身も「全面的に同意」するが、本書の中で、そうした著者の体験が、自閉症者のこころの状態を考えるときに「役立っていた」かどうかは疑問である。
・著者は、自分自身の体験(原風景)を、20年後に遭遇した自閉症児の行動と「重ね合わせて」いるようだが、それならば、まず、「突然、ほかの子どもたちとの間に大きな距離を感じはじめた」のはどうしてか。「ふと気がつくと」(たしかに、実感としてはそうかもしれないが)という表現は、曖昧過ぎる。また、「やがて、この距離感はふとしたはずみに解消され、私は集団の中に戻り、時間は元のように動き出した」という一文でも「《ふとしたはずみに》解消され」とういう表現が使われている。それでは、「同じ人間としての自分自身を実験台」に乗せていることにはならないではないか。
・大切なことは、著者の体験と自閉症児の行動に見られる《共通点》を探り出すことである。著者が「脳の固有の障害から生まれる自閉症」と《断定する》限り、著者にもまた「脳の固有の障害」がある、という共通点が示されてしまうのである。
・著者は、「あるできごと」が原因となって「級友、集団」から距離をおいた(回避・逃走した)に違いない。そしてまた「あるできごと」によって、その状態が解消(接近・交流)したのである。その「できごと」を究明することなく「ふとしたはずみ」などという実感だけに「もとづく」ことは許されない、と私は思う。
・本書が刊行されてさらに20余年が経過したが、自閉症の要因が「脳の固有の障害」か、「生育環境」か、は未だに不明である。現状は「脳の固有の障害」だとする専門家、研究者が「圧倒的に多い」というだけのことである。残念ながら、その「謎」が本書で解き明かされることはなかった。しかし、著者の真摯な研究に敬意を表し、感謝申し上げ、本書の再読を終了する。
(2016.3.3)




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