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「自閉症」への《挑戦》・1

◆はじめに
 現状では「自閉症は治らない」ということが通説になっている。自閉症の原因は「脳の機能障害」だと《推定》されている。「親の育て方」が原因だと思われた時期もあったが、今、はっきり「それは誤りだ」と《断定》されている。
 私自身も35年間の教員生活の中で、20年ほど「自閉症」と呼ばれる子どもたちと接する機会があったが、「自閉症は治らない」という通説に従って、仕事をしてきた。自閉症そのものは治らないけれども教育は可能である、身辺自立、社会自立を確立すれば、職業自立も夢ではない・・・、そうした思いで「指導」に取り組んだ。その結果、職業自立(企業への就職)を果たした生徒も少なくなかった。しかし、通説どおり「自閉症そのものは治らなかった」。あたりまえである。私自身が「治そうとしなかった」のだから、治るはずがない。
 しかし、それでよかったのだろうか。私は「自閉症」と呼ばれる子どもたちに出会う前10年ほど「聴覚障害」(難聴児)と呼ばれる子どもたちの「指導」に携わっていた。その時も、「聴覚障害(感音性難聴)は治らない」という通説に従っていた。しかし、早期から「教育」を行えば、言語の獲得は可能であり、通常の社会生活にさほどの支障は生じなくなる、という考えで仕事に取り組んだ。その結果、「聴覚障害は治らないけれども」(私の知る限り)ほとんどの子どもたちが、社会自立・職業自立を果たしている。
 そこで思うことは、「自閉症」と「聴覚障害」を同じように考えてよいものだろうか、ということである。「聴覚障害」は《身体障害》に分類され、医学(耳鼻咽喉科)の対象になる。「自閉症」は、便宜上《精神障害》に分類され、精神医学の対象になっているが、その正体(要因、病態、予後など)は、未だに究明されていないのではないだろうか。
したがって、「聴覚障害(感音性難聴)は治らない」というほどに、「自閉症は治らない」と断定できるか、という疑問が生じてくるのである。
 「自閉症は治らない」という前提に立つよりも、「もしかしたら治るかもしれない、だから治そうとしなければならない」と思うことの方が、そう呼ばれる子どもたちの《幸せ》につながるのではないか、という思いを込めて本稿を綴ることにする。

1 「自閉症」とは何か
 文部科学省は「自閉症」について、以下のように定義している。「自閉症とは、3歳位までに現れ、1他人との社会的関係の形成の困難さ、2言葉の発達の遅れ、3興味や関心が狭く特定のものにこだわることを特徴とする行動の障害であり、中枢神経系に何らかの要因による機能不全があると推定される。」(2003年3月)
 また、アメリカ精神医学会(DSM-5)の診断基準について以下のような記述がある。「自閉症スペクトラムの診断基準としてローナ・ウィングらは以下の三つを上げている1.対人関係の形成が難しい「社会性の障害」2.ことばの発達に遅れがある「言語コミュニケーションの障害」3.想像力や柔軟性が乏しく、変化を嫌う「想像力の障害」これを「三つ組の障害」と呼ぶ。」(ウィキペディア百科事典)
 双方は「ほぼ同じ」内容だが、アメリカ精神医学会は{自閉症スペクトラム」と称している。《スペクトラム》とは、「連続体」という意味であり、上記3項目の行動特徴は、健常者の行動特徴と「連続している」と、私は解釈する。つまり、自閉症者の行動特徴は、健常者にも見られるものであり、両者の間には「連続的な差」が生じているに過ぎない、それは「量的な差」であって「質的な差」ではない、ということである。
 言い換えれば、「自閉症児・者」と見なされた人の、①対人関係の難しさ、②言葉の発達の遅れ、③柔軟性の乏しさやこだわり等々という行動特徴は、誰にでも「しばしば見られる」ことであり、その頻度が多すぎたり、持続・固定してしまった場合を「自閉症」と呼んでいる、ということである。
 そもそも「自閉症」とは、英語「オーティズム」の訳語であり「自ら動く」という意味が含まれるべきである。「自閉」という和訳は、本来の意味を正確に表していない点で《誤り》ではないだろうか。
【結論】
・「自閉症」という名称は不適切であり、またその「定義」も、健常者との間の「質的な差異」を決定しているわけではない。「そのような傾向がめだつ」に過ぎないのだから、「存在しないもの」を「ある」ように錯覚し、「自閉症」というレッテルが(ひとり歩きして)、子どもたちの幸せ(人権)を侵すことがないように留意するべきである。
・「自閉症などという子どもは、もともといないのだ」という前提に立って、しかし、現実には生じている様々な「問題」(支障・困難)を考察・解釈し、それに対する「手立て」を生み出していかなければならない、と私は思う。 
(2016.4.18)




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「自閉症」への《挑戦》・2

2.こちらの心構え
 「自閉症(スペクトラム)」と呼ばれる子どもや成人たちと「接し」、「かかわる」際の《心構え》について、いくつか述べたい。
⑴ 相手を「自閉症」だと思わない。
 相手を理解することは、「接し」「かかわる」際に、最も大切なことである。その方法は、まず直接、自分の目で見、聞き、相手を「感じる」ことである。相手は、名前を呼んでも返事をしない。話しかけても応じない。指示しても従わない。近づかない。その場を離れようとする。奇声を上げる。飛び跳ねる。体を揺する。耳をふさぐ。目をつむる。自分の手を噛む。そうした行動を見聞したとき、私たちはどのように「感じるか」、そのことを自分自身に問いかける必要がある。「困った」「どうしよう」「少し変だ」「ずいぶんとおかしい」と「感じる」かもしれない。次に「なぜだろう」と考えるかもしれない。そこまではよい。しかし、その答を早急に求めることは禁物である。また、専門家に尋ねても、「あなたのお子さんは自閉症の行動特徴をもっています。だから自閉症かもしれません」という答が返ってくるかもしれない。しかし、こちらが「困った」「どうしよう」「変だ」と「感じる」思いは、「自閉症だから」という答で、すぐに「消失」するだろうか。そこが問題である。「そうか、自閉症なんだ。ではしょうがない」と納得するか、それとも「では、自閉症はなぜそのような行動をするのだろうか」と、さらに専門家に尋ねるかもしれない。あるいは本を読んで勉強するかもしれない。しかし、そこから得られるものは「知識」に過ぎない。はじめの「感じ」が「知識」によって「固定化」してしまうおそれが生じるのである。「知識」は、自閉症の様々な行動特徴を説明している。その「知識」というフレーム(色眼鏡)で、相手と接し、かかわることが、相手を「理解する」ことだと錯覚してしまう。はじめの「感じ」は「知識」に変容し、相手の「人間としての息づかい」を「感じ取れなくなってしまう」ことはないか。
 名前を呼んでも返事をしない。話しかけても応じない。指示しても従わない。近づかない。その場を離れようとする。奇声を上げる。飛び跳ねる。体を揺する。耳をふさぐ。目をつむる。自分の手を噛む、などといった相手の行動は「自分にもある」と「感じる」ことが大切である。どのような時、自分はそのような行動をするか、振り返ればよい。それが相手を「理解する」ヒントになるだろう。加えて、相手にそのような行動を生じさせているのは「自分自身に他ならない」ことを省みるべきである。相手の行動を見聞して、「困った」「どうしよう」「変だ」と「感じる」ことへの答は、ゆっくりと時間をかけて、自分自身で出さなければならない。もし、「相手も自分と同じだ」と「感じられる」ようになれば、相手との距離は一挙に縮まるだろう。その行動を「困った」「どうしよう」「変だ」と「感じる」ことが減少し、逆に「親近感」が増すかもしれない。相手を「愛おしい」と「感じる」ようにになるかもしれない。そのことが「相手を理解する」早道なのである。 だから、相手を「自閉症」だと思わないことが《鉄則》である。 

⑵ 決してあきらめない
 相手のさまざまな行動を見て、「困った」「どうしよう」「変だ」と感じたとき、「なぜだろう」と考えることは当然である。専門家の見解を尋ね、文献を精査・精読するのもよい。しかし、そこで得られた「知識」、とりわけ「自閉症は治らない」という知識に従って「自閉症だからしょうがない」と諦めることは禁物である。
 相手は「自閉症」である前に「一人の人間である」ということを忘れてはならない。相手が「生きている限り」、「変化しない」(発達しない、成長しない、適応しない」と断定する(決めてかかる)ことはできない。「生きる」ということは「変化」することである。そして、自分も生きている。「生きている者」同士が、「接し合い」「かかわり合う」ことを通して、お互いの「関係」を、お互いにとって「より良い」(望ましい)方向へ「変化させていこう」という気持ち(固い意志)を持つことが大切である。
 相手は「変化」を求めないかもしれない。「変化」を拒否するかもしれない。しかし、その「行動」は、(身長が伸び、体重が増すように、あるいは成長が止まり、老化がはじまるように)刻一刻と「変化」しているはずである。それを見落としてはならない。同時に、こちらも「変化」する。こちらが、意図的に「変化」して相手の反応を見る。その営みを、粘り強く、執拗に「繰り返さなければならない」と私は思う。 
 「自閉症だからしょうがない」と諦めることは、こちらが「変化しない」ことを意味する。こちらが「変化」しなければ、相手も「変化しない」。お互いにあきらめて、「困った」「どうしよう」「変だ」と感じる行動にも「変化」は生じない。相手はますます「自閉症児・者」になっていく、自分は「自閉症児・者なのだ」と思うようになる。そしてその「行動特徴」と呼ばれる様々な「振る舞い方」を学んでしまうかもしれないのだ。この《悪循環》に陥らぬよう、細心の注意が必要である。 
 そのためにも「決してあきらめない」というこちらの心構えが不可欠である。

⑶ 相手を「あなた」として見る
 今、目の前にいるのは、「私と一緒にいる『あなた』だ」と感じることが大切である。こちらの立場が、親であれ、兄弟であれ、友人であれ、保育者であれ、教員であれ、専門家であれ、また相手が、乳児であれ、幼児であれ、学齢児であれ、青年であれ、成人であれ、この「原則」は変わらない。つまり相手は、今、私と接し、かかわっている「当事者」(第二者)なのである。当然、「私とあなた」の「かかわり」は《他人事》ではない。ともすれば、相手の「実態を的確に把握するために《客観的》見なければならない」などという誰かの言葉が気になって、相手を(自分とはかかわりのない)「彼・彼女」(第三者)として「見なす」ことはないか。それでは、相手を「理解」することはできない。
 今、多くの人が「自閉症」という言葉を知っている。また「自閉症児・者」と呼ばれる人を知っている。しかし、「知っている」だけに過ぎない。「わかってはいない」のである。とりわけ、専門家は、相手を「第三者」として見る傾向が強く、そのために「自閉症」の本態・要因を未だに究明できていないのが現状である。ある専門家は以下のような文章を残している。

◆「臨床家の仕事」
・臨床家の仕事はしろうと百姓の畑仕事に似ている。いつもはてしなくまごまごとした仕事があり、始終やっかいなわけのわからぬ問題がもちあがってくる。そのわけはいつもわからないし、うまく説明できない。親や家族は「どういうことですか、どうすればいいのですか、助けて下さい」と言い続ける。
・職業人、とくに臨床家は黙ってはいられない。「わからないので考えています」「まだよくわかっていないことなのです」「よかれと思うことをいっしょに考えてやっていきましょう」・・・。
・ほんとうはそこまでであろう。ところが世の中はそうなってはいない。やむにやまれず、知らないことまで教えようとする。教えているうちに、自分自身が暗示にかかる。その教えを身につけ、信じ、自分が本来知らなかったということを忘れていく。“わからないこと”を“わかっていないこと”だとしておく代わりに、わかっていないことの一面をとらえてそれに名まえをつけ「その名まえの意味していることがらの結果であることがわかってきた」と言い変えるのである。その名まえも通常きわめてsophisticatedなもので、生物学的・学習心理学的だったりする。たとえば、精神薄弱による言語発達遅滞、自閉的傾向、Rh-Child,精神ろう、先天性・発達性失語症、脳損傷、微細脳機能障害症候群、最近では心理神経学的学習障害などがその例である。
・しかし、それはしばしばおおかた虚構であり、実際の児童臨床にはそのままでは使いものにならない。
・それでも臨床家は、それに学び、それに頼るし、それに説明を捜し求めようとする。一方では、個々の子どもに即して、それぞれの好みに従って、自分なりに手さぐりしていく。
・そうしてひとつの臨床理論とおまじないにも似た技法体系ができてくる。これは、臨床家という百姓には宿命的なもののように思われる。(田口恒夫『言語発達の臨床第1集』・言語臨床研究会著・光生館・昭和49年)
 
 今から40年以上前の文章だが《“わからないこと”を“わかっていないこと”だとしておく代わりに、わかっていないことの一面をとらえてそれに名まえをつけ「その名まえの意味していることがらの結果であることがわかってきた」と言い変えるのである》という指摘は、今の現状にも十分当てはまる、ように私は感じる。
 専門家が、親や・家族にかわってその子どもを「理解」することなどできるはずがない。自分が得た知識や経験を「説明」するだけである。なぜなら、専門家にとってその子どもは「第三者」(他人)であり、「一緒に生活している」わけではないからである。だから、親や家族が専門家に「どういうことですか、どうすればいいですか。助けてください」と尋ねても、実は「わからない」のである。もし「わからないので考えています」「まだよくわかっていないことなのです」「よかれと思うことをいっしょに考えてやっていきましょう」と答える専門家がいたとすれば、その人は本当のことを述べている。「わが子のことをわかってくれるかもしれない」と信頼し、頼ってよい人ではないだろうか。

⑷ 相手の「好きなこと」「できること」「良いところ」を見つけ「素晴らしい」と感じる 
 相手を「理解」するためには、「できること」「良いところ」(長所)を見つけ「素晴らしい」と感じることが大切である。そのことが、相手の「能力」を開発し、可能性を発揮することにつながるからである。今、できること、好きなこと、良いところ、優れているところを見つけ、列挙する。反対に、今、できないこと、嫌いなこと、欠点も列挙する。双方を比べて、どちらの数が多いだろうか。前者の方が多ければ「素晴らしい」と感じる《べき》である。「そんなことができても役には立たない」「これができるのだから、あれもできなければならない」などと思うことは禁物である。後者の方が多くても、がっかりしたり、絶望したり、心配したり、諦めたりする必要はない。なぜなら、相手は「生きている」からである。「変化する」からである。
 こちらの「接し方」「かかわり方」によって、相手は「変化」することを《信じる》べきである。
 「できないこと」が「できる」ようになればよい、「嫌いなこと」が「好き」になればよい」、「欠点」がなくなればよい、ということだけを考えて、今ある「好きなこと」、「できること」「優れている」ことを見過ごしていることはないか。目が見える、耳が聞こえる、歩ける、水遊びが好き、ブランコが好き、歌をよく覚える、文字も読める・・・・、そのような「できること」「好きなこと」「優れていること」を見落としてはいないか。
「そんなことができたってしょうがない」と思わずに、相手の「好きなこと」をこちらも「好きになる」ことが大切である。また、「できること」「できないこと」を他人と比べることも禁物である。「あの子はできるのに、まだできない」「できるようになったとしても遅すぎる」などと思わないことである。「一年前にはできなかったが、今はできるようになった」ことを「素晴らしい」と感じることができるかどうか、そのことが、今、こちらに問われているのだ、と私は思う。 (2016.4.19)




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「自閉症」への《挑戦》・3

3.方法
⑴ 調べる
 まず相手の「出生から現在まで」の《生育史》を「知る」必要がある。こちらの立場が「親」ならば、調べるまでもなく熟知している事柄であろう。・胎生期の状態・出生時の状態(時期、分娩の様子、産声の有無)・新生児期の状態(哺乳の様子、泣き声の強弱、体重の増加、黄疸の状態)・乳児期の状態(微笑み、聴覚反応、泣き声の変化、視覚反応、首のすわり、喃語の有無、人見知り、抱きぐせ、はいはい、独り座り、笑う、芸、離乳の状態、つかまり立ち、ジャーゴン)・幼児期の状態(始歩、始語、好きなオモチャ、排尿便の予告、好きな遊び、描画、添い寝の習慣、二語文、すべり台、ブランコ、友だち遊び、、多語文、排尿便自立、衣服の着脱、幼稚園・保育園)、学童期の状態(対話、登下校、集団生活、学習能力、運動能力、作業能力)・少年期の状態(嗜好品、スポーツ、趣味)・青年期の状態(性徴、家事労働、企業労働)・・・、そうした歴史をふりかえり、「こまった」「どうしよう」「変だ」と感じる行動が、「いつごろから始まったか」「どのようなときに始まったか」、その行動は「どのように変化したか(変化しないか)」、その行動に対して、「周囲はどのように対応したか」、また「本人はどのように感じているか」を明らかにすることが必要である。

⑵ 考える
 「自閉症」と呼ばれる子どもの場合、①泣き声が弱かった、②泣き出すとなかなか泣きやまなかった(母の声を聞いても泣きやまなかった)、③寝てばかりいた、④おとなしく手がかからなかった。⑤抱かれることを嫌がった、⑥相手をじっと見つめることがなかった、⑥音がしてもそちらを向こうとしなかった、⑦視線が合わなかった、⑧泣き声が変化しなかった(反射的発声から、怒り泣き・ぐずり泣き・訴え泣き・甘え泣きなどへ)、⑨人見知りをしなかった、⑩抱きぐせがつかなかった、⑪指しゃぶりをしなかった、⑫あやされても笑わなかった、⑬喃語、ジャーゴン(メチャクチャことば)が少なかった、⑭母の後を追わなかった(母が見えなくても平気だった)、ということが「あったか、なかったか」「今も、続いているか」、もし「あった、今も続いている」とすれば、そのことに対して「自分はどのように対応したか」を省みる必要がある。そして、「子どもはなぜそうだったのだろうか」「自分はなぜそのように対応したのか」について《考える》ことが大切である。
 上記①から⑮までの事柄は、出生後2歳頃までに起きる「出来事」である。「そんな昔のことは忘れてしまった、今さら考えたってしょうがない。過去の出来事をほじくるよりも、大切なことは、今どうするか、これから何をすべきか、ということではないか」と考えることは禁物である。なぜなら、「今」は突然「今」になったわけではない。過去の「積み重ね」として、「今」があるからである。さらに言えば、相手を見て「困った」「どうしよう」「変だ」と感じる(相手の)行動の源は、この①から⑮までの事柄と「無関係」ではないのである。むしろ、それらの事柄に端を発して、「今」のような行動が形成されていると考えた方が妥当かもしれない。
 たとえば、子どもが「寝てばかりいて、おとなしく手がかからなかった」とする。その時、自分はどう対応したか。「心配して起こそうとした」、「無理に起こしてはいけないと思いそのままにしておいた」「抱き上げて反応を見た」「手がかからなかったので、うれしかった」等々、答は様々であろうが、その「是非」が問題なのではない。そうした、自分の対応が、子どもの「行動」と無関係ではないと《考える》ことが重要なのである。自分と子どもの関係は「表裏一体」であり、子どもが①から⑮の事柄に該当したのは、自分の対応の「結果かもしれない」と考えることが、「今」から「今後」のことを考える上で極めて重要になってくる、と私は思う。  
 「自閉症」の定義では、第一番に「他人との社会的関係の形成の困難さ」「対人関係の形成が難しい『社会性の障害』」が挙げられているが、その源泉が①から⑮の事柄にあることは間違いないことだろう。そして、その問題を、軽減・改善できれば、おのずと二番目の「言葉の発達の遅れ」や三番目の「興味や関心が狭く特定のものにこだわること」「想像力や柔軟性が乏しく、変化を嫌う」という問題も解決するに違いない。したがって、「自閉症」と呼ばれる子どもと「接し」「かかわる」ためには、まず「他人との社会的関係」「対人関係の形成」をめざすことに特化されなければならない。そしてまた、「それだけで十分」だと、私は考えている。
(2016.4.20)




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「自閉症」への《挑戦》・4

⑶ 相手との「接し方」・Ⅰ
 ①相手に働きかけない
 まず、相手と「同じ場所」「同じ時間」を共にする。つまり「相手と一緒にいる」ことから始める。「できるだけ長い時間、一緒にいる」ことが大切である。そのためには「寝食を共にする」ことが理想である。親や家族はその条件を十分に満たす立場にいる。
 その際、最も重要なことは「こちらから相手に働きかけない」という《原則》である。相手が新生児、乳児の場合を別として、「相手を見ない」「呼びかけない」「話しかけない」「触らない」ことを徹底するべきである。なぜか。相手の方からこちらを「見る」、こちらに「呼びかける」「話しかける」「触ってくる」場面を作るためである。初めての場面では、自分を守るために「相手から遠ざかろう」「回避しよう」と思うことは自然であり、誰もがすることである。したがって、その場から逃げ出そうとしても、やむを得ない。「今、相手はこちらを警戒している」と感じればよいのである。そして「今、自分が相手を脅かす存在になっている」ことに気づかなければならない。初めての場面はそれで終わるかもしれない。しかし「決してあきらめない」、次の機会を「待つ」ことが大切である。
 次は「その場から逃げ出さない」ことをめざす。相手の「好きな物」「好きなこと」を準備して待つ。相手はその「好きな物」「好きなこと」への関心が強く、逃げ出さないかもしれない。「自閉症」と呼ばれる子どもたちは、「人間嫌い」ではない。私たちと同じ気持ちを持っている。人間に対する関心が強すぎて、警戒してしまう。避けようとしてしまう。「近づきたい、でも近づけない、どうしようか」という葛藤(矛盾)を抱えているのではないだろうか。相手の「好きな物」「好きなこと」への関心が弱まり、こちらに対する関心が芽生えるようになるまで「待つ」ことが大切である。
 次は「相手の関心がこちらに向くようになる」ことをめざす。「相手を見ない」「呼びかけない」「話しかけない」「触らない」など《働きかけない》ことを徹底していると、相手は《必ず》こちらを「見る」(窺う)ようになる。こちらはその「気配」を感じ取らなければならない。はじめは、遠くからこちらを「チラッと見る」、こちらの周りを回りながら「しっかりと見る」ようになる。そして、こちらに近づき、「肩でぶつかる」「足を踏んだり」「体を叩いてくる」など、向こうから「働きかける」ようになるのである。大切なことは、相手が「警戒心」を解くことである。「この人物は危険ではない」と《安心感》が持てるようにすることである。もし、相手が近づいて来たら、触りかけて来たら、こちらは「反応」しなければならない。その「反応」が、相手の「関心」をさらに高めるようなものであれば、素晴らしい。肩がぶつかったら「アイタ!」と声を出すのもよい、近づいて来たら「睨んで」「マテマテ」と追いかける素振りをするのもよい。叩いてきたら、その手をつかまえて「抱きしめようとする」のもよい。そうした「かかわり」を相手が楽しむようになれば、成功ということになる。
以上は、相手が幼児である場合の「接し方」「かかわり方」の一例だが、ある臨床家は6歳児男児と「かかわった」様子を以下のように綴っている。
  
◆私は小さな学校で、6歳になるひどくひきこもったひとりの男の子を観察していました。その子は積木で一生懸命に遊んでいました。はじめは積木を高く積んでいましたが、次に階段を作り、それからまたぜんぶ箱の中のハメ板の穴に収めました。(いつも同じ)間違ったところへ入れようとしていた時、教師が手を出そうとしたので、私は急いでそのままにしておくようにと身ぶりで知らせました。自分で考えた仕事をひとつ終わるたびに、子どもは立ち止まってできた作品を満足そうに眺めていました。最後には静かにリズミカルに手を叩き始めました。拍手が終わったとき、すぐそれに続いて私が代わって同じリズムで同じように拍手してみました。その子は私の方を振り向き、一瞬さっと私を見て、それからまた前に向き直って私の拍手に応えてまた手を叩き始めました。そういう「対話」がしばらく続きました。それから私が拍手のしかたを少しかえてみたところ、嬉しいことに子どものほうもそっくりそれをまねてくれました。これもしばらく続き、こんどは子どもの方がリズムを新しいものに変えてきましたので私もその「指示」に従いました。それから子どもはそういう「会話」を続けながら部屋の中をうろうろ歩き始め、しばらくあてもなくさまとったあと、急に気が変わったように「偶然」に私の近くにきて、私のすぐわきの道路で腹ばいになりました。これは興味深いことですが、子どもの足が私にいちばん近い位置になっており、ちょうど私の手の届くところにきていました。そこで私が同じリズムで子どもの足をバタバタ叩いてみますと、それが子どもを喜ばせたようでした。それは、子どもがそれに「答えて」手を叩きながら少し私のほうににじり寄ってきたことからもわかりました。子どもがだんだん近くに寄ってくるので、手を伸ばすと子どもの脚にそれから尻に私の手が届き、おしまいにはジーパンとシャツの間の背中の出ているところをくすぐることもできました。子どもは喜んで身をくねらせながら、さらに近くにすり寄ってきました。残念ながらちょうどその時もうひとりの大人が部屋に入ってきたのでこのやりとりは終わりになってしまいました。その子の教師は、その間ずっと完全にじっと座っていたのですが、子どもが自分から進んでやりとりをしたり声を出したりするのを見て(ここ数週間一度もなかったようなことなので)目をみはるおもいだったということです。(『自閉症治癒への道』(エリザベス・A・ティンバーゲン・田口恒夫訳・新書館・1987年)

 この「かかわり」のポイントは、①子どもが積木を間違ったところへ収めようとしたと時、「教師が手を出そうとした」のを「身ぶりで制止した」こと、②子どもが拍手するのを見て、「私」も拍手したこと、③子どもが(拍手を模倣した)「私」を「一瞥」してまた拍手を始めたとき、「対話がはじまった」と感じたこと、④それを1回で終わらせずに何回も繰り返したこと、⑤こちらが拍手のリズムを変えて、相手の「反応」を探ったこと、⑤相手もそのリズムを模倣した時、「うれしい」と感じたこと、⑥その(話しかけない)「対話」を重ねるうちに、相手が近づいて来たこと、⑦近づいたのは、「触りたい」「触ってもらいたい」という気持ちがあったからではないか、と「私」が判断したこと、⑧その「判断」が的中して「くすぐり遊び」に発展したこと、⑨そのことを子どもが「喜んだこと」、である。中でも重要なことは、①教師の介入を阻止したこと、②子どもの行動を「私」の方が模倣したこと、そして「私」と子どもの両者が「うれしい」「喜び」という感情を「共有」したことだと、私は思う。「接し方」「かかわり方」として、たいへん有益な実践例ではないだろうか。

 さて、相手が青年、成人の場合にはどうするか。「相手を見ない」「呼びかけない」「話しかけない」「触らない」など、《働きかけない》という《原則》は変わらない。しかし、彼らは、幼児に比べて「成長」しているのだから、その能力に応じた「適応」を示すに違いない。「その場から離れようとする」「暴れる」「奇声を発する」ような場合には、やはり、こちらを「警戒」「拒否」していると考えて「無理強い」しないことが大切である。「今日は、対面、同席できた」ことを「是」として、次の機会を待つ他はない。《幼児の場合と同様に》、本人の「好きな物」「好きなこと」「安心できるもの」を準備して「待つ」ことが肝要である。
 幸いにも、「一緒にいる」ことが可能になったとき、相手は「どんな表情か」「何をしているか」を《直視》しないで、「気配」から感じ取る。もし「黙ったままでいる」場合には。こちらも「黙ったまま」相手を「チラッと見る」。「体をゆらしている」場合には、こちらも「体をゆらして」見る。ポイントは、「相手がこちらを見る」回数を増やすようにすることである。そのためには、こちらが「何かを書く」「何かをもてあそぶ」「ウン、ううん」など咳払いや意味のない声をだす」「溜息を吐く」「独り言を言う」「鼻歌を歌う」などの行動を示して、相手の反応を見る。要するに、《対話》のチャンスを作るのである。こちらの行動を見て、相手が「笑った」「同じように真似した」「話しかけてきた」などの場合には《対話》が始まったと考える。
 青年・成人の多くは、ゲーム、パソコン、スマートホン、バイク、電車、装飾品、スイーツなど多種多様な「嗜好」があるはずである。それらを利用して、相手の関心をこちらに向けることを、「あきらめてはいけない」。
 特別な例としては、「相手の方から積極的に」《働きかけてくる》場合がある。相手は、こちらを「警戒」「回避」することなく「接近」して来るのだから、「うれしい」と感じて、こちらが「喜ぶ」ことが大切である。「話し始めたら止まらない」「同じことを何度も質問する」という行動を「困った」「どうしよう」「変だ」と感じる前に、相手は今、「どんな気持ちでいるだろう」「こちらに何を求めているのだろう」「そのことに自分は十分応えているのだろうか」と反省する方が先である。相手は「コミュニケーションを求めている」「話を聞いてもらいたい」「自分を認めて(ほめて)もらいたい」のかもしれない。そのことにどう応えるか、それは、まさに私たち自身の「あり方」が問われる極めて重要な課題なのである。そして、相手の気持ちを「共有・共感」できたとき、不思議とその「困った」「どうしよう」「変だ」という思いは消失するのである。
(2016.4.21)




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「自閉症」への《挑戦》・5

 ②相手のマネをする。
 マネをすることは、古くは「まねぶ」であり「まなぶ(学ぶ)」の語源であるとも言われている。したがって学習は《マネをする》ことから始まる。親と子ども、教員と子ども、という関係の中で《マネをする》のは子どもの側である、と通常は考えられている。しかし「自閉症」と呼ばれる子どもたちの多くは、親や教員の《マネをする》ことが苦手である。お手本となる親や教員に注目しない。しかし、テレビのコマーシャル、や駅構内のアナウンスなどは、巧みに《マネをする》ことがある。なぜだろうか。その原因はよくわからない。直接、対面している相手からは、「回避しよう」という気持ちが強く働いて、相手を見る「気持ちのゆとり」(好奇心)がないのかもしれない。
 だとすれば、まず、こちらに対する「好奇心」を芽生えさせることが大切であろう。一緒にいる時間の中で、相手の「していること」を観察し、こちらも「同じこと」をするのである。たとえば、相手が咳をした。こちらも咳をする。相手が耳をふさいだ、こちらも耳をふさぐ。独り言を言った。こちらもそのマネをして言う。こちらが相手の行動を映し出す《鏡》の役割を演じるのである。そうしたことを繰り返すなかで、相手がこちらを《注目》するようになれば、成功である。ニッコリ微笑んで「そうだよ、マネしたんだよ」という気持ちを伝えればよい。
 しかし、そのことは口で言うほど簡単にはいかない。いくらこちらがマネをしても無反応で終わることが多いであろう。こちらが相手のマネをするのは、相手に好奇心が芽生え「こちらのマネををする」ようになることを期待しているからだ。そう自分に言い聞かせて、相手がこちらに注目するまであきらめてはいけないのである。「奥の手」としては、相手の嫌がることを「わざとやって」反応を見る、という方法もある。嫌がることには、《必ず》注目するからである。たとえば、電気掃除機の音を嫌がる場合、①音を出す、②嫌がって止めに「来る」、③また一瞬音を出す、④また止めに「来る」、しかし「来た」時には音は止まっている、⑤音を出す素振りをする、⑥音を出させまいとして、こちらの手を制止しに「来る」といった《やりとり》(有言・無言の対話)を繰り返しながら、その《やりとり》を双方が「楽しい」と感じられるようになるか・・・。 様々な試行錯誤を繰り返して、相手がこちらに《注目》し、《こちらのマネをしよう》という気持ちになれば、「自閉症」と呼ばれる子どもの問題の大半は改善されたことになる、と私は思う。
 「相手がこちらに注目し、マネをするようになる」ことをめざす《訓練》もある。その際、最も大切なことは行動ではなく、気持ちである。相手の、注目、マネは《自発的》に行われなければ、生活の場に般化されていかないからである。《訓練》として行う以上、注目し、マネすればご褒美がもらえる、という条件を付けることは理解できる。そのご褒美とは、実は「自分が喜ぶためではなく、相手の喜ぶ姿を見ることだ」ということに気づいた時、その《訓練》は成功するかもしれない。しかし、そのことも、口でいうほど簡単にはいかない。
 どの方法で、「こちらに注目し、マネすることができるようにするか」は、子どもの個性が千差万別であるように多種多様であってよい、と私は思う。大切なことは、その成功例を喜び合い、共有し、これからの参考にすることである。
(2016.4.23)




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「自閉症」への《挑戦》・6

 ③相手からの「働きかけ」に応える
 子どもが激しく泣いている。そんな場面はどこでも見られるが、親にとってはあまり嬉しくない出来事かもしれない。何か異変が起きたのかと心配することは当然である。しかし、思いあたることがないのに泣いている。しかも、泣きやまない。周囲から苦情が来ないか、親の育て方が悪いと抗議されないか、虐待しているのではと疑られやしないか。そして《親の方が泣きたいくらいだ》と絶望的になる。そうした事例は少なくないだろう。この時、留意しなければならない点は、親の気持ちが、子どもよりも「周囲」の方に向かっている、ということではないだろうか。私自身も教員時代(知的障害特別支援学校)、校外学習や散歩学習などの折りに、生徒からの「働きかけ」(を尊重したつもりで)どおりに、行き先を決め、いざ集合、帰校の段になって、「もっと向こうに行きたい」「まだ帰りたくない」と泣き叫ばれ、途方に暮れた経験がある。その場に居るのは私と生徒の二人だけ、たちまち周囲は人だかりとなり「どうした?」「何やってるんだ」という声が聞こえる。その方が気になって、生徒と向かい合って「やりとり」をする余裕がなかった。しかし、その責任は私にある。私の(生徒からの「働きかけ」を尊重したつもりの)「接し方」「かかわり方」がその事態を招いたのだから、と反省している。
 子どもは乳幼児期、泣くことによって周囲に「働きかける」。とりわけ、まだ言葉で訴えられない場合は、泣くことがコミュニケーションの重要な手段である。子どもは泣くことで《話している》のだ。親は、「わが子はすでにコミュニケーションの第一歩を踏み出した」と考えて、その泣き声から子どもの気持ち(意図)を感じ取らなければならない。周囲のことを気にしている場合ではないのである。自立心をやしなうために、思いあたることがない場合は、泣き疲れて眠るまで「放っておくのがよい」という専門家もいるようだが、それは「子どもが話しているのに、親は無視すべきだ」と言うことと同じである。子どもは、絶望して泣かなくなるだろう。そこからコミュニケーションの断絶状態が始まる、と言ってよい。「自閉症」と呼ばれる子どもたちは、「一度泣き出したら、なかなか泣き止まなかった」場合と「ほとんど泣くことがなく、おとなしく手がかからなかった」場合に分かれるかもしれない。しかしどちらの場合も、「自閉症」と呼ばれない、他の子どもたちにも頻繁に見られる事柄であり、《程度の差》に過ぎない、と私は思う。大切なことは、そうした事柄に対して、こちらがどのように接したか、どのような手を打ったか、を振り返ることである。後者の場合には、「働きかけ」が少なかった分だけ、親との「やりとり」(コミュニケーション)も乏しくなってしまったことは当然でろあろう。
学齢期以降になると、泣く頻度は激減する。自分の気持ちや意志を言葉で表現することができるようになるからである。同時に泣くという行為の意味も変容する。それまでは、訴えや怒り、憤りなどの感情表現だけだったものに、(情操にかかわる)淋しさ、哀しさ切なさ、さらには素晴らしさ、喜びの表現までが加わるのである。
 青年・成人期になると、特別な場合を除けば、人前で泣くことはほとんどない。しかし、泣く行為は、情緒を安定させ、体調を整える(自律神経を調整する)ためにも有効・有益だとされている。
 「自閉症」と呼ばれる子どもたちもまた、幼児期を過ぎ学齢期を迎えると「ほとんど泣かなくなる」ことが多いようである。青年・成人期も同様である。もし、泣くような場面が生じたとすれば、それを、こちら側への「働きかけ」だと考えて、大切に受けとめなければならないと、私は思う。
 相手からの「働きかけ」は、泣くことだけではない。笑いかける、話しかける、触わってくるなど《好意的》な「働きかけ」に対しては、それぞれの方法で《好意的》に応じればよい。中でも、幼児期「手をつなぐ」ことは大切である。危険防止のためよりもスキンシップ(手の温もりを感じ合う)の喜び(親近感・安心感)を味わうことが素晴らしいのである。相手が「おんぶ」や「抱っこ」をせがんだり、手をつなごうとしてきたら《無条件》に応じなければならない。最近ではベビーカーで移動することがあたりまえになっているが、それは拘束して輸送していることに他ならない、その分だけスキンシップが減り、相手との距離を拡げる結果になることを肝銘すべきである。              
 学齢期以降、青年期・成人期の場合には、握手、ダンス、抱擁などのスキンシップが有効であろう。相手がそれを求めてきた場合には、社会常識の範囲内で応じることが必要である。
 では反対に、にらみつける、怒鳴りつける、殴りかかるなど《攻撃的》な「働きかけ」に対してはどのように応じればよいか。また、いわゆる「パニック」などに対してどのように応じればばよいか。
 まず第一に、こちらの身を守ることが肝要である。相手を加害者という立場に追い込んではならない。また、自分が加害者になってはならないことも当然である。
 無視する、その場から離れることが原則だが、相手の行動を(できれば)制止することも許されるだろう。しかし、できることはそこまでである。
 第二に、相手の気持ちを鎮めることである。そのためには、こちらの気持ちを鎮めることの方が先である。お互いに人間同士、感情が高ぶることは否めない。しかし「つい、カッとなって」などということは、こちらがどのような立場であっても許されないことである。
第三に、相手がそのような「働きかけ」をするに到った経緯を振り返ることである。何が原因であったかを突き止めることである。多くの場合、こちらにとっては「何が何だかわからない」ということになるだろう。わかっていれば手が打てたはずだからである。しかし、これもまた多くの場合、そのことが《原因》なのである。つまり、相手がこちらを《攻撃する》動機が、こちらの側にあったにもかかわらず、そのことに気づいていない、「相手の側にある」とばかり思い込んでいる、言い換えれば双方の「(コミュニケーションの)断絶状態」が原因なのである。
 「パニック」は、①自分の思いが通らない、制止される、②嫌なことを無理強いされる、③恥ずかしい思いをさせられた(侮辱された)、など攻撃の対象が存在しており、それが直接当事者に向かう場合と、他の物品に向かう場合(八つ当たり)と、自分自身に向かう場合(自傷)に分けられるかもしれない。いずれも、その原因は「こちら側にあった」のである。さらに重要なのは、④「相手の気を引こうとする」場合があるということである。誰にも相手をしてもらえないで放置される、そうした淋しさ、虚しさを《自分は言葉で訴えられない》という憤りを爆発させたのかもしれない。《自分が暴れれば誰かが来てくれる》という期待があったかもしれない。よく言われるように、⑥「恐怖(外傷)体験を思い出した」という場合も考えられる。本人がそのように述べていることもあるので「信じる他はない」が、その根拠は判然としない。幻視、幻聴、妄想など「精神疾患」があるのだろうか。あるいは、体内の「内部感覚(の異常)」が、そのような症状を引き起こしているのだろうか。究明されなければならない課題である。
 以上、⑥の場合を除けば、「パニック」の原因は、すべて相手があり《こちら側の問題》だということになるのだが、現状では、ほとんど⑥のように《本人の側の問題》にされているように思われる。 
(2016.4.24)




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「自閉症」への《挑戦》・7

⑷ 相手との「接し方」・Ⅱ
 これからが、いよいよ正念場である。 
 まず初めに、相手とこちらの関係を見直し(振り返り)、《機は熟しているか》を判断することが大切である。①相手はこちらを見るか、②近づいて来るか、③視線を合わせるか、④こちらのマネをしようとするか、そして何よりもまず、⑤相手はこちらと「一緒にいる」ことを心待ちにしているか、十分に楽しんでいるかを見極めなければならない。もし、すべての項目をクリアしていたら《機は熟している》のである。そして、自分もまた、⑥相手が来ることを心待ちにし、一緒にいることを「十分に楽しい」と感じなければならない。
《基本的な方針》 
・「自閉症」という《問題》と、正面から向き合うことが基本である。その問題とは、すでに述べたように「対人関係を形成する」ことである。そして、これまでの経過の中で、相手はこちらに注目し、近づき、マネをしようとし始めている。対人関係は形成されつつあるということである。だとすれば、相手とこちらの気持ちが《通じ合う》ようにすること、その《通じ合い》をさらに強化して、相互の気持ちを共有・共感できるようにすること、が基本的な目標になる。言い換えれば、いわゆる「こころの理論」を構築することであり、相手がこちらの「こころ」を読み取れるようにすることである。そのためには、まず、こちらが相手の「こころ」を共感・理解しなければならないことは、言うまでもない。・《通じ合う》気持ちは、不安・緊張から安心へ、安心から好奇心へ、好奇心が面白さへ、面白さから嬉しさ・喜びへ、喜びから淋しさへ、淋しさから悲しみへと拡がっていくことをめざす。同時に、相手を喜ばせる、共に喜び合うことを通して、自信、意欲、期待、愛着、希望、感動といった「心情」も育てたい。一方、相互の対立・葛藤を通して、怒り、憤り、不満、悔しさ、恥辱といった「感情」を引き起こし、それらをコントロールできるようにすること(自己統制)も不可欠である。要するに、「喜怒哀楽」の感情を豊かにし、そのことを「対人関係の形成」を図る《手段》とすることを基本とする。
・相手が「乳幼児」である場合については拙稿『「自閉症児」の育て方』で既述したので以下「学齢児以降」の場合について述べる。

①「豊かな表情」で接する
 人の表情は千差万別である。無表情な人もいれば豊かな人もいる。しかも、その表情は(鏡に映さなければ)自分ではわからない。また、人の気持ちは表情に現れる。こころに動きがなければ表情も動かない。「一瞬、固まった」「凍りついた」などと言われる表情は、不安・緊張・恐怖の現れである。「和らいだ」「穏やかな」などと言われる表情は、安心、安堵、愛着の現れである。したがって、その人の表情を見れば、こころの状態を察することができる。以下、二つの事例(私が見聞した実際の人間模様)を紹介する。

【事例・1】
 場所はある野球場の喫煙所。スーツにネクタイ姿の青年が煙草を吹かしている。肩からはカバンを架け、どこにでも見られるサラリーリーマン風の容貌であった。しかし、少し近寄ると、小声で何か呟いている。「独り言」が止まらないのである。そこに、中年の男性がやってきた。煙草を口にくわえて、ライターを探している様子、青年はすかさず「ライター!」と言って、自分のライターを男性の前に差し出した。男性は「ありがとう」と言って受け取ろうとした。しかし、青年は手渡すのではなく、男性の鼻の先で着火した。男性はやや戸惑いびっくりした様子で、その火に顔を近づけ煙草を吸った。そして、青年に黙ってお辞儀をした。少し離れてから、ズボンのポケットにある自分のライターを取り出し、眺めた。その時、ヘッドホンをした少年が体を揺すりながら、少し微笑んでその男性に声をかけた。何と言っているかはわからない、男性は少年に応えた。「そこで待って居なさい」。この間、青年と男性は一貫して《無表情》であった。
【事例・2】
 その野球場からの帰り道。観戦を終えた人たちが混雑しながら駅に向かって歩いている。その時、リュックサックを背負い、野球帽を被った青年の、やや大きめの声が聞こえた。「お父さん、ヤクルトの試合も見ますか」。しかし、誰に話しかけているのかわからない。青年は、何度も同じ言葉をくり返している。しばらくすると、その青年は、二、三人隔てた所を歩いている老紳士に話しかけていることがわかった。青年は「ねえ、お父さん・・・・」と執拗に話しかけるが、老紳士は応えない。終いに青年は「お父様!」「パパ!」などと呼びかけるようになった。でも老紳士は《無反応》を続け、青年の方を見ることは一度もなかった。やがて、二人は人混みに紛れ見えなくなった。

 この二つの事例を見聞して、私は、「自閉症者」と呼ばれる青年・成人とその家族たちが、今、どのような「接し方」をしているか、その可能性と問題点を学ぶことができた。
【事例・1】の青年は、ライターを探している男性の気持ちを察して、自分のライターを提供した。ネクタイを締め、きちんとスーツを着こなしていることからも、自分を含めて周囲の物事によく気がつく、という素晴らしさを持っている。それがこの青年の可能性だと思う。しかしまだ、相手の男性が「手渡してほしい」と思っていることまでは気づかない。一方、青年のサービスを拒まなかった男性の応じ方も素晴らしい。それは、自分の息子も「自閉症児」と呼ばれている、父親としての経験に因るものだろう。「ありがとう」と言って、一瞬、気持ちが《通じ合えた》のだが、そのことを「表情で伝える」(笑顔で応じる)余裕がなかったと私は思う。しかし、公衆の場で、そのような《やりとり》を自然に行った二人に拍手を送りたい気持ちでいっぱいになった。【事例・2】の青年は、野球観戦の興奮が冷めやらず、懸命に父親に話しかけている。そこには「面白かったね、また来ようね。ヤクルト戦も見たいなあ」という気持ちが込められていたかもしれない。父親もまたそのことは十分に察していたはずである。しかし、無表情・無反応な「接し方」を貫き通した。私も父親の気持ちがよくわかる。もし、笑顔で応えれば、息子の興奮はさらに高まり大騒ぎするかもしれない。周囲は驚くだろう。周囲に迷惑をかけたくない。だから今は「息子よ、申し訳ないが、今はお父さんは黙るしかないのだよ」と思っていたかもしれない。そして多分、周囲が家族だけになったとき、父子の対話が始まるに違いない。息子は喜びを現して父親に話しかける。しかし父親は応じられない。その結果、息子の気持ちは父親から離れていく。そうした状況をどうすればよいか、父親が応じられないという状況を作り出しているのは誰か。この青年もまた多くの可能性をもっている。しかし、その可能性が「自閉症」というレッテルによって「立ち枯れてしまう」ことがないよう、「あきらめてはいけない」と私は思う。

 「豊かな表情」とは、「和らいだ」「穏やかな」ものだけではない。無表情も含めて、時には険しく、冷たく、歪み、時には愁いを込め、また時には「破顔一笑」「満面の笑み」というように《千変万化》しなければならない。こちらは、その様子を相手に「見せる」ことが必要である。「泣き顔は見せたくない」ものだが、今はあえて「恥を忍んで」大げさに、表情を変化させることが大切なのだ。そこから、こちらの気持ちを相手が察することができるようになるために。相手が乳幼児であれば「にらめっこ」「いないいないいばあ」などの遊びも活用できるだろう。今は、それに匹敵する「おとなの遊び」を創意・工夫する時なのである。
(2016.4.25)




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「自閉症」への《挑戦》・8

② 「物のやりとり」をする。
乳児期、辺りにある物を手にとって渡す、「ありがとう」とこちらが喜ぶと、また手渡す。こちらが「もういいよ」と言っても、さらに手渡す。今度は、こちらがお菓子を手渡すと「アンガト」などと言って受け取る。「モット」「チョウダイ」と言って手を重ねたりするようになる。そうした繰り返しが「物のやりとり」の始まりである。そのやりとりが確実になると、相手との距離が離れてもできるようにになる。《キャッチボール》がその代表である。ボールを相手に向かってころがすと、受けとめて、ころがし返す。
 したがって学齢期以降の場合も、《キャッチボール》がスムーズにできるようになればよい。大切なことは、ボールをやりとりしながら、《気持ちを合わせる》ことである。①相手の目を見る(これから投げるよ、用意はいいかという意味が含まれる、手を上げて知らせてもよい。ボールを見せてもよい)、②相手もこちらの目を見る(準備OKという意味が含まれる)、③投げる(相手が受けとめやすい位置、スピードに留意する)、④受けとめる。⑤双方が喜ぶ(ナイスキャッチ)、⑥相手がこちらの目を見る(投げ返すサイン)、⑦「OK」というサインを送る、⑧投げ返す。このサイクルを「何回繰り返すか」、が重要である。回数は多ければ多いほどよい。その間中、こちらと相手の気持ちは《通じ合っている》からである。相手が「やめよう」と言うまで続けるべきである。
《キャッチボール》は、様々な球技に発展する。ピンポン、バトミントン、テニスなどの個人競技から、野球、バレーボール、バスケット、サッカー、ラグビーなどの団体競技に至るまで、その基本原理は変わらない。
 室内の活動では、トランプ、囲碁、将棋、オセロ、パズルなどのゲーム、掃除、片付け、運搬、洗濯、炊事など家事労働を「二人一組」で行えば、「物のやりとり」が不可欠になる。物を媒介として、「二人一組」の関係が、三人、四人・・・、やがてチームという集団に拡がっていく。そこでも《気持ちを合わせること、通じ合わせる》ことが大切であることは変わりない。
 「自閉症」と呼ばれている人の場合、まず「二人一組」という形態で「物のやりとり」を十分に、確実に行うことが重要である。初めからスムーズにできることはないだろう。しかし、あきらめてはいけない。スムーズにできない原因は「こちらにある」と考えて、様々な試行錯誤、創意工夫を重ねるべきである。少なくともこちらは、そのやりとりを「楽しい」と感じなければならない。相手が好きなゲームがあれば、そこに介入して「二人一組」でやる。好きな食べ物があれば「二人一組」で調理する。一緒に物を運ぶ。一緒に部屋を片付ける。遊びや生活の中で、はじめは1回10分程度でよい、それを毎日くりかえすことが大切である。 
 次に、相手の「反応」と「変化」を学ぶことが重要である。そのやりとりを相手が拒否したか、応じたか。緊張したか、喜んだか。初めは拒否したが、徐々に応じるようになり、今では相手から催促するようになった、初めは緊張したが、表情がやわらぎ、笑顔が見られるようになってきた、そのような変化が見られれば、やりとりは成功である。反対に、いつも拒否する、緊張した状態が続くとすれば、「無理強い」しても意味がない。そのやりとりは中止して、別のやりとりを模索しなければならない。大切なことは、あきらめないことである。時間はいくらでもある。相手が生きている限り、そしてこちらも生きている限り、「変化」は期待できるのだから・・・。
(2016.4.28)




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「自閉症」への《挑戦》・9

 ③ スキンシップでかかわる
 「スキンシップ(和製英語: skin-ship)は、母親と子供を始めとする家族関係にある者や、ごく親しい友人同士が抱きしめ合ったり手を握り合う、あるいは頬ずりするなど身体や肌の一部を触れ合わせることにより互いの親密感や帰属感を高め、一体感を共有しあう行為である」(ウィキペディア百科事典)
 したがって、「自閉症」と呼ばれる人たちと「接し」、最近距離で「かかわる」ことができるかどうか、「ごく親しい友人同士」という関係を作れるかどうか、こちらにとっては最大・難関の課題である。
 通常、人間は相手との距離を3メートル以上おかないと緊張する。「ごく親しい友人同士」であれば1メートル以内でも許される。さらに近づいて親密な関係になれば45~15センチ以内での「かかわり」も可能になる。つまり、その距離が縮まれば縮まるほど、他人同士であれば緊張が高まり、友人同士であれば親密感が増すということになる。相手が乳幼児の場合であれば、だっこ、おんぶ、かたぐるま、高い高い、お馬さんごっこ、手つなぎ、おしくらまんじゅう、など様々な活動が考えられるが、学齢期以降、まして青年、成人が相手となると、方法は限られてくる。
 最も自然な活動は、学齢期であれば、すもう、レスリング、海水浴、青年・成人期であればダンス(フォークダンス、ディスコダンス、社交ダンスなど)やスポーツ(プール遊び、ラグビー、格闘技など)、さらには遊園施設のアトラクションなどであろう。温泉施設に一緒に入るのもよい。マッサージやタオルでのブラッシング(乾布摩擦)なども有効ではないだろうか。 
 そうした活動を重ねることによって、いつでも、お互いが抵抗なく3メートル以内に入り合える関係を築くことが必要である。また、出会いや別れるときの「ハイタッチ」「握手」「抱擁」などが、自然にできるようになれば成功である。  
 「スキンシップ」は、相手の皮膚感覚(場合によっては嗅覚)を刺激するので、相手に「感覚過敏」があると思われるときは、細心の注意が必要である。しかし、親密感、帰属感、一体感を高めるためには、きわめて重要な「かかわり方」であると、私は思う。 
 『我、自閉症に生まれて』(学習研究社・1994年)の著者。テンプル・グランデン博士(動物科学分野)は、6歳時に自閉症と診断されたが、〈自分自身の神経的発作や触覚刺激に対する過剰反応を抑制するために、牛樋からヒントを得て、17歳で「締めつけ機」を試作し始める。現在、改良された「締めつけ機」はさまざまな施設で利用されている〉(同書・裏表紙)と紹介されている。博士は、自分で自分の体を締めつける機械を作り、情緒の安定を図った。幼児期、触覚過敏のため「触られ」ることには激しく抵抗したが、一方で「抱きしめられる」という圧覚は、快感として求めていたことがよくわかる事例である。その安定感が、他人に対する親密感、帰属感、一体感を生み出し、以後の、めざましい社会的活躍(→28歳時、アリゾナ州立大学修士、→42歳時、イリノイ大学博士、→コロラド州立大学助教授、→「グランディン・畜産動物扱いシステム会社」社長)を可能にしたのだと、私は思う。 
(2016.4.29)




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「自閉症」への《挑戦》・10

 ④「対話」(言葉のやりとり)をする。
 「自閉症」の定義の中に、第二の特徴として「言葉の発達の遅れ」が挙げられている。かつては、それをまず一次的な障害として考えられたこともあるほど、周囲には目立つ(気になる)特徴である。それは、要するに「言葉が通じない」(コミュニケーションの障害)という問題に帰結するが、気持ちが通じないから言葉が通じないのか、言葉が通じないから気持ちが通じないのかは、専門家の間でも見解が分かれるようだ。「初めに言葉ありき」とは新約聖書の言葉だが、本当にそうだろうか。言葉がなければ周囲の事物を正しく認識することができない、相手の心情を理解することもできない、という意味だとすれば、それは《誤りだ》と私は思う。言葉は認識や表現の「過程」で用いられる媒体に過ぎない。言葉がなくても(言葉が通じなくても)、「見ればわかる」のである。事実、「自閉症」と呼ばれる人たちは「見て理解する」、視覚優位型の認識をしているケースが多い。私たちもまた、外国映画を字幕なしで見れば、そのような見方をせざるを得なくなるのである。登場人物の「対話」を理解できないのでよくわからない。しかし「全くわからない」ということはないのである。「自閉症」と呼ばれる人たちの多くは、多分、そのような状態におかれているのではないか、と私は想像する。
したがって、相手と「対話」(言葉のやりとり)をするためには、まず相手の「言葉の遅れ」の実態を的確に把握することが必要になる。①全く声を発しない、②声は出すが言葉にならない、③一語文(単語)で話す(名詞で話す、形容詞で話す、動詞で話す、間投詞で話す)、④二語文(句)で話す、⑤三語文以上(多語文)で話す。⑥普通に話す(日常会話に支障はない)。同時に、こちらの言葉をどの程度理解できるか、を把握することが重要である。①全くわからない、②声の調子(怒っている、励ましている、ほめている等)はわかる、③単語で話しかければわかる、④句で話しかければわかる、⑤文で話しかけてもわかる、⑥長文の話しかけでもわかる。
 多くの場合、こちらが相手の実態を的確に把握していないため、双方の「対話」が成り立たない。その結果、相手は「言葉の発達の遅れ」があると「見なされて」いるのではないか。大切なことは、相手の実態に合わせて、(こちらが)「話しかける」(対話を始める)ことである。
 相手の実態が①や②の場合には、こちらは「声のやりとり」を重視しなければならない。その方法は、乳幼児を相手にする場合と《原理》は変わらない。また「自閉症」の「言葉の発達の遅れ」はその辺りに端を発していると思われるので、以下、乳幼児を対象にした「声のやりとり」の方法について述べる。

◆生後1か月頃になると、乳児は「泣く」とき以外にも「声」を出すようになる。授乳後、満足して、気分がいいときなど、「アー、ウー」「オックン」など、いかにも「話をしている」様子に見受けられる。いわゆる「喃語」である。親は、この「喃語」に対して、《無条件に》応えなければならない。「そう、お話してるの」「オー、オー、そうなの」「おなかがいっぱいなの」「うれしいの」、乳児は(親の顔をじっと見ながら)その「声」を聞いて、それに応えるかのように、ますます「声」を出す。という状態になれば、「声のやりとり」の「第一歩」が始まったのである。この「やりとり」は、将来、子どもが「言葉を獲得」するための必須条件である。それを繰り返し重ねることによって、当初は、短かった発声も、「力強く、長く」なり、「ナンナンナンナンナー」「マンマンマンマンマー」などと、同じ「音」を繰り返したりする。親は、それを聞いたら、子どもの「発声」を、そのまま「オウム返し」のように応えなければならない。子どもは、その親の「声」を聞いて、自分が「どのような声をだしているか」に気づくからである。
 そうした「喃語のやりとり」を続けていると、子どもは、母音の他に、両唇音(マ、バ、パ)、前舌音(タ、ナ、ダ)、奥舌音(カ、ガ)など、唇や舌を使った複雑な「構音」もできるようになる。乳を飲むときに使う口内器官を、そのまま「発声・発音」に活用する。まだ、その「発声」に特別な意味はない。子どもは、自発的に「発音」の練習をしているのである。親は、この練習にも《無条件に》応じなければならない。子どもの「発音」をそのままマネして聞かせるのである。さらにまた、親の方から、「マンマンマン」「バンバンバン」「ナンナンナン」「タンタンタン」などという「声」を聞かせ、子どもが、そのマネをしようとするかどうか、観察する必要がある。その「やりとり」が、将来の「始語」(初語・一語文)につながるからである。
 子どもは1歳前後になると「ママ」「マンマ」などという「単語」を話しはじめ、次第に「ババ」「ネンネ」「ナイナイ」「バイバイ」などという「言葉」を使い分けられるようになるが、そのためには生後3か月以降ほぼ1年間、以上のような「声のやりとり」が必要・不可欠なのである。また、「声」は「意味の伝え合い」以上に、「気持ちを伝え合う」アイテムとして、極めて重要である。「喃語」は、徐々に「ジャーゴン」(意味不明なメチャクチャ言葉)に発展するが、その中には、子どもの様々な「気持ち」が込められている。特に、「アーア」「エッ」「ワーオ」などという「声」(語調)からは、明確な気持ちを読み取ることができるだろう。それらは、すでに「感動詞」の役割をはたしているのだから。
 親は、子どもの「ジャーゴン」を大切にしなければならない。その中から、「意味のある」言葉(いわゆる幼児語)が誕生するからである。親が「ジャーゴン」に応じず、大人の「標準語」だけで話しかけていると、子どもは、それに応じることができない。「やりとり」の手段を奪われ、自分の気持ちを十分に表現できなくなるかもしれない。そのために、フラストレーション(欲求不満)が高まり、過度なストレス(緊張感)が生まれるかもしれない。
 「自閉症児」(と呼ばれる子ども)の場合、以上の「声のやりとり」が十分に行われてきたか、を「徹底的に」検証する必要がある。「喃語はあったが、活発にならなかった」「言葉を話しはじめたが、消えてしまった」「(幼児語はなく)いきなり標準語を話しはじめた」「ジャーゴンが今でも続いている」「独り言は多いが、対話にならない」などという事例は、数多く見られるようだが、その原因が、子どもの側にあるのか、親の側にあるのか、(推測ではなく)「事実」にもとづいて究明しなければならない、と私は思う。

 かつての職場で、いつも決まって「ハーオエー」という声を発する中学生に出会った。修学旅行に引率した際、電車に乗り込むとすぐに「ハーオエー」と叫ぶ。乗客は「何事か?」と」注目する。降りようとする時もまた「ハーオエー」と叫ぶ。乗客は注目する。山道を歩きながら、彼の姿は見えないが「ハーオエー」という声だけが聞こえる。宿舎で夕食をいち早く食べ終わり、また「ハーオエー」と言う。彼はその声で「対話」をしていたのだ、と私は思う。電車の場面では「今、ボクはこの電車に乗ります。よろしくお願いします」「これからボクは降ります。皆さん、どうか楽しい御旅行を!」。山道の場面では「ヤッホー、みんな元気で歩いているか!、がんばれよ!」。食事の場面では「もうボクは食べ終わったぞ、早くしろよ」などという意味が込められていたに違いない。しかし、周囲の者はそのことに気づかなかった。ただ「奇声を発する」とだけ受けとめて、「静かに!」と制止するだけであった。その彼が一時、宿舎で行方不明になった。一同は、あわてて捜索したが、迷路のようなホテルの中で迷ったらしい。ひょっこりエレベーターの中から「無言」で現れた。どうして、あの、いつもの声を発しなかったのだろうか。彼の顔を見れば、表情は固くこわばっている。よほど、恐い思いをしたのだろう。声を出す気持ちのゆとりがなかったのだろう。日頃から、彼と「声のやりとり」を重ねていれば、もう少し早く救出できたのに、と私は心底から後悔・反省したのである。

 「自閉症」の「言葉の発達の遅れ」の中に《一本調子で話す》《紋切型の話し方》などが挙げられているが、その原因としては「声のやりとり」(声で気持ちを伝え合う)ことが不十分であったことが考えられる。したがって、相手の実態が、③以上の場合には、ことさら「語調」を強調して話しかけた方がよい。その語調を相手がマネすれば、時と場面に応じた「話し方」ができるようになるのではないだろうか。ともすれば、こちらの話し方の方が一本調子になっていないか、紋切型になっていないか。そのことに留意することが大切である。
 
 さて、相手との「対話」をどのように進めればよいか。「対話」とは《言葉のキャッチボール》のことである。それをスムーズに展開させるためには、また双方が楽しめるようになるためには、《ボール》に相当する物を準備するのがよい。たとえば、絵カード(鉄道、自動車、プロマイドなど)、文カード(四字熟語、俳句、ことわざカードなどが市販されている)、カルタ、百人一首などである。こちらと相手がそれらを媒体として「言葉のやりとり」をするのである。こちらが名前や文を読み上げて、相手が該当するカードを拾い手渡す。役割を交代して、相手が読みこちらが拾う。その活動は、物のやりとりをしながら、同時に「言葉のやりとり」をしているのである。それらの媒体は、いわば話題である。留意点としては、「正確さ」を求めないことである。相手が間違ってもよい。双方が「楽しい」気持ちを共有することが何よりも優先されなければならないからである。 
 双方が十分に楽しんだ後は、図鑑や新聞、カタログ、パンフレットなどを前にして「言葉のやりとり」をすればよい。次第に、媒体がなくても「自由」に会話ができるようになることをめざすのである。
 自由な会話の《原則》は、相手を困らせない、黙らせないことである。①相手を問い詰める、②相手をからかう、③相手を批判することは、厳に慎まなければならない。「冗談を言う」ことは許されるが、その前に相手の理解が不可欠である。そのことは、相手が誰であっても「社会常識」であろう。
 また、相手が《オウム返し》(エコラリア・反響言語とも言う)で応じる場合がある、そのこと自体は、何の問題もない。誰でも、幼児期には経験していることだからである。《オウム返し》は、「今、あなたはこのように話したのですね」という意味が含まれており、確認の証である。かつて日本の軍隊は、命令に対する「復唱」として《オウム返し》を推奨・強制したこともあった。しかし、意味もわからずに《オウム返し》をする場合はどうか。「あなたの言うことがわかりません、でも応えなければならないので、とりあえず復唱します」という気持ちが込められているかもしれない。あるいは「もう、そのお話は結構です、話題を変えましょう」という意味かもしれない。相手が《オウム返し》をしたら、こちらもマネて様子を見ることである。双方が言葉を繰り返して笑ってしまった、それが相手と対話する際のキーワード、キーセンテンスになってしまったなどという場合はそれでよい。しかし、相手が黙ってしまった、怒ってしまったというような場合には、「こちらの話しかけ方が悪かった」(相手の応えられないことを言ってしまった、相手の興味がないことを話題にしてしまった)と反省するべきであろう。
 
 福井大学教授・熊谷高幸氏は『自閉症からのメッセージ』(講談社新書・1993年)という著書の中(第4章・自閉症の言語世界)で、「なぜオウム返しをするのか」について記述している。その内容を私なりに要約すると、以下の通りである。 
◆《なぜオウム返しをするのか》(要約)
・自閉症児が「オウム返し」をするわけを知るには、言語の問題の中だけで考えず、行動の問題に戻って考えてみる必要がある。
・自閉症児には行動プログラムを立てる力があまり育っていない。ゴールを自分で定め、道筋をつくっていない。彼らは、意思決定者としての自分に気づいていないのである。
・だから、「どこに行くの?」と聞かれても、ゴールが明確となっていない。また「何を食べる?」と聞かれてもゴールを選べない。
・さらに、「みかん食べる?」というような具体的な質問に対してもイエス・ノーの答を出せない。健常な子どもが三歳頃のいわゆる「第一反抗期」によく言うような「イヤ」という言葉を、彼らはなかなか口にできないのである。
・行動プログラムというものは、自分の意図と他人の意図が衝突したり、自分の気持ちをまわりの人に意思表示する中で明確になり、強められるものである。だから、行動プログラム発達のためには、人々と共にいること、そして言葉を獲得することが欠かせない。言葉は人々が互いの行動プログラムを照らし合うために発生したが、次第にその働きは過去や未来にも及び、前節で考察したような出来事の分析装置となったと考えられる。
・以上の理由で、自閉症児は、質問者が自分のことを意思決定者として見つめ、行動のおもむく先を尋ねているのだと理解できない。そこで、表層の音のつながりだけを再現して。その場を切り抜けようとしているのだ。
・このような子どもには、まず、複数の物(または事柄)の中から一つを選ぶことから指導していく必要がある。目に見えやすい形で選択肢を用意し、どちらがいいか、または正しいかを聞き、取るか、指さすか、または言葉で答えさせ、その答を確認していく。こうして、自分の意志を人に伝えられるようになっていくことが、オウム返しを解消するための前提となると考えられる。他方、「みかん食べる?」に対して「ミカンタベルヨ」と言わせる、会話のルールに合わせた技術的な方法は、言葉の表面だけを捉えさせるだけで、その答は、本当に彼自身の意思となっているかどうかは疑わしい。このような方法がうまくいくのは、すでにその自閉症児自身が行動の方向を自覚しつつある場合なのではないだろうか。
◆以上に対する、私の感想は以下の通りである。
・ここでは、自閉症児がオウム返しをするわけについて、「質問者が自分のことを意思決定者として見つめ、行動のおもむく先を尋ねているのだと理解できない。そこで、表層の音のつながりだけを再現して。その場を切り抜けようとしているのだ」と述べているが、それでは自閉症児はなぜ質問者の意図を理解できないのだろうか。
・まず、「何」「どこ」「いつ」「誰」などという《疑問詞》の意味を正しく理解されているか、またそれらを使った《疑問文》で自分が「尋ねられている」という(立場の)関係を理解しているか。これまでに、《質問→答える》という「やりとり」をどの程度、経験してきたか、という観点が必要だ、と私は思う。「オウム返し」は、「その場を切り抜けようとしている」場合も「ない」とは言えないが、相手の言葉を「確かめる」「模倣する」ためにも使われることの方が多いのではないだろうか。1~2歳の幼児には誰にでも見られる言語活動である。大切なことは、自閉症児の言語発達が「まだそのままの段階に留まっている」と認識すること、だと思う。
・著者はまた「行動プログラムの発達のためには、人々と共にいること、そして言葉を獲得することが欠かせない」とも述べているが、人々と共にいて、言葉を獲得するためには何が欠かせないか、ということについては言及していない。私の独断・偏見では、それは言葉以前の、ノン・バーバルなコミュニケーションの経験である。子どもはその中でイエス・ノーの気持ち、「何?」という問いかけの気持ちを体験し、また、相手の模倣をすることによって言葉を獲得していくと考えられる。「オウム返し」の段階に留まっている自閉症児は、「相手の模倣」という行動は学んでいるが、相手と共にいることの「楽しさ」「喜び」を味わうことが不足しているのだろう。相手が登場するのを見て「誰?」と思い、差し出された物を見て「何?」と思うのが自然な姿なのに、彼はそれ以前に、その場面を「回避」してしまうからである。通常、子どもは2歳頃になると、さかんに何?と問いかける。3歳を過ぎると「どうして?」「なぜ?」と問いかける。   
・自閉症児には、そうした「質疑ー応答」のやりとりが《致命的に》不足していると思われる。著者は「まず、複数の物(または事柄)の中から一つを選ぶことから指導していく必要がある。目に見えやすい形で選択肢を用意し、どちらがいいか、または正しいかを聞き、取るか、指さすか、または言葉で答えさせ、その答を確認していく。こうして、自分の意志を人に伝えられるようになっていくことが、オウム返しを解消するための前提となると考えられる」と述べている。それも一つの有効な方法だと思われるが、さらに指導者と自閉症児の立場・役割を「交換する」ことが重要である。自閉症児を「受け手」の立場に置いたままにするだけでなく、相手に対しても「問いかける」役割を与え、その応答の「正誤」を「判断」(意思決定)できるようにすることも加える必要があるのではないか、と私は思った。

 最後に、「対話」(言葉のやりとり)をする上で、最も重要と思われる二点について述べる。
 一点は、こちらの声の大きさ、高さ、スピードに留意することである。相手にとって心地よい、わかりやすい話しかけをしなければならない。今、自分の話しかけを、相手はどのような気持ちで聞いているかを絶えずフィードバックすることが大切である。「わかった」「通じ合えた」という気持ちのつながりが、双方を安心させ、楽しくするのである。大きすぎる声、かん高い声、早口は禁物である。「ささやき声」から始めるのがよいという専門家もいる。(石田遊子『「自閉」をひらく』・つくも幼児教室編・風媒社・1980年) こちらは、つねに相手が「わかる」(心地よい)言葉で話しかける技術を体得しなければならない。それが《鉄則》である。
 二点は、お互いにハイ、その通りです、オナジです、ナルホドなどという《同意》(YES)とイイエ、チガウ、イヤダ、ワカラナイなどという《不同意》(NO)、さらには「何?、誰?、いつ?、どこ?」という《疑問(問いかけ)》の《表現》を交わし合えるようにすることである。そして、お互いに相手の言うことを「わかり合える」ようにすることである。そのことは、「対話」の必要・十分条件である。相手の言うことがわかれば、「ハイ」「イイエ」だけで、「対話」は成立する。発声・発語ができなくても、肯けばよい。手を挙げればよい。首を振ればよい。手を振ればよい。わからないときは「エッ?」と尻上がりに発声すればよい。声が出なければ、相手を覗いて目で問いかければよい。「対話」は、言葉だけで行うものではないからである。《気持ちが通じ合えばよい》、そのことをめざして「決してあきらめてはいけない」と私は思う。
(2016.4.30)




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「自閉症」への《挑戦》・11

4.いくつかの補足・確認
 ①「自閉症」への《挑戦》とは? 
「自閉症」への《挑戦》とは、「自閉症は治らない」という通説に挑戦するという意味である。「自閉症」の原因が何であれ、それが発達の障害だと考えられている以上、その発達を促進することは可能である、と私は考えている。

 ② 「対人関係の形成」を図る
「自閉症」の本態は、定義の第一番目に挙げられている「対人関係の形成の困難さ」「社会性の障害」に起因する。したがって、その問題を解決することに専念しなければならない。発達的に見ると、対人関係は、感情の「交流過程」(不安・緊張→安堵・安心・安定→愛着→好奇心→あこがれ→嫉妬→羞恥→自戒→・・・、といったプロセス)を通して形成される。そのスタートは母子の交流から始まり、父子、家族、親類、隣人、同輩との交流へと拡がっていく。そのプロセスのどこに支障が生じているかを、対人関係の当事者である「本人」と「相手」の《関係》の中で究明することが重要である。

 ③「泣く」ことは重要である 
 感情の「交流過程」の中で、《泣く》という活動はひときわ重要である。しかし、現代社会では、子どもが泣いていると「うるさい」「めいわくだ」「虐待しているのではないか」という、周囲の反応が返ってくる。《泣く》ことは忌避され嫌悪される。そうした風潮は、「自閉症」の問題と無関係ではない。子どもを泣かせている親は、周囲から責められる。その気持ちが子どもと向き合うゆとりをなくさせる。先回りして、泣かない工夫をする。泣かないということは我慢することである。自分の気持ちを閉じ込めることである。誰も頼らないことである。一見、自立して頼もしく見えるが、鬱屈した気持ちをいつ爆発させるかわからない。子どもは、泣くことで気持ちを発散する。思い切り泣いた後で、気持ちが静まる。その繰り返しが気持ちを安定させるのである。欲しいといって泣く、できないといって泣く、つまらないといって泣く、寂しいといって泣く、悲しいといって泣く、かわいそうといって泣く、最後には、うれしいといって泣く、それが「人間」の健全な姿なのだ。まさに「泣く子は育つ」のである。

 ④「言語指導」について
 「自閉症」に対する「言語指導」で、最も大切なことは「言葉を聞いて理解する能力」を高めることである。そのステップは以下の通りである。              
 ①単語(名詞、動詞、形容詞・一語文)を聞いて、相当する事物、写真、絵を指さす(手渡す)。②句(文節・二語文)を聞いて、相当する事物。写真、絵を指さす、③文を聞いて、場面の絵を指さしたり、図示したり、動作化したりする。④単語を聞いて、その音節数を数える。(め→1,みみ→2、あたま→3、てぶくろ→4、すべりだい→5というように)⑤単語を聞いて、文字(漢字・仮名文字)カードを指さす、⑥語音を聞いて、相当する仮名文字を指さす。
 ここまでの活動を「完全にできるように」すること、「話すこと」「読むこと」「書くこと」の指導は行わない方がよい。行わなくても機が熟せば、子どもの方から自発的に話したり、読んだり、書いたりするようになるからである。
 文字の学習は「見分ける」ことから始まる。初めは。漢字、仮名文字を見分けられれば。読めなくてもよい。見分けることと読むことを「同時に」行おうとすると、子どもは混乱するだろう。見分ける活動とは、同じ文字を集めることである。文字と文字を見比べて「同じか」「違うか」を判断することである。その時に「さりげなく」その文字の語音を(BGMとして)聞かせるのがよい。仮名文字で言えば「く」「し」「へ」、「は」「ほ」、「ぬ」「の」:「ち」「さ」などの違いを見分けられるかどうか、数字で言えば「1」「7」、「3」「8」、「7」「9」、「6」「9」などの違いをみわけられるかどうか。それらが見分けられるようになった時、その違いを「音」で聞かせて確認するのである。
 「五十音」や「アルファベット」、「数字の数え順」「絵本の文章」を読んだり、暗誦したりすることは、この段階ではあまり意味がない。しかし、子どもが自発的に行うとすれば、それを「言葉のやりとり」(の材料)に活用する価値はある。「五十音」を交互に読む、アルファベットを交互に歌う、数え順を交互に唱える、絵本を復唱音読する、リレー音読するなど、二人以上で「楽しめる」活動につなげればよいのである。 
 さらにまた、「助詞」「助動詞」、文型、時制などの《文法指導》も行わない方がよい。私たちが日本語を獲得したのは、文法を「学習」したからではない。相手と「対話」したからである。対話を通して、相手との「気持ちのやりとり」を楽しんだからである。今、さかんに行われている「英会話」。その他、外国語の「講座」でも、必ず「発音」「文法」の学習(模倣や修辞法の理解)が強調されている。だから、(特別に関心があり、それを楽しいと感じている人以外は)なかなか身につかないのである。もし、外国語の学習も「聞いて理解する」ことだけに徹すれば、違った結果になるのではないだろうか。

 ⑤「親子関係」に注目する
 「自閉症」という問題の第一が「対人関係の形成の困難さ」であるならば、当然、その出発点となる「親子関係」のあり方も注目しなければならない。しかし、研究の対象になるのは、おおかた「子ども」の側であり、「親」のあり方は不問にされているようだ。現在では「自閉症」と「親の育て方」は《無関係》であり、「親の育て方が悪いから自閉症になった」という考えは《誤り》だとされている。たしかに、「育て方」(=しつけ)という曖昧な概念で片付けていること、「良い、悪い」という基準を導入している点は《誤り》だと、私も思う。しかし、「親の接し方」「親からの働きかけ」が、子どもに強く影響していることは、誰も否定できないだろう。「自閉症」と呼ばれる子どもの「親」にはどのような共通点が「ある」か、あるいは「ない」かを調査研究し、「共通点は何ひとつ存在しない」ということが明らかになった時、はじめてその《誤り》が証明されるのではないだろうか。ただ、「同じ」親が育てたのに、ある子どもは「自閉症」と呼ばれ、その兄弟姉妹はそう呼ばれなかった、という理由だけでは不十分である。親が同じであっても、その時の気持ち、生育環境、家族構成等々は、つねに「同じ」とは言えないからである。
 
◆おわりに(両親へのメッセージ)
《私自身は「自閉症」の専門家(研究者)ではありません。一教員として「自閉症児」と呼ばれる児童・生徒たちと接した経験があるだけです。また近年、「自閉症児」と呼ばれる男児の祖父という立場にもなりました。男児の両親は、私の息子夫婦です。両親は幸いにも「困った」「どうしよう」「変だ」と思い詰め、悩んでいる様子はないようですが、やはり本当のところは「両親」という立場にならないとわかりません。
 皆様もまた様々な苦労を重ねていらっしゃることでしょう。もし壁にぶつかって「困った」「どうしよう」などと感じることがありましたら、拙い文章ではありますが本稿を御一読いただき、御参考になることがあれば、という思いで筆を執りました。お役に立つことは少ないと思いますが、合わせて『「自閉症児」の育て方』も御一読いただければ幸甚に存じます。
 終わりに、皆様の御苦労、御奮闘に心から敬意を表し、御多幸をお祈り申し上げます。最後までお付き合いいただき、誠にありがとうございました。》

◆引用文献◆
・『言語闊達の臨床第1集』(田口恒夫編・言語臨床研究会著・光生館・昭和49年)
・『自閉症 治癒への道』(ティンバーゲン夫妻著・田口恒夫訳・新書館・1987年)・・『我、自閉症に生まれて』(テンプル・グランディン著・学習研究社・1994年) 
・『自閉症からのメッセージ』(熊谷高幸著・講談社新書・1993年)
(2016.5.1)




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