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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・1

《まえがき》
【要点】
・「情緒障害」=「情緒の現れ方の歪曲」
・(以下の記述には)いわゆる科学的データが少ない。人文科学に関する限り、数で処理された科学的データなるものは特別な場面や特別な条件下のものであり、部分的なものである。それを数多く集めてみても、それで生きた人間を語ることはできない。
【感想】
 著者の言う「科学的データ」とは、どのようなものであろうか。
ウィキペディア百科事典では、人文科学の科学的方法について以下のように説明されている。
〈科学的生体によって引き起こされる現象を扱う医学、薬学、心理学や、人々の巨大な社会集団を扱う経済学、社会学は、考察対象とする生体や社会そのものが根本的に複雑性や複合性を内包している。これらにおいては個体差が重要な要素となったり、対象が情報を記憶することで内部状態を変化させてゆくものであり、現象の再現性を問うこと自体が困難である場合が多い。そのため、物理学や無機化学におけるような決定論的な手法のみならず、統計論的な手法やその他の手法も適用されている。〉
 ここで言う「統計論的な手法」の結果を数値化したものが、いわゆる「科学的データ」であろう。また、「考察対象とする生体」は「根本的に複雑性や複合性を内包して」おり、「個体差が重要な要素となったり、対象が情報を記憶することで内部状態を変化させてゆくものであり、現象の再現性を問うこと自体が困難である」ということを踏まえて、著者は、「それ(科学的データ)で、生きた人間を語ることはできない」と述べている。つまり、対象(子ども)には「個人差」があり、また刻一刻と変化していくものだから、統計的な数値だけでは、的確に理解することが難しいということであろう。
 そこで、最近の「心理学」では、もっぱら対象を「脳」に絞って(生物学・医学領域の)「科学的データ」を得ようとする方法が流行しているようである。
 しかし、その知見でも「生きた人間を語る」ことはできない、と私も思う。
 この本が著された当時は「情緒障害=自閉症」という混乱が生じていたが、現在では「自閉症=脳機能障害」、「発達障害(脳機能障害)∈自閉症スペクトラム、ADHD、LD」という大混乱が生じているように思われる。
 もう一度、原点に立ち戻り、その大混乱が少しでも整理されればと思い、本書を通読する。
(2017.6.27)




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・2

【要約】
《第一章 情緒の構造》
《一 情緒の定義》
・情緒とは「生理的な現象、および衝動的な行動・心情を伴う激しい感情」である。
・情緒には、衝動的な行動を伴う「外むきの感情」(くやしさ、怒り、反抗、攻撃)と、衝動的な心情を伴う「内むきの感情」(悲しさ、淋しさ、恥ずかしさ、劣等感、不安)がある。
《二 外向きの情緒・内むきの情緒》
・くやしさ、怒り、反抗、攻撃、悲しさ、淋しさ、恥ずかしさ、劣等感、不安といった情緒は、正常人なら、すべてのものを必ずもっていると考えてよい。
・ただ、個人によってどの情緒が出やすく、どの情緒が出にくいかということはあるようだ。それが、その人の個性のかなりの部分を決定づけているようだ。
◎例
〈朝、出勤して、部屋に入った時、そこで立ち話をしていた同僚が、ハッと話をやめ、ニヤニヤと笑い、コソコソと自席に引きあげていったとする〉
A型・なんら情緒的な反応を示さないまま、平然と自席につき、仕事を始める。
B型・「また、オレの悪口を言っていたに違いない。ケシカラン!」という怒りを感じる。C型・「顔に墨でもついているのではないか」とドギマギして赤面する。
・B型の人間の行動の激しいもの、怒り、反抗、攻撃の情緒が激しく、しばしば現れる状態を非行と呼ぶ。
・C型のように、いつも自分を責め、不安、劣等感、恥ずかしさ、淋しさなどが、しばしば現れる状態をノイローゼと名づけることができる。
・これらを一つ一つの頻度や程度に分けると、かなりの個人差があり、それは無限である。このことが、日常生活の中の個性のあり方のほとんどを決定づけている。われわれが周囲の人間を、カクカクの人であると判断するとき、その材料になっているのは、この情緒の現れ方の傾きであることが多い。

・コンプレックスとは、抑圧されて無意識にはたらく感情の複合といわれている。それは、ほとんどが、
内むきの情緒に関係している。内むきの情緒は、いろいろな働きや動きをする。
・その第一は、外むきの情緒への「はねかえり」である(窮鼠かえって猫を噛む)。非行少年は、外見上は、攻撃、反抗、激怒といった行動をしているが、一対一で対面すると、ひどく臆病で、まともに応対もできないような場合がしばしばある。
・第二は、意識に混乱をさせることがある。「登校拒否」というものがその傾向を物語っている。「学校へ行かなくてはならない」という意識が明瞭にあるのに、「行きたくない」という情緒に支配される。(情緒が意識を混乱させている姿である)。
・第三は、生理現象に影響を及ぼす。(改めて記述する)

【感想】
・以上をまとめると、〈情緒とは「生理的な現象、および衝動的な行動・心情を伴う激しい感情」であり、それは「外むきの情緒」と「内むきの情緒」に分けられる。「外むきの情緒」は「くやしさ、怒り、反抗、攻撃」などであり、「内むきの情緒」は「悲しさ、淋しさ、恥ずかしさ、劣等感、不安」などである。これらの情緒は正常人なら誰でも持っており、その頻度、程度に個人差がある。その個人差が(すべてでとは言えないが)「個性」を決定づけている 〉。〈コンプレックスは「内むきの情緒」に関係している。「内むきの情緒」は、「外むきの情緒」へのはねかえりを見せたり、意識を混乱させたり、生理現象に影響を及ぼしたりする〉ということである。
・私は、感情の源は不快感(生理的感覚)でありそれが快感に変わることによって、様々な感情が生まれてくる、と考えている。著者もまた「情緒」を怒りや、不安といった不快感にもとづく感情から述べ始めていることに、共感する。また同じ不快感であっても、それが外に向かうものと、内に向かうものがあるという考えは、たいへん参考になった。次は、「三 快・不快」について述べられている。期待をもって読み進みたい。
(2017.6.29)




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・3

【要約】
《三 快・不快》
・情緒を、内容的なものを中心にして分けると、快・不快に分けることができる。
・くやしさ、怒り、淋しさ、悲しさはなどは、不快の情緒である。うれしさ、おかしさ、美しさ、めずらしさ、かわいさなどは、快の情緒である。快の情緒は、生理的な現象を伴うが、衝動的に現れるとはいい難い。
・先の定義に「躍動的な行動、はつらつとした心情を伴う」という言葉を加える必要があるだろう。
・快の情緒は、人の心身を順調に働かせる源泉になる。
・快の情緒が豊かで、しばしば現れる人は、心身ともに健康であるから、情緒障害を起こすことは少ない・
・情緒障害におちいりやすい人は、何らかの原因で、不快の情緒にとどこおっている人である。
・したがって、情緒障害におちいっている人に対して、快適な情緒をもてるような機会を与えること、自らがそのような時間をもつように行動することは、情緒障害を治してゆくための原則の一つである。
・元来、人は不快を避けようとし、快を繰り返そうとする傾向がある。
・競争心はやる気の一部にはある。しかし、敗者は不快の情緒にかられてやる気を失っていくので、上位・下位がつねにその効果を相殺して、全体としては一定の能率しか上がらない。(学校の相対評価も同様である)
《快を志向し不快を避けるという原則を個人の問題として考える》
・管理者が部下にとってもらいたい行動A・B・C、やってもらいたくない行動O・P・Qがあるとする。部下がOの行動をとった時、管理者が部下のその行動を叱ると、部下は不快な結果をもたらすO行動は避けようとする。しかし、それはただちにA・B・Cの行動におもむかせるものではない。P行動をとるかもしれない。Pを叱れば、P行動を避けようとするかもしれないが、Q行動を選ぶようになるかもしれない。したがって、叱って指導することは、ただ叱ることを繰り返す結果になる。部下がAという望ましい行動をした時に、ほめて快の情緒を起こさせた時には、その部下はAの行動を繰り返そうとするから、直接的に管理者の意図する行動を期待することができる。
(“二つ叱って、三つほめ・・・”といわれるゆえんである)
・人間は複雑だから、この原則はそのままあてはまるものではない。
・人間がこの原則にしばられていると、もともと不愉快な職業(医者など)を選ぶ人はいなくなるだろう。毎日、患者と接することは愉快ではない。しかし、その患者が治ってゆくのを見ることは愉快なことである。この快・不快の織りなす複雑さの中で、快がわずかでも不快を凌駕している時、われわれは目の前の不快をのりこえることができる。
・つねに教師から認められていない(不快)と感じている子どもが、あえて叱られる(不快)ような行動をしてでも、認められないことの不快さを逃れようとする場合もあり得る。認められない不快さの方が、叱られることの不快さよりもその程度が強いと解釈できるし、叱られることの不快さより、そこに起こってくる「叱られる形での認められる」ことの快を追おうとしていると説明できる。
・スリルを味わうという心理も似ている。目前にある恐ろしさという不快を避ける力より、その解決した時の楽しさという快を予想し、それを味わうことを求める力の方が強いのであろう。(=こわいもの見たさ)
・本書では、情緒について述べる場合、主として不快の情緒について述べることになる。

【感想】
 情緒障害におちいりやすい人は、不快の情緒にとどこおっているので、「快適な情緒をもてるような機会を与えること、自らがそのような時間をもつように行動することは、情緒障害を治してゆくための原則の一つである」という著者の見解はよくわかる。また、集団に対して競争心をあおることは、勝者に快の情緒をもたらすと同時に、敗者には不快の情緒をもたらすので、「全体としては一定の能率しか上がらない」という指摘も、学校教育の現状をみれば十分に納得できることである。
 「元来、人は不快を避けようとし、快を繰り返そうとする傾向がある」ので、情緒障害を治してゆくためには、快適な情緒をもてるような機会を与えることが《原則の一つ》だが、そのほかにどのような原則があるだろうか。その人が、なぜ「不快の情緒にとどこおっている」のか、その要因を明らかにすることも大切であろう。「この快・不快の織りなす複雑さの中で、快がわずかでも不快を凌駕している時、われわれは目の前の不快をのりこえることができる」と著者がのべているように、不快をのりこえた快こそが、健全な情緒をもたらすのではないだろうか。だとすれば、「不快を避けようとする傾向」(自体)の中に、情緒障害におちいる要因が隠されているのではないか。
 私は、人間の情緒は「不快」から始まると考えている。その不快の程度が大きければ大きいほど、不快が取り除かれた時の「快」もまた大きいのだと思う。したがって、いたずらに、不快を避けようとすることは賢明ではない。快だけの情緒で育つことはあり得ない。そこらあたりについて著者の見解は如何に?。以後を読み進めることで明らかになるかもしれない。
(2017.6.30)




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・4

《四 もう一つの情緒 ・・原情・・》
【要約】
・人間には、もう一つの情緒がある。それは、人間によって触発されたものではない、怒りによく似たパニックと呼ばれるものである。
◎怒りの条件
・第一に欲求がある。第二に、欲求が阻止される。第三に、阻止した人に攻撃が向けられる。(反抗の場合も同じである)
・不快の情緒は、①欲求、②人による触発、③人に向かう衝動という三つの条件をそなえている。
・パニックは、明らかにこの三条件をそなえていない。(人によって阻止されていない、他人に攻撃を加えていない)
・人間は、人とは無関係に起こる情緒をもっている。(高所恐怖症、建物恐怖症、尖端恐怖など)
・日常生活の中でも、人によって触発されない情緒は少なくない。(火事→興奮、せせらぎ→さわやか、風鈴→涼しさ、自然の風景→美しい、ガラスをこする音→ゾーッとする、建物がゆれる→ハッとする、ドキドキする) 
・その情緒は「内むきの情緒」に似ている。(衝動的な心情が動いている)。パニックも、外見できるが、外へ向かっての攻撃ではなく、内がわにある心情に促されている行動であるように思える。「物象」によって触発されている。欲求のかわりに「感覚」が大きく関与している。
・暑い(感覚)→暑苦しい(情緒) 寒い(感覚)→寒気がする(情緒)
・騒音(感覚)→うるさい(情緒)
・面接室で正常な子どもは、面接者という「人」によって、安定したいという欲求を阻止され不安になるが、自閉児は、閉じ込められた感じ、壁のひび、空調の音などによって不安になる。
・人や欲求とは無関係に起こり、ベースに「感覚」があって、「物象」によって触発されて起こる情緒を「原情」と名づけ、既述の情緒と区別する。
・自閉児は、怒り、悲しみ、甘えといった情緒は明らかに希薄であるが、この原情はかなり豊富で、繊細である。(このことについては後述する。)

【感想】
 ここでは、「人や欲求とは無関係に起こり、ベースに「感覚」があって、「物象」によって触発されて起こる「原情」という情緒について述べられている。自閉児のパニックはその「原情」によって起こると著者は考えているようだ。しかし「原情」は誰にでもあるとも述べている。だとすればパニックという行動は、自閉児に特有なものではない。事実、地震、雷、火事など大災害が発生すれば、誰でもパニック状態になるだろう。
 自閉児のパニックには明らかに原因があるはずである。「ところが、自閉児のそれは、傍らの人間にとっては、その理由がわかることは少ない」と著者は述べている。「床にひっくりかえって、頭を床にぶつけ、涙を流して奇声を発し、騒ぎまわる、という行動は、自分の欲望がかなえられない時に、泣き叫ぶ幼児の怒りによく似ている」とも述べている。その違いは、傍らの人間がその理由がわかるか否かで決まる。幼児には「怒り」が生じているが、自閉児には「怒り」が感じられない。だから、おそらく「原情」に左右されているということであろう。もし、傍らの人間がその理由をわかったとすれば、その行動はパニックとは言えないのだろうか。
 自閉児は、《他の幼児と同じように》、自分の欲望がかなえられず、騒ぎまわる(に過ぎない)。しかし《傍らの人間(多くの場合、親)が、その欲望を理解できない》ために、パニックというレッテルを貼られてしまう、ということは考えられないだろうか。つまり、他の幼児は、それまでに、親との情緒の交流を十分に重ねているので、親は欲望の契機、内容、程度を簡単に理解できるが、自閉児は親との交流が不十分であるため、自分の欲望を親に理解してもらえない状態に置かれているのではないか。パニックの原因は、むしろ親の方にあるのではないか、というのが私の考えである。したがって、自閉児は情緒の交流を十分に重ねている相手との間で、パニックを起こすことはない。そう断定することは、私の独断・偏見に過ぎないことは十分に承知している。著者と同様に「科学的データ」に裏づけられたものではないからである。
(2017.7.1)




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・5

《五 情緒の特性》  
【要約】
⑴ 没論理性:二通りの意味がある。
 ①情緒は面前の刺激に直接的な反応として現れるのであって、論理的な思考の結果として、現れるということはあり得ない。
*怒りは、相手が、自分に悪意を抱いていると感じた時、その瞬間に現れる。
 ②情緒は、論理的な考え方を瞬時に消してしまう。論理的な考え方を無視し、飛び越えてしまうという傾向をもっている。
*「石にかじりついても」「自分の熱意で」「死んでも」「絶対」といった言葉は、すでに論理の世界を越えた言葉である。
*“非学者論に負けず”もともと論理で語っているのではないから、論理で説きふせようとしても無理である。
⑵ 即時的行動性
 ある刺激や事態が起こった時、先の見とおしや、損得、正邪を考えるゆとりはなく、すぐに行動を起こすことになる。
 持続性が乏しく、違った刺激が現れれば、すぐに即応する。
*“危難さって 仏罵らる”“病なおりて 医師忘る”
 情緒は予見性とか、持続性といった縦の(時間的な)論理性をもっていないと同時に、単一な刺激に即応しやすく、事態を総合的・統合的にとらえるという横の論理性も希薄である。
⑶ 非客観性
 前後の見とおしができないと同時に、そのおかれている事態のA・B・C・Dといった諸要素を組み合わせてみるといった意味での見とおしも乏しい。一番手近で、もっとも印象の深いものだけ即応してしまう。
*“葦の髄から天井を覗く”→“二間の間で三間の槍をふるう”
 このような近視眼的な情緒の発動は、しばしば、日常生活の中で大きな間違いや失敗をおかすことになる。
⑷ 感染性
日常生活の中で、相手が興奮してくると、こちらもいつの間にか興奮が起こってくるという体験・・・。
*“一匹狂えば、千匹の馬も狂う” 
 人間も、馬と同じように、情緒の感染性を内蔵している。
 感染という意味は、いきなり直接的に影響を受ける、という意味である。熱の伝わり方の「輻射」にたとえることができる。子どもほどこの情緒に支配されやすいから、感染性も強い。(テレビのCM、子どもの世界の流行がめまぐるしく変わる)

【感想】
 ここでは、情緒の特性として、①没論理性、②即時的行動性、③非客観性、④感染性が挙げられている。情緒とは、論理と相反するものであり、主観的なものだから、その人以外は、容易にコントロールできないということであろう。「ついカッとして」「感情的に」なると、前後の見境がなくなり、相手を攻撃するなどということは、珍しくない。相手の論理に太刀打ちできないと「黙り込む」、「むかっ腹を立てる」などなどは、情緒の特性であることがよくわかった。
 私たちは誰でも情緒と論理を持ち合わせているので、つねにその葛藤の中で生きて行く。「感情的になるな」「落ち着いて」「冷静に」などと自分を戒めるものの、同じ失敗を繰り返すことは多い。著者は、いくつかの【相談事例】を紹介しているが、私自身にも思い当たることばかりで、要するに、こちらの意図が通じないのは、相手の情緒に、論理ばかりを押しつけていたからだ、ということがよくわかった。
(2017.7.2)




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・6

《六 情緒と生理現象》
【要約】
・「病は気から」という考え方は、近代医学によって一度は否定されたが、病原菌による病気のほとんどが征服されるようになって、再び見なおされてきたようである
・ヒステリーは、少なくとも精神的な原因によって一時的な身体症状を起こすものと定義してよい。
・情緒が発動する時には、必ず生理現象を伴う。(赤面、過呼吸、発汗など)
・その生理現象は、自律神経系(交感神経と副交感神経)と呼ばれる機能によって起こる。・交感神経は身体に最大限の能率を与える準備をするために働く。(脈拍を早め、呼吸量を増加させ、瞳孔をを開き、手足に多くの血液を送る)
・副交感神経は、身体の調和を保たせ、平静な運行を順調にさせるために働く。(心拍数をゆるめ、呼吸量をへらし、消化作用に十分な血液を配する)
・怒りや恐れを感じやすい人は、つねに交感神経が多動する。
・「登校拒否」をしている子どものかなりが、初動期に腹痛や嘔吐感を訴える。
・非行を犯している子どもにも、頭痛、喘息、悪感癖のあるものが多い。
・「夜尿」「喘息」「乗り物酔い」「頭痛」「腹痛」「アレルギー」「チック」「どもり」などは情緒と深い関係がある。

【感想】
 ここでは「病は気から」という古来からの考え方が、再び見なおされるようになってきたことが述べられている。その内容に、私も全く同意する。病気というと、すぐに病原菌が原因だと思われがちだが、自律神経の失調に因るものの方が多いのではないだろうか。現れた症状だけを見て、「どうすれば症状がなくなるか」といった短絡的な対症療法が蔓延しているように思うのだが・・・。
 情緒は(原情も含めて)「環境」に左右される。著者は、情緒のあり方(出方)が「その人の個性のかなりの部分を決定づけているようだ」と前述している。だとすれば、私たちの個性もまた「環境」によって形成されるに違いない。情緒と環境、個性と環境の関係に注目しながら、以下を読み進めたい。
(2017.7.5) 




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・7

《七 情緒のない世界》
【要約】
◎人間から情緒というものがなくなれば・・・・。
・他人をうらんだり、憎んだり、怒ったりすることがなくなれば「傷害事件」は起こらなくなる。
・ねたましい、のろわしい、うらやましい、うらめしいといった情緒がなくなれば、三角関係の問題、夫婦げんか、嫁姑のいさかいはすべて存在しない。
・負けてくやしい、戦友が傷つけられたことによる怒り、故郷を敵にじゅうりんにまかせることへの恐れなどを感じないわけだから、戦争は起こらなくなるだろう。
・他人と比較して悩むこともないし、母親がいなくなっても淋しいとも思わず、不安を感ずることもない。父母兄弟が死んでも、大学に不合格でも悲しいという情緒を欠いているので、ノイローゼ、ヒステリー、自殺もなくなるだろう。
・したわしい、いとおしい、あこがれるといった愛情の原型とも思える情緒が欠如するとすれば、恋愛感情も消失する。
・快の情緒もないから、共によろこびをわかち合うこともなくなり、一種の社会性も失われ、共同生活もおくれなくなる。家庭をつくり、苦楽を共にしようとする生活はなくなるだろう。
・ドラマを見て主人公に同情したり、その行動のすばらしさに感動することもない。音楽を聴いて、その美しさに酔うこともない。クイズを当てて愉快になることもない。
・登山の痛快な気分を味わうこともないし、スキー・スケートを楽しむこともなくなる。勝つよろこび、負けるくやしさもないからギャンブルも存在しない。オリンピックも存在理由がなくなるだろう。
◎個人的な側面から考えると・・・・。
〈乳幼児〉
・抱かれて快いと感じられないので、母親があやしても笑わない。
・空腹による不快感がないから、哺乳を要求して泣くこともない。満腹により快感もないから満足そうな表情も起こらない。
・快・不快の情緒がないから、おもしろい、おかしい、恐ろしいということも起こらない。・ほとんど表情というものは現れてこない。
・哺乳・入浴をさせてもらっても、あやしてもらっても、気分がよいと感じないから、母親というものの認知は希薄になるだろう。
・母親としても情を通じる必要はなく、育児書に書いてあるとおり、一定のミルクを与えればよい。きわめて育てやすい子どもといえるだろう。
・この時期に、母親との感情のやりとりをしながら自然に喃語がかわされる。それは言葉のはじまりだが、この段階で情緒の交流が起こらないとすると、言葉の発生にも重要な欠陥が生ずるだろう。
〈幼稚園期〉
・勝つよろこびも負けるくやしさも感じないから子ども同士のトラブルを起こすことはまずない。共感することもできないから、一緒に行動するとか、協力して作業をするということはほとんど起こらない。他人にいじめられても、くやしさを感じないから、なすがままの状態を続けるだろう。競争心が欠けているから、他人よりよいものを作ろうとか、早く作ろうということもないだろう。
〈学童期〉
・向上心が欠けているから、教師との間に教育というかかわりが成立しないであろう。
・記憶力・計算力を成長させることは可能かもしれない。教師の指導を知識として受け取り、それを記憶することはありうる。それをテストの上に表現して、よい点をとろうということにはならない。また、日常生活上の数意識にもならない。
・絵画においても、対象や画題を正確に描くことは起こり得るが、美しく表現しようとしたり、自分が感動した点を強調したりするということは起こってこないだろう。
・歌をうたわせても、楽器を扱わせても(よろこんでやるわけはないが)、楽譜を正確に表現することはできても、情感の伴わない音楽になるだろう。
・テレビの子ども番組も見ない。図表を見たり、図鑑をみたりすることはあっても、アンデルセンやグリム童話を読んで楽しむということはないに違いない。
〈成人期〉
・他人にあこがれる、したわしい、愛するという情緒はないから、恋愛関係も生じない。結婚生活が成立するかどうか、子どもをもうけることができるかどうかも疑わしい。
子どもがかわいいとかいとおしいという情緒を欠いているとすれば、育児をすることができないだろう。

・情緒のない世界は、人間の存在そのものが疑われるような事態が起こるかもしれないといえる。
・憎しみ、怒り、くやしさ、ねたましさ、うらやましさといった情緒だけを消去した状態はどうであろうか。くやしさ、ねたましさ、うらやましさがなくなったとしたら、負けるくやしさを知らなければ勝つよろこびもわいてこない。ねたましさやうらやましさがなければ、よいものを獲得しようとする意欲もわいてこないだろう。こうした情緒の欠如は、人間の成長力の欠如を意味している。
・ある人を憎むということは、他の人をしたうということの裏側にある情緒であるし、怒りというものがなければ、不正を憎むという情緒も生まれてこないだろう。自分に対する攻撃に対して防御しようともしないだろうから、その個体の生存に関する重要な問題ともいえる。
・《情緒は人間存在に必要欠くべかざるものであることは間違いない。

以上のことは「架空の問題」だが、自閉児の問題と重要な関係がある。

【感想】
 ここでは、「もし情緒がなかったら」人間の社会はどうなるだろうか、また個人はどのような状態になるだろうか、という「架空の問題」が語られている。
 著者は、それが「自閉児の問題」と重要な関係がある、と結んでいるので、とりわけ「◎個人的な側面で見ると・・・」の内容は、自閉児の情緒について述べているだろうことは間違いない。自閉児には、「全く情緒がない」というわけではなく「情緒が乏しい」「情緒が十分に育てられていない」ということであれば、全面的に同意できると、私は思った。では、なぜ自閉児の情緒は乏しいのか、なぜ十分に育てられなかったのか、という問題は極めて重要である。もし、社会全体が、「憎しみ、怒り、くやしさ、ねたましさ、うらやましさといった情緒だけを消去した状態」をめざしているとしたらどうだろうか。一般的に、そのような情緒は「望ましくない」とされ、「心地よい」「楽しい」「うれしい」「美しい」「素晴らしい」といった情緒だけが求められる風潮はないか。宗教でも「愛」「無我」「無欲」といった情緒(情操)が尊重され、いかにして「憎しみ、怒り、くやしさ、ねたましさ、うらやましさといった情緒」(迷い・煩悩)を克服するか、を課題としているではないか。
 著者の「架空の問題」(仮説)は、たいそう興味深い内容であった。私は、さらに「憎しみ、怒り、くやしさ、ねたましさ、うらましさといった情緒だけを消去」しようとしている親たちに育てられた子どもの情緒はどのようになるだろうか、という「架空の問題」について考えたいと思う。現代の親たちは、子どもに「不快感」を与えないことを一義とする傾向はないか。また、著者が「母親としても情を通じる必要はなく、育児書に書いてあるとおり、一定のミルクを与えればよい。きわめて育てやすい子どもといえるだろう」と述べているような、「育てやすい子ども」を求める傾向はないか。
 いずれにせよ、「自閉」という問題は(認知ではなく)「情緒」の問題であることを、著者は暗示している。期待をもって以下を読み進めたい。 (2017.7.6)




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・8

《第二章 情緒と風土》
【要約】
・情緒は、民族や文化によって根本的な規制を受けるものではなく、人類に共通のものである。しかし、ある種の情緒が風土の影響で、濃淡をもっているという事実はある。(暑いインドでは太陽が憎しみの対象になっているが、日本ではありがたい、尊ばれる存在なのである。
《一 恥ととなり百姓》
・日本の文化は恥の文化である、とよくいわれる。われわれは恥ずかしさということを強く感じ、それを基本的な行動基準としている。
・それは「となり百姓」のセンスによるという。(イザヤ・ベンダサン)「となり百姓」というのは、となりが田植えを始めた、わが家でもやろう、となりが刈り取りを始めた、わが家でもやろう、という農業のやり方をいう。
・日本の義務教育もそうである。(学制がしかれ数十年後には義務教育就学率99%)
・まわりと同じことをすることが良いこと、あるいは安全な道であると考える考え方、まわりと違ったことをするには不安が伴うし勇気がいるという傾向は、日本独特の心情である。つねに行動のよしあしの基準は、他人の目、他人の批判によっている。
・日本人は行動の基準を、他人の思惑におくようになる。他人から、自分がどう思われているか、ということが、生活上の最大の関心事になってくる。「満座の中で恥をかく」「恥ずかしい思いをする」ということが、最大の心情的な苦しみをもたらすことになるのかもしれない。
・対人恐怖症というのは、日本人独特のノイローゼであるといわれている。(河合隼雄)・対人関係に関する情緒の種類の多いのも日本の特徴である。(いとおしい、うらめしい、したわしい、もどかしい、愛する、こがれる、ほれる、「微苦笑」など)

《二 セックスとドレイ》
・牧畜を仕事としてきた民族(ヨーロッパ)にとって、生殖とは、日のあたるところで行われるいわばビジネスである。そのような生殖観と、二千年来、日のあたらぬところでのヒメゴトとして、あるいは情緒的なものとして考えられてきた(農業国=日本民族の)生殖観との間には、天地の差があると考えてよい。ヨーロッパとの距離が極端に縮められ、情報化時代といわれる今日の日本においては、この二つのまったく違った生殖観の融合が起ころうとしている。その間には、情緒的な混乱、不安定さ、誤解、歪曲が起こってくることは、火を見るより明らかである。
・イギリス人(遊牧民族)は捕虜を家畜のように扱った。(会田雄次「アーロン収容所」)
・世界史の中で、日本はドレイ制度のなかった唯一の国であるようだ。日本にも人身売買があり、小作・貧農はひどい搾取の対象になったが、欧米におけるドレイというのは、人間家畜である。牛や馬に対する考え方とまったく同じようにドレイを扱った。
・日本は、学歴、職歴をもととした差別の国といわれている(中根千枝・「タテ社会の人間関係」)が、ドレイのような差別観はかつて存在しない。

《三 長いものにまかれる》
・モンスーン地帯の人間は、つねに強大な自然の中に身をさらしている。その力は、人間の力や頭脳をはるかに越えた威力と凶暴性をもっている。ここらから自然に対する恐れ、自然崇拝の宗教を生む土台となる。自然を征服しようとする発想はかけらも生ぜず、自然の巨大さ、威力の前に、いかにたくみに自分を合わせることができるかを工夫しようとする感情が生まれる。それがインドにおける諦観主義であり、中国におけるメイファーズの考え方となる。日本においては「長いものにはまかれろ」といった心情を生むことになる。
・天皇絶対主義→敗戦→アメリカ占領→アメリカ絶対→民主主義信奉者
・こうした心情は、今でも存在する。

《四 変わりやすい風土》
・日本の風土の特徴として、かわりやすい気候と湿気の多さを挙げることができる。
・湿気の多い風土は、家の構造に大きな特徴をもつことになる。大きな屋根、大きな廊下、各々の部屋を独立させないで、障子と襖で仕切っている。
・このことは、日本人独特の情緒の発現に深い関係がある。各部屋がオープンな家の構造は、個人主義が育ちにくい環境といえる。
・こんなところから、日本人特有の干渉過剰の気持ちを醸成してしまったのではあるまいか。自分の生活が簡単におかされやすいから、こまかなことでも、つねに同一性を保たなければならない。だから「気を合わせて」生活する必要がある。
・両親は子どもを早くから自分たちと「気の合う」存在にしたててゆかなくてはならない。・そこに両親の干渉が始まる。子どもの個人的な気分や情緒の世界にまで土足で入り込むように、いちいち干渉を始めることになる。
・「日本人は干渉好きだ。しかし、行動によってこれをなすことはない。日本人の干渉は思想的なものに対してだ。英米人は干渉嫌いだ。しかし、それは思想に対してであって、他が困っている場合にはこれを助ける」(清沢烈「暗黒日記」)
・家の中はオープンだが、外に対しては警戒的であるのも日本家屋の特徴である。欧米の家屋は道路、庭からそのまま家に入れるが、日本は道路と壁が接しており、門からしか家に入れない。「そんな悪い子は、外へ出て行きなさい」と叱るのは、内の調和をはかるためには外の恐ろしさを認識させる必要があるのかもしれない。
(・団地の第一の問題は、入口が対面している点である。つねにのぞかれる恐れを感ずるのではあるまいか。)
・ハーバード大学文化人類学教授ヴォーゲル氏の、アメリカと日本の家庭の比較研究の結果によれば、「日本の結婚制度の見合い結婚は、(日本人にとって)もっとも適当である」といっている。その理由の第一は、外への警戒心が外界との接触を避けさせ、一般社会の現実を知らせないようにしている。第二は、日本の家庭教育の過保護の育て方にある。
・日本の家庭に過保護な育児が多いのは、過去の子どもの死亡率が高かったために、伝統的に子どもには保護を加えなければならないという気持ちが根づいたのかもしれない。
・日本では子どものための行事が非常に多い。(雛祭り、端午の節句、七夕、クリスマス、七五三など)アメリカでは、ハローウィンデーが唯一の子どもの日であった。
・日本の子どもの死亡率の高さは、変わりやすい気候、湿気の多さといったものと無関係ではあるまい、また、子どもの死亡率の高さが、子どもを育てる時、過保護になっていった理由であろう。

【感想】
 この章では「情緒と風土」との関係について述べられている。情緒は「人類に共通」のものだが、風土に影響されることはある。牧畜を中心とした西欧民族と農業を中心とした日本民族とでは、どのような「情緒」の違いがあるかについて、大変わかりやすく説明されていた。日本人は「恥」という「情緒」を行動基準としている、西欧民族のような、生殖を日のあたる場所のビジネスとして見たり、人間を家畜扱いにするドレイ制度は日本にはない、「長いものにはまかれる」という意識は、災害の多い日本の風土によって醸成された、変わりやすい気候と湿気の多さが日本家屋の特徴をもたらし、その特徴が家庭の育児方法にまで影響を及ぼしているという指摘は、興味深い。
 現代の日本は、ますます欧米化への道を辿っていると思われるので、著者のいう「日本独特の情緒」は次第に薄れていくのではないか、とも思った。しかし、「となり百姓」のセンスにもとづく「対人関係」のストレスは、根強く残るかもしれない。
 「情緒」を単に心理学の視点で考察するだけではなく、「風土」「民族」「地理」「歴史」という観点から幅広く洞察しようとする著者の見識に脱帽し、敬意を表したい。
(2017.7.6)




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・9

《第三章 情緒と情操》
《一 情操の特性》
【要約】
・感情の中には、情緒・原情のほかに、情操といわれるものが含まれている。ドラマに感動したり、文学や音楽に感動したりする心をいう。情緒のレベルより、いちだんと成長した感情であるといえる。
◎情操の特質
⑴ドラマや音楽に感動するという時、涙が出るということもあるから、一種の生理的な現象を伴っている。突然現れるつきあげるような涙ではなく、静かに徐々に現れる涙である。継続的、持続的な涙であるといえる。
⑵情緒と違って、衝動的な行動を伴っていない。他人を攻撃したり、荒れたり、どなったりするようなことはない。
⑶情緒のような即事性が乏しい。外の刺激に応じて即座に現れるということは少ない。刺激の消失とともに消えるということもない。その感動は、しばらくは残されて徐々に消失するという形を呈する。
⑷感染性はあるが、感染の筋道は、(熱の伝わり方に例えれば)輻射ではなく伝導、対流の伝わり方に似ている。
⑸情緒の現れ方と違って、かなりの広範囲で多様な刺激を受けているという点で、ある程度の客観性をもっている。
⑹情緒の特性である没論理性といったものも少ない。
・情操とは、没論理性、即事的な行動性、非客観性、感染性といったものが伴わない感情で、生理的な現象も明瞭ではなく、衝動的な行動や心情も伴っていない、といえる。
◎情操を一言で定義すれば「真・善・美に感動する心」ということができる。
*この時忘れてならないのは、その背後に必ず「人」がいるということである。「人」の行う真なる行動、「人」の作り出す美に感動する心が情操である。真と善については、そこに「人」が介在することは当然だが、美については、必ずしも「人」が介在しない美もありうるから理解しにくい面がある。「人」の入り込まない美を情操から除外しておく方が理解しやすい。(オルゴールの音楽、自然の風景、花の美しさなどに感動する心は、情操から除外する)
・情緒における「人」は、まず、自分の欲求を阻止するものとしての「人」である。攻撃や破壊を行う対象としての「人」である。感染を起こす刺激としての「人」である。
・情操における「人」は、社会性、価値を含んだ「人」である。「人」の行う真・善・美を《判断》すること自体、社会的な価値観を含んでいる。
・「人」にあこがれる、したわしいという感情は情緒(快)の範囲に入るが、それが情操化されると、尊敬する、信頼する、愛するといった内容になってくる。それがさらに、高度化され、洗練されてくると、道徳的な情操、宗教的な情操といったものに成長するかもしれない。人生観・世界観といったものも、こうした情操をベースとして醸成されていくものであろう。
・(情緒と同様に)情操においても、ある種の欲求がベースにあることは事実である。「あのような立派な人になりたい」「自分を高めてゆきたい」「他人から認めてもらいたい」といった、ある価値観を伴う欲望で、そこに意図を含んだ欲求(意欲)である。 
・立派な人の行動に感動するがゆえに、「あのような立派な人になりたい」という意欲を醸成してゆくという相互関係が成立している。それが「やる気」「学習意欲」の源泉になっているようである。

・情緒と情操の関係は、感情の発達的側面をもっている。小学校低学年では情緒的だが、中学年、高学年、中学生になるにつれて情操が育ってくる。(先生をしたう→教師批判、くやし泣き→感動の涙)
・情緒と情操の中間(亜型)がありうる。《例》てれる(甘えと恥ずかしいの二重の情緒、愛情という情操の一つ手前の亜型)、したわしい→あこがれる→愛情という系列の、「あこがれる」も亜型、くやしさ→うらやましい→尊敬するという系列の「うらやましい」は亜型。

・情緒から情操への発達の問題で、もう一つ留意すべきは教育との関係である。
・「情操を教える」という言葉は成立しない。「情操を育てる」でなければなるまい。育てるというのは、教えるという働きと比べるとかなり間接的な働きである。
・名画を見せて「美しいと思いなさい」と教えても、美しいと思えるものではない。その絵が美しく思えるのは、彼自身が思うのである。ただ傍らの人間がそれを刺激するとすれば、「美しいね」という言葉を口にした時に刺激できるだけである。ドラマを見て「すばらしいな」と口にする時、そこに感情の共感が起こって、その共感として、すばらしいと思えるのである。これが情緒を育てるという働きである。それには、心情的に近い関係にある人が、生活を共にしながら、お互いに共感し合える間柄の中でのみ育つものである。そのもっとも適当な関係といえば、いうまでもなく親子関係でろう。
・《親子関係の中でこそ、情操は育てられるのである》
・第三者の関係、指導者と指導される人間の関係の中では、知識や技術を伝えられるだけである。学校教育の中では、情操を育てることは困難である。
・道徳的な情操を学校教育の中でとり上げることは、心理学的に疑問を感ずる。学校で道徳の指導を行うことの目的が、道徳的な心情とか情操をもたせることであるとすれば、すでにかなり困難な面をもっている。道徳の徳目に関する知識を伝えることはできても、教師は四十数名の子ども一人一人と共感することは困難だから、情操としての道徳観を育てることはできない。道徳的な情操は、やはり何といっても家庭でなければならぬ。現在の学校で行っている道徳教育は、おそらく道徳的情操のある部分をになっているにすぎない。

【感想】
 ここでは、「情操の特性」について、大変わかりやすく述べられている。情操は、原情や情緒がさらに発達した感情である。要するに「真・善・美に感動する心」であり、そこには必ず「人」が介在していなければならないという説明に、私は全面的に同意する。
 また、情操は「育てる」ものであり、「教える」ことはできないという指摘も十分に理解できる。とりわけ「育てる」ということは、傍らにいる人間がその心情を「間接的」に刺激し、本人が「共感」できるような場面を設定することであり、それができるのは生活を共にする家庭以外には考えられないという主張も、まったくその通りだ思う。
 自閉児の場合、情操以前の段階で、すでに発達不全(感情に乏しさ)が感じられるが、情緒を「共感」できるような場面も不足していたのだろうか。
 いわゆる「心の理論」(他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能)が不足しているといわれているが、上のような「共感」の場がなければ、相手の心情(感情)を推測することは困難であろう。
 いずれにせよ、「育てる」ということは、①生活を共にすること、②周囲の人間が「感情表現」をして見せること、③それを「刺激」として受けとめ「共感」するように「仕向ける」こと、④それらを持続・継続することによって、感情の醸成を図ること、であることがよくわかった。性急に(直接的に)「教える」のではなく、見守りながら(間接的に)刺激を与え「待つ」ことが重要なのである。
(2017.7.7)




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・10

《二 感情の系列》
【要約】
・もっともプリミティブなものは原情である。感覚をベースにして、物象の触発によって生ずる感情である。「人」とは無関係、欲求もきわめて希薄という点で、情緒とは違う。「人」による欲求阻止もないし、衝動的な行動が「他人」に向けられることもない。(自分という「人」には向けられているようである)ただし、没論理性、即事的行動性、非客観性は伴っている。感染性は薄い。(「人」との関係が薄いせいかもしれない)感覚と区別のつきにくいものもある。(例・暑いは感覚だが、暑くるしいは感情である)
◎原情:高所恐怖、建物恐怖、尖端恐怖、うっとうしい、うるさい、ハットする、ゾクゾクする、暑くるしい、寒気がする、ハラハラする、疲れた、さわやか、パニック

・欲求がベースにあって、それが「人」の阻止によって発動し、「人」(自分という「人」も含めて)に向かって現れる感情で、生理的な現象を伴い、衝動的な行動や心情を伴う激しい感情を情緒と名づける。
・この情緒は、衝動的で外むきの行動を伴うもの(くやしさ、怒り、反抗、攻撃)と、内むき(自分という「人」に向かう)の心情を伴うもの(すねる、悲しい、淋しい)とに分けることができる。
・欲求の阻止を伴うか伴わないかによって、不快の情緒(上記)と快の情緒(うれしい、おもしろい、おかしい、したわしい)に分けることができる。
・欲求があり、その欲求を鼓舞するような刺激が現れた時、躍動するような心情にかられ、衝動とも思える行動が現れることがある。これを情熱と呼ぶ。(快の情緒はその一部と考えてよい)
・情緒には間違いないが、(外むきか内むきか)明瞭に区別できないものもある。(憎しみ、しっと、ひがみ、甘え)

・原情と情緒の間に、中間型・Ⅰといったものがある。(人の姿にしびれる、人の姿にかっこいい、物や人にこだわる、ナルシシズム)多分に感染性があり、即事的な行動性、没論理性、非客観性があり、衝動的な行動を伴っている。
・いずれも「人」の姿・形、リズムなどに触発されている面が強いので、情緒というよりも原情に近い。

・情緒は、情操がうまれてくるための土台となる。情操を触発する「人」は、社会性と価値観を伴った「人」である。(尊敬心、信頼感、愛情、自尊心、道徳的な情操、宗教的な情操、探究心、人生観、世界観)

・情緒と情操の間にも、中間型・Ⅱ、Ⅲが存在する。価値観の強さ、社会性の広さを基準(あいまいな面があるが)として、二つのグループに分けてみた。
◎第一の中間型・Ⅱ:うらやましい、ねたましい、はずかしい、もどかしい、あがる、あこがれる、ほれる、いとおしい、すばらしい、てれる
◎第二の中間型・Ⅲ:なさけない、もったいない、はかない、愛する、公憤、劣等感、屈辱感、挫折感、優越感、自信

・快い、美しい、好き・嫌い、恐ろしいといった感情は、原情から情操に至るまで、広い範囲に分類される。
◎快い:①天気、部屋のたたずまいが(原情)→②くすぐられて(中間・Ⅰ)→③好きな人に会って(情緒)→④ほめられて(中間・Ⅱ)→⑤多くの人から認められて(中間・Ⅲ)→⑥難問が解けて・仕事が完成して(情操)。
◎美しい:①花や、景色が(原情)→②異性の姿・形が(中間・Ⅰ)→③人の心根が(情緒)→④音楽・絵画が(情操)
◎好き・嫌い:①お菓子が、車が(原情)→②あの人が(情緒)→③ある職業人が(中間・Ⅲ)→④あの話が(情操)
◎恐ろしい:①音、光が(原情)→②動物が(中間・Ⅰ)→③けんかが(情緒)→④失敗が(中間・Ⅲ)

・さらにもう一つの感情群、不安・心配も原情から情操まで広範囲に分類されるが、持続性があり、(情操のような)価値観・社会性も乏しいので、上記とは別に分類する。
不安・心配:①雷が落ちるのではないか、石がおちるのではないか(原情)→②人から裏切られるのではないか、人前であがるのではないか(情緒)→③入試に落ちるのではないか(中間・Ⅲ)→④罪をおかすのではないか、信頼を失うのではないか(情操)
・不安は、自己の中にある予想・予見によって刺激され現れ、その予見や予想が確かめられるまでは持続的に現れる。
・不安・心配と恐れはよく似た感情である。現前のものによって直接的に現れてくるのが恐れであり、心の中の予見・予測によって現れてくるものが不安・心配である。動物や乳幼児は不安・心配はもたない。

・この原情から情緒への系列は、一応感情の発達の系列であるともいえる。
・乳児は、母親に抱かれることによって、安定、肌の温かさを感じる(原情)。それを繰り返すうちに、母親の心の温かさを感じる(情緒)。おなかがへったという不快感、満腹になったという快感は、生理的な内部感覚からくる原情だが、空腹の不快をとりのぞき、満腹の快感を与えてくれるのが、母親という「人」であることがわかることによって、母親との応答が快であることを知る。原情が情緒に成長してゆくプロセスの一つであろう。
・おむつがぬれた不快感(原情)をとりのぞき、さっぱりとした快さ(原情)を与えてくれた「人」が母親であることを認識できた時、原情から情緒への移行が起こる。不快を感じると、乳児は泣く。それは欲求の最初の表現であり、音声や合図、言語に変わってゆく。母親という「人」の認知と、欲求の組み合わせの中で、情緒が育ってゆくと考えるべきであろう。

・情緒そのものも、それが繰り返されることによって、情操が育ってゆくことになる。
・けんかは情緒の出現のもっとも代表的なものである。大別すると二つの心情が生じてくる。その第一は、勝つよろこびと負けるくやしさである。第二は、自分の主張がいつも通るものではない、という体験である。
・勝つよろこびは自分自身のよろこびから、認められるよろこびに変わっていく。まわりにいるなかまへの憧憬・あこがれといった見方を感ずるようになり、それをよろこぶようにもなる。
・負けることによって、くやしさを感じ、悲しさを味わい、憎しみ、ひがみに変わるかもしれない。みじめさ、恥ずかしさを感じ、勝者に対するあこがれ、うらやましさ、ねたましさを感ずるかもしれない。少しずつではあるが、価値観というものが生まれつつあるプロセスを表している。さらに繰り返されると、劣等感、屈辱感・挫折感にもなってくるだろう。それは、ある意味での社会性の発達を暗示している。やがて、けんかは、競争心に変容してゆく。
・(運動会などでの)競争心は、広い範囲の人たちに認められるよろこびである。社会的な価値の原初的なものである。優越感、自信も生まれてくるだろう。
・負けたくないという気持ちは、つねに勝つ「人」へのねたましさや、うらやましさになり、やがてあこがれに変わり、尊敬や信頼の生まれる土台となる。
・この勝負の心は、スポーツ、絵画、工作、勉強にも向けられ、さらに勝者のよろこびよりも尊敬される人と認められることのよろこびや、よい仕事をする人として認められることに志向していった時、情操になってゆく。

・幼児期のけんかの中で醸成されるもう一つの心情は、自己の主張が必ずしも通らないという体験である。この体験によって、けんかの不快を避けようとする心情が生ずる。そのよい方法は「じゃんけん」である。じゃんけんは、世の中のルールを体験する最初であるといわれている。社会的にエキサイトした状態を解決する最もよい方法であることを知る。これは社会性の発達を意味している。
・それはやがてルールに従うことの価値観となり、スポーツの複雑なルールを知るようになる。チームワークという高度な社会性を身につけていく。
・幼児時代は、クラスの子どもが一斉に同じ行動をするというルールにしか従えなかったものが、ある年齢に達すると、クラスごとの教室移動、クラブ活動への移動など複雑なルールに従えるようになる。
・それはやがて個人相互の自由を認めることに結びつき、個人の人生観や世界観にまで高まってゆくものであろう。これは情操が育ちつつある状態であるといえる。

【感想】
 ここでは、原情から情緒、情緒から情操に至る「感情の系列」が、大変わかりやすく整理され、説明されている。「感情」の内容にはどのようなものがあるか、それぞれの感情はどのように発達していくか、ということがよくわかった。また、感情は、人と人がぶつかり合い、対立・葛藤を繰り返しながら、徐々に社会的な関係を結んでいく(ルールを理解していく)プロセスもよくわかった。
 その出発点である「母子関係」も、当初は「対立」から始まるのだろうか。自閉児の場合、母子は明らかに「対立」しているように感じる。母に抱かれても快感は得られない。母に愛着を感じない。その要因が、子ども自身の「感覚障害」にあるのか、母の「抱き方」の方にあるのか、そこはわからない。いずれにせよ、自閉児の感情は、「人」が介在しない原情にとどまりがちであり、中間型・Ⅰの「こだわり」「ナルシシズム」、情緒の「怒り」「攻撃」までしか発達していないように思われる。
 したがって、自閉児の治療(教育)は、一に「うれしい」「おもしろい」「おかしい」という情緒を育て、それを「甘え」に拡げ、さらに「あこがれ」に発展させること、二に欲求が妨げられた時の不快感を、ハッキリと意識化すること、泣きながら「言葉」その他の手段で表現することを通して、情緒を豊かにしていくことをめざすべきだと、私は思った。その方法は、子ども一人一人に即して行うことが前提であり、誰にでも有効であるといったアイテムは、すぐには見つからないだろう。著者はそのことについてどのように考えているか、期待をもって読み進めたい。 (2017.7.8)




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・11

《第四章 欲求と情緒》
《一 盾の両面》
【要約】
・欲求と情緒は、盾の両面である。
・情緒が現れるためには、そのベースに欲求がある。母親に家に「いてほしい」という欲求があって、それが阻止される(母親が家にいない)と、そこに「淋しさ」が生ずる。宿題を「怠けたい」という欲求があって、それが教師にとがめられるから「反抗心」が生まれる。「満足したい」という欲求があって、それが十分に充足されないから「くやしい」という情緒が生ずる。
・情緒とは「生理的な現象、衝動的な行動・心情を伴う激しい感情」と定義したが、この衝動的な行動・心情は、そのまま欲求を表しているかもしれない。
・欲求とは「不快を避けようとし、快を追おうとする心情である」と説明できる。
・欲求は情緒に似た特性をもっている。その一は「没論理性」である。「わかっちゃいるけどやめられない」。その二は、比較的短時間の間に現れ、短時間の間に弱まるという傾向をもっている点である。→食欲と性欲
・ただ、情緒が外界の「人」の触発によるところが大きいのに比べて、欲求は内面的なものによるところが大きい。

《二 欲求の特性》
・情緒との大きな違いは、情緒が「人」によって触発されるのに対して、欲求は(「人」によって触発される部分は皆無ではないが)、「欠乏状態」によって触発される。
・食欲、性欲、睡眠などの欲求は「欠乏状態」がなければ現れない。それが満たされると欲求は弱められるか、消失する。これを「自己制御性がある」という。この特性は、欲求を語る場合にとくに重要な問題になる。
・欲求の特性で、情緒と違う第二の点は、感染性が弱いということである。(まったくないとは言い切れないが、情緒ほど強くはない)
・欲求とは「不快を避け、快を追おうとする心情である」という定義を認めるなら「学習の結果獲得した心情」であると解される。一つの経験もなしに快や不快を知ることはできないからである。二度目の場面では、不快を避け、快を追おうとする心理が働いてくる。欲求の最初の出現は、快を追う形ではなくて、不快を避けようとするものから始まるといえよう。
・欲求のあるものは、生得的だという考え方を導入する必要があるかもしれない。
・さらに、情緒との違いで注目すべきは、表現の問題である。欲求の場合は、そのほとんどが「・・・したい」「・・・がほしい」という二つの動詞で表される。
・その意味の第一は、情緒は何らかの刺激を感染する役割をもっているのに対して、欲求は内がわから生ずるもので行動の源泉である、ということを表しているのではないか、ということである。①欲求が起こる→②それが阻止される→③情緒を刺激する→④その情緒が欲求を刺激する→衝撃的な行動を起こさせる。
◎例・プラモデルがほしい→母に阻止される→怒る→母を攻撃したい→あたりちらす
・こうした動きは瞬時にして起こるから、どこまでが情緒で、どこからが欲求であるというように判別することは不可能である。(ある心の動きを、一方から見た時に情緒といい、別の面から見た特に欲求と名づけられていると解してもよいかもしれない)
・第二の意味は、欲求は究極では単一の心の働きであると考えてよい、ということである。具体的にはいろいろな行動によって現れるが、そのもとは「おし出すようなエネルギーのようなもの」と解してよいように思われる。
・欲求は情緒と共存するものである。

【感想】
 この章では、欲求という「心の働き」について語られている。それは「おし出すようなエネルギーのようなもの」として、情緒と共存している。情緒と似ている点は「没論理性」であり、違う点は①内面的な「欠乏状態」によって触発され「自己制御性がある」、②感染性が弱い、③「・・・したい」「・・・ほしい」という二語だけで表現される。単一の心の働きである、ということがよくわかった。
 さらに興味深い点は、欲求を「学習の結果獲得した心情」と解しながら「欲求の最初の出現は、快を追う形ではなくて、不快を避けようとするものから始まる」と指摘していることである。さらに、「欲求のあるものは、生得的だという考え方を導入する必要があるかもしれない」とも述べている。
 「欲求の《あるもの》」とは、どのような欲求であろうか。その欲求が生得的に不足しているために(出生以前から不足しているために)、学習に支障が生じ、結果として「(学習の結果獲得した)心情」が乏しくなるということがあるのだろうか。そのことが「自閉症状」の原因として想定されるのだろうか。
 一方、欲求は「不快を避けようとするものから始まる」という指摘は、十分に納得できた。胎児期の「快」は出生後、突然「不快」に変わる。それを避けようとして、乳児は泣く。その欲求に親は無条件に応じて「不快」を取り除こうとする。その「かかわり」(やりとり)を繰り返すことによって、乳児の欲求が「情緒」に育っていく。もし、親が「快を追う形」(紙オムツ、定時授乳など)を優先すれば、乳児の欲求は弱まり、「情緒」の発達にも支障が生じるだろう、ということを著者は暗示(示唆)しているのだろうか。以後を読み進めながら、そのことを確認したいと思った。(2017.7.9)




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・12

《第五章 欲求と意欲》
《一 欲求と意欲の違い》
【要約】
・食欲・性欲・睡眠の欲求といった生理的な欲求と、獲得欲求(プラモデルが欲しい、100点が欲しい)、愛情欲求(かわいがられたい)は、基本的欲求と呼ばれ、人間の生得的にもっている欲求である
・基本的欲求(A)は、しばしば現れて消えるという体験を重ねていくうちに変化をとげて、意欲(B)という欲望になってゆく。
◎例:おいしいものが食べたい(A)→おいしいものが食べられる身分になりたい(B) 性欲(A)→異性の愛情がほしい」(B)
車がほしい(A)→車のもてる身分になりたい(B)
金がほしい(A)→金持ちになりたい(B)
   不正をしてでもよい点がほしい(A)→努力をしてよい点がほしい(B)
点取り虫(A)→学習意欲(B)
派手な服装をして他人から認められたい(A)→尊敬、信頼をうけることによって   他人から認められたい(B)
◎欲求と意欲の違い
⑴欲求は動物にもあるが、意欲は人間固有の欲望である。
⑵欲求は刹那的で短時間に終わる傾向があるが、意欲は長い時間持続する。
⑶欲求は「自己制御性」(充足されると消失する)があるが、意欲は「自己制御性」が乏しい。
⑷欲求は没論理性があり、客観性が乏しいが、意欲は明瞭な目的観をもっている。欲求は「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ○○心」であり、意欲は「かくすれば かくなるものと知るゆえに やらねばならぬ○○心」である。
⑸意欲は、論理的な思考と結びつきがある。社会性、価値観が入り込んでいる。金がほしいと思い、目前の金を盗ることより、努力して金持ちになる方が価値観が高い。価値観が高ければ、社会的に容認される。

《二 情操と意欲》
・意欲は情緒との結びつきが濃い。
◎意欲と情操に共通している特性
〈情緒・欲求の領域〉即事的、刹那的行動 没論理的 価値観、社会性乏しい
〈情操・意欲の領域〉目的的、持続的な行動 論理的な内容を包含 価値観、社会性濃い・他人から認められたいという欲望は、誰でももっている。それが派手な服装をすることによって認められたいというのは欲求のレベルである。それに対して、他人から尊敬を受け、信頼される人として認められたいというのは意欲である。人を尊敬する、信頼するという心情は情操である。その情操が育っていなければ、そのような人間になりたいという意欲も育ってこない、といえるだろう。
・豊かな情操が育っていなければ、意欲も育たない。
◎欲求の例
・空腹の不快を避け、目前の食事をとって満腹の快を追う。
・金が手元にないという不快を避け、目前の金を持つという快を追う。
・他人から無視される不快を避け、派手な服装をすることによって認められる快を追う。◎意欲の例
・空腹の不快を避け、社会的に容認される方法で食事を満足にできる身分になる、という快を追う。
・金が手元にないという不快を避け、努力することによって、金が十分に手に入る身分になるという快を追う。
・認められないという不快を避け、他人から尊敬を受けるという快を追おうとする。
◎この意欲と欲求を総称したものが欲望である。(学問的には論議のあるところであろうが・・・)

【感想】
 ここでは、食欲、性欲、睡眠の欲求、獲得欲求、愛情欲求などの基本的欲求が、変化をとげて意欲という欲望になっていくこと、欲求と意欲の違い、意欲と情操の共通点について述べられている。要するに「豊かな情操が育っていなければ、意欲も育たない」ということが、よくわかった。
 欲求を意欲に高めるためには、情緒を情操に高めなければならない。しかし、それは言葉でいうほど容易ではなく、ほとんどの場合、成人しても欲求、情緒の段階にとどまっているのが原状ではないだろうか。多くの対立、事件などを見ても、「ついカッとして」とか、「ほしくて我慢できなかった」とか、「恨みがあった」とかいう事例は枚挙にいとまがない。
 どうすれば、情緒を情操にまで高めることができるかが、人間として成長するための、さらにまた、豊かで平和な社会を形成するための最重要課題であると思うが、その方法はよくわからない。個人の問題か、社会のあり方の問題か、著者はどのように考えているのだろうか。期待をもって、次章を読み進めたい。(2017.7.10) 




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・13

《第六章 情緒の力動》
《一 情緒をとりまく心の構造》
【要約】
・心の中心部に、分析することの不可能な領域がある。心理的にコントロールすることもできない。「生理的・心理的な領域」(A領域と名づける)自律神経系と深い関係がある。夢の世界でこの領域をかいま見ることができる。(フロイド「夢判断」)われわれ自身のコントロールの範囲の埒外にある。
・この領域の周辺に一種の層状態として表されるのが情緒・欲求の領域である。(B領域と名づける)この状態は幼児の心理構造を表している。怒ったり、悲しんだり、喜んだりする。それらの情緒は欲求に影響して、食事、排泄、獲得欲を満足させる生活である。
・これらのものが、しばしば現れて消えるという体験を重ねることによって、一種の社会性を包含するようになる。それがまた価値観と結びつき、刺激ー反応のような単純で刹那的な行動から、ある目的観をもち、客観性を帯び、持続的な特性を帯びてくると、情操・意欲の層へと成長してゆく。(C領域と名づける)
・こうした層に、外部からはりつけられる部分がある。(D領域と名づける)他人から言語活動を通して与えられたもの(知識)、自分自らが、映像・活字を通して得たもの(知識)、それらの記憶、それらを論理的に組み合わせた結果生まれた結論、因果関係の認識、数および数理を使用する能力、さまざまな原則・方程式を抽象する能力、それを使って洞察・推理する能力。
・知識(意識)というD領域は、人間の心理構造をおおいつくすものではないから、かたまりとして示す。いかに豊かであっても、点の羅列にすぎない。
・学校教育で覚えた知識が、単に知識で終わっているかぎり、日常生活では役に立っていない。数学の関数、二次方程式、微分、積分を日常生活の中で使うことはない。知識はむなしいものである。
・D領域は、欲求や情緒の層に対しては、ほとんど直接的なコントロールする力をもってはいない。D領域とB領域は分離している。わずかに情操・意欲の(C領域)の内容にかかわりがあるにすぎない。D領域はC領域と接触し疎通しているが、C領域をおおいつくすものではない。
・“いかに頭(D)がよくても、頭は心(B,C)に対してほとんど何もなし得ない”(スキュデリ)
・どんなに二次方程式、微積分を正確に早く解くすぐれた知識をもっていても(コンピューターに関する知識が豊富で、それをうまく駆使できたとしても)、情緒をコントロールしたり、人を尊敬したり、信頼したり、愛情をもったりすることには、まったく影響を与えていないといえる。

【感想】
 ここでは、心の構造図が示されている。それは同心円であり、中心部を「生理・心理的な領域」(A)が占め、その外側に「情緒・欲求」(B)の層があり、さらにその外側に「情操・意欲」(C)の層がある。そして、Cの外縁に「知識(意識)」(D)が「かたまり」として「いくつか」貼りついている、というものである。
 心とはとらえどころのない漠然としたものだが、そのように図示されると、腑に落ちる。なるほど、心の中心部には「意識できない」(自分ではコントロールできない)モヤモヤとした部分があり、それが刺激されて情緒(怒り、反抗、攻撃、さわやか、うれしい、たのしいなど)に変わり、さらに社会性、価値観を含んだ情操(真善美に感動する感情)に発展していくということが、よくわかった。
 「ついカッとして」とか「なじかは知らねど心わびて」(ローレライ)などという心の動きはA領域の発動であり、「自己主張するばかりで相手の言うことに耳を傾けない」という姿勢は、まだ感情がB領域にまでしか発達していないということである。
 また「知育偏重」の風潮は、「知識」という価値を絶対視しているが、ややもするとBの外縁にDが貼りついてしまうおそれがある。「自分の知識をひけらかす」「相手の知識を見下す」といった態度も、未熟な感情を露呈しているに過ぎない。学校教育の競争原理が、そのような状況を助長していることも間違いないだろう。 
 著者は「どんなに二次方程式、微積分を正確に早く解くすぐれた知識をもっていても(コンピューターに関する知識が豊富で、それをうまく駆使できたとしても)、情緒をコントロールしたり、人を尊敬したり、信頼したり、愛情をもったりすることには、まったく影響を与えていないといえる」と結んでいるが、私も全面的に同意する。
(2017.7.11)




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・14

《二 教えることと育てること》
【要約】
・「教える」という働きと「育てる」という働きは、基本的に違った働きをもっている。
・「教える」という働きは、ほとんど知識と技術を伝達することと解してよい。この働きを営むには、第三者の関係が、もっとも能率的で効果的である。(師弟関係)
・この師弟関係は、心のしくみのいちばん外側(D)で結びついている関係である。
・教師のいちばん外側にある「知識」を児童の外辺に移すことが可能である。
・「育てる」という働きは、まったく違った働きをもっている。
〈例〉「柿の木を育てる」:日当たりをよくする、雑草をとる、水分、肥料を与える。
「児童の身長が3センチ伸びた」:安息できる家庭、安眠できるベッド、栄養のある食物を用意した。3センチ身長を伸ばしたのは児童自身である。
・以上が「育てる」という働きである。
・これを心の問題としてとらえると「共感」という心の働きが中心になる。
・(第一は)夕日を見ながら「美しいね」という感情的な言葉とその感情、音楽を聴きながら「楽しいね」という言葉が繰り返されることによって、そこに共感を感じながら育ってゆく。それをどれくらい吸収するかは、本人の問題である。
・第二は経験の積み重ねである。「そんなにいじわるをすると、みんなから嫌われますよ、だからやめなさい」と説得することは「嫌われるようになるものである」という知識を与えていることになる。これは教えるという働きである。実際にいじわるをして、友だちがみんな去っていった時に味わった「淋しさ」の体験、自分がいじわるをされた時に感じた悲しさの体験が積み重ねられて、初めて、いじわるをすることはいけないことであるということが「わかる」。(知るではない)これが育つという働きである。
・こうした働きの担い手は、両親であり、兄弟、友人である。これらの関係は、心のしくみのBの領域が「重なり合っている」関係である。つまり「情」の関係である。「情」の関係とは、さっきまでやんちゃを言ってわがままな行動をしていた子どもでも、寝顔をみると、思わずほおずりがしたくなるという関係である。教師はこの関係に絶対なり得ない。
・「お宅の子どもは、算数の九九がよくできません、家で教えてください」と教師が言うことは、親子が「情」の関係であることを無視している。
・数学を教えることの名人といわれた教師が、家庭に帰って、親としてわが子に同じように教えようとしても成功しない。
◎「情操は育てるべきもの」である。
・ピアノを習う時、第三者にまかされる。この時に吸収されるのは、楽譜の知識と鍵盤をたたく技術のとどまる。(Dの領域)
◎もし、情操が育つとすれば、第一に家庭の両親との関係において育つものである。(一緒によい音楽を聴く、合奏する)第二に、一緒に音楽を聴いて「美しいね」「楽しいね」と感情を交流することによって育つ。家庭には、まったく音楽的な雰囲気がなければ、音楽の情操とは無関係である。第三に、友人と一緒に音楽を聴き合ったり、合奏し合ったりする経験の中で育つ。
◎道徳的な情操
・「盗みをすることは悪いことである」と教えても、盗みはやむものではない。なぜ盗みをしないのか。「今まできずきあげてきた人格がくずれることを恐れている」からであり「うしろ指をさされることによって、社会的に軽蔑されることを恐れている」というCの領域が育っているからである。そうしたことを意識しているわけではない。C・B領域で感じているものである。だから、決してとがめられないということがわかっていれば、ノーマルな人間でも、盗みはするものである。
・両親に憎しみや怒り(情緒)しか感じていない児童に対して「親を大切にしなさい」という意味の言葉を伝えても、吸収されないが、両親を尊敬し信頼し深い愛情をもっている(情操)児童が「親を大切にしろよ」という言葉を伝えれば、水に赤インクをたらしたようにしみこんでゆくだろう。
◎道徳的な情操が育てられるのは、まず家庭の中においてである。
◎「意欲を育てる」という言葉も成立する。
・「学習意欲」を「教える」ことはできないが、「意欲をもやせ」「やりとおすつもりになれ」「絶対の自信をもってやれ」という言い方が横行している。
・「自信をもて、と口で言われても自信のもてる人間はひとりもいない。」(松平康隆氏・『負けてたまるか!』)
・日本の教育は、この錯覚を繰り返しているように思える。

◎情緒・意欲といったものは、育てられるという働きによって成長する。その働きが薄ければ、Cの領域(情操)は豊かにならない。C領域の層が薄ければ、外からの刺激は直接情緒を刺激することになり、そこで触発された情緒は生のまま突出することになる。これが情緒障害の一つの現れ方である。

【感想】
 ここでは「教えること」と「育てること」の違いが、明確に述べられている。情緒・欲求(心のしくみのB領域)、情操・意欲(C領域)は「育てるべきもの」であって、教えることはできない、ということがよくわかった。
 また、情操を「育てる」ためには、①一緒に居ること、②共感すること、③その体験を重ねることが重要であり、その担い手は両親、兄弟、友人など「情」の関係を結んでいる人たちである、ということもよくわかった。
 著者は、道徳的な情操を育てる事例として、ノーマルな人間は「なぜ盗みをしないのか」ということに言及している。私はこれまで、人が盗みをしないのは、そのことによって嘆き悲しむ家族の姿を見たくないからであり、盗まれた相手の(悲しい)気持ちを共感できるからだと考えていたが、著者は〈「今まできずきあげてきた人格がくずれることを恐れている」からであり「うしろ指をさされることによって、社会的に軽蔑されることを恐れている」からである〉と述べている。なるほど、「悲しい」という情緒(B領域)ではなく「恐れ」という情操(C領域)であったか、と大変参考になった。
 また、著者はこの章で初めて「情緒障害」について言及した。情操(C領域)の層の薄さが「情緒障害」の一つの現れ方を招いている、ということである。そのことについては「項をあらためて詳述することになる」が「もう一つの情緒の特性について触れておく必要がある」とこの章を結んでいる。もう一つの情緒の特性とは、どのようなものであろうか。私の期待は高まるばかりである。
(2017.7.12)




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・15

《第七章 情緒の変容様態》
【要約】
・情緒は、周辺にある要素との関係の中でどのような動きをするか。本項では、危機場面における「働き方」の特性について述べる。
・情緒の動きが、もっともよく観察されるのは、その人間が困った場面に出会った時である。困難な場面は、大別すると二つになる。
⑴自分の知識や判断力などでは解決できない場面である。Aすべきか、Bすべきか、という迷いである・これを心理学用語では「葛藤」と称している。
⑵自分で自分の心の中に起こっている混乱をコントロールできない場合がある。(B領域やC領域で起こっていることをD領域の力では調整できない場合であるともいえる)
それを細分すると二通りのメカニズムがある。
(イ)「わかっちゃいるけどやめられない」という心理である。ある種の葛藤である。(登校拒否、ストライキへの参加など)
(ロ)自分の心の内部に起こっている不愉快な状態(B、C領域)に耐えられない場合である。(B、C領域内の諸要素の葛藤をD領域が処理できない状態) 
・人間は、初めての経験をする場合は、自分の知識に何の材料もないから不安(B、C領域)にかられる。恐れでもある。こうした心理状態になる代表的なものは、受験と結婚である。直前になって病気になったり、回避したくなる場合があり得る。
◎これらの「困難な状態」をまとめて葛藤という言葉で整理しておく。葛藤場面は、D領域の調整、判断能力をこえた場面である。D領域の能力をこえた場面では、B領域の情緒が、自分の力で混乱状態や窮地を救うための動きを始める。それが、ディフェンスメカニズムと呼ばれるものである。筆者はそれを「情緒の変容様態」と名づけた。

《一 退行》  
・葛藤状態になると、情緒は無意識のうちに動いて、過去の経験の中から、同様の葛藤場面でその克服に成功した行動様式をとろうとする。
・言語で意志を伝える能力を持ち合わせているのに、泣いて要求を通そうとする。
・中学生が小づかいをもらえないといって、刃物で母親をおどかす。
・下の子どもが生まれると、上の子どもが夜尿を始める。
・『「甘え」の構造』(土居健郎氏)「甘え」(受身的愛情希求)にあたる英語はない。日本人にある干渉過剰の傾向と無関係ではない。
・甘えの変型・ひがむ(甘えがはずれた場合)、すねる(すなおに甘えられない場合)、たのむ(甘えさせてほしいと思っている)、こだわる(甘えたいが、受け入れてくれないのではないかという恐れから、すなおに表現できない場合)、気がね(甘えを受け入れてくれるかどうかわからないという不安がある)、てれる(他人の前で、甘えを表現することが恥ずかしい)
・受身的責任回避も一種の甘えである。(自分は問題を解決するための能動的な動きをしないで、相手に動いてくれることを要求する態度)
・流行歌の歌詞・「あなたにあげた夜を返して」「どうせ私をだますならだまし続けてほしかった」「こんな女に誰がした」
・婦人雑誌のタイトル・「何が私をそうさせたか」「待つ身になって」
・「すみません」も甘えの一種である。
・欲求の原始化ともいうべき様態も、退行である。自分自らの過去の経験というより、人間の原始生活の様式にもどる状態である。それには、次のような要素が含まれている。
第一には、前後の見とおしもなく、刹那的な享楽を追う。第二には、感覚の世界での喜びを追う。第三には、目的観が薄く、不安や恐れ、精神的な緊張を、刹那的な喜びの中で昇華させてしまうという面がある。
→やけ酒、やけ食い、やけ買い、性行動

《二 逃避》
・現実の不愉快な状態から逃げることによって安定しようとするメカニズムである。
・空想、白昼夢
・不愉快な場面で、急にほかのことがやりたくなる。(その行動に逃げ込んでいる)
・病気に逃げ込むという傾向は、登校拒否児には多発する。
・ヒステリー(体の異常が強烈に現れる)
・不定愁訴、ノイローゼ(対人恐怖)
・閉じこもり(人間からの逃避)
・嘘言
・家出は逃避の典型である。(ある目的観をもった家出(トラブルからの逃避)、目的観がない家出(家庭の雰囲気からの逃避)
・「親子の断絶」と呼ばれる状態は、精神的な家出と考えてもよい。
・逃避の別の形に抑圧がある。(自分の心の中におし込んでしまって、外面的には無反応のように見える。ポーカーフェイス。
・大きなショックを受けると、情緒がD領域をおかしてしまってまったく思考が停止してしまう状態に似ている。
・心の中で反発しながら抑圧している場合もある。外面的には、すなおに相手の言うことを聞いているが、内心では、反発しながら聞いている。こうしたタイプは。情緒障害を起こしやすい。
・外面は従順だが、家に帰ると、妻や子どもに八つ当たりする。アルコールを飲むと「酒乱」になる。

《三 代償行動》
・Aの方法で成功しない時、成功しそうもないと予想した時、Aの行為をすることが不愉快である場合、その傍らにあるBという方法を選ぼうとする場合がある。これを代償行動という。
☆退行、逃避、代償行動は、よく似た傾向をもっているので、三者を区別すると
〈逃避と代償行動の違い〉逃避は、Bの方法・行動を「結果としてとってしまった」(のめり込んでしまった)、代償行動は、Bの方法を選んでいる場合をいう。代償となるBという行動をとる前に、Aの方法を避けるという段階がある。その部分を重視すれば、逃避と解釈することもできる。
〈退行〉Bという行動が、幼稚な方法であったり、原始的・刹那的な方法である場合をいう。三者は微妙な差があるに過ぎず、同一の行動であっても、どこを重視するか、どこに注目するかによって、退行とも、逃避とも、代償行動ともとれる面が少なくない。
・代償行動の、代表的なものはマスターベーションである。性行為からの逃避であると解することもできる。また刹那的な快を追う行為、感覚を楽しむ原始的な行動であると考えれば、退行と解してもよい。
・学校で、学習上のよい成績がとれない場合、運動部に入って活動しようとすること、またその能力も乏しいのでマネージャーの役をかって出るというのも、すべて代償行為である。
・日記を書くというのは、典型的な代償行為である。
・文学、芸能、芸術に関する専門家になった人たちの中には、この代償行為の結果、その道を選んだ人は多い。(倉橋由美子、手塚治虫、岩田専太郎)
・その他、安川第五郞、坂田道太、原文兵衛、金田一春彦といった有名人の業績も、代償行為の結果だと考えられる。

【感想】
 人間が困った場面に出会ったとき、葛藤する。「葛藤場面は、D領域の調整、判断能力をこえた場面である。D領域の能力をこえた場面では、B領域の情緒が、自分の力で混乱状態や窮地を救うための動きを始める。それが、ディフェンスメカニズムと呼ばれるものである」著者は、それを「情緒の変容様態」と名づけ、退行、逃避、代償行動、合理化、注目牽引、同一化、攻撃、事大、同隣という9種類を挙げている。  
 ここまでは、退行と逃避、代償行動について述べられている。退行とは、過去の行動経験を再現して、混乱状態や窮地を救おうとする動きである。その中には、文字どおり幼児期への回帰行動のほか、日本人特有の「甘え」(受身的責任回避、「すみません」)、欲求の原始化(やけ酒、やけ食い、やけ買い、性行動など)が含まれていることがわかった。
 また、逃避とは、「現実の不愉快な状態から逃げることによって安定しようとするメカニズム」であり、空想、白昼夢、閉じこもり、ヒステリー、ノイローゼ、嘘言、家出(親子断絶)などがある。抑圧も逃避の一つであることがわかった。
 さらに、代償行動とは、Aの方法で成功しない時、成功しそうもないと予想した時、Aの行為をすることが不愉快である場合、その傍らにあるBという方法を選ぼうとする場合でことであることがわかった。
著者は「退行」「逃避」「代償行為」はよく似た傾向をもっているとし、どこを重視し、何に注目するかによって区別されると説明している。
 これらの、防衛機制(情緒の変容様態)は、誰にでも「葛藤状態になると、情緒は無意識のうちに動いて」生じるメカニズムである。では、どこからが「情緒障害」といえるのか、興味をもって読み進めたい。
(2017.7.13)




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・16

《七 攻撃》
【要約】
・外からの刺激を受けて、自らの心情の中に、ある種の曲折が起こり、その結果としてそれらのものが表出される。そのことによって、自らの情緒的な不安定感・不快をいやそうとするメカニズムである。代償行為と合理化は、その表出される段階でやや積極的・能動的な色あいをもっているが、それをさらに強くしたものが、攻撃である。心理的な曲折という段階をほとんど通らずに、ほとんど反射的に表出されるものである。
・攻撃とは、相手を攻撃し、傷つけ、破壊することによって、自らの安全と安定を確保し、不快を避けようとするメカニズムである。D領域やC領域は関与せず、いきなりB領域が刺激され、B領域から直接反射的に出る点が、合理化、代償行動と違う点である。
・攻撃という行動は、怒りによるものと恐れによるものとに大別される。恐れによる攻撃が、ディフェンスメカニズムの中に入れられる攻撃である。
◎怒りによる攻撃の要因
①順位がおかされて怒る
・「軽蔑されて怒る」「馬鹿にされたから怒る」「反抗されたから怒る」→上位の権威が失墜するから怒る
・「しっとによる怒り」「負けてくやしがる」
②自分の領域・領分、所有権が侵されて怒る
・友だちにオモチャをとられて怒る
・自分の弟がいじめられると怒る、家族の悪口を言われて怒る
・自分の先生、クラスの友だちが攻撃された時に怒る
・集団対集団の攻撃→戦争
*怒りは「人」に対して起こるものであり、自然災害などで被害に遭っても、自然現象には向けられない。
③「欲求不満」による怒り
・幼児期の欲求不満(空腹、オモチャを買ってもらえない、母親がいないなど)による怒り
・この怒りが社会化すると、組合闘争、暴動、戦争にまで発展する。
④「正義が侵された時」に生ずる怒り
*何をもって正義と考えるかは、哲学的な主題である。「安保闘争」「極東裁判」
*絶対的な正義というものはあり得ない。
◎恐れによる攻撃
・予見性との関係が深い。侵される者と侵す者の間に時間的・空間的な距離がある。
・恐れとは、順位の安定性が脅かされる、所有物・所有権の侵害、欲求不満などが生ずる前に、予見、予想といったものにかかわる心情である。乳幼児にはあまり現れない。
・パールハーバーの攻撃は、日本にとっては恐れによる攻撃であり、アメリカにとっては怒りによる攻撃であった。(二つの種類の攻撃の典型的な例である)

◎攻撃を方法で分類すると、直接的な攻撃と間接的な攻撃に分けることができる。
①直接的な攻撃
・相手の体を直接攻撃する。打つ、ける、噛みつく。
・相手の所有物を破壊する。(「坊主にくけりゃ袈裟まで憎い」)
②間接的な攻撃
・音声、身ぶりによるものである。
・言論・文章による攻撃にまで発展する。
・「自己主張」、拒否行動、無視、黙殺といった態度も攻撃の一種である場合がありうる。

◎攻撃の中には「八つあたり」というものがある。
・不快や不安を与えた本人に攻撃するのではなく、その人の所有物を破壊するのでもない。まったく関係のない第三者、あるいは目の前の物に攻撃を向けることである。攻撃するのに都合のよいもの、弱者、手近にある物に攻撃を加えるのである。
・物を投げ、破壊すること自体の中で不快が解消してしまうメカニズムである(自消)。・自消とは、攻撃すること自体が、攻撃を起こさせる要因を自ら消滅させるメカニズムをいう。(カタルシス)その代表が「八つあたり」である。
・「八つあたり」の対象となるべき物、弱者が見当たらない時、あるいはその勇気がない時には、自分自身の体に攻撃を加える時がある。それを「自傷行為」という。
・自らの心に攻撃を加える場合は「自虐」と呼んでいる。
・ノイローゼのある種の人間は、つねに「自分はだめな人間だ」「自分は能力の低い人間だ」と言い聞かせているが、これが自虐と呼ばれているものである。

・攻撃は、ディフェンスメカニズムの中で、もっとも純形のものである。外界の刺激に対して直接情緒そのものが突出する。したがって、情緒の諸特性をもっともよく把持している。(没論理性、即事的行動性、非客観性、感染性・「売り言葉に買い言葉」)

《八 事大》
・「虎の威を借る狐」(虎の前にひれ伏し、すがっている姿は、卑屈だが、それを背中に負うと、尊大傲慢な態度をとる。日本人は、この傾向が特に強いように思える。
◎何故か
・「モンスーン地帯」としての自然環境が、日本人の情緒の構造を「長いものには巻かれろ」式のものにしたてていったのかもしれない。
・学校教育、社会教育、家庭教育の中で植えつけられたものかもしれない。(人間をタテに並べる習慣、テストを返す、日本の世論調査はあまり正確ではない、学校に順位をつける)
・自分で努力しようとか、解決するためのヒントを得ようとする積極的な心の動きはなくて、相手の働きに全面的に期待している姿、「たのむ」「すがる」「とりいる」といった心情、「受身的な愛情希求}(土居健郞)が日本人の情緒の特徴である。
・大に事える心情というのは、一方に「タテ社会の人間関係」が存在し、もう一方に「大」もしくは上位者に対する「甘え」の心情が加わった時に生まれる。(官僚の世界)

《九 同隣》
・前述した「となり百姓」のことである。情緒の変容(同一化)の一種であり、日本人独特の変容である。 ただし、同隣の対象となる人は、不特定な多数の人である。
・「事大」とも似ているが、対象を絶対視、拡大解釈、その権威を背中にきて尊大ぶる傾向は少ない。
・われわれは、判断に迷ったり、不安定な状態におかれると、まわりの人のやっていることが気になる。自分一人だけがまわりと違ったことをしていることがわかると、ますます不安が高まる。そこで、まわりの人と同じことをやろうとする。そうすると何か安心できるようである。(教育ママ、中流家庭のピアノ、有名小学校の受験などなど)
・われわれはつねに皆と同じであることを求める。そこから平等主義が生まれる。それは情緒的なものである。外面的な形式上の平等であって、かえって不平等になっていることに気づかないことが多い。
・差別とは、分けられないものを分けて扱うことをいう。分けられるものを分けて扱うのは区別という。(男女の区別、大人と子どもの区別)
・何によって区別するかは、それぞれの基準がある。その基準の確かさ・不確かさが問題にならなくてはならないが、わが国における諸々の権利論、平等論にはここのところが抜けたものが多い。

《十 変容の特性》
◎以上の情緒の働き(退行、逃避、代償行動、合理化、注目牽引、同一化、攻撃、事大、同隣)に共通の面は
⑴あくまで一時的に起こっていることである。
⑵その個人全体ではなくて、ある部分がそのような行動をとるのである。
⑶ほとんどが、無意識的な行動である。
⑷便宜上、いくつかの分類に分けたが、実際の行動は単一の分類項目だけで説明できるものではない。
⑸そのような行動を起こしても、必ずしも完全な問題解決にはならない場合が多い。自消の効果の方が大きい場合がある。
⑹行動そのものは、是非善悪の埒外にあるものである。

【感想】
 以上で、この章は終わる。ここでは「攻撃」「事大」「同隣」について述べられ、最後に「変容の特性」がまとめられている。
 「攻撃」は、人間の情緒変容(ディフェンスメカニズム)の中で、もっとも《純形のものである》と記されてあったが「純形」とはどのような意味だろうか。動物にも見られる行動なので、原初的な情緒という意味だろうか。それとも、わかりやすい、単純、純粋といった意味だろうか。
 いずれにせよ、攻撃の要因は怒りと恐れであり、その状態をもたらしている相手(人)を直接行動で攻撃する場合と、音声や身ぶり(場合によっては言論、文章)で攻撃する場合があることが、よくわかった。相手によっては、攻撃を自分に向ける(自傷行為、自虐)場合もあり、また、縁もゆかりもない第三者(物)に向けられる場合を「八つあたり」ということもわかった。「八つあたり」には、自消(カタルシス)というメカニズムが働いて、怒りや恐れといった情緒が消滅するという説明も、たいへん興味深かった。特に、障害者の青年期、成人期では、「アンガーコントロール」が喫緊の課題になっているような状況もある。怒りを起こらないようにする、抑える、鎮めるといった方法は、ただのノウハウだけでは不十分であり、ここで述べられている「怒り」の構造、ダイナミズムを理解することが大切だと思った。
 「事大」「同隣」は、日本人特有の情緒変容であり、著者自身の見解が、事例を通して詳細に語られており、たいへん参考になった。
 次章からは、いよいよ「情緒障害」について言及が始まる。期待をもって読み進めたい。
(2017.7.14)




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・17

《第八章 情緒障害の構造》
《一 情緒障害はふえてゆく》
【要約】
・現代人のD領域は、社外の渉外的なことにのみ専念している社長のようなものである。自分の本来の仕事である部下や社員を調整したり指導したり、リードしたりする役割を捨ててしまった。したがって、その社員は、社長の意志や意図と無関係に、勝手に動き始めた。これが情緒障害と呼ばれているものである。
・勝手な行動をとらないまでも、自分たち自らの手で調整・統制のためのエネルギーを使わなければならない。生産管理と呼ばれるしくみに似ている。そのために使われるエネルギーと時間が、本来の仕事の能率をさげてゆく。この生産管理と呼ばれる機能を、ディフェンスメカニズムにたとえることができる。
・社長が知識をふやせばふやすほど、実際の管理はおろそかになる。社員はその統制力を失うからその行動はますます混乱をおこすはずである。
・情緒障害は増加の一途をたどる。人間全体が情緒障害を起こすことになるから、特別なものでないかぎり障害と呼ばないことになるかもしれない。高所恐怖、赤面恐怖、建物恐怖、乗り物酔い、爪かみ、チック、どもりなどは、二、三百年前には皆無であったはずだが、現在では、すぐに発見できる。登校拒否、かん默、自閉児などと比べれば、ほとんど問題にならないくらい小さな障害と考えられていることが、その間の状態を証明している。・この問題は、近い将来のもっとも大きな課題になるであろう。

【感想】
 ここでは「情緒障害」を例え話として説明している。本来、B領域(情緒)やC領域(情操)を調整、管理するべきD領域(知識)が、その役割を忘れ、勝手にひとり歩きしてしまった(文明が進歩した)ために、それに見合った情緒や情操が整わないままに混乱している、もしくはB領域やC領域もまたD領域におかまいなくひとり歩きしている、ということであろう。言い換えれば、学校教育で授かる知識は日常生活には無縁であることが多く、家庭教育、社会教育もまた「分断」されて行われているために、著しく不安定になっている、ということかもしれない。
 二、三百年前に比べて、人間の社会は大きな進歩を遂げた。しかし、それはD領域(知識)の「ひとり歩き」(独断専行)に因るものであり、情緒、情操は以前の状態のままである。「育児」という方法を例にとっても、かつては母乳、布おむつ、抱っこ・おんぶが原則であったが、現在では(前章の「同隣」・となり百姓よろしく)人工乳、紙おむつ、ベビーカーがほとんどである。子どもの情緒は、その変化について行けず、混乱している。さらに、その混乱の要因を、子ども自身(脳の機能障害)に求めているといった傾向が強い。そこでも、またD領域(脳科学)の「ひとり歩き」が感じられる。
 いずれにせよ、著者が「情緒障害」の要因を、社会の大きな変化(文明の進歩)を前提として考察している点に、強く共感する。
 (2017.7.15)




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・18

《二 情緒障害の定義》
◎情緒障害とは「情緒の現れ方の歪曲」である。
・「現れ方」は、厳密には「情緒の動き方」「発動のしかた」という表現の方がよいかもしれない。
・「歪曲」とは、次のような「動き方」を代表させた表現である。
⑴普通一般の人なら、Aという刺激を受ければ、aという情緒的な反応を現すはずなのに、bという反応をしめすような場合。
・“相撲に負けて妻の顔を打つ”(「八つあたり」)など。
⑵普通の人はAの刺激を受ければaの反応だけが現れるにすぎないのに、ある人は一度に3×aの反応が出たり、aが3回、4回と続けて出てくる場合がある。
・肩と肩が触れあった。「わざとぶつかった」「バカにした」と受けとって、攻撃を加える。毎日、待ち伏せして攻撃を加える、など。
⑶情緒が強く現れ、頻度が多いということは、その心が情緒に支配されてしまっていると考えてもよい。(没論理性、非客観性、刹那性、感染性)
・目まぐるしい反応の変化が起こる。
・入社試験の時、尿意を敏感に感じとって、二度三度とトイレに立つ。席に座ると、手を洗うのを忘れたことに気がつき、またトイレに立つ。またしばらくすると水が飲みたくなって、また席を立つ、など。
・それらの行動を障害と呼ぶかどうかは、ある相対においていえることである。その歪曲のしかたが、普通の人と比べて著しく強く、頻度も高い時、その歪曲のしかたが異常な時に、それを情緒障害と呼ぶべきであろう。

・もう一点、注意すべきことは、適応の問題である。情緒の現れ方が歪曲していても、自分の一時的な混乱を起こすだけで「自消」し、その後の不安定がいやされるとすれば、一つの効果をあげているわけである。
・たとえば、面接試験が近づいてくると不安定になって、しばしば尿意をもよおしたとしても、そうすることによって、自分が安定するなら、それは情緒の歪曲した現れ方に間違いないが、一つの効果をあげていることになっているわけで、情緒障害と呼ぶ必要はない。むしろ、そのことによってよけいに不安定になり、本人の心の混乱、とまどい、あつれきがひどくなることがある。その結果、ひどい不適応が起こってくる場合を、情緒障害と呼んでよい。

◎情緒障害とは「情緒の現れ方の歪曲が起こり、それが一般の人たちより、強度・頻度が高く、かつひどい不適応が起こっている状態」である。

【感想】
 ここでは著者による「情緒障害」の定義が述べられている。情緒障害とは「情緒の現れ方の歪曲が起こり、それが一般の人たちより、強度・頻度が高く、かつひどい不適応が起こっている状態」である。情緒の現れ方の歪曲は誰にでも起こるが、通常の場合は「強度・頻度が高く、ひどい不適応」を起こすという状態にはならない、ということであろう。要するに、ここでは「不適応が起こっているか否か」が、決めてになると思われる。不適応という状態は、本人と周囲との関係の中で起こるものだから、当然、周囲のあり方も問われなければならない。情緒の現れ方の歪曲の強度・頻度が高くなくても、周囲の反応次第では(敏感に反応し、問題視すれば)、不適応という状態が起こるのではないか。
 アメリカの言語病理学者ヴェンデル・ジョンソンは、「言語障害」という問題(不適応状態)は、X=本人のスピーチの異常さ(ここでいう歪曲)、Y=周囲の反応(心配の程度)、Z=それらに対する本人の悩みの程度、によって大きさ(X×Y×Z=体積)が決まると説いている。「情緒障害」もまた同様のことが言えるのではないか、と私は思った。
(2017.7.16)




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・19

《三 情緒障害のメカニズム》
・「情緒をとりまく心の構造図」(A領域=生理・心理的な領域、B領域=欲求・情緒、C領域=意欲・情操、D領域=知識
・「情緒障害」のメカニズムを一言でいうなら「C領域が十分に成長していない状態である」といえる。
・C領域が十分な厚みをもっていないと、外側の刺激が、B領域(情緒)に直達をする。それを受けた情緒も、激しい衝動性を伴いながら、直接的に発動する。それが外向きの情緒であれば、ただちに相手を攻撃し反抗することになる。情緒の発育のレベルが低ければ(未成熟)低いほど、動物の世界のような激しさをもっている。内向きの情緒が刺激されれば、激しい衝動的な心情を伴って、自虐をはじめることになる。それはさらに深部に到達すると、生理的な障害すら起こしうる。どんなに多くの知識をもっていても、D領域がそれを調整する力をもっていない。もし、C領域が十分に発達していれば、外界の刺激はD領域を通るか、C領域に直接到達することになる。D領域に到達した刺激は、その中にある知識とか、その組み合わせである意識といったものの洗礼を受ける。さらにC領域という濾過紙を通ることになる。C領域に直接伝わっても、C領域がもっている社会観、価値観に「照らしてみる」という働きが生ずるから、その働きの中でやわらげられてB領域に伝わる。その刺激はD領域・C領域の二通りの濾過紙を通るから、かなりやわらげられ、情緒の発動が起こらない場合もある。情緒の発動が起こっても、始動の時点では激しくても、C領域・D領域で緩和されるから、外面には穏やかな形で現れるであろう。
◎情緒障害を構造的にとらえるなら「C領域の欠如、希薄さによるものである」、C領域はB領域の発達の結果として生まれると考えるなら、「情緒障害とは情緒の未成熟によって起こる」と考えてよい。
・C領域とD領域との間には親和性がある。C領域の中にある価値観、社会観、意図、目的観の内容は、D領域の援助なしにはできないから、D領域はある程度C領域をコントロールする力はもっている。(二、三百年前までは、D領域は完全にC領域を支配していたことであろう)社会の変化の激しさを吸収させることに専念してきた教育は、C領域をコントロールする働きを弱めていったことは事実であろう。
・C領域が十分にできあがっていない個人では、B領域の外側に、D領域が直接結びついている。B・D両領域の間には親和関係はない。C領域の発生にはD領域が関与しているが、B領域の発生は、自然発生的、経験的なものであり、ものによっては生得的なものである。
・B領域の外側に直接D領域が結びついている時には、D領域はB領域をコントロールできない状態になってしまう。
◎情緒障害とは「D領域(意識)が情緒をコントロールできない状態である」と説明してもよい。
〈例〉満員電車の中で足を踏まれた→・満員なのでこの人だけは責められない(客観的判断)、・大勢の人前でどなることは大人げない(社会観)、・どなることはみっともない、・みんながこちらを見るので恥ずかしい(C領域)
〈C領域が欠如していると〉→・反射的にどなる、・相手のむなぐらをとる。(攻撃の速さ、強さ)←情緒障害の特徴の一つ。
◎「うそ」は、逃避の一種だが、人間関係の中で緊張感を回避しようという感情が働いていれば、問題にはならない。適応を容易ならしめている。
・虚言癖と呼ばれる傾向のある人は、たえず嘘をつき、その場の適応をよくしているように見えるが、真相があらわになれば、かえって適応を悪くする。嘘をつき、それがばれると、第二、第三の嘘を重ねる。そのことが自分の適応を悪くしていっていることに気づかないし(客観性の不足)、相手が自分をどのように判断するか(社会観)についても、ほとんど考えていない。これは、固執と呼んでもよい状態である。あるいは「情緒の変容」が激しいといってもよい。
◎情緒障害とは「『情緒の変容』が激しく、すばやく、しばしば現れ、あるいは固定した形で現れ、それが著しく適応を欠いた場合」である。

【感想】
 ここでは、個人の心理的な構造という視点から、情緒障害の現れるメカニズムについて述べられている。それを要約すると、一に、第六章の「情緒をとりまく心の構造」(図)のC領域(意欲・情操)が十分に成長していない状態、二に、第七章の「情緒の変容」、すなわち、退行、逃避、代償行動、合理化、注目牽引、同一化、攻撃、事大、同隣といったメカニズムが「激しく、すばやく、しばしば現れ、あるいは固定した形で現れ」、その結果著しく適応を欠く、ということである。
 そのことを自閉児に照らし合わせると、文字の読み書き能力、計算能力、知識の量などD領域は「高い」のに、それがB領域(情緒)もしくはA領域(生理・心理的な領域)に直接結びついているために、十分に使いこなせず、著しい不適応を招いている、と考えられる。「情緒の変容」の中でも、特に《逃避》というメカニズムが「激しく、すばやく、しばしば現れ、あるいは固定した形で現れ」ていると思われる。
 どのようなケースであれ、C領域(意欲・情操)を十分に育てることが重要であることがよくわかった。では、どうすればよいか。まず、C領域の土台であるB領域(欲求・情緒)は十分に育っているかを、第三章の「感情の系列」で見極め(くやしさ、怒り、反抗、攻撃、憎しみ、しっと、ひがみ、すねる、悲しい、淋しい、甘え、うれしい、おもしろい、おかしい、したわしい)、さらに情緒から情操への「中間型」(うらやましい、ねたましい、はずかしい、もどかしい、あがる、あこがれる、ほれる、いとおしい、すばらしい、てれる)といった心情を、周囲が《共感》して育てればよい、ということである。それを、誰が、いつ、どこで、どんな工夫をして行えばよいか、今そのことが私自身に問われているのである。
 次章では「情緒障害の予防(精神衛生)」について述べられている。大いに参考にしたい。
(2017.7.17)




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・20

《第九章 情緒障害の予防(精神衛生)》
【要約】
・要するに、C領域を成長することに成功すれば、かなりの情緒障害は防げるはずである。《一 C領域を成長させる》
⑴経験を豊富にすることである。
・C領域を育てるということは、情緒的な体験を豊富にさせてやることである。
・現在の教育は、効率を考えすぎるために、十分な体験をさせないまま、言葉で教えようとするから、かえってC領域の成長をはばんでいる。
・けんか(攻撃)を止めることが、よい指導だと考えられがちだが、けんかを十分に体験したことのない子どもは「負けるくやしさ」「勝つよろこび」を体験しないままに成長してしまう。悪い成績をとったくやしさ、よい点をとったよろこびもあまり感じなくなるだろう。この次はもっとよい点をとりたいという意欲(C領域)も育ってこないに違いない。・ジャンケンは、幼児が社会にはルールというものがあるということを初めて知る機会である。お互いの主張がぶつかりあって解決することができない事態にしばしばあうことによって、ジャンケンで解決しようとする。けんかが起こらなければ、このような行動も起こらないであろう。
・けんかの経験の貧しかった子どもは、おとなばかりの中で過ごしてきたといえる。子どもと本気でけんかするおとなはいない。だからつねに、自分の主張は通るわけである。自己中心的な生き方をするようになるし、ささいな刺激に対しても、すぐカッとしてしまう性格が残ってしまうようである。
・けんかは競争意識を育てる。(幼稚園の運動会で三歳児は勝負を争うことがないが、四、五歳児は一等賞をとるために走っている)
・けんかという情緒を発動させる体験が、社会のルールを学び、競争心を育て、学習意欲の元を育てているのである。
⑵社会性を育てる。
・子どもを、家の中ばかりで育てるとどうなるか。(R児の事例)
当然、社会性は成長しない。近所の人に会っても知らん顔、コソコソ逃げ出す始末。社会性を育ててもらおうと三年保育の幼稚園に入れたが、たちまち登園拒否。無理に連れて行こうとすると、吐き気をもよおしたり気分が悪くなる。
◎社会性というものは、おとなの介在するところでは育つものではない。
◎社会性は育てるべきものであって、教えるべきものではない。
・R児は、家の中で、おとなの支配する世界で三歳まで育てられた。いじわるをする人間はいない。おもちゃをとってしまう人間もいない。叱られることはあっても、けんかは起こらない。競争もおこらないおだやかな毎日である。その子どもが、いきなり、何十人、何百人もいる幼稚園に入れられて適応できるはずがない。
・社会性を育てるためには段階がある。まず二、三人と自由に思い切り遊べる段階を経験させるべきである。(おもちゃの取り合い、ぶったり、ぶたれたり、つきとばされて泣く子もいる。叫び声も聞かれるし、歌も聞こえる)そうした体験が、さらに広げられて、十人ぐらいの集団の中でも、自由に思い切り遊べるようになって、はじめて幼稚園に適応する素地ができたといえる。
◎社会性が育つのは「友だち関係」というよりは「なかま関係」の中で育てられるものである。(幼児期に転宅した場合には社会性が育ちにくい)
◎社会性はおとなの命令や指示でできるものではない。
◎社会性を育てるということは、結果的に見れば適応状態をよくするということである。
⑶共感関係を豊富にする。
・情操は、人間の共感関係の中で育つ。
・もっとも共感関係が生じやすいのは、親子関係であり、次に兄弟関係、なかま関係である。
・いっしょに音楽を聴いて、そのすばらしさに酔うといった感動が、表情や言葉で交換された時に、情操が育っている。いっしょにテレビドラマを見て、感動し、ため息をつき、涙をながすという感情、語り合いの中に流れる感情によって、情操は育てられる。
◎だから、こうしたものの出発点は家族であるということはいうまでもない。第三者に委託する前に、家庭の中の雰囲気が必要なのである。
・それはやがて、なかま関係(友だちではない)の中で、さらに広げられ豊かなものになる。
◎学校教育の中に情操教育の時間があるとすれば、クラブ活動とか部活動であろう。(スポーツの試合で負けたくやしさをいっしょにかみしめる、勝ったよろこびを共にわかちあう、ドラマを上演して、失敗談や苦しかったことを語り合う、花壇の手入れを終わって、汗を拭い合う時などは、一人の人間として共感関係が生じているからである。

【感想】
 ここでは、情操・意欲を育てる基本的な考え方(方針)が述べられている。その一は、経験を豊富にすることである。特に強調されている点は「けんかの効用」であろうか。
子どもは、けんかを通して、①自分の気持ち(攻撃、怒り、憎しみ)を表現する、②その結果、勝てばよろこび、負ければくやしい、という情緒が育つ。③お互いの主張が対立したまま解決できない時には、ジャンケンというルールを使う。④その方が、お互いを傷つけ合わないですむという快感(情操)を味わう、⑤相手の気持ち、考えを知る、といった感情を身につけることができる。大切なことは、対立を対立したままで終わらせない、ということだと、私は思う。子どものけんかに大人が介入しても解決にならないのは、①、②の段階で止めに入るか、解決策を提示してしまうからでろう。③のルールを子ども自身が見つけ出し、④、⑤の結果に導くことが肝要である。
 その二は、社会性を育てることである。著者は「社会性というものは、おとなの介在するところでは育つものではない」「社会性は育てるべきものであって、教えるべきものではない」と述べている。そしてR児の事例を紹介しているが、その問題は、①R児の親は《なぜ》三歳まで家の中で育てたか、②親は《なぜ》社会性を育ててもらおうと三年保育の幼稚園にいれたか、ということである。①の理由は単純である。家の外は交通が激しいからである。外は危険が多いからである。子どもを危険な目に遭わせたくないという過度な不安、過保護の傾向が感じられる。②の理由も簡単である。子どもに社会性が育っていないから、幼稚園という第三者に育ててもらおう(他力本願)としたのである。R児の親は、自分の過度な不安が子どもの社会性を育てられなかったことに気づいていない。著者は「まず、自分の近所の子ども二、三人と自由に、思い切り遊べる段階を経験させるべきであった」と指摘しているが、そのためには親自身が近所の親二、三人と交流を深めなければならないだろう。それができなかったから、R児の社会性は育ちそびれたのである。親自身の社会性が不足しているのである。「幼稚園ならば社会性を育ててくれるだろう」という考えも安易である。自分のやるべきことを棚に上げて、第三者に委ねようとしているのだから。核家族化している現代社会では、そのような親はめずらしくない。R児の問題の要因は親の方にあったのに、R児自身がその責めを負わされる。それが実態ではないだろうか。著者はまた、〈社会性が育つのは「友だち関係」というよりはむしろ「なかま関係」の中で育てられるものである〉とも述べている。「なかま」とは気心の通じた仲良しであり、親離れした子ども同士の「同志」(兄弟)的関係である。そのような関係を結ぶためには、まず親同士が気心の通じた関係にならなければならないことも自明であろう。 その三は、共感関係を豊富にすることである。ここでも、著者は「(情操を育てる共感関係の)出発点は家族であることはいうまでもない」と、親子関係、家族関係の重要さを指摘している。まず、親が美しい音楽に感動し、悲しい物語に涙する姿を見せることが、出発点なのである。それ以前に、親子が「おもしろい」「おかしい」「楽しい」「おいしい」など快の情緒を十分に共有しなければならないことは、いうまでもことであろう。場合によっては、「怒り」「攻撃」も交えながら「淋しい」「ひがみ」「すねる」「甘え」という不快の情緒も育てておかなければならない。
 現代社会では、ともすると快の情緒だけが優先され、不快の情緒は敬遠、回避、否定されることはないか。混雑の中で、子どもが大声で泣き出せば、親は十人中九人まで「シーッ」と制止するだろう。そんな風潮も、子どもの情緒の発達を妨げ、情操への成長を阻んでいるように思えてしかたがない。(2017.7.18)




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・21

《二 情緒の変容を利用する》
【要約】
⑴自消作用を利用すること
・情緒の変容は、ある種の情緒の発動を自ら消す効果をもっている。
◎ぐち:ぐちは一種の甘えであって退行の一種と考えられるが、一種のカタルシスが起こって、ある程度の不愉快な感情をやわらげる効果がある。(ぐちを聞いてもらえる相手を見つけておく。カウンセリング)
◎同一化:読書、ドラマ、映画、テレビなどを有効に利用することである。
◎スポーツ:「攻撃」の代償と解してよい。(スポーツ観戦、トランプなどの室内ゲーム)◎日記:代償行動 
◎絵を描く、文章を書く:注目牽引、自己顕示
⑵固執傾向を避ける
・つねに同じパターンの自消を繰り返すと、かえって情緒の混乱を倍増したり、不適応を強めたりする傾向がある。(「売り言葉に買い言葉」「ああ言えばこう言う」「うそ」「固執」「空想という逃避」
◎気分転換(アルコール、読書、テレビ、スポーツ、日記、絵を描く)
◎決まった行動パターンからの逸脱(経験を豊富にする。C領域を育てる)

《三 意識的な方法を学ぶ》
⑴社会適応の技術を学ぶ
◎愛語:人に接する時、慈愛の心を起こし愛情を与える言葉。愛語を好んで使っていると、それは次第に育ってゆくものである。そして日ごろ使われなかった愛語が現れてくる。
(正法眼蔵・道元)
◎「あいさつ」のやりとり:「おはようございます」「気をつけてね」「寒くなりましたね」「おかげさまで元気です」「お子さん、大きくおなりですね」
・論理的には矛盾しているように見えて、実は社会適応のために有効な応答である方法をできるだけ学んでおくことは、意識的にできる予防策である。
◎ユーモア:AがBを非難して言った。「君はこんど、パリへ旅行するそうじゃないか。なぜ奥さんを連れてゆかないんだ。ひとり留守番をさせるなんて、気の毒ではないか」。Bは言った。「レストランへ行くのに弁当を持って行く馬鹿はいないぜ」
◎狂歌、川柳、小咄、落語などの芸能を見たり、聞いたり、表現したりする中で笑いを感じて、情緒障害の発動を未然にふせぐ効果はあったし、今後もありうるだろう。
⑵快への転換をはかる
・快の情緒は、情緒障害とは無関係である。快の情緒は情緒障害をいやしてくれる。
・日常、積極的に快の情緒を利用すれば、情緒障害の予防に有効である。
・同じ快の情緒といっても様々なバラエティーがある。生理的で個人的なよろこび→心理的で社会的なよろこび→優越感としてのよろこび
・どれが価値の高い快であるかは、その人の人生観とも関係がある。
・自分の快を追うことのために、他人に迷惑をかけるか、かけないかの問題である。
・趣味は、個人的で個性的なよろこびである。
◎他人に迷惑をかけないかぎり、積極的・意識的に自分の快になるものを身につけることは、情緒障害予防に実効があるといえる。

【感想】
 ここでは、「情緒障害の予防」として、「情緒の変容を利用する」ことと「意識的な方法を学ぶ」ことが説かれている。
 情緒の変容では、①自消作用を利用すること、②固執傾向を避けることの二点である。
①では、ぐち(甘え、退行)を聞いてもらえる相手を見つけておくこと、読書、ドラマ、映画、テレビなどを有効に利用して、同一化を図ること、スポーツ・室内ゲームを通して「攻撃」の代償行動を行うこと、日記、描画、作文など注目牽引、自己顕示により自消効果を得ることである。②では、同じパターンの自消を避け、気分転換を図り、決まった行動パターンから逸脱しようとすることが大切である。
 意識的な方法としては、①社会適応の技術を学ぶこと、②快への転換をはかることの二点である。①では、主として「言葉の使い方」「応答の仕方」、②では、他人に迷惑をかけないかぎり、積極的・意識的に自分の快になるものを身につけることが有効である、ということであった。
 私自身は以下のように考える。情緒の中で最も重要なものは「好きな人がいる」という感情である。物や場所や行動ではなく、「人」という存在が、情緒を安定し、育て、情操に成長させる。「好きな人」の存在が、情緒障害を予防する。子どもにとって、まず「好きな人」とは、親であり、兄弟であり、親族であろう。やがて、対象は「友だち」「仲間」「親友」「教師」「同僚」「恋人」「配偶者」などへと広がっていくが、まず近親者の中に「好きな人」を見出せるかどうかが、重要なポイントになる。さらに、その人から「自分も好かれている」「大切にされている」「必要とされている」という感覚、感情が生まれるか。両者の感覚、感情が重なり合う時、「愛着」という、根幹的な関係が形成される。
この関係を形成することができるか、否か、が人間にとって最重要課題ではないだろうか。そのことによって、不快の情緒が快に転換するか、不快のままで立ち枯れるか(情緒障害の要因を残すか)の分岐点になるからである。
(2017.7.19)




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・22

《第十章 教育と情緒障害》
【要約】
・ここでは、教育と情緒障害の問題を要約し、学業不振の問題について考えたい。
・現在の教育を成立させている基本的な理念、考え方の誤謬を情緒障害の立場から論じる。一教師、一学校の問題ではない。教育行政の問題でもない。一般の人たちが、教育に対していだいている期待や要求の問題である。
《一 教育が情緒障害を助長している》
・百年前と比べると、文明の進歩は驚異的なものである。(移動の速度、通信のスピード、情報の量)
・教育はこうした文化、文明を成人期までに教えて、社会生活に支障をきたさないようにする使命を帯びている。できるだけ効率よく、知識として吸収させる必要がある。文明社会の変化やその内容は、教育といういとなみの中だけで追いつくすことはできない。その内容は抽象化し、現実社会の適応に役立たないものが多くなっている。
・D領域は、教育が徹底すればするほど肥大化してゆく。ほとんど進歩しないB領域(情緒、欲求)は、そうしたD領域の重荷にとまどうだけである。
・教育が、文明社会の変化を追うことに専心してしまったために、情緒への支配力を失いことになってしまった。
・教育内容の抽象化は、学問系列の中での抽象化であるため、一般の人の日常生活には縁もゆかりもない内容になってしまった感がある。
◎今の教育内容を、日常生活の必要性の系列に組み換えてみることは有効ではないか。
《二 情操を育てることを忘れた教育》
・学校教育の内容は、ほとんどすべてが、知識と技術の習得ということにつきる。
・D領域とB領域とを結びつけるきずなとしてC領域の存在が意味がある。この領域は「教える」ことのできない領域である。
・「育てる」教育は、教師対生徒の関係の中では生まれにくい。
・家庭教育は、学校教育の進歩と同じような勢いで「育てる」教育を充実させなければならない。しかし、家庭教育の中で、学校教育の模倣が始まっているのが現状である。
・家庭でも学校教育と同じように「教える」ことに専念している。
・欧米社会では、道徳を「育てる」教育を宗教教育が支えている。
・学校教育の中で、道徳的な心情を育てることができるとするならば、教科内容を「知る」ことから、既有の知識を使って「考える」ことを学ばせなければならない。
・一方、教師と生徒との間に共感的な体験のできる時間をふやすべきであろう。(クラブ活動の時間など)

【要約】
 ここでは、学校教育を成立させている基本的な誤謬について論じられている。著者は一教師、一学校の問題ではない、としているが、私自身は教職経験者(元公立学校教員)として、一教師、一学校の問題でもあると思う。たしかに、現代の学校は絶望的な状況であり、一教師、一学校の実践など「焼け石に水」かもしれない。しかし公教育の担い手には「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」(教育基本法第一条)という教育の目的を具現化する責務があるのである。教育が「人を育てる」営みである以上、一教師に育てられた生徒の中に、種が蒔かれ、花開く時がないとはいえない。まず教員ひとりひとりが自らのC領域を高める努力が求められているのではないだろうか。
 以下は、学校教育に《誤り》について私が綴った拙文である。
《学校教育の「誤り」》
  学校教育の「誤り」は、以下の2点に集約される。①児童・生徒の成績を評定すること、②卒業を認定し、いわゆる「学歴」を授与すること。①によって、児童・生徒は、当然のことながら、優秀、普通、劣等に分類され、それが「社会の評価」にまで敷衍される。優秀に分類された児童・生徒は、自尊心が満たされ、得意満面の様相だが、つねに「普通に落ちたくない」というストレスに苛まれる。普通の場合も同様に、優秀になれない苛立ちと、(油断すると)劣等に落ちる不安がつきまとう、さらに劣等は最悪。「自分は最低だ」という自責、「どうしようもない」という絶望、「どうにでもなれ」という投げやり、さらには優秀、普通に対する嫉妬、怨恨までが生じる、といった案配で、どこに分類されようが、児童・生徒の情緒は安定しない。本来、児童・生徒に能力差があることは自明であり、「できない」ことを責められるいわれはない。どんなに努力・精進を重ねたところで、できないことはできないのである。学校はその能力差を認めずに、児童・生徒の成績を一律に評定する。成績を評定することによって(ストレスを加えることによって)、児童・生徒の学習意欲が高まると信じている。しかし、それは《誤り》である。学習は、安定、安心に基づいた好奇心によって、はじめて成り立つものなのだ。にもかかわらず、学校がその誤り(成績を評定すること)に拘るのはなぜか。それは、学校が、一般(経済)社会からの要請に応えるためである。社会で役立つ人材を選別するためである。児童・生徒は6歳で「義務教育諸学校」(小学校又は特別支援学校)に入学する(させられる)と同時に、将来、社会の役に立つか立たないか、という観点で選別され、その結果を保護者に通知される。劣等に分類された児童・生徒は、「努力が足りない」と決めつけられる。しかし、劣等は、どんなに努力しても優秀になることはない。なぜなら、入学前の調査(就学時健診)によって、児童・生徒はすでに優秀、普通、劣等に選別されており、その資料に基づいて学級編制が行われるからである。例えば、優秀は7%、普通は86%、劣等は7%、といった具合に配分される。したがって。児童・生徒の成績は、学習が始まる以前から(本人の努力とは関わりなく)決まっているのである。そうした、からくりのもとで、性懲りも無く、児童。生徒の成績を評定している。それが、学校教育の(最大の)誤りである。さらにまた、②によって、優秀、普通、劣等の烙印は、駄目を押され、固定化する。中卒よりは高卒、中退よりは卒業、高卒よりは大卒の方が優秀である、といった(いわれのない)社会的評価が、児童・生徒、さらにはその保護者にまでものしかかる。学歴が、その人物のステータスとなる。しかし、本来の勉学に卒業(終わり)はない。まして、義務教育は、その年齢に達すれば、おしなべて卒業が認定され証書が(履修の有無にかかわらず)授与されるのが現実である。だとすれば、そのことに、どれだけの意味があるのだろうか。高卒、大卒にしても、学習課目を本当に履修したかどうかは、疑わしいではないか。いずれにせよ、学校は児童・生徒に学歴(卒業証書)を授与することによって、その人物の社会的評価(処遇)に荷担していることは、間違いない。そのこともまた、本来の教育とは無縁であり、学校教育の《誤り》である。「成績をつけない学校」「卒業のない学校」、それこそがあるべき学校の姿なのである。〈2013.1.14〉
(2017.7.20)




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・23

【要約】
《三 学業不振と情緒障害》
・学業不振児とは「身体的な障害がなく、基本的な能力も普通でありながら、その能力なみの学習が出来ていない子ども」とする。(「アンダー・アチーバー」と呼ぶ)
・学業不振というのは、一つの結果である。何かの原因があるから、10の力がありながら5の力しか発揮していないのである。
・その原因を本人自身の問題の中に求めると、①注意が集中できなかった、②興味・関心が乏しかった、③過剰に緊張して、理解ができなかった、④授業が不快で、逃げ腰で聞いていた、⑤教師に反抗的で拒否的な態度で聞いていた、⑥競争心が乏しく、なげやりな態度で授業を受けていた、⑦劣等感があって、何をやってもだめだと思い込んでいた、《かもしれない》。
・これらのことは、能力の問題ではなくて、ほとんど「情緒の問題」である。
・①から⑦までの要因は、情緒の問題であると同時に「学習意欲の乏しい」状態であるとまとめることができる。つまりB領域からC領域への成育がとどこおっている状態である。・これに対する対策としては、情緒を育てることにつきる。
◎どのようにしたら、学習意欲を薄めないようにするか
・家庭が学校のものまねをして「教えること」に専念しないこと(親子の関係は「情」を媒介としているので、「教え」ても知的関係にならないから「まだわからないのか」といった「情」が前面に出てくる。子どもは親の感情的な言葉が出るたびに不快になる。
・勉強を、時間の長さや量ではかる習慣をなくすこと(勉強から逃避の習慣が身についてしまう)
◎学習意欲はどういう場面で生まれてくるか
⑴認められることによって生まれてくる。けなされることによって消えてゆく。
(通信簿は一方に何人かの「やる気」を起こさせるが、同時に何人かの「やらん気」を起こさせている。
⑵不足している状態が意欲を育てる。(不足しすぎても意欲は育たない)
⑶旺盛な競争心は、学習意欲の一種である。
・競争心は学習意欲の本質ではないが、日本の教育界の現状である相対的な評価が存在する以上、学習意欲に結びついてくる。「なかま」の中での競争心が有効である。
⑷情緒を安定させること。
・「不安」(あがる)は能力を低下させる。
⑸興味・関心を高めること。
①全部を教え切ってしまわないこと。
②快の感情を刺激すること。(学ぶ時の快さ・「おもしろそうだ」「めずらしい」)
③実際活動の中で学ぶこと。
④子どもの側から出てきたものをとらえる。(子どもの興味・関心を大切にする)
⑹教師との共感
・教師との人間関係にける快が重要である。
・小学校でも高学年になってくると、子どもは教師批判をする。そうした時に、親は断固として「立派な先生である」と言い切る必要があると思う。批判はあってもよいが、子どもの前でそれを示すことは避けるべきである。
・教師との話し合いは、子どものいない場面でするべきである。教師との間になれなれしい態度で接することも避けるべきである。
◎親の教師に対する態度が、子どもの学習意欲に大きな影響を与える。

【感想】
 ここでは「学業不振」という問題が、子どもの「情緒の問題」であり、同時に「学習意欲の乏しさ」によって生じることが述べられている。
 私自身は、高校時代、まさに「学業不振」だったので、身につまされてよくわかる。 その原因は、授業が不快で、逃げ腰で聞いていた、教師に反抗的で拒否的な態度で聞いていた、競争心が乏しく、なげやりな態度で授業を受けていた、劣等感があって、何をやってもだめだと思い込んでいた、という項目がピッタリと当てはまる。学校全体が受験競争を展開しており、毎日の授業はそのために行われていたからである。救いは「文芸部」というクラブ活動の仲間がいたこと、ただ一人、美術の教師が私の作品を褒めてくれたことであった。 
 また、中学校3年時に、父親から英文法を教えられたことも思い出す。「そんなこともわからないか」「この前、教えたはずだ」などと叱責され、一カ月と続かなかった。
 さらに、小学校の就学時健診でも、私はただ泣くだけでいっさいの検査に応じなかった。一人、教頭に呼び出され「吟味検査」を受けた。教頭はまじまじと私の顔を見ながら、首をかしげ「知恵は遅れていそうもないが・・・」と呟いたことを覚えている。
 いずれも、私自身の情緒(不安、反抗)が大きく影響していたことは明らかである。
 著者は〈小学校でも高学年になってくると、子どもは教師批判をする。そうした時に、親は断固として「立派な先生である」と言い切る必要があると思う。批判はあってもよいが、子どもの前でそれを示すことは避けるべきである。教師との話し合いは、子どものいない場面でするべきである。教師との間になれなれしい態度で接することも避けるべきである〉と述べている。全くその通りだと私も思うが、現実は厳しく、親の教師批判は日常化しているのではないだろうか。親と教師の世代関係にもよるが、私の教職時代(50年前)は、親の方が先輩であった。にもかかわらず、ほとんどの親が「断固として、立派な先生である」と言い切る風潮であった。時代は変わるものであることを痛感する。本章の冒頭で、「一般の人たちが、教育に対していだいている期待や要求の問題である」という指摘があるように、学校教育は一般の人たち(中心は子どもの親たち)の期待や要求によって、大きく左右される。しかし、公教育はあくまで公教育、教育基本法の目的に沿って行われなければならない、と私は思う。
(2017.7.21)




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・25

《二 登校拒否》
【要約】
・「登校拒否」は、最近わが国に多発している問題である。その特徴は「怠学」と対照的な傾向をもっている。
①登校拒否は、家の中に閉じこもっているが、怠学は家の外を出歩く。
②登校拒否児は知的に高く性格的にもよい子が多いが、怠学児は情緒不安定(ひがみ、反抗)で友人からあまり重視されていない。
③怠学の原因は、先生への反抗、学則違反、友人から拒否されるなど、明瞭だが、登校拒否は、原因らしきものが見出せない場合が多い。
④怠学は、家庭内に問題がある(欠損家庭、夫婦げんか、離婚の危機、放任など)場合が多いが、登校拒否の家庭は、いわゆる良い家庭である。両親ともに教育熱心で、子どもを中心とした生活をしている。母親はやや過保護、父親はやや不安傾向があるかもしれない。
⑤心のしくみの問題では、怠学は「学校なんてたくさんだ、行くものか」と思っているが、登校拒否は「学校へ行かねばならぬ、でも行く気がしなくなる」ということを繰り返している。(D領域とB領域の葛藤状態)

・登校拒否は、おおむね次のような順序をたどる。
第一期:朝起きたとき、頭痛・腹痛などを訴えて休みはじめる。(1週間に1度程度)短いもので2、3カ月、長いものは3、4年も続く。
第二期:始まるのは、夏休みあけの9月、10月ごろが最も多く、次が5月のゴールデンあけのころである。突然、長期間休みはじめる。1週間休んで1日行く、10日休んで2日行く。両親は、心の問題だと気づき教育相談に来所する。担任が家庭訪問する。
第三期:おとなしく、温和な性格が一変し、狂ったのではないかと思われるぐらい荒れてくる。両親が、登校をあきらめ、はれものにさわるような気持ちで、絶対に学校のことに触れず、本人をたしなめるようなことも口にしなくなると、第四期に入る。
第四期:おとなしくなり、学校に行こうとするそぶりさえ見せようとしなくなる。自分と同じ年齢の子どもが学校へ行っている時間は、引きこもり、4時以降、元気になり外出して運動をしたりする場合もある。日曜日は朝早くから起きて、一日を快適に過ごす。ひどく甘える場合もある。両親と本人との主客が転倒し、本人が支配者のような態度をとるようになる。
・この状態は、一種の情緒障害である。D領域とB領域の葛藤状態にあり、情緒の変容の面でいえば、逃避である。代償行動、攻撃もみられる。

◎第一期の子どもに対する処理
・腹痛、頭痛をとり除くことは有効であるはずである。(情緒障害を予防する手段を講じる)
・登校拒否児の多くは寝つきが悪く、寝起きが悪い。→「目覚め型」(目は覚ますけれど、直前まで熟睡していて、体のウオーミングアップをしていない。目が覚めても、体の方が覚めてくれないのである。血液の循環がスムーズに行かないから、頭痛がする、吐き気がする、悪寒がする)
・朝目を覚ました時に、ゆっくり体を動かすことを習慣化するのもよい。→「身覚め型」・乾布摩擦もよい。
・それらを実行しはじめて、効果が出はじめるのに、少なくとも3、4カ月はかかる。
◎第二期以降の対策
①両親一緒に来所させる。
②本人の実状を聞く。
・怠学か、登校拒否かを確かめる。
・第何期にあるかを確かめる。
・15、6歳以上で、自分で何とかしなければならないと考えているケースについては、本人を来所させる。
・精神病、重症のノイローゼの疑いがある場合は除く。
③アドバイスに入る。
・失敗例、成功例を具体的に話す。
・本人の心理的メカニズムについて説明する。
・親としてとるべき処置について話す。(a学校へ行きなさいという意味のことを口にしないこと、b「他人様の飯を食わせること」の実行をすすめる、cいろいろな疑問に答える d実行する上での注意事項を述べる)
◎b:病虚弱児の養護学校、「情緒障害児短期治療施設」、知人、親戚の家にあずけて地方の学校に転校させる、寮のある学校へ入れる、など。
◎c:イ・親をうらむのではないか、ロ・不良化する恐れはないか、ハ・もっと不安が強くなって、自殺する恐れはないか、ニ・本人を納得させるにはどうしたらよいか)
・イ、ロ、ハについては、まったくそのような恐れはないことを話す。ニはほとんど不可能である。実行するには、かなり強制的なやり方をすることを覚悟する必要がある。少なくとも1年間はあずけておくこと、一度失敗したら二度と機会はないこと、あずけたら、初めの3カ月間は音信不通にしておく。「自殺をしたい」「ごはんが食べられない」「眠られない」などと行ってきても無視する。面会は不可。
◎親子の間に分離ができたら、2~3週間に一度ずつ両親と会ってカウンセリングを続ける。

・こうした方法を実行して、不成功に終わった例はほとんどない。(23例中、3か月目の帰宅させた例、半年で帰宅させた例のみが不成功に終わっている)
◎登校拒否児は、徹底的にD領域を肥らせるための教育を受けてきた子どもである。家庭も「教える」生活の延長であれば、B領域をC領域に育てる働きはまったく停止する。自我意識の強い子どもであれば親に反抗するが、すなおな子であれば、親の言うことを聞いてしまう。親が愛情ゆたかであるだけに、正面切って反抗できない。登校拒否は、ようやく見つけた精一杯の反抗である、と見ることもできる。学校ではできるだけのエネルギーを使ってD領域での適応を心がけるが、それはつくろわれた模範的行動であるだけに、かなりの精神的なエネルギーが費やされる(10のエネルギー)。家庭は温かく穏やかであれば、すっかりリラックスし、わがまま、甘えなどB領域で十分適応できる(0のエネルギー)。一度そうなると、登校するためには、たいへんなエネルギー(10のエネルギー)をかけなければならない。そこの転換がうまくゆかないのであろう。「他人様の飯を食わせる」状態では、家庭ほどリラックスできない。学校ほどではないが、ある程度緊張した生活を強いられる(5のエネルギー)。だから、そこから学校適応の段階(10のエネルギー)には容易に到達できるので、「他人様の飯を食いはじめた」とたんに学校へ行きはじめる。(5から10へは容易に到達できる)
 少なくとも、この状態を1年間続ける間に、全体の緊張が低くなってくる。学校でも下宿でもたえず緊張していることに耐えられなくなるから、学校でも下宿でもそれほど緊張しなくなる。寮などであれば、同年齢の子どもと、ふざけたり、いたずらをしたり、いじわるをしたりされたりという生々しい生活経験をし、失敗したり、泣いたり、笑ったりする生活の中で、「きおった生活」「つくろった生活」(D領域)の無意味さを知り、生々しい人間と触れることによって、しだいにC領域を肥らせる効果がある。
 学校での生活と、他人の家(寮)での生活が、自宅での生活と変わらないと感じられるようになった時、登校拒否はなおるのである。そうした状態になるのに、最低1年かかるというのが普通である。

【感想】
 ここでは、「登校拒否」という問題の様相と対策について、事例を混ぜながら述べられている。「登校拒否」には段階があり、第一期のうちに見つけ処置すれば容易に解決できるが、1週間に1日程度の欠席では、親はほとんど気づかないだろう。(毎月、出席統計を取っている学級担任なら気づくはずである。したがって、担任教師の責任は大きいといえる)第二期になると、さすがに親も気づき、手を打とうとするが、その方法を間違えると第三期に移行し、もはや両親だけでは解決不能な状態になる、ということがよくわかった。
 子どもが夏休み明けから登校を渋るようになり、1週間以上欠席が続いている。そんな時、普通の親ならば「どこか体が悪いのではないか」と心配し、医者に診てもらうだろう。しかし、結果に異状は見つからない。その時どうするかが、重要な分岐点になる。特に、子どもが優等生で、おとなしく、すなおな場合、「体はどこも悪くないのだから、学校に行きなさい」と促すのが自然であろう。ところが、その途端に子どもの態度が一変して、反抗・攻撃的になったとすれば、大きなショックを受け途方に暮れるに違いない。その時、親は、子どもを優等生として「よい子」に育ててきた、これまでの自分のあり方を振り返り、反省することができるかどうか・・・。
 著者は、①両親いっしょに来所させる、②本人の実状を聞く、③次にアドバイスに入る、という手順をたどりながら、《親としてのとるべき処置について話をする》、その処置とは、つまるところ「他人様の飯を食わせること」に他ならない、というところが、たいそう興味深かった。やはり、親の態度を変えることよりも、子どもの方を変える方が先だということだろう。
 本書が刊行されたのは1978年、以来ほぼ40年近くが経とうとしている。その間、
「登校拒否」(不登校)の児童生徒数は減少することなく、文部科学省「学校基本調査」によれば、2014年度間の長期欠席者(30日以上の欠席者)のうち「不登校」を理由とする児童生徒数は12万3千人、小学校2万6千人(前年度より2千人増)、中学校9万7千人(前年度より2千人増)という数字が示されている。
 「登校拒否」という問題は、学校教育が終わった段階でも、成人期の「引きこもり」の問題へと引き継がれ、ますます複雑な様相を呈しているように思われる。(2017.7.23)




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・26

《三 ノイローゼ》
【要約】
◎一つの事例(大学生S・20歳)
・幼児期は、子ぼんのうな父とやさしい母の長男として生まれ、経済的にも環境的にも恵まれて育ったが、弟が病死してから両親は「過保護」になり、健康のために転宅を繰り返した。Sは長男だったために、父の事業をつぐことは決定づけられていた。強制されたわけではなく、本人も納得しており、事業に関連のあるK大学を受験したが不合格であった。一年浪人の後、もう一度受験したがまた不合格であった。小学校時代からの親友が合格したこともあってかなりショックを受けた。その年の暮れに火災に遭い、父の事業は不能になり債権者から追い立てられる日が続いた。SはK大学をあきらめ、近くの町のS大学に入学した。しかし、なさけない、ふがいないという葛藤状態に陥り、親友のTを初めとして、級友に会うことを恐れしだいにエスカレートしていった。
 対人回避→対人恐怖→赤面恐怖→「このままだと自分は駄目になってしまう」「といっても何をすればいいのだ」「自分は過保護で育った、だからこうなった」「これは両親の育て方の問題だ」「何もできないと思っているからできないのだ」「そうはわかっていても、やはりなにもできない」というサイクル(堂々巡り)から外に出ることができない。→指を鳴らすクセ、舌を鳴らすクセ→首を激しく振るという行動→教授宅訪問(悩みを言い出せないで終わる)→こだわりの行動→尖端恐怖→鏡へのこだわり→不登校→自室へのとじこもり(哲学書の濫読)→昼夜逆転。
●Sが立ちなおりはじめた契機は、次の二つである。
①偶然読みはじめたフロイドの著作物に、彼の心情と一致する面があった。「共感」を感じた。P・Mサイモンズの「児童精神衛生学」(教育図書)にも同様の共感を感じた。
「知った」というより「わかった」という感じ、「わかった」というより「さとった」という感じ。「一を知って十がわかるというか、自然にいろいろなことが次々に解けていった感じ」「目が覚める」という言い方に近い。D領域とB領域が結びつき、C領域が育ち始めた。C領域が育てば育つほどD領域との親和ができていくから、今までD領域に貯めこまれていたものが実際に役立ちはじめる。それが「次から次へと解けていく感じ」に通ずる。
②演劇に夢中になったことである。
学校を休んでいろいろな文学に触れている時、おもしろ半分にシナリオになおしてみた。(いろいろな紆余曲折があったが)それが学園祭で上演され、Sは演出を担当した。予想以上に好評で地方新聞に大きく取りあげられ、学長から激励された。以後は演劇にあけくれ、その中で情緒と情緒でつきあう人間関係のあり方を経験した。そのことが彼のC領域を育てたのである、と解することもできる。

【感想】
 ここでは、ある大学生のノイローゼの様相と、立ちなおる契機について述べられている。私自身も大学1年の春休みにノイローゼになったことがある。サークルの上級生から「すでに2千冊を読破した」という話を聞いて、私も挑戦しようと思った。ひとり下宿に籠もって、意図的に昼夜逆転の生活を繰り返しながら、文学書に読みふける。二、三十冊に達した頃であろうか、突然、活字が目に突き刺さるような感じがして、恐怖をおぼえた。そのことを誰かに相談したくても、友人は帰省していて誰も見当たらない。電話をかけようとしても深夜である。眠れない夜を過ごして朝、外に出るとフラフラして自動車にぶつかりそうになる。周囲を見わたすと、人々が何の苦労も感じていない様子で生活している。私は「自分は違う、この人たちとは別の世界に飛び出してしまったのだ」と、強い孤独感を味わいながら、どうやら一日が終わるが、「これかどうなるのか」と思うと、ハラハラ、ドキドキ、動悸が治まらない。そんな日が十日ばかり続いた頃であろうか。小、中学校時代の友人を訪ねてみた。「オレ、頭がオカシクなった」と訴えるが、一様に「そうは見えない、気のせいではないか」と取り合ってくれない。そんな中で、ただ一人、中学・高校を共にした浪人生の友人・Aは、私の話を聞いた後、「飲みに行こう」と居酒屋に誘ってくれた。彼は「そんなことは、誰にでもあることだ。まあ、飲めよ。ラクになるから・・・」と言う。一人で眠れない時に、ウィスキーを口にしても気持ち(不安)が高まるばかりだったが、その晩は泥酔して下宿に帰った。翌朝、私の不安はたちどころに消失していたのである。友人Aとの(かつての)「情緒と情緒でつきあう」人間関係が復活したからかもしれない。さらにまた、Aが私の不安に「共感」してくれたことが決定的であった。 事例のSは、その共感をフロイドやサイモンズといった「著者」から得た点が、大いに異なっている。ノイローゼの様相は、私より重症だが、立ちなおりの契機が「書籍」であったことは、私にとっては「奇跡的」なことである。  
 いずれにせよ、ノイローゼの要因は「コミュニケーションの断絶」であり、《自分からその断絶を求めようとする》点にあることはたしかなようである。(2017.7.24)




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・27

《四 非行》
【要約】
◎事例(F男)
・酒乱の父親、臆病な母親の次男。父親は月給を飲み料に費やし、母親の内職と兄の給料でほそぼそと暮らしていたが、F男が4歳の時、母親は実家に逃げ帰った。
・F男は、頭は良かったが乱暴で、カッとすると何をしでかすかわからない。4歳の時に近所の子どもとけんかしてその家に放火、小学校入学後は盗みを繰り返した。担任の説諭、体罰にもカッとするだけで反省の色を見せなかった、小学校3年の時、児童相談所に相談、教護院・T学園に入った。2年後、小学校5年生に復帰、1、2カ月はおとなしかったが、すぐに元の狂暴さを発揮しはじめた。卒業し、公立M中学に通う。担任は若い男性のN教諭。5月の身体検査で級友を負傷させた。担任が説諭したが「相手が向かってきたので、自衛上やったが、なぜ悪いのか」と主張、不敵な態度であった。国語の時間に教師に反抗、「教師なんて、みんな大ウソツキだ!」と言って、学級から姿を消した。N教諭は家庭訪問したが帰宅せず、1週間欠席した。登校するとまた3年生Uを負傷させた。UはF男のクラスAに「チビ、そこをどけ」とからかったからだという。N教諭はF男の家に行き、U家に謝罪に行くように言ったが、父親は「けんかは互い様である。Fも袋だたきにあったことがある」と繰り返すだけだった。
 放課後、F男は放送室に入り、卑猥な歌を歌い始めた。体育のT教諭が激しく叱責すると、F男は顔色を変えてT教諭に向かって行こうとした。いあわせた職員が全員で止めると「テメエのガキをぶっころす!」と叫んだ。職員会議で、もはや教育の範囲をこえた問題である、もう一度T学園にもどすべきである、という結論になった。N教諭がそれを告げると、F男は「オレは行かないぞ」といって泣き出した。「先生、何とかしてくれ」と懇願するような色が浮かんだ。N教諭はF男を丸坊主にして、自分も一緒に、職員室で謝罪(土下座)した。この一件以後、F男はN教諭には何でも話すようになった。ある時、学校の塀が毀され、F男に疑いの目が注がれたが、無実であることがわかった。全職員の中に「Fに疑いをかけたことは申し訳ない、教師の方こそ反省するべきである」という意見が出された。N教諭がF男に謝ると「今までが今までだから、しかたがネエや」と言ったという。F男が風邪気味だったのでN教諭は保健室に行くようにすすめた。養護教諭のM教諭は一日ベッドに寝かせて、何かと語りかけた。F男はN教諭以上に、M教諭に親しみをもつようになった。幼くして母親を失った彼には、女の先生に対するあこがれがあったかもしれない。
 2年生の遠足の時、F男は他校の生徒とトラブルを起こしそうになった。N教諭はカッとなって「先生はもう知らん、そこに立っておれ」と許さなかったが、ある女の生徒が「先生の方が悪い」と叫んだ。他校の生徒がやって来て、ひやかしたり、弁当、お菓子をぶんどって食べたという。F男はずっと我慢していたが、相手は、たしなめたS教諭にからみはじめたので、F男は相手に襲いかかったという。N教諭はF男に謝り、二人で歩き続けた。
 F男は現在、無事に高等学校を卒業、父親から独立して就職している。

・幼児期のF男は、父親の行動の豹変ぶりに、驚きと恐怖ととまどいを感ずるだけだったであろう。母親は、父親を制することもできなかったし、Fをかばうこともできなかった。
「人」とは恐ろしいものであり、信ずることのできないものであり、理解のできる相手ではなかった。逃避(家出)だけが、彼の安定を保つ唯一の手段であった。その時に、盗みを覚えたのであろう。
・小学校で彼は孤立した。積極的に攻撃をすることによって、自分を守る手段とする。彼の身辺のおとなは、こぞって疑いの目を向け、拒否し、彼を攻撃するだけであった。暴力と悪評とそれをはねかえすための暴力、という悪循環に教師が輪をかける。「暴力はいけない」「盗みはいけない」という、D領域の言葉はB領域までは届かず、不愉快さだけがB領域に刺激を与える。教師の言葉の奥底には「これ以上、事故を起こされたら困る」「自分の指導力を疑われる」といった自己保身がアリアリとわかる。「教師不信感」が根をおろしたのも当然かもしれない。
・彼の立ちなおりの契機になった丸坊主事件で、N教諭の言葉は従来と同様だったが、N教諭は《本気》だった。(F男と一緒に土下座した)そこに込められた情緒が違っていたにちがいない。F男は勘でそれを見分けたのだろう。
・教師の方が変わったことも大きな要因であったろう。人間関係は、つねに相対的である。憎みはじめたら、相手も憎みはじめる。相手を信ずることによって、相手も信じるようになるものである。
・F男が女教師に親しみを感じあこがれのようなものを感じているのは、母親に対する感情の代償行動であったかもしれない。親しみ、あこがれ、したわしいという感情は、彼がかつてもったことのない感情であった。この相対的な心の交流は、目に見えない形で、徐々に級友との間にも生まれていったようである。遠足の時の級友の発言は、そのことをよく表している。これらのB領域からC領域への、心の働きの変化が、彼の立ちなおりに大きく寄与していることは間違いない。

【感想】
 F男の非行の要因は、明らかに「家庭環境」にある。父親の酒乱、母親の育児放棄により、本人の情緒は「逃避」「攻撃」に終始したまま、「親しみ」「あこがれ」「したわしい」という感情が育ちそびれていた、ということである。本来なら、小学校の段階で解決すべき問題だと思われるが、教師の「指導力不足」により、教護院(児童自立支援施設)に委ねられた。そこでは、おそらく「力による指導」が強化されて、行動の変容(外面的な変化)は見られたが、情緒の成長は止まったままであった。以後、小学校に復帰し、中学校に進学したが、非行という問題に変化はなかった。「家庭環境」に変わりがないのだから
当然の結果だと思われるが、担任教師の「浪花節的芝居」が功を奏して、立ちなおることができたという事例であった。要するに、周囲のおとなが、どれだけ《本気》で取り組めるかということに尽きるということである。
 非行の原因は、「家庭環境」の他に、発達障害、パーソナリティ障害によるものもある。以下、その一例について、4年前に綴った拙文を紹介する。 
◆『宅間守精神鑑定書』(岡江晃・亜紀書房・2013年)
 本の帯には、「宅間守は2001年6月、大阪教育大学附属池田小学校で児童・教諭を殺傷した。2003年8月、死刑判決を受け、2004年9月、死刑が執行された。本書は、宅間守と17回面接し、精神鑑定を行った精神科医による初の著書である。大阪地方裁判所へ提出された精神鑑定書を、ほぼそのまま収載している」と、その内容が紹介されている。著者は「まえがき」で本書の出版理由(の一つ)を以下のように述べている。〈宅間守の診断について、精神鑑定書のなかで、精神症状やパーソナリティ(人格)をどのように把握し、そして診断に至ったのかを詳細に述べたつもりです。統合失調症(当時は精神分裂病〉や広汎性発達障害(なかでもアスペルガー障害)ではない、と判断しました。また、幼少期にネグレクト(親による育児放棄)があった可能性もありますが、そのことに重要な意味があるとは判断しませんでした。診断について、精神科の臨床医や専門家などにより、その妥当性が検証されるべきだと考えています。(以下略)〉。
 私は「精神科の臨床医や専門家」ではないが、その妥当性について検証してみたい。「第六章 鑑定主文」(の一部)は以下の通りである。〈1 被告人宅間守には、いずれにも分類できない特異な心理的発達障害があったと考えられる。この延長線上に青年期以降の人格がある。人格障害の診断は、クルト・シュナイダーのいうところの情性欠如者である。空想癖や虚言癖があり、共感性はなく、自己中心性、攻撃性、衝動性は顕著であるが、一方で穿鑿癖、猜疑心、視線や音への敏感さ、そして権力への強い憧れと劣等感などの人格あるいは性格の傾向も併せ持っている。精神障害の診断は、穿鑿癖・強迫思考等を基盤にした妄想反応である。穿鑿癖・強迫思考、そして猜疑心、視線や音への過敏さなどを基盤に,一過性の妄想反応としての注察妄想と被害妄想、持続性の妄想反応としての嫉妬妄想がある。反応性うつ状態、反応性躁状態を呈したこともある。前頭葉機能に何らかの障害を示唆する所見はある。人格や精神症状との関連については今後の精神医学的研究に期待したい。そして、知能は正常知能の下位である。2 本件犯行当時、被告人宅間守は情性欠如者であり、穿鑿壁・強迫思考等を基盤にした妄想反応である嫉妬反応が存在していた。一過性の妄想反応としての注察妄想と被害妄想は認められなかった。3 本件犯行当時の精神状態は、何らの意識障害もなく、精神病性の精神症状も全くなかった。被告人宅間守を悩ませていた穿鑿癖・強迫思考、視線や音への過敏さ、嫉妬妄想は、本件犯行へ直接的な影響を与えていない。本件犯行が極めて重大な犯罪であるという認識は、その直前、直後そして現在もある。本件反応そのものに踏み切らせた決定的なものは、情性欠如であり、著しい自己中心性、攻撃性、衝動性である。(以下略)〉。この鑑定内容は、(私にとって)「わかったようでわからない}。例えば、2で「嫉妬反応が存在していた」といいながら、3では「・・・嫉妬反応は、本件犯行へ直接的な影響を与えていない」という矛盾・・・。鑑定人は、被告人宅間守との面接結果、親族等の関係者の情報をもとに、宅間守の「問題行動」(犯行に至るまでの経過及び犯行当時の言動)をいずれかに「分類」しようとした。しかし「いずれにも分類できない特異な心理的発達障害があった」、と鑑定している。そもそも「特異な心理的発達障害」とは何ぞや。専門用語としては「特異的発達障害」というべきところを、なぜ「いずれにも分類できない」などという形容句を添えたのだろうか。宅間守本人の言動を直視すれば、まさに「情性欠如者」であり、空想癖、虚言癖、自己中心性、攻撃性、衝動性、穿鑿癖、強迫思考、注察妄想、被害妄想、嫉妬妄想、反応性うつ状態、反応性躁状態など、といった(多種多様な)「行動特徴」を呈しているということであろう。その多種多様な症状が、「いずれにも分類できない」などという鑑定者側の「混乱」を招いていることは間違いあるまい。私の独断と偏見によれば、宅間守は「情性欠如者」であり、そこに至った要因は「特異的発達障害」、すなわち「学習障害」にある。その根拠は、①ウェクスラー成人知能検査の下位検査結果「絵画完成」の評価点が、他に比べて異常に低いこと、②性格検査の「風景構成法」における描画能力が「小学校低学年」レベルに止まっていること、である。聴覚的な学習能力は年齢並みであるのに、視覚的な学習能力、なかでも「構成能力」が著しく落ち込んでいる。周囲の事物を詳細に見極め、それを忠実に表現することが苦手である。それかあらぬか、「バウムテスト」に描かれた樹木は「大雑把」、どこか「他人事」で「投げやりな」印象を受ける。筆致は「幼稚」だが、上に向かった枝の線は「攻撃的」でもある。その「学習障害」が社会生活の中で、多種多様な「行動特徴」を引き起こすことになるのだが、その様相は、性格検査「PーFスタディ」の結果に集約されている。集団一致度=29%、他責的反応=67%、自責的反応=0%。(この結果は明らかに異常である)鑑定人の所見には、〈また攻撃性の型をみると、障害優位型(O-D%=63)であり、失望や不平(それも「あっそう」等の投げやりな態度)を表明するのみで、責任の所在を明らかにする姿勢やや問題解決へ向かおうとする姿勢が見られない〉とある。要するに、宅間守は、つねに欲求不満の原因を「他人のせい」にして攻撃する、自制心・反省心はゼロ、社会の常識と一致するのは「相手を攻撃する場面だけ」という行動パターンが窺われる。文字通り「情性欠如者」の(心中の)実態が、あからさまに露呈されていると」いえよう。ではいったい、その「学習障害」は何に起因するか。常識的には、宅間守の「先天的な脳機能障害」と考えられるが、再び私の独断と偏見によれば、乳幼児期3歳までの「養育歴」にある。「鑑定書」の「第五章 診断 発達と人格」では、〈宅間守の親類が鑑定人に語った内容と宅間守が述べたことから考えると、幼少期から相当に特異な行動をとる子供であった。2,3歳ころから5,6歳までに、まず過度の落ち着きのなさがあった。繰り返し迷子になり警察に保護されたり、道路の真ん中を三輪車で走ったり、映画館から一人で抜け出し渋滞の道路を横切るなどの向こう見ずで無鉄砲な行動があった〉と述べられているが、肝腎の2,3歳までの様子については触れられていない。前述したように、鑑定人は「まえがき」で〈また、幼少期にネグレクト(親による育児放棄)があった可能性もありますが、そのことに重要な意味があるとは判断しませんでした。〉とあるが、その判断の基準・根拠はどこにも述べられていない。宅間守の父親は、『殺ったのはおまえだ』(「皆殺しを謀った男の父が語る『わが闘争』ー大阪「池田小」児童殺傷事件・今枝弘一・「新潮45」2001年12月号)の中で、以下のように語っている。①〈あれの母親が妊娠したのに気付いたとき暗い顔で言うのよ。「子供できたんだけどどないする?」って。ワシはもちろん、「よっしゃ、よおでかした、生むで。女でも男でもどっちでもかまわん。子供は一人より兄弟いたほうがよろしで」と妻をほめてやった。しかしあいつはよ、信じられんこと言いよった。「あかんわ、これ、おろしたいねん私。あかんねん絶対」かたくなやったであいつは。〉②〈ともかくあれ(妻)は頑固者でな、最初の時の子もそうだがおっぱいをやるのをいやがったのじゃ。妻がまったく母乳をやらないのを見て、どうか初乳だけはやってくれ、それをしないと赤んぼが健康に育たない。初乳は縁起物だと思えやと、おばあちゃんたちがあんまりひつこく説得するので泣く泣く一度だけ皆の前で乳首3を赤んぼの顔におしつけとった。それっきり家に戻ったらやらなくなったで〉③〈まあ、悪口になるのは心もとないが、あいつは家事全般できん女やった。洗いものぐらいたまにするが、炊事も片づけも苦手な女じゃったよ〉。それが事実なら、「幼少時にネグレクト(親による育児放棄)があった」ことは明らかであり、母親の「母性欠如」が宅間守の「情性欠如」を招いたこともまた自明であろう。
 にもかかわらず、鑑定人は「そのことに重要な意味があるとは判断しませんでした」という。なぜだろうか。〈2013.6.28〉
(2017.7.24)




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・28

《五 自閉児》
【要約】
・自閉児と「登校拒否」「ノイローゼ」「非行」「引っ込み思案」「かん黙」などとの問題は《一線を画している》。
・自閉児の心理的メカニズムについて述べる。
◎事例(K・10歳男児)
・父は、将来を嘱望された技師、母は女子大文学部卒。Kはその長男である。
・満期産、乳児期の成長は順調、「たいへん育てやすい子」であった。あまり泣くこともなく、育児書に書いてあるとおりに授乳すればよかった。ただ、抱いた時に、自分からすがってくることがなかった。表情は豊かで、あやすとよく笑った。
・10カ月でつかまり立ち、1歳つたい歩き、1歳半から言葉が出た。ママ、パパ、カンカン(みかん)、ゴアン(御飯)、オドーシャ(自動車)、テベビ(テレビ)など。
・そのころから、こだわりが出はじめ、毛糸の表面にさわるのが好きで、一日中自分の着ているセーターをなでていた。
・人みしりをせず、母親がいなくても平気で、何時間でも一人で遊んでいた。手やほおで、セーターの感触を楽しんでいた。
・発育は順調で、健康優良児として表彰された。
・2歳半頃から、言葉の成長が止まり、新しい言葉を覚えない、呼んでも返事をしない、ふりむかない、ので大学病院の耳鼻科で受診したが「とくに異常はみられない」ということであった。表情があまり動かなくなり、目が合わなくなっていった。
・レコードに凝りはじめた。その回転をじっと見つめていた(3~4時間)。母親がレコードを取りあげると、はげしく泣いてあばれまわり、床にひっくりかえって、頭を床にぶつけるようなことまで始まった。母親に攻撃してくることはなかった。
・顔を洗うことを極端にいやがり、水をつけると「いたい、いたい」と言って泣いた。
・父親に「される」ことがいやで、父親が出勤するまではベッドの中にいた。父親が帰宅すると、ひどくかしこまった様子を見せた。
・爪切り、床屋をいやがった。
・母親の指示、命令が的確に伝わることがなく、聞いているのかいないのかわからない、というところがあった。音に対しては敏感で、テレビの時報、会社始業のサイレンを特にいやがり、耳をふさいだ。
・波をこわがった。波の音を恐れ、民宿では3日間、外出しなかった。
・3歳の頃、T大学の精神科を受診、M教授から「自閉性精神薄弱である」と言われた。・そのころ弟が生まれたが、興味を示さず、母親をしっとすることもなかった。弟にさわり泣き出すと恐怖の表情をした。弟の泣き声をいやがった。自分の耳をふさいで、弟の声を打ち消すように大きな声でわめいた。
*弟は「オツムテンテン」「イナイイナイバー」、ものまねをするようになったが、本人はそのようなことをしないで大きくなった。本人の成長が歪曲していることを知った。
・公園では、同年齢の子、年下の子を避けた。感覚的な遊びが多く、草をつんで目の前にかざし、それを見ながら走り回ることを1時間でも2時間でも続けた。
・テレビの子ども番組は見ず、天気予報、ニュース、コマーシャルを見た。天気図を目を輝かせて見た。コマーシャルソングはすぐ覚え、鼻歌のように歌っていた。歌詞は不明瞭だったが、「○○電気の提供でした」などの一節は、発音は極めて明瞭であった。
・このころから、クレーン現象が始まり、母親の手をとって物をとらせたり、ドアを開けさせたりした。
・言葉は単語しか言わず、応答ができない。イントネーションがおかしく、平板で、感情がこもっていなかった。オームがえし、ひとり言が多くなった。
・レゴに興味をもち、一日中、レゴで遊んだ。
・三つの幼稚園に断られたが、母親が付き添うという条件で入園できた。いつも外で遊び、子どもの集団に入ろうとしないので、両親は幼稚園をあきらめ、児童相談所のセラピーを週2回、受けることにした。1年半ほど通うと、大きな変化が起こった。少しずつ言葉が増え、2語文、3語文が出はじめた。(「テレビつけて」「ジュースのむ」「ママオフオ(お風呂)」「パパイナイ」)いろいろなこだわりも少なくなっていった。(顔をあらうこと、毛糸にさわる癖、レコードの回転に見入る)爪切り、床屋をいやがる傾向は続いていた。・一定の服しか着ないというこだわりが始まった。
・ものごとを整理するのが好きで、一定の場所に置き換える、一列に並べる、キチッと置くなどの傾向がめだった。
・しばしば行方不明になった。数時間するとフラッと帰ってくる。エレベーター、エスカレーター、リフトなどメカニックなものに興味をもち、それを見に行ったようだ。
・6歳ごろになると、ひらがな、かたかなを全部覚え、母親が言う字を書くことができた。・小学校入学直前に転居した。入学後は特殊学級(精神薄弱)に入級、いやがることなく毎日通った。
・カレンダーに興味を持ち始めた。教室の教材の整理係になった。
・言葉では、一問一答で、自由な会話にはつながらなかった。「アシタバ」(否定)、「フェンタスティック」(肯定)、「レオン」(母)、「フール」(父)、「アミ」(弟)、「クータン」(レゴの乗物)などという造語を使った。
・文字はどんどん増え、漢字や短い文章も書けるようになった。数字も書けるようになったが、具体物との対応は生まれてこなかった。
・授業には参加せず、終日、天気予報に関する図鑑を見ていることが多かった。テレビの天気予報を画用紙に書くようになった。
・級友に興味を示さず、いたずらをしかけられても、避けようとするだけで、向かって行くことはなかった。物を取りあげられても、なくなったことを怒るが、相手に攻撃を加えることはなかった。
・爪切り、散髪をいやがること。一定の服にこだわることもなくなった。
・親に甘えるようになり、ひざに乗りたがったり、添い寝をねだるようになった。
・4年生になり、担任が交代したが、別れを惜しむという感じは示さなかった。
・トランポリンはうまく、巧妙な跳び方もできたが、ボール投げはまったくできなかった。ころがしてやったボールでも、つかまえることができない。
・運動会でも、負けてくやしい、勝った人がうらやましい、と感じていない。勝ちたいなどという気持ちはない。
・寒さをあまり感じないとみえて、冬でも薄着であった。
・トレーラーに強い興味を示すようになった。トレーラーの走る音を聞き分けているようだった。
・5年生の頃からパニックが激しくなった。突然、大声で泣き始め、床に頭を打ちつける、自分の腕に噛みつく、廊下を走り出し、教室を脱兎のごとく走り抜ける。蒸し暑い時によく起こった。
・フォークリフトに強い興味をもった。日曜日に行方不明になった。警察から連絡があり、港の倉庫にいたことがわかった。(電車で30分+バスで30分の距離)
・ネオンサインにも興味を示した。床屋にも興味を示し(いち早く見つけて)、自分から入っていくようになった。
・このころのKは、体格が大きく力も強かったから、母親の制止がきかなくなっていた。・まもなく、母親が疲労のため心不全を起こし、たおれた。
・関係者と協議、精神薄弱児収容施設に収容してもらうことにした。
・適応があやぶまれたが、ほとんど問題なく、すぐに安定した生活を始めた。パニック、多動は姿を消した。
・朝食をすませて9時頃から作業に入る。(「写真のパネル板」作りに参加)ベニヤ板を切る、支え木を切る、支え木を四角に組む、ベニヤ板をはる、塗料をぬるといった一連の作業の中で、塗料をぬるという作業に参加している。慣れるにしたがって、ほかの誰よりも正確で間違いのない製品を作るようになった。
・無断外出は全く見られないし、奇声を発することもない。
・指導員の指示に従えるし、多少の応答もできる。他の子どもが呼びかければ応ずるし、手助けを求めれば、手助けはできる。いっしょに床をふく、バケツをいっしょに持つといったことはすすんでできる。
・文字はわかり、指導員が「きょうは何をしたのかな」と問いかけて書かせると、短い文章が書ける。
・会話は、相変わらず一往復(一問一答)で終わる。
・作業をしながら、コマーシャルの文句ひとり言、コマーシャルソングの鼻歌を歌っていることがある。
・以前にあった、ひどいこだわりのようなものはまったく見られない。

 以上が、自閉児Kのケース・ヒストリーである。

【感想】
 著者が言うように、この事例は「典型例」である、と私も思った。乳児期はまったく問題なく「健康優良児」として表彰されたKが、2歳頃から成長がとまり、さまざまな支障が現れてくる。その支障とは、要するに、①他人との社会的関係の形成の困難さ、②言葉の発達の遅れ、③興味や関心が狭く特定のものにこだわることを特徴とする行動(「文部科学省」ホームページ「特別支援教育」より引用)である。
 たしかに、2歳以降、Kは①、②、③の行動特徴を示してきた。しかし、それまで順調に成長してきたのに、突然、そのような支障が生じ始めるということは「あり得ない」と私は思う。事実、Kは 〈「たいへん育てやすい子」であった。抱いた時に、自分からよりすがってくることがなかった〉という特徴を示している。また、「健康優良児」として表彰される一方、〈こだわりが出はじめ、毛糸の表面にさわるのが好きで、一日中自分の着ているセーターをなでていた。人みしりをせず、母親がいなくても平気で、何時間でも一人で遊んでいた。手やほおで、セーターの感触を楽しんでいた〉という、他人との社会的関係(母親への愛着)の形成の困難さ、特定のものへのこだわりを窺わせる問題を抱えていたのである。両親は、初めての子が「健康優良幼児」として表彰されたことに、喜び、誇り、を感じていたに違いない。しかし、身長・体重が平均値以上であるという基準での表彰に過ぎないことに気づいていただろうか。その喜び、誇りの中に「油断」はなかったか。1歳半で「ママ、パパ、カンカン(みかん)、ゴアン(御飯)、オドーシャ(自動車)、テベビ(テレビ)など」の言葉が出たが、それ以前に、母子は声や表情でやりとりをしていたか。子どもは指差しをしていたか。また、子どもの話し始めた言葉に両親はどのように応じていたか。両親は弟と比べて、本児の「成長が歪曲していること」を知った。では、なぜ弟が生まれる前に、そのことに気づかなかったのだろうか。私の独断によれば、両親は、特に母親は子どもの育て方を「育児書」に頼っていたからである。〈あまり泣くこともなく、育児書に書いてあるとおりに授乳すればよかった〉という記述が、その証しである。つまり、Kの問題は生後まもなく、①泣くことが少なかった、②抱いた時、自分からよりすがってくることがなかった、ということから始まり、③毛糸の感触を好む、④人見知りをしない(母親がいなくても平気)という方向に進んで行った。さらに2歳半を過ぎてからは、自閉児としての「お決まりのコース」を辿ることになる。
 それは、3歳時に専門家から「自閉性精神薄弱である」と診断されたことによって決定づけられた。しかし、著者も「実は自閉児の研究は、わが国においては、まだ歴史も浅く、その心理的メカニズムについては、必ずしも定説は確定していない」と本項の冒頭で述べているように、誰もがが「手探り」状態なのである。それは、本書の刊行から40年が経過しようとしている、今も変わらない。すべてが「推定」「推測」の域を出ていないのである。
 Kのケース・ヒストリーで興味深かったことは、彼が家庭を離れて「収容施設」に入った途端、それまでの行動特徴(不適応行動)が消失したことである。こだわりが減り、周囲の活動(作業)への参加もできるようになった。なかでも、①手助けを求められれば、手助けはできる。②いっしょに床をふく、③バケツをいっしょに持つといったことがすすんでできるようになった変化は、素晴らしいと思う。その要因は何だろうか。①生活環境が変わった、②本人の心理的メカニズムに変化が生じた(情緒が育ち、情操に成長しつつある)、そこらあたりを、著者はどのように評価しているだろうか。興味をもって最終章を読み終わりたい。
(2017.7.25)




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《「情緒障害」(昌子武司著・教育出版・1978年)》通読・29

【要約】
・自閉児Kの特徴を整理しながら、その心理的なメカニズムを明らかにしたい。
⑴人との関係が希薄である。
・抱いた時に、自分からよりすがってくることがなかった。人への対応がうまくない。
・「人みしり」をまったくしなかった。両親と他人を区別していなかった。母親がいなくても淋しがらない。
・目が合わない。表情が乏しい。
・クレーン現象が現れた。
・幼稚園、小学校で友人関係をもとうとしない。担任と別れても心を動かさない。
・ボールのやりとりができない。相手の動作や意図がわからない。
・「行方不明」、親の姿が見えなくても不安、淋しさがない。親の嘆きが伝わらない。
⑵興味の対象は人や生き物ではなくて、物や物象である。
・レコードの回転、草、テレビの天気予報、コマーシャル、レゴ、整理、図鑑、カレンダー、トレーラー、エスカレーター、エレベーター、リフト、ネオンサイン


⑶物および物象に対する感覚が異常である。
・セーターの感触、レコードの回転、顔を洗わない、爪切り、床屋
・音に敏感(弟の泣き声、テレビの時報、サイレン、波の音)
・草をかざして走り回る
・整理癖
・薄着
⑷情緒が希薄である。
・かんしゃく、悲しくて泣き騒ぐことがない。
・おむつがぬれた不快さ、空腹の不快もなかった。満腹して快いという感じも少なかった。・弟に対するしっと、憎んだりした気配はうかがえない。弟をかわいいと思ったり、いとおしいという感情はもたなかった。
・見知らぬ人への恐れの情緒も乏しい。
・他の子どものいたずらを避けようとするが、相手に向かってゆく、けんかをしかける、攻撃することはない。
・レコードを取りあげられて怒りは出てくるが、ひがむ、すねる、ひねくれるといった情緒は現れない。
・小学校4年生までは、甘えなかった。うらやましい、ねたましい、いまいましいという進んだ感情は現れるはずがない。他人を攻撃する、他人に反抗するということは起こらない。運動会では、勝つよろこび、負けるくやしさがないから競争にならない。1等をとろうという意欲もわいてこない。他人より立派なものを作って先生にほめられようなどという快を追う欲望も生まれない。気がねをする、てれるといった感情も現れない
◎前述した「情緒のない世界」とここで述べた、Kの特徴は一致する。
・情緒を欠いているがゆえに「情緒の変容」も起こらない。
・「退行」は小学校4年生時の「甘え」のほかはほとんど現れない。
・「代償行動」「合理化」「同一化」「注目牽引」も起こらず「事大」「同隣」は皆無である。・「逃避」の傾向がうかがえないこともないが、嘘をついてごまかすこともないし、家出をするわけでもない。(家庭からの逃避ではなく、物への強い関心である)

◎仮説
・自閉児は、何らかの原因で情緒が欠落している。それゆえに、人間相互の情緒の共感が起こってこない。だから「人」を認知することが困難なのである。
・①「情緒が希薄である」だから→②「相手の人の情緒と共感しない」だから→③「人に対する認知ができない」だから→④「人との関係が稀薄になる」だから→⑤「物および物象への興味のみが強くなる」といった一連の図式が成立するように思われる。
・上の②、③、④から、派生的に言語の習得の遅滞が起こると考えてもよい。幼児期の言語は論理的にD領域に伝わるのではなく、いきなりB領域に伝わるのがつねである。
〈例〉自閉児Mが幼稚園に入った。
母「Mちゃん、先生のお名前は何というの?」
M「『ま』がつく、『り』がつく、『こ』がつく」
母「そんな言い方をしないで、シッカリと言ってごらんなさい」
M「シッカリ」
・普通の子どもは、「シッカリと言いなさい」と言われた時に、その言葉の情緒的な意味を感ずるから「シッカリ」とは答えないで「まりこ」と正しく答えるのである。

◎自閉児は、「登校拒否」「ノイローゼ」「非行」などと違って、B領域そのものが欠落あるいは稀薄であるといえる。自閉児とは「情緒欠落症」とでもいうべきものであり、「情緒障害」とは本質的に異質のものである。
・情緒と欲求は不即不離の関係にあるので、自閉児の欲求も稀薄である。

◎自閉児の「原情」は豊かであり、繊細ですらある。情緒が「欲求→人による欲求阻止→自分も含めた意味での人への加虐」という順序で起こってくる感情であるのに対して、原情とは「物質的な刺激→感覚による受け入れ→自分の中での混乱」という順序で起こってくる感情である。情緒が「欲求」をベースとして「人」との関係の中で生ずるのに対して、原情は「感覚」をベースとして、「物および物象」によって生ずる感情である。
・雑音を感知するのは感覚であるが「うるさい」と感じるのは原情である。
・暑いと感じるのは感覚であるが「暑くるしい」と感じるのは原情である。
・カゼを引いて「寒けがする」のは感覚だが、岩が落ちてくるのではと感じて「寒けがする」のは原情である。
・自閉児のパニックとよばれる行動は、原情の範疇に入れてよい。パニックは「人」と無関係に起こるので、理解ができがたい。(怒りは情緒の一種であるから、「人」との関係に触発されて起こる。だから、傍らの「人」には、その原因がすぐわかる)
・自閉児には、感覚そのものにもさまざまな歪曲がある。また、原情そのものが歪曲していることも予測できる。

◎治療仮説
⑴原情から情緒への移行を促進する。情緒を育てる。
・乳児期には原情に左右される行動が起こる。雷の音や光に恐怖する。母親が抱いてあやすと、安心する。母親のやさしい情緒を受けて感得する。空腹の不快(原情)は母親という「人」の授乳によって快に変わり、そのやさしさという情緒を感じるようになる。
・母親に抱かれた時感ずるのは体温という温かさ(原情)であったが、それが繰り返されるにしたがって、母親の心の温かさがわかるようになる。これが、情緒の伝わるプロセスである。
・「情緒障害児」に対しては「カウンセリング」と「プレイセラピー」が有効である。カウンセリングは、言葉を通じて、その言葉の出現してきた情緒(B領域)に触れ、その情緒の成育をはかろうとする方法である。プレイセラピーは、遊びの中で、その情緒に触れそれを成長させようとするものである。D領域に触れるのではなく、その奥のB領域に触れながら、BをCに育ててゆく働きである。
・自閉児に対しては、そのプレイセラピーを、さらに奥のA領域にまで触れ、そこで共感しながらA領域をB領域に成長させる方法でなければならない。そうした接近は、あくまでも「人」でなければならないし、感覚のレベルまで入るためには、身体接触が不可欠である。抱きかかえてやる、共に寝る、共に食事をする、共に風呂に入るといった、原情から情緒への移行の接点を発見し、その発達を促す方法があるように思われる。
・情緒障害の場合は、子どもの方から自発的に出てくる情緒を待つという態度をとり、出現した情緒をできるだけ受容しようとする。ところが、自閉児は、その情緒を欠いている。欲求も稀薄なので、待っているだけでは、発現しないだろう。その面をカバーするためには、強烈な情緒を伝えてやる必要がある。快であれ、不快であれ、強く明瞭に表現してやることが有効ではないか。
・「それは恥ずかしいことです」と言葉で伝えるより、実際に「恥ずかしがってみせる」ことである。「そうすると私は悲しくなる」と言葉で伝えるより、実際に「悲しんでみせること」、たしなめたり、説諭したりしないで、実際に「怒ること」である。
⑵感覚の訓練
A・自閉児は、感覚をベースとして起こってくる原情そのものが、すでに歪曲していると考えてよい。(感覚器官、統合能力の不全と見るべきかもしれない)
B・自閉児には、情緒や原情の歪曲が起こっているがゆえに、それが要因となって感覚の異常が起こっていると解することも可能である。
・Bの考え方をすれば、⑴で述べた方法が有効であろう。原情が情緒に成長して、バランスがとれれば、感覚の異常もなくなると考えられる。
・Aの考え方をとるならば、感覚の訓練をする必要がある。 
◎「感覚障害としての自閉」(阿部秀雄氏がデラカートの理論を紹介したもの)
・自閉児の五官について、それぞれ三つの区分をする。
〈鋭すぎる感覚〉:強すぎる感覚を除去し、弱い刺激からしだいに強い刺激を与えて馴らしてゆく。
〈弱すぎる感覚〉:それぞれの感覚に強い刺激を与えて、感覚を目覚めさせ、だんだん弱い刺激を与えて区別できるようにする。
〈混乱した感覚〉:外からくる刺激と、内部に起こっているものとが区別できない状態。常時持続する刺激を取り除く、次に刺激を強く与えながら、それが外部からきた刺激だと知らしめる。
・この考え方に基礎になっているものには賛成である。
・訓練に使う道具、装置はあくまでも媒体であって、それを与えているものは「人」であることを認識させておく必要がある。
⑶欲求の発現をはかる。
・自閉児は、情緒と同様、欲求も稀薄である。この欲求を強くすることに成功すれば、自閉傾向を改善するのに役に立つに違いない。
・その具体的な方法は見つからない。
・欲求には自己制御性があるから、与えられすぎると充足してしまって、欲求は薄くなる。・ある欲求について、飢餓状態をつくってやることが、一つの方法と考えられないこともない。生命に関係することなので、うかつにはできない。
〈玉井収介氏が試みた方法〉
・Eは自閉性精神薄弱といわれた子どもである。母親がきわめて熱心な人だったので、共生関係ができあがっていた。Eには言語らしきものが出てきたが、母親には通ずるが、第三者には通じない。サインともいうべき音声であった。そこで、第三者としてのセラピストを近づける。母親を少しずつ離し、Eとセラピストとで過ごす時間を多くしていった。Eにとってはサインで通じていたものが通じなくなった。(一種の欲求の飢餓状態ともいえる)これを続けていくうちにEはしだいに言語で通じさせようとするようになった。

◎以上のような治療仮説を実際に実行できるのは、あくまでも人であるが、とくに両親であるということは明言できる。情緒を的確に伝える、近い接触を保つ、感覚の訓練、飢餓状態をつくって欲求を強めることなどは、両親がもっとも役割がとりやすく、また両親でなければできない部分が多い。第三者は、それを側面から援助できるにすぎないといえよう。

【感想】
 著者はまず「自閉児」と他の「情緒障害児」(登校拒否、ノイローゼ、非行、かん黙など)は本質的に異なる、とした上で、「自閉児」は「情緒欠落症」とでもいうべきものだから、治療仮説としては「プレイセラピー」が適切であると説いている。この方法は、現代ではあまり取り入れられていない。情緒の問題は棚上げにして、もっぱら望ましい行動形成を図る「行動療法」が主流であるように感じる。「自閉症はプレイセラピーでは治らない」という風潮であり、さらに、「自閉症そのものは(どんな方法でも)治らない、だから学習によって諸能力を伸ばすべきだ」という仮説が定説になりつつある。しかし、それは、自閉症児をどのように教育すればよいか、というノウハウ(ハウツー)の問題に限定(矮小化)するだけであり、「自閉症」という本質に迫るものではない。大切なことは、「自閉症は治らない」と思考停止することではなく、「治るかもしれない」という可能性を追求することだと、私は思う。
 ただし、「治らない」要因が、本人ではなく周囲(環境)の側にあるとすれば、容易な
ことではない。著者が本書を「以上のような治療仮説を実際に実行できるのは、あくまでも人であるが、とくに両親であるということは明言できる。情緒を的確に伝える、近い接触を保つ、感覚の訓練、飢餓状態をつくって欲求を強めることなどは、両親がもっとも役割がとりやすく、また両親でなければできない部分が多い。第三者は、それを側面から援助できるにすぎないといえよう」と結んでいるように、第三者のできることは限られているからである。
 著者の〈自閉児に対しては、そのプレイセラピーを、さらに奥のA領域にまで触れ、そこで共感しながらA領域をB領域に成長させる方法でなければならない。そうした接近は、あくまでも「人」でなければならないし、感覚のレベルまで入るためには、身体接触が不可欠である。抱きかかえてやる、共に寝る、共に食事をする、共に風呂に入るといった、原情から情緒への移行の接点を発見し、その発達を促す方法があるように思われる〉という《治療仮説》に私自身は全面的に同意できる。特に、〈自閉児は、その情緒を欠いている。欲求も稀薄なので、待っているだけでは、発現しないだろう。その面をカバーするためには、強烈な情緒を伝えてやる必要がある。快であれ、不快であれ、強く明瞭に表現してやることが有効ではないか〉という提案や〈「それは恥ずかしいことです」と言葉で伝えるより、実際に「恥ずかしがってみせる」ことである。「そうすると私は悲しくなる」と言葉で伝えるより、実際に「悲しんでみせること」、たしなめたり、説諭したりしないで、実際に「怒ること」である〉という方法は「全くその通りだ」と思う。また、「⑵感覚の訓練では」、自閉児の感覚異常について、以下のように二つの考え方を示している。

A・自閉児は、感覚をベースとして起こってくる原情そのものが、すでに歪曲していると考えてよい。(感覚器官、統合能力の不全と見るべきかもしれない)
B・自閉児には、情緒や原情の歪曲が起こっているがゆえに、それが要因となって感覚の異常が起こっていると解することも可能である。
 
 多くの人がAの考えに従うだろうが、私はBのように考える。なぜなら、感覚の異常は「変化」するからである。Kの事例においても「以前にあった、ひどいこだわりのようなものはまったく見られない」と記されている。環境が変わることによって、Kの「情緒や原情の歪曲」が軽減され、感覚の異常を消失させることができた、と考えるべきではないだろうか。

 以上で、本書の通読は終了する。前述のように著者は「第三者は(治療仮説の実践を)側面的に援助できるにすぎない」と述べているが、その限界をどのように乗り超えるか、それが私自身の課題である。
(2017.7.25) 




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