FC2ブログ

今は昔、教員の「第一歩」

ふと、昔のことを思い出した。昭和43年(23歳時)のことである。当時、私は小学校助教諭の初任時代、4年生の担任であった。学年は3クラスで、私の担当は1組。学年主任の話。「手のかかる子、問題のある子はみんな自分のクラスに入れたから、1組は《つぶよりのクラス》、安心して指導に当たりなさい」。右も左もわからない初心者にとっては全く有難いことであったが、夏休みも終わり、2学期始業式の日、赤児を背負った母親が、鼻を垂らした女の子を連れて来た。1組への転入生である。母親の話。「先生、うちの子は知恵が遅れています。どうかよろしくお願いします」。私は心の中で叫んだ。「えっ?それは困る。せっかく《つぶよりのクラス》でまとまっているのに、その空気が壊れれしまう。第一、初任の自分に、そんな子の指導なんてできるはずがない!」さっそく、その旨をある「先輩」に訴えたところ、以下のとおり返答された。「あなたは教員として《失格》、ただちに退職すべきです。子どもは教員を選べない。それなのに、教員が子どもを選んでどうするのです。いいですか、あなたが《つぶより》だと思っている子どもたちは、あなたのことなんか必要としていませんよ。あなたなんかいなくたって、立派に成長していけるんです。あなたのこと必要としているのは、まさにその女の子のような子どもたちであることを肝に銘ずべきです。教育公務員に課せられている『全体の奉仕』とは、そのことに他ならないのだから・・・。」私は、その言葉ひとつひとつを今でも忘れられない。以来35年、なんとか教員生活を続けられたのは、その「先輩」、加えて「その女の子、お母さん」に出会えたおかげだと思っている。(2009.10.16)
教育学第一歩教育学第一歩
(1988/09/13)
中内 敏夫

商品詳細を見る





にほんブログ村

にほんブログ村


母親の役割

私事で恐縮ですが、私は母親の顔を「古ぼけた写真」でしか見たことがありません。母親は私の出産を終えると5か月後に他界しました。以後、父親・祖母に育てられましたが、二人とも「どのような母親であったか」を私に語ることはありませんでした。ですから、私は今だに「おふくろの味」を知りません。小学生の頃、「母の日」が一番「憂鬱」でした。「白いカーネーション」をつけなければならなかったからです。当時、クラスには父子家庭の子が、私を含めて三人いました。「白いカーネーション」は私一人ではなかったので、「救われた」ような気持ちでしたが、ある年、そのうちの一人が「赤いカーネーション」に変わったのです。「あれ?君は『白』じゃなかったの?」と、問いかける私に、その子は「得意そうに」答えました。「新しいお母さんが来たんだもん!」
 私の場合、母親の記憶が全くないので「さびしい」とか「悲しい」という気持ちはありません。しかし、「何か満ち足りない」「自分には何かが欠けている」という思いは、今でもあります。
 そんなわけで、私の「母親体験」は皆無です。多分に「願望」が含まれていることをお許し下さい。
 母親の役割で、最も大切なことは「子どもを安定させる」ことだと思います。胎生期(妊娠中)、子どもは母親の胎内で「安定」を求めています。「重い物をもたない」「長期の旅行は控える」「禁酒・禁煙」「服薬の制限」等々、すべてが子どもを「安定」させるための配慮だといえましょう。そして周産期、「出生」はヒトの人生にとって、最も危険な「試練」であるとも言われています。誕生まもない「新生児」は、新しい環境の中で、「胎内」とは比べものにならない「不安定」を味わうことになるからです。「授乳」「排泄」「睡眠」「更衣」等々、生活のすべてを、誰かに依存しなければなりません。その介助者として最も適しているのが母親に他ならないのです。母親はすでに「十月十日の間」、胎内の子どもとの「かかわり」を経験してきているからです。母親は「本能的」に、「喜びに満ちあふれて」、子どもを介助します。その結果、子どもは、今まで経験しなかった「過酷な」環境の中でも「安定」することができるのだと思います。
 しかし、様々な原因で「安定」できなかった子どももいます。胎内での未成熟、疾患、異常分娩(仮死)、重症黄疸等々・・・。そんな時、周囲の大人(特に両親)もまた「不安定」(心配・絶望・悔恨)になることは当然でしょう。その心理的な「不安定」が、さらに子どもの「不安定」を拡大することはたしかです。
 『五体不満足』(講談社)の著者・乙武洋匡さんは「まえがき」で次のように書いています。
<「オギャー、オギャー」火が付いたかのような泣き声とともに、ひとりの赤ん坊が生まれた。元気な男の子だ。平凡な夫婦の、平凡な出産。ただひとつ、その男の子に手と足がないということ以外は。先天性四肢切断。「あなたには生まれつき手と足がありません」という障害だ。(略)本来ならば、出産後に感動の「母子ご対面」となる。しかし、出産直後の母親に知らせるのはショックが多すぎるという配慮から、「黄疸(略)が激しい」という理由で、母とボクは1ヵ月間も会うことが許されなかった。(略)対面の日が来た。病院に向かう途中、息子に会えなかったのは黄疸が理由ではないことが告げられた。やはり、母は動揺を隠せない。結局、手も足もないということまでは話すことができず、身体に少し異常があるということだけに留められた。あとは、実際に子どもに会って、事態を把握してもらおうというわけだ。病院でも、それなりの準備がされていた。血の気が引いて、その場で卒倒してしまうかもしれないと、空きベッドがひとつ用意されていた。父や病院、そして母の緊張は高まっていく。「その瞬間」は、意外な形で迎えられた。「かわいい」・・・母の口をついて出てきた言葉は、そこに居合わせた人々の予期に反するものだった。(略)この「母子初対面」の成功は、傍から見る以上に意味のあるものだったと思う。人と出会ったときの第一印象というのは、なかなか消えないものだ。(略)母が、ボクに対して初めて抱いた感情は、「驚き」「悲しみ」ではなく、「喜び」だった。生後1ヵ月、ようやくボクは「誕生」した。>
 ここでは、「子どもを安定させる」という母親の役割が、事実として具体的に語られていると思います。特に、<生後1ヵ月、ようやくボクは「誕生」した>という言葉は見のがせません。乙武さんは、母親に対面するまで生後1ヵ月の間は、まだ「誕生」していなかったのです。それは、新生児期の「不安定」が母親の「かわいい」という(喜びの)「ひとこと」によって払拭されたことを象徴している言葉ではないでしょうか。
 さて、「子どもを安定させる」母親は、そこにいるだけで、子どもを「満足」させることができます。「五体満足」な私が「何か満ち足りない」「自分には何かが欠けている」と感じ、「五体不満足」な乙武さんが「何より、ボク自身が毎日の生活を楽しんでいる。多くの友人に囲まれ、車椅子とともに飛び歩く今の生活に、何ひとつ不満はない」(前出書・「あとがき」)と感じる、その差異こそが「母親の存在」ではないでしょうか。
 つまり、母親の第二の大切な役割は、子どものそばに「居る」ことだと思います。最近は、「男女機会均等」の風潮の中で、子どものそばに「居ない」母親が増えているように感じます。子どもを放置して遊び歩く母、「赤ちゃんポスト」活用等は論外としても、2歳までの乳幼児を「保育所」に預けることは通常化しています。しかし、そうした育児方法は日本の社会ではまだ50年の歴史しかないのです。核家族、共稼ぎ、少子化等々、社会の「事情」により、「誰でもそうしているから」「あたりまえ」のように思われますが、その結果が出るのは「これから」です。そばに居てもらいたいのに、居てくれない、でも、子どもは「我慢」する他ないのです。「我慢」は、しだいに「あきらめ」「不信」「恨み」という気持ちに変化するかもしれません。そうした子どもたちが大人になった時、日本の社会はどのようになっているでしょうか。
 母親の第三の大切な役割は、子どもの「可能性を信じる」ことだと思います。子どもの「欠点」「失敗」ばかりが目につき、「心配で夜も眠れない」というお母さんがいます。「親の心、子知らず」だと嘆きます。しかし、子どもは、自分の「欠点」「失敗」を母親以上に気づいています。そして悩んでいます。「どうすれば、お母さんを心配させずにすむだろうか」子どもは心配されたくないのです。母親を心配させている自分を許すことができないのです。「ボクなんか居ない方がいいんだ!」と思います。母親が心配している限り、子どもも母親も、この「袋小路」を抜け出すことができないでしょう。「可能性を信じる」ということは、「欠点」「失敗」を「愛する」ことです。「欠点があったっていいじゃないの、いいところもあるんだから」「失敗は成功のもと、何もしないよりはましよ、ドンマイドンマイ」と思うことです。乙武さんの母親は、先天性四肢切断の姿を見て「かわいい」という言葉を口にしました。「驚き」「悲しみ」(心配)ではなく、「喜び」(愛)こそが、乙武さんの可能性を開花させたことは明らかです。
 成人するまでの子どもにとって、また成人した後でも、母親は「かけがえのない」「絶対的」存在です。同様に、母親にとってもまた、子どもが「かけがえのない」」「絶対的」存在でなければならないと思います。お互いの存在を「喜び合い」、その「かけがえのなさ」を認め合うことは、「愛」の原点です。子どもは、「母の愛」を通して、他人を「愛する」ことを学ぶようになるのだと思います。そのこともまた、母親の大きな役割ではないでしょうか。「言わずもがな」のことではありますが、最近の社会現象を見ると、あらためて確認しなければならないように思うのです。
(2007.3.10)
母親の役割という罠―新しい母親、新しい父親に向けて母親の役割という罠―新しい母親、新しい父親に向けて
(1999/12)
フランシーヌ コント

商品詳細を見る





にほんブログ村

にほんブログ村


三人のお母さん

 ある土曜日、電車の中の風景。ベビーカーから弾けるように抜けだして、辺りを歩き回ろうとする一歳の女児、「危ないからダメ」と抱き止めようとするお母さんの手を振りほどいて、逃げ回る。とうとう捕まってベビーカーに収容されたが、今度は大声をあげて泣き叫ぶ。もう一人のお母さんがその様子を見て、女児をあやし始めた。「グーチョキパーで何作ろう、右手はグーで、左手はチョキで・・・」、女児はたちまち笑い出してお母さんのマネをする。その傍らではやはりベビーカーに乗った二歳の男児がニコニコと、指四本を口に入れて眺めている。お母さん同士は初対面かもしれない。女児のお母さんも一緒に手遊びに参加したが、やがて降車駅が来た。「じゃあ、またね。バイバイ」と言ってホームに降り立った。男児のお母さんは、女児に投げキッスをして別れを告げる。男児もしゃぶっていた指を抜き出して投げキッス・・・。女児もお母さんに抱かれて手を振って
いる。入れ替わりに成人女性と腕を組んだお母さんが「はい、乗りますよ」と言いながら乗車、男児のお母さんの隣に座った。男児のお母さんは、女児たちを見送ると、男児に向き直りしゃぶっている指をハンカチで拭き始めた。男児はニコニコと拭いて貰いながら、他方の指を口に入れる。おかあさんがその指を拭くと、また他方の指を口に入れる。いたちごっこできりがない。その様子を見ていた成人女性のお母さんが微笑みながら「ダメって言われると、なおさらやりたくなるのよねエー」と男児に話しかけた。そのとたん、男児の指しゃぶりはピタリと止まった。男児のお母さんも頬笑んで、そのお母さんに返礼する。そうした「やりとり」とはかかわりなく、成人女性は独り微笑みをうかべている。その微笑みは神々しいまでに美しかった。三人のお母さんの、三者三様の「母性」が「親子の絆」の原点であることは間違いない。(2017.4.23)




にほんブログ村

にほんブログ村


『自閉症児のための抱っこ法入門』(阿部秀雄・学習研究社・昭和63年)

 人の一生は「産声」から始まる。「産声」とは、肺呼吸が始まったことを現す証しに他ならないが、いわゆる「オギャーオギャー」という「発声」のことである。以後、乳児は頻繁に「オギャーオギャー」という泣き声を発するようになる。親は、それを聞いて、乳児の状態を観察、授乳、おむつの取り替え、衣服の着せ替え等々の介護を行う。乳児は出生時のストレス、胎内から大気圧下への(生育)環境の変化によって、様々な「不快感」を感じる。それを「取り除いてほしい」と「泣いて」訴えているのである。このことは、人の一生を左右するほど重要な出来事である、と私は思う。(言うまでもなく、人は「誕生日」以前に生まれている。受胎から出生までの(いわゆる)「十月十日」、胎児として胎生期を過ごすわけだが、その間、順調に発育したか、安定していたか、十分に「快感」を味わっていたか。)人の(誕生後の)一生は、胎生期時代(胎内)の「安定・快感」を求めて、大気圧下の「不安定・不快感」を「取り除いてほしい」と訴えることから始まるのである。つまり、乳児はまず「不安定・不快感」を感じ取らなければならない。そして、それを「泣いて」訴えなければならない。昔から「寝る子は育つ」と言われているが、一方「泣く子は育つ」とも言われている。「不快感」の中には、空腹、おむつ、痛み、驚き、眠気等々が含まれているとすれば、双方は矛盾しない。いずれにせよ、乳児の発達はこの「不快感」から出発するということを見落としてはなるまい。「不快感」は、やがて「怖い」「淋しい」「悲しい」「つまらない」「むずかり」「嫌い」「いや」「嫉妬」「不満」「怒り」といった感情に分化していく。親は、そうした感情が、乳幼児の(円満な)発達にとって妨げになると思うかもしれない。しかし、それは誤りである、と私は思う。「楽しい」「うれしい」「おもしろい」「おいしい」「好き」「満足」といった「快感」は、「不快感」の裏返し(表裏一体)として生まれるからである。ややもすれば、親はその「快感」だけを与えようとしてはいないか。乳幼児が「静かにしている」「手がかからない」「おだやかである」「素直に従う」。そのことだけで満足してはいないか。例えば、紙おむつ、例えば哺乳びん、例えばベビーベッド、例えばベビーカー、・・・等々。「親の都合」で、「育てやすい子」にすればするほど、乳幼児の「不快感」は心中に押し込められ、表出されない。要するに「我慢」「辛抱」を強いられるのである。「我慢強い子」「泣かない子」「人見知りをしない子」「親の後を追わない子」、そうした乳幼児の中には、胎生期時代、十分な「快感」を味わえなかった、その「不安定・不快感」が今も続いている、しかもそのことを訴えることができない、また生後、「親の都合」で「快感」ばかり与えられ、「不快感」を訴える「機会」が失われた、といったケースがたくさんあるのではないだろうか。
 したがって、まず乳幼児に「不快感」を与えること、次に、それを「取り除いて」と親に訴えることができるようにすること、さらに、取り除いた後の「快感」を親と一緒に喜べるようにすること、が肝要である。 
 以上が、『自閉症児のための抱っこ法入門』(阿部秀雄・学習研究社・昭和63年)という著書を読み始めた後の感想である。(2013.9.9)
阿部秀雄のきっと親子がしあわせになる「抱っこ法」―泣いて甘えて子どもは育つ! (新紀元社の子育てシリーズ)阿部秀雄のきっと親子がしあわせになる「抱っこ法」―泣いて甘えて子どもは育つ! (新紀元社の子育てシリーズ)
(2004/10)
阿部 秀雄

商品詳細を見る





にほんブログ村

にほんブログ村



「指差し行動」の意味

生後1年ほどになると、乳児は「マンマ」「ブーブ」などと片言を話すようになるが、同時に(人差し指1本で)「指を差す」行動が現れる。この行動は、「人間」特有の行動であり、他の動物には見られない。そしてまた、その行動は、「指差し確認」とか「人から後指を差されないように」とか「指示する」とか、言われるように、「特別な意味」を含んでいるのである。その意味とは、「今、私はこれ(それ、あれ)を見ている」ということである。さらに、人間はその行動を、コミュニケーションの手段として使っている。相手に向かって、「今、私が見ているのは、これ(それ、あれ)です。あなたも見て下さい」という気持ちを伝えているのである。乳児が、事物を指さして「アッアー」などと言うのは、「それを取って」「あれは何?」「これが欲しい」「あれは前にも見たことがあるよ」 などという意味や気持ちを、周囲の人に伝えているのである。また、乳児は、相手からの問いかけに対する「返事」として、「指を差す」行動があることを学ぶ。絵本を見ながら、「ワンワンはどれ?」「ブーブはどれかな?」などと問いかけられると、「指を差して」応えるのである。このとき、乳児は、「犬や自動車を見分けること」(認識活動)と、「指を差して応えること」(コミュニケーション行動)の二つを「同時に」要求されているのだが、いずれかに支障が生じていると、正確に応じることができない。その一の例、「ワンワンはどれ?」と尋ねられても、「ワンワンはどれ?」とオウム返しをするだけで、指を差さない。その二の例、「ワンワンはどれ?」と尋ねられても、よく絵を見ないで、手当たり次第、目に入った物を指さす。一の例は、(おそらく)認識活動は正常だが、コミュニケーション行動が未熟だということになる。反対に、二の例は、コミュニケーション行動は正常だが、認識活動が未熟だということになる。一の例の場合、「指を差す」代わりに、「手(首)を引っぱる」行動(クレーン行動)をすることがある。この行動は、自分の欲求を満たそうとする直接的な行動であり、コミュニケーション行動とはいえない。相手の手を、自分の手の延長(道具)として活用しているにすぎないからである。二の例は、まだ事物を正確に「見分ける」(弁別する)ことができないだけであって、相手とのコミュニケーションを通して、様々な学習を進めていく態勢が整っている。したがって、相応の時間をかければ、調和的な発達が期待できる。しかし、一の例は、周囲の事物や生活習慣、等々を、相手からではなく(コミュニケーションを媒介とせずに)、直接的に「自学自習」してしまうおそれがある。「認識活動」は正常であっても、そこで身につけた知識や技能を、集団の中で「応用できない」という事態に陥るおそれがある。そこで、一の例の場合には、以下のような取り組みが必要になる、と思われる。
【目標】人(相手)との「やりとり」ができるようにする。
《領域1》相手と「表情」で「やりとり」ができるようにする。
・相手に笑いかけられると、笑い返す。(あいさつ)
・にらめっこ、あっぷっぷ、いないいないばあ、などの遊びを「楽しむ」。
・「変な顔」を見て笑う。
・「怖い顔」を見て泣く。
・「いいお顔」をする。
《領域2》相手と「声」で「やりとり」ができるようにする。
・泣いて、相手を呼ぶ。
・相手の声を聞いて、しずまる。(泣き止む、落ち着く)
・相手の声を聞いて、声を出す。
・声を出して、相手を呼ぶ。
・相手の声(語調)を聞いて、まねする。(えっ?、あっ!、あーあ等)
・相手の「ことば」を聞いて、まねする。
《領域3》相手と「身振り・動作」で「やりとり」ができるようにする。
・相手の「身振り」を、まねする。(指遊び、手遊び、グウチョッキパー、指差し等)
・相手の「動作」を、まねする。(おいかけっこ、かけっこ、ぴょんぴょん、ダンス等)
・「おうまさんごっこ」を楽しむ。(スキンシップ)
・「おすもうごっこ」を楽しむ。(スキンシップ)
・ジャンケン遊びを楽しむ。
・「幸せなら手をたたこう」「むすんでひらいて」などを一緒に楽しむ。
・「鬼ごっこ」「かくれんぼ」を楽しむ。
《領域4》相手と「物」の「やりとり」ができるようにする。
・相手から、物を「受け取る」。
・相手に、物を「手渡す」。
・欲しい物を、「指差して」「受け取る」。
・相手が「指差した」物を「手渡す」。
・相手に「ちょうだい」と言って、「受け取る」。
・相手に「どうぞ」と言って、「手渡す」。
・「お店屋さんごっこ」を楽しむ。
《領域5》相手と「ことば」で、「やりとり」ができるようにする。
・相手に、名前を呼ばれたら、振り向く。(相手の顔を見る)
・相手に、名前を呼ばれたら、「返事」をする。(手を挙げる)
・相手に、「パパ」「ママ」などと言って、呼びかける。
・相手に、「わんわんは、どれ?」と聞かれて、指差す。
・相手に、絵を指差して、「なーに?」と尋ねる。
・相手に、「これはなーに?」と聞かれて、「わんわん」と答える。
・相手に、「お名前は?」と聞かれて、答える。
・相手に、「おめめは?お耳は?お口は?」などと、尋ねられて、その部位を触る。
・相手に、「たっち、えんこ」などと言われて、その動作をする。
・相手に、「これ、なーに?」と頻繁に尋ねる。
【留意点】
 以上の取り組みの中で、最も重要なものは、「笑顔」の「やりとり」である。「好きこそものの上手なれ」という言葉があるように、そのことが「好き」になることが上達の早道である。いずれの活動も「楽しく」「遊びの中で」行うことが大切である。また、乳児の反応が「あいまい」であったり、「誤り」であったとしても、それを「指摘」「訂正」することは禁物である。なぜなら、そのことによって、乳児は「自信」を失い、たちまち意欲が半減してしまうから。大切なことは一点、「コミュニケーション行動」と、その「意欲」を育てること、言い換えれば、こちらからの働きかけに「応じ」られるようになりさえすれば、それでよい、ということを肝銘すべきである。(2013.4.6)
子どものコミュニケーション障害 (文庫クセジュ)子どものコミュニケーション障害 (文庫クセジュ)
(2007/07)
ロラン ダノン=ボワロー

商品詳細を見る





にほんブログ村

にほんブログ村




学校は何のためにあるか

学校は何のためにあるか      

 学校は「人間の生活」を学ぶためにある。「人間の生活」とは何か。それは、母親(またはそれに代わる人)と一緒にいることから始まる。多くの場合、「抱かれる」「背負われる」という形で、母親と直接的に触れ合いながら、互いに「生きていること」を感じ合うことから始まる。その時、母親も子どもも「快感」を感じていなければならない。そうすることがとても楽しく感じられるようでなければならい。だから母親は子どもを「肌身離さず」の状態にしておくのである。何かの都合でそのような状態が保たれなくなったとき、子どもは泣いて母親を呼ぶ。これが人間のコミュニケ-ションの第一歩である。母親と接触していることが「快感」であり、母親と離れることが「不快」(不安)であると感じる感覚をもつこと、これが「人間の生活」の第一歩である。 子どもは母親と一緒にいながら、母親のしていることをマネしようとする。しかし思うようにはできない。そこで母親に助けを求める。ある時は泣いて、ある時は怒って、ある時は指をさして、そしてある時はコトバを使って助けを求める。母親は無条件に応じる。子どもは、自分でできないことを母親の力を借りてできるようになる。そしてその楽しさを知る。母親に対する「信頼感」を感じる。これが「人間の生活」の第二歩である。
 やがて子どもは、自分のしたいこと(周囲の人のしていること)を自分の力でやりたがる。そしてできるようになる。自分の力でできたことに大きな喜びを感じる。自分のすることが自分のためになることを知り、充実感(成功感)でいっぱいになる。もう母親の手を借りようとはしない。これが「人間の生活」の第三歩である。 さらに子どもは、それだけでは満足しない。自分のすることが他人のためになることを知り、その充実感(使命感)の方がより楽しいものに感じるようになる。自分のすることを他人が喜ぶ、その姿を見てうれしいと感じるようになる。子どもがお手伝いをするのは報酬を得るためではない。母親が喜ぶ姿を見たいからである。子どもが万引きをしないのは罰せられるからではない。母親が悲しむのを見たくないからである。「名誉や栄光のためではなく」人間は生きるのである。これが「人間の生活」の第四歩である。       学校は「人間の生活」を学ぶためにある。前述した母親を教師に、他人を級友に置き換えれば、家庭であっても学校であっても「人間の生活」を学ぶことに変わりはないのである。「国語」「算数」「社会」「理科」などといった各教科の学習は、「人間の生活」を学ぶための素材であって、内容ではない。むしろ「道徳」「特別活動」といった領域の学習こそが「人間の生活」の内容なのである。                    
 <事例・1>
 ある小学校で入学式が行われた後、一人の母親が担任のところへやってきてこう言った。「先生、うちの子どものことをもうご存じと思いますが、何とぞよろしくお願いいたします。手が不自由なのです。」担任は、学年の教師との話し合いの中で、その子の名前や手の指の数が足りないことについて知っていたので、「ハイ、わかりました。」と答えた。
 その子の様子をみると、とても明るく素直でのびのびと行動しており、指のことなど全く気にしていないように見受けられた。学級の生活が始まって一週間が過ぎた。幼稚園からの資料によると、その子の指は「右手が一本欠損している」とのことだったが、担任はそれをたしかめるのがこわいような気がした。授業中に机間巡視しながらそれとなく様子を見ると、二本欠損していることがわかった。学級では出席をとるとき呼名されて挙手することになっている。その子は何の抵抗もなく「ハイ」と答えて三本指の右手を挙げる。「しかし・・・」と担任は思った。「このままにしてよいだろうか。今は、クラスの子どもたちは気づいていないかもしれない。でもいずれはわかるときがくるだろう。クラスの子どもたちだけではなく、他のクラスや他の学年の子どもたちにも知れわたってしまうかもしれない。三本しか指がないことはそのこと自体としてはどうということはない。しかし、そのことで他の子どもから好奇の目で見られたり、からかわれたり、いじめられたりしたらどうすればよいか。その子の指が三本しかないことを、どのようにしてクラスの子どもたちに知らせ、そのことが何ら問題とすべきではないことをどのように理解させればよいのだろう。」
 担任は「どうすればよいか」学年主任に相談した。学年主任は、自分だけでは判断できないと言って教務主任、教頭、校長に相談した。教務主任は「担任は学級の子どもたちにそのことをはっきりと知らせ、からかったり、いじめたりしてはいけないことを教えるのがよい。また、教職員全員にもそのことを知らせ、しかるべき指導を事前にしておいた方がよい。」と判断した。校長は「その方法はとてもむずかしい。今は誰も気づいていないし、その子自身も明るい性格なので、その場その場で個別に対応していく方がよいのではないか。事前に指導することは、寝た子を起こすことにもなりかねない。」と判断した。その結果、しばらく様子を見ることになった。
 数日後、担任はクラスの子どもたちが、その子の指のことに気づきはじめている場面を目撃した。「あれ、どうして指が三本しかないの?」という問いかけに、その子は「小さいときにケガをしたから」と答えたり、しつこく聞かれたときのは「いいの」と答えたりしていた。
 担任は再び校長に相談した。「クラスの子どもたちは気づきはじめています。担任としてはこのままにしておくことは不安なので、家庭訪問をして保護者の判断をあおぎたいと思います。」校長は承諾した。担任は家庭訪問をして両親にどうすればよいか判断を求めた。両親は、家庭訪問をしてくれたことを非常に感謝し、「他のお子さんが不思議に思うことは当然です。どうすればよいかは先生の判断におまかせしますので、よろしくお願いいたします。」担任、はその結果を校長に報告した。校長は翌日、教職員全員にその子の様子について知らせ、その子のことでトラブルが生じないよう配慮してもらいたいと要望した。
 担任は再び家庭訪問し、その子自身と指のことについて話し合った。クラスの友だちから指のことを聞かれいちいち答えるのは大変だから先生がみんなに話してあげようかと言うと、その子は「どっちでもよい」と答えた。
 その後、担任はそのことについて何もしないて、様子を見ている。現在まで特別な問題は生じていない。その子は、算数の引算の学習で「8ひく5」をするとき、両手を挙げてみんなに見せ「ボクの指ちょうどいいよ、ホラ。」と言った。みんなは「ア、本当だ。」と言ってうなづき、ほほえんだ。体育の「のぼりぼう」では、はじめすぐに落ちてしまったが、現在では一番上まで登ることができるようになった。「雲梯」は、今でもすぐに落ちてしまうが「ボク、得意じゃないんだ。」と言って屈託がない。母親は、音楽で使う「たて笛」を特別に業者に注文している。
 担任は、その子の指のことがほとんど気にならなくなった。今では、そのことが全くあたりまえのことであり、自然な気持ちで教室に入れるようになっている。しかし、自分の見ていない場面や、今後のことになるとどうなのか「不安」がないわけではない。。

 <事例・2>
 「母の日」が近づくと学校では赤いカ-ネ-ションが配られる。ある学級では父子家庭の子がいた。担任は、その子にカ-ネ-ションを配っていいのか、配るとすれば何と言って配ればいいのか「不安」になり、学年主任に相談した。学年主任はどうすればよいか、児童会担当、教頭、校長と話し合った。児童会担当は、一律に配り、父子家庭の子どもに対しては「母親がいなくても試練に耐えなくてはならない。世の中で母の日をなくすわけにはいかないのだから。」ということを話せばよいと主張した。担任は、カ-ネ-ションに「お母さん、ありがとう」という言葉が添えてあるので、その子がさびしい思いをするのではないか、自分だけがみんなとは違う感じてしまうのではないか、という「不安」があると言った。児童会担当は「その子ひとりのために母の日をなくすわけにはいかない。体の不自由な子がいるから運動会をなくすわけにはいかないのと同じだ。」と主張した。どうすればよいか、なかなか考えがまとまらず、「カ-ネ-ションの言葉を書き変えればよい」「カ-ネ-ションの言葉を切り取って配ればよい」「カ-ネ-ションを配るだけで胸につけさせなければよい」などという意見も出された。教頭は「昔は、父子家庭の子には白いカ-ネ-ションを配ったこともあった。昔よりも今の方がよいのではないか。」と言った。話し合いは平行線のまま終わった。
 担任はかつて父子家庭の子どもにカ-ネ-ションを配ったとき、その子がカ-ネ-ションを持ってきて、「先生、ボクお母さんいないから、この言葉を、おばあちゃんありがとうと書きかえてよ。」と言ったことが忘れられなかった。そのときは忙しさのまぎれて、そのまま渡してしまったことを後悔していた。だから、児童会担当の主張を受け容れる気持ちにはなれなかった。
 翌日(カ-ネ-ションを配る日)、校長は全教職員に次のように話した。
 「今日、母の日のカ-ネ-ションを配ることになっています。お母さんのいない子もいるので、配り方をいろいろ考えてください。ただ一律に配ってしまうのも一つの方法です。またその子に対しては、言葉の部分をふだんお世話になっている人の名前に変えて配る方法もあります。家庭に対しては、母の日の趣旨を説明し理解を求める手紙を添えることも考えられます。父子家庭に限らず、子どもひとりひとりの問題にいつも気を配り、それぞれに対応した配慮ができるよう心がけてください。」
 担任は、カ-ネ-ションの言葉の部分を書き変え、手紙を添えて、その子に配った。しかし、どうしても胸につけさせることはできなかった。
 児童会担当は、担任のところへ来てこう言った。「私の考えは間違っていたようです。母親がいなくても試練に耐えなくてはならない、というのは単純な理屈であって、子どもには理解できないということがわかりました。」(2002.7.31)




にほんブログ村

にほんブログ村

《だから》自閉症は治らない

 なるほどこれでは「自閉症」は治らない。現状では「治りようがない」からである。「自閉症」と呼ばれる人、子どもたちの周囲に居る人、例えば両親、例えば兄弟、例えば親族、そして療育・教育に携わる人々の大半、もしくはほとんどが「自閉症は治らない」と思っているからである。彼らは、自閉症の要因は「脳の機能的障害」であるという通説を信じている。したがって、保育・療育・教育の内容は、半ば諦めながら「脳の機能」を改善しようとしたり、社会生活のスキルを訓練で習得させようとするものが、ほとんどである。 もし「自閉症は治る」などと主張すれば、たちまち異端視され集中攻撃を受けるのが現状であろう。にもかかわらず、私は敢えて「自閉症は治る」、もしくは「治そうとしなければならない」ことを提唱する。その方法は誰でもできる。単純・素朴な方法である。
 ①相手を「自閉症」だと思わないこと。
 ②相手と「遊ぶ」こと。その遊びは、意味も無い、為にならない、ふざけ合い、じゃれあい、スキンシップを伴う遊びであることが肝要である。玩具などは不要である。声を出し合いながら、バカバカしいと思われる「やりとり」をおよそ一千時間繰り返す。相手が乳幼児の場合はオンブ、ダッコ、肩車、タカイタカイ、お馬さんごっこ、鬼ごっこ、かくれんぼ、ブランコ、トランポリン等々。学齢時、青年、成人の場合は、握手、指相撲、マッサージ、乾布摩擦、レスリング、水遊び、ダンス等々。相手を遊ばせるのではなく、一緒に遊ぶこと、一緒に楽しむことが肝要である。
 ③相手と「キャッチボール」をすること。キャッチボールの「技術」ではなく、「呼吸」(間合い)を合わせること、回数を増やすことに専念するべきである。
 ④相手と一緒に「仕事」をすること。着衣・靴の着脱、手洗い、洗面、歯みがき、蒲団敷き、洗濯(干し・たたみ)、掃除、運搬、調理などを「共同作業」として行うことが肝要である。

 以上の活動を、相手の方から求めてくるようになれば「自閉症は治る」かもしれない。しかし、現状ではそれを「実行」する人は少ない。そんなことで治るなら専門家はいらない、と思っている人が大半であろう。《だから》自閉症は治らないのである。
(2016.11.1)



にほんブログ村

にほんブログ村


講話資料・「発達や行動に課題のある子どもの保護者の理解と対応」・《2》

2 保護者の理解と対応

《「田研式・親子関係診断テスト・両親用」(日本文化科学社)の活用》
【質問項目の抜粋】
①《消極的拒否型》(拒否)
・このお子さんとは何となく気が合わないように思いますか。
・こどものために恥ずかしい思いをしますか。
②《積極的拒否型》(拒否)
・気にくわないことがあると、こどもにあたりちらしますか。
・こどもを叱るとき、打つとか、つねるとか、しばるというような体罰を用いますか。
③《厳格型》(支配)
・親がよいと思うことは、こどもに強制しますか。
・家庭の中でだれかがいばって、こどもをおさえつけていますか。
④《期待型》(支配)
・こどもの勉強や成績を気にしたり、さいそくしたりしますか。
・こどもはもっとやればできるのに、努力していないように思いますか。
⑤《干渉型》(保護)    
・こどもが一人でできることでも、さしずしたり手伝ったりしますか。
・こどものけんかや遊びに親が顔を出しますか。
⑥《不安型》(保護)
・こどもが危険な遊びをしているのではないかと気になりますか。
・親としてもっとこどもにしてやるべきことがあるように思われて心配ですか。
⑦《溺愛型》(服従)
・あなたはこどもを叱れないで、ほめてばかりいますか。
・こどもが家にいないと淋しかったり物足りない思いをしますか。
⑧《盲従型》(服従)
・あなたはこどもの機嫌をとったり、ちやほやしたりしますか。
・なにごとも子ども本位にだけ考えますか。
⑨《矛盾型》
・あなたはその時の気分によって、しつけ方が変わりますか。
・あなたは来客時とか、外出先とか、人前とかでは態度をかえがちですか。
⑩《不一致型》
・こどもの教育やしつけについて両親の方法や意見がどうしても合わないと感じますか。
・こどもの前で両親が言い争うことがありますか。

【結果の解釈】
・「親子関係」は、「支配・服従」(力関係)を縦軸、「保護・拒否」(心情関係)を横軸として、8つの型に分類できる。(①~⑧)
・①⇔⑤(消極的拒否型⇔干渉型)、②⇔⑥(積極的拒否型⇔不安型)、③⇔⑦(厳格型⇔溺愛型、④⇔⑧(期待型⇔盲従型)は、「対軸関係」にあり、反対の傾向を示す。しかし、両方の傾向が顕著な場合には、⑨(矛盾型)になる。⑩は、両親の不一致傾向を示す。
    
*「親子関係」は、⑦(溺愛型)の傾向から始まり、以下、⑧(盲従型)→①(消極的拒否型)→②(積極的拒否型)→③(厳格型)→④(期待型)→⑤(干渉型)→⑥(不安型)の順に「その傾向」が強まることが「望ましい」。 

《解説》
 「子どもをもつ親の心配は絶えることがない」と言われるように、「完璧な親」など存在しない。皆それぞれに「問題」(心配)を抱えている。その中身を明らかにし、少しでも「親子関係」を改善しようとするとき、「親子関係診断テスト」の活用は有効的である。
 まず、その親がどのようなタイプの「問題」を抱えているかを明らかにし、その「対軸」にある方向を目指せばよい。「干渉型」であれば「盲従型」へ、「干渉型」であれば「消極的拒否型」へ、「厳格型」であれば「溺愛型」へ・・・、というように。
 また、親は、子どもの成長・発達にともなって、接し方(かかわり方)を変えていかなければならない、まず、新生児・乳幼児期は、親子の愛着関係・信頼関係を形成するために「溺愛型」が不可欠である。次は、子どもの「自発性」を高めるために、子ども中心の「盲従型」、さらに「身辺自立」を図るためには「消極的拒否型」(放任)、危険防止のためには「積極的拒否型」(強い叱責)、集団のルールを学び「社会自立」を図るためには「厳格型」、というように、子どもの発達段階に応じて、親自身もまた成長していかなければならない。しかし「期待型」「干渉型」「不安型」という傾向は、子どもがどの段階であっても、成長・発達を妨げるおそれがある。事実、「学習や行動に課題をもつ子どもの保護者」には、そのようなタイプが多いのでないだろうか。

3 その他
【いくつかの事例】
・現代の「育児法」では、「哺乳びん」「紙オムツ」「ベビーカー」に代表されるように、《利便性》が優先されている。「便利」「簡単」「手間がかからない」「スマートに」「手際よく」といった親の「負担軽減」が尊重されている。しかも、その《利便性》をいっぺん味わうと、もう元へは戻れない。文明の進歩は「両刃の剣」であることを、私たちは肝銘しなければならない。母乳、布オムツ、おんぶに抱っこ、といった「不便」「不格好」「非能率的」な育て方は敬遠され、省みられなくなってしまった。おんぶ紐(ねんねこ)は姿を消し、「だっこひも」に変わったが、それが欠陥品で、子どもを落としてしまったなどという話もあるようだ。今や、「両手を相手の体に巻き付けて、しっかりと抱き合う」という「だっこ」の方法すら、わからなくなってしまったのか。
・人類の誕生以来、数千年続いてきた「育児法」が変わったのは、多く見積もっても、ここ70年間に過ぎない。その結果が「現状」を招いていることはたしかである。さて、どうすればよいか、その方法は(未熟・浅学非才な)「高齢者」の私にはわからない。 (2015.1.29) 
親業―子どもの考える力をのばす親子関係のつくり方親業―子どもの考える力をのばす親子関係のつくり方
(1998/10)
トマス ゴードン

商品詳細を見る




にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村

講話資料・「発達や行動に課題のある子どもの保護者の理解と対応」・《1》

1 「課題」とは何か
「課題」:発達課題、学習課題 ⇒ 「問題」(解決すべき事柄・見過ごせない状態)

《解説》
 通常、「課題」とは、「今、取り組むべきこと」ということである。「這えば立て立てば歩めの親心」と言われるように、這えるようになった乳児にとっては立つことが課題であり、立つことができるようになれば、次は歩くことが課題である。それを「発達課題」という。また、9までの数理解ができるようになった子どもにとって、次の課題は2位数の表記法、くりあがりの足し算などであろう。それを「学習課題」という。しかし、タイトルにある「発達や行動に課題のある子ども」という時の「課題」とは、「解決すべき事柄・見過ごせない状態」を指していると思われるので、以下、それを「問題」という言葉に置き換えて、考えたい。

【「問題の箱」(ウェンデル・ジョンソン)】
X軸:本人が「平均(値)からどれだけ「ずれて」いるか(「軽度」「重度」)。
Y軸:そのことを、周囲(親、教員など)が、どれくらい困って(心配して)いるか。
Z軸:そのことを、本人が、どれくらい困って(悩んで)いるか。
*以上の3辺で構成される立体図形(箱)の「形」が問題の「質」、「体積」が問題の「大きさ」を表している。  
*Y軸、Z軸の値が0になれば、「問題」は消失する。

《解説》
  アメリカの言語病理学者、ウェンデル・ジョンソンは、「問題」について、上記のような思考モデルを提唱した。「問題」は、本人の側に「固定化」して取り憑いているわけではなく、周囲が「困惑する」「心配する」ことによって生まれる。さらに、そのこと(本人が「平均」からずれていること、周囲の困惑や心配)を、本人自身もまた心配し、悩むことによって、複雑化・深刻化していく。したがって、(本人の)「平均からのずれ」(障害)に注目し、それを治療・軽減・改善しようとすることよりも、周囲の「困惑」「心配」、本人の「悩み」(自信喪失、劣等感、絶望感など)を「軽減・改善」しようとすることの方が、「問題解決」の早道である。
*ウェンデル・ジョンソンは、自身が「吃音」という「問題」を抱えていたが、「吃音は周囲からそのように診断されることによって固定化する」という「診断起因説」を唱えたことで有名である。

 X軸の測定:諸検査(発達検査、知能検査、運動(作業)能力検査など)
Y軸の測定:「田研式・親子関係診断テスト・両親用」(日本文化科学社)など
Z軸の測定:「バウム・テスト」「PFスタディ」など

《解説》
 本人が「どれくらい平均からずれているか」その値を測定するために、さまざまな検査がある。その結果は検査者、方法、場所、時間などに大きく左右されるので、数値だけを「鵜呑み」にしてはいけない。検査は、相手の「可能性」を見出すために行う。そのためには、検査時の様子、誤答の内容(ケアレスミス、時間切れ、誤り方の傾向など)を精査し、「少なくとも数値以下ではない」と判断すべきである。 
 「田研式・親子関係診断テスト」の実施法・活用法は後述する。
 「バウム・テスト」は、「実のなる木を一本、描いていて下さい」という描画テストである。その絵には「現在の心理状態」が投影される。木の幹は「本人自身のあり方」を示し、樹冠は「活動範囲」を表すといわれている。筆圧、絵の大きさ、位置、枝の方向、幹の切り口、などに注目して、本人の「覇気」「意欲」「外傷体験」などを推察する。
 「PFスタディ」は、場面の絵を見て、登場人物の「対話(返答)」(マンガの吹き出し)を想定・想像するテストである。相手から「攻撃」されたとき、どのように応えるか、相手が「謝罪」したとき、どのように応えるか、で本人の「性格」「対人関係」が浮き彫りされる。応答は、①外罰(相手を攻撃する)、②内罰(謝る、自分を責める)、③無罰(誰も攻撃しない、あきらめる)の3種類に分類され、さらに、その反応が、④障害優位(気持ちを直接あらわにする)、⑤自己防禦(自分を守ろうとする・取り繕う)、⑥要求固執(現状のままに終わらせないで、次の手を打とうとする)に「細分化」される。
 相手から攻撃された場合は誤り、相手が謝罪した場合には許すことを「通常」(社会常識度)として、その反応が「通常」からどの程度ずれているか、を推察する。

【事例】
⑴「五体不満足」(乙武洋匡・講談社・1998年)
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%99%E6%AD%A6%E6%B4%8B%E5%8C%A1
⑵「宅間守精神鑑定書」(岡江晃・亜紀書房・2013年)
『殺ったのはおまえだ』(「皆殺しを謀った男の父が語る『わが闘争』ー大阪「池田小」 児童殺傷事件・今枝弘一・「新潮45」2001年12月号)
http://tokubetu565.blog.fc2.com/blog-entry-80.html

《解説》
・乙武洋匡氏の障害(X軸・平均値からのずれ)は、「極めて大きい」と思われるが、母親が(1か月後に)初対面に発した言葉が「まあ、かわいい!」であったという。その瞬間から、乙武氏の「問題」は消失してしまった。Y軸(周囲の困惑・心配)が0になったことで、Z軸(本人の悩み)も0になった、という事例である。
・宅間守死刑囚の母親は、本人が生まれる前から「出産」を拒否していたという。生後も「初乳」を与えず、母子関係は「希薄」であった。つまりX軸が「誕生」する以前に、すでにY軸が甚大な値を示していたことになる。「問題」は、本人のあり方とはかかわりなく、生まれる前から発生していた、という典型的な事例である。
五体不満足五体不満足
(1998/10/16)
乙武 洋匡

商品詳細を見る




にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村

自閉症・《負のスパイラル》

 平成15年、文部科学省は「自閉症とは、3歳位までに現れ、1他人との社会的関係の形成の困難さ、2言葉の発達の遅れ、3興味や関心が狭く特定のものにこだわることを特徴とする行動の障害であり、中枢神経系に何らかの要因による機能不全があると推定される」と定義した。厚生労働省もホームページで、「自閉症の原因はまだ特定されていませんが、多くの遺伝的な要因が複雑に関与して起こる、生まれつきの脳の機能障害が原因と考えられています。胎内環境や周産期のトラブルなども、関係している可能性があります。親の育て方が原因ではありません」と説明している。この《親の育て方が原因ではありません》という一言によって、多くの両親は安堵したことだろう。「わが子の障害は生まれつきだ。自分たちの育て方とは関係ない」と考えただろう。その安堵感からどのような考えが生まれただろうか。「わが子は自閉症(スペクトラム)という特別な障害をもって生まれてきた。だからその障害にあった《特別な育て方(教育)》をする必要がある」、さらに「自分たちの育て方が原因ではないのだから、育て方に問題はない。わが子の教育(療育)は専門家にまかせればよい」と考えるかもしれない。しかし、そこには大きな落とし穴があると、私は思う。「自閉症とは、3歳位までに現れ、1他人との社会的関係の形成の困難さ、2言葉の発達の遅れ、3興味や関心が狭く特定のものにこだわることを特徴とする行動の障害」である。3歳までに現れるこれらの特徴に対応する「場」は家庭であり、「人」は両親および家族である。とりわけ、「他人との社会的関係の形成」、要するに《対人関係の形成》は「親子関係の成立」によって始まる。今、親子関係に支障が生じているとすれば、まず両親は「自分たちの育て方」を見直し、足りなかった部分、誤っていた部分を明らかにする必要がある。もし両親が「自分たちの育て方が原因ではないのだから、育て方は不問にする」と考えたとすれば、《対人関係の形成》は望むべくもないだろう。事実、専門家は以下のような見解を示している。

《社会適応から見た予後は楽観できない。仕事に就いて、自分で独立して生きていかれる状態の転帰をとる者はだいたい20%以下である。わずかな助けでなんとか自立した生活を営める状態の者もまた20%以下である。これに対して、独立した生活ができず、施設に入ったり、人の助けを大幅に借りなければいけなかったりする者は半数から70%に及んでいる(若林、1980;中根1988)・『自閉症治療の到達点』・太田昌孝、永井洋子編著・日本文化科学社・1992年》
 
 しかし、両親は本当にそれでよいのだろうか。納得できるだろうか。「自閉症は生まれつきだ、親の育て方が原因ではない」、だから、療育は専門家に任せればよい。「自閉症は治らない」、だから、そのまま受け入れて社会的自立を図ればよい。しかし、《仕事に就いて、自分で独立して生きていかれる状態の転帰をとる者はだいたい20%以下である》。そんな通説を信じてよいのだろうか。
 両親はまず、わが子が誕生してから現在までの「歩み」、そして、わが子との「かかわり」を振り返るべきである。子どもの誕生は誰にとっても大きな喜びだが、一方、それだけに不安もつきまとう。「無事に育ってくれるだろうか」、そのために両親は様々な手立てを講じるだろう。部屋の温度、湿度、授乳の内容と方法、沐浴の方法、睡眠の姿勢、衛生管理、危険物の除去など等。その時、もし育児の喜びよりも不安の方が先行した場合、どのようなことが起きるだろうか。両親はいつも「大丈夫だろうか」という不安を抱えている。その不安が子どもに伝わり、さらに両親の不安を高める。環境が少しでも変化すると、子どもは不安になり緊張する。固まって「泣こうとしない」。あるいは、「一度泣き出したら、ずっと泣きやまない」。両親はどうしてよいかわからず、困惑する。本来なら喜びであるはずの育児が苦痛に変わる、といった《負のスパイラル》が生じていることははないか。そのはじまりは両親の《不安》だが、さらに《過干渉》、《期待過剰》といった傾向が加わることによって、《負のスパイラル》はいっそう強化されるだろう。両親と子どもは、「今、その渦中に居る」のではないか。
 では、その《負のスパイラル》から脱け出すためにどうすればよいか。そのポイントを列強すると、
①わが子の特徴を「対人関係形成の困難さ」の一点に絞ることである。(「できる、できない」ではなく「(気持ちが通じるか、通じないか、どの程度通じるか」という一点に絞ることである)
②両親は「親子関係」の成立を妨げている原因を探求することである。それを一方的に子どもの側に求めることをやめて、親の側にも「あるかもしれない」と思うことである。
とりわけ、「心配しすぎていないか」「子どもが失敗しないように、手をかけすぎていないか」「先回りして助けることはないか」「他の子どもと比べて、同じように、できるようにしたいと期待しすぎることはないか」「今、親子で楽しむことは何か、それを十分に楽しんでいるか」について、振り返ることである。
③専門家は、子どもの実態(対人関係場面における行動特徴)を的確に把握し、家庭訪問して(家庭の場で)療育・助言を行うことである。専門機関の施設だけで療育を行う限り、「社会適応から見た予後は楽観できない」からである。また「自閉症」に関する知識ではなく、目の前の子ども自身、家族(関係)の情報から「問題」を整理し、今後どうすればよいかについて検討するべきである。
④専門家・両親は、子どもの行動の裏にある「心理状態」を洞察することである。「行動」は結果であり、その「要因」を理解しなければ、問題の解決には至らない。「要因」は「行動」のように顕在化していないので、理解することは容易ではないが、そのことを諦めて「行動の変容」を図るだけでは、般化しない。これまでの実践例で証明されていることである。
⑤自閉症は「スペクトラム」(連続体)であることを理解して、非自閉症との「共通点」を見出すことである。自閉症の「行動特徴」は、誰もが成長過程の中で行ってきたことであり、またこれからも「条件が整えば」行うであろうことばかりである。ではその「条件」とは何か、を明らかにするべきである。「環境からの隔離」「コミュニケーションの断絶」という状態が大きく関与していると思われる。
⑥自閉症児が「できること」をめざすのではなく、他人とかかわる機会を増やし、喜怒哀楽の感情を表すようにすることである。それは、いわゆる「心の理論」の構築であり、「自閉症には不可能である」という通説(俗説)に果敢に挑戦することが肝要である。 
 と、いうことになる。
 
今、多くの両親が「特別な療育」を求めて苦心している。しかし、その内容は意外にも「一般的な、従来の育て方」と大差なく、それを怠っていたか、あるいは先験的な「育児観」に拘泥していたか・・・、そのことに両親が気づいた時、道は大きく開けるのではないだろうか。
(2016.6.10)




にほんブログ村

にほんブログ村



「文字の読み書き」・「数の概念」の《指導ステップ》(知的障害教育)

「文字」の読み書き指導ステップ

①色を見分ける (アカ・アオ・ミドリ・キ・シロ・チャ・ムラサキなど)
②絵を見分ける (動物・道具・食べ物・乗り物など)
③形を見分ける (丸・三角・四角・星形など)
④記号を見分ける(マーク・商標など)
⑤漢字を見分ける(名札・漢字カード)
⑥ひらがなを見分ける(ひらがなカード・五十音表)
⑦漢字と「絵」をマッチングする(木・目・手・口・頭など)
⑧ひらがなと「絵」をマッチングする(き・め・て・くち・あたまなど)
⑨ひらがなと「音」をマッチングする。(ki・me・te・kuti・atamaなど)⑩「音」を「聞いて」、ひらがなカードを「拾う」
⑪「音」を「聞いて」、「復唱する」
⑫ひらがなカードを「見て」、「音読」する
⑬ひらがなカードを「見て」、なぞる(色を塗る、指、筆、サインペン、鉛筆)
⑭ひらがなカードを「見て」、写す
⑮「音」を聞いて、ひらがなを「書く」

数概念の指導ステップ

①同じものを見分けて分類する(りんご・みかん・バナナなど)
②同じ大きさを見分けて分類する(大きいリンゴ・小さいリンゴなど)
③同じ長さを見分けて分類する (長い鉛筆・短い鉛筆など)
④「0・1・2・3」の「量」(数図・タイル)を見分ける。(同じ量のものを集める)
⑤同じ「量」を揃える(手本通りに並べる)
⑥「量」と「数字」をマッチングする(数図カードと数字カードをマッチングする)
⑦「数字」と「数称」をマッチングする・Ⅰ(数称を「聞いて」数字カードを拾う)
⑧「数字」と「数称」をマッチングする・Ⅱ(数字カード「見て」を「読む」)
⑨0から5までの「量」を「見て」、数称を言う(数える)
⑩0から5までの「数字」を「見て」、「量」を揃える(数図カードを拾う)
⑪0から5までの「数称」を「聞いて」、「量」を揃える(数図カードを拾う)
⑫1から5までの「音数」を聞き分ける・Ⅰ(タッピングを模倣する)
⑬1から5までの「音数」を聞き分ける・Ⅱ(数図カードを拾う)
⑭1から5までの「音数」を聞き分ける・Ⅲ(数字カードを拾う)
⑮1から10までの「数称」を「聞いて」、「復唱」する
⑯1から10までの「数称」を「暗唱」する
⑰ 6から10までの「量」を「見て」、「数称」を言う(数える)
⑱6から9までの「数字」を「見て」、「量」を揃える(数図カードを拾う)
⑲6から9までの「数称」を「聞いて」、「量」を揃える(数図カードを拾う)
⑳「10」の「量」と「数称」・「数字」をマッチングする。(2文字で表すことに注意!)
(2012.5.3)
軽度発達障害の心理アセスメント―WISC‐3の上手な利用と事例軽度発達障害の心理アセスメント―WISC‐3の上手な利用と事例
(2005/02)
上野 一彦、 他

商品詳細を見る





にほんブログ村

にほんブログ村

兄弟の死

愛くるしい二人の兄弟は、遂に逝ってしまった。児童相談所の所長は「助けてあげられなくてごめんなさい」と謝ったが、同時代に生きる大人たちのすべてが謝らなければならない、と私は思う。
それにしても、二人の兄弟はどうしてあのように「かわいらしい表情」を見せることができたのだろうか。報道されたあの写真は、いつ、どこで、誰が撮したものだろうか。
当初、私は「二人は絶対に生きている」と確信していた。逆境の中でも、あのような写真を撮る人がいる限り・・・。
また、兄弟が住んでいたアパートのベランダには、真っ白い洗濯物が、見事なまでに整然と吊されていた。その洗濯をしたのは誰だろうか。あのような生活をしている人がいる限り、兄弟が殺されるはずがない。
しかし、現実はそれほど「甘く」はなかった。
兄弟を誘拐し、殺害した容疑者は、「覚醒剤」を常用し、「虐待」(暴行)を繰り返していたという。そのことを周囲の関係者が「知りながら」、救い出すことができなかったのはなぜか。皆、「自分のこと」を第一に考えていたからではないだろうか。
容疑者の贖罪は無論のことだが、覚醒剤の製造・提供を容認している社会、「子ども」を「親の所有物」として「私物化」している社会、「人に迷惑をかけない・かけられたくない」ことが規範とされている「個人」偏重の社会、そのような社会を形成している私たちもまた、(「間接的な容疑者」として)贖罪を免れることはできないのではないか。
兄弟の死は、世界に誇る「長寿国・ニッポン」の「平和・幸福」が、「砂上の楼閣」に過ぎないことを、悲しく物語っているのである。(2004年9月20日)



にほんブログ村

にほんブログ村

両親との対話・4・《童話「ごんぎつね」》

《話題 3》
 以下の文章(某ブログ記事より引用)を読んで、どう思いますか。感想をお寄せ下さい。また、読後の「問題」に回答をお寄せ下さい。

 突然ですが、あなたは『ごんぎつね』の話の真実に気付いていますか?
 ごんぎつねの話は、ずっといたずらをしてきた”キツネのごん”が、兵十(ひょうじゅう)に栗を届けていたら、最後に"ごん"が兵十に撃たれてしまうという話です。
 では、『なぜ、兵十は撃ったの?』『いたずらと勘違いしたから』ほとんどの人はそう答えます。しかし、本質的にはちがいます。そこで止まってしまっているのなら、あなたは自分の子どもをごんと同じように傷つけます。"ごん"が撃たれたのは、撃った兵十(ひょうじゅう)が、『ごんの気持ちを知らない』からです。
 一方で、いたずらばかりしていた"ごん"がなぜ"、兵十"に栗を届けていたのかというと、『兵十の気持ちを知っていたから』です。実は、"ごん"は、一人ぼっちの子狐なんです。
兵十は最初はお母さんと暮らしていたんです。そしてお母さんが死んでしまい初めて『一人ぼっち』になりました。それに"ごん"は、気がつくのです。
 一方、兵十は"ごん"が一人ぼっちとか『なんでいたずらをするのか?』などを考えていません。自分の家に栗が届くのを、『神さまのおかげ』とかたずけたのです。最後に撃ってしまった後では、もう遅いのです。
 
 あなたは本当に自分の子どものことを知ろうとしましたか?(中略)
 あなたの子どもを守ってあげられるのは、『あなた』しかいないのです!どうやって、子どもを守るのか。子どもを守る唯一の方法、それが、『子どもとコミュニケーションとる』ということなのです。子どものすべてを受け止め、子どもと少しでも長く触れ合うこと。子どもをぎゅっと抱きしめながら『どうしたの?』と語りかけたりウルウルした目からほっぺにこぼれる涙をそっと親指でふいて、ニコっと笑ったり、子どもとコミュニケーションすることによって、あなたの愛情は子どもに伝わり、あなたの子どもはそれを理解できるようになるのです。
 でも、・仕事で子どもと触れ合う時間がない。・家庭の事情で子どもを1人にすることが多い。毎日バタバタして、自分の行動で頭の中がいっぱい、いっぱい。心の中では、『ごめんね』と叫んでいても、それに気がつかないふりをしている。今回紹介するコミュニケーションは、そんなあなたにこそ受け取ってほしいのです。子どもは、叱り方やほめ方などを一つ間違えてしまったたら、『いつも1人にするくせに!』『僕より大事なものがあるんでしょ!』と不安や不満、孤独感を強めてしまいます。なので、あなたがどんなに忙しくても、どんな家庭の事情があろうとも、子どもにあなたの愛を100%伝えるために、・子どもの心理・やってはいけない叱り方・やってはいけないホメ方を知ることで、子どもの本当の気持ちを受け止めてあげられるようになる。そんなプランを用意しました。
>>>>>1日5分!子どもを守るハッピープランコミュニケーション(以下略)

《問題》
・筆者は「あなたがどんなに忙しくても、どんな家庭の事情があろうとも、子どもにあなたの愛を100%伝えるために、・子どもの心理・やってはいけない叱り方・やってはいけないホメ方を知ることで、子どもの本当の気持ちを受け止めてあげられるようになる。そんなプランを用意しました。」と述べています。
・あなたなら、どのようなプランを用意しますか?


《参考》『ごんぎつね』(あらすじ)

 中山の近くの山中に「ごんぎつね」という狐がいた。ごんはひとりぼっちだったが、畑を掘り散らかしたり、つるしてあるとうがらしをむしりとったりと、たいそういたずら好きな狐だった。ある日、ごんは川で網をはって魚をとっている兵十を見かけ、こっそり魚籠に入れてある魚を逃がしはじめる。最後にうなぎを逃がそうとした所で兵十に見つかり、首にまきつけたまま逃げ出した。
 十日ほどたって、兵十の母親が死んだ事を知ったごんは、一人ぼっちになってしまった兵十に自分と同じ憐れみを持つと同時に、兵十の母親はきっと最後にうなぎを食べたかったに違いないとと思い、自分のしたいたずらを後悔する。その後ごんは山の中でとれた栗やキノコをこっそり兵十の家に届け始めた。兵十は誰がくれたのかむろん分からない。
いつも届けられる栗やキノコは神様がくれたと思いはじめた兵十にごんは少し不満を感じたりもしたが、ごんはいつものように栗を届けに行った。しかし、ごんがこっそり入ってきた事に気付いた兵十に火縄銃で撃たれてしまう。ごんを撃って近づいた兵十は土間に置かれた栗に気付きびっくりする。
 「ごん、お前だったのか。いつも栗をくれたのは」
 ごんは、ぐったりと目をつぶったまま、うなずいた。兵十は火縄銃をばたりととり落した。青い煙が、まだ筒口から細く出ていた。
(2015.6.9)



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村


両親との対話・3・《親子関係》

《話題・2》は、「田研式 親子関係診断テスト」(日本文化科学社)・第一部の質問項目を抜粋・列挙したものです。このテストは、親子関係を「支配・服従」の《力関係》(親、子どちらの力が強いか)、「保護・拒否」の《心情関係》(親の接し方は温かいか、冷たいか)という観点から、その組み合わせによって8つの型に分類しようとするものです。親の力が強く温かい「期待型」、やや冷たい「厳格型」、親の力が弱くやや冷たい「盲従型」、やや温かい「溺愛型」、親の力はやや強く冷たい「積極的拒否型」(体罰)、温かい「干渉型」、親の力はやや弱く冷たい「消極的拒否型」(放任)、温かい「不安型」。加えて、親のかかわり方が、一貫していない「矛盾型」、両親のかかわり方が一致していない「不一致型」という型があります。

 では、皆さんの場合、どの型に分類されるでしょうか。それは《話題・2》で示した20項目でチェックすると、ある程度わかります。  
 項目の①②は「消極的拒否型」、③④は「積極的拒否型、⑤⑥は「厳格型」、⑦⑧は「期待型」、⑨⑩は「干渉型」、⑪⑫は「不安型」、⑬⑭は「溺愛型」、⑮⑯は「盲従型」、⑰⑱は「矛盾型」、⑲⑳は「不一致型」の傾向をあらわしています。
 皆さんの場合、わが子との関係がどの型に分類されるか、試してみてください。

 さて、お子さんとの関係がどのような型に分類されたとしても、心配はありません。どの親も、皆、そのような傾向をもっているのが「あたりまえ」だからです。望ましい親子関係は、まず「溺愛型」から始まります。親は乳児を「舐めるように」可愛がります。そのことによって親子の「愛着」関係が育ちます。おなかが空いた、オムツが汚れたといって乳児が泣けば、親は無条件に応じます。そのかかわり方は「盲従型」です。そのことによって、子どもの「自発性」(情報発信の意欲)が高まります。また、そして1歳頃までは、子どもの行動を見守り、自由に活動させる「消極的拒否型」(放任)に徹します。子どもは「試行錯誤」を繰り返し、「できた」という達成感を味わいます。そのことによって、自分のことは自分でやろうとする「自立心」が芽生えます。やがて、子どもは自由に動きまわり、目が離せない段階がやってきます。1歳半を過ぎると親のかかわり方は「積極的拒否型」に転じます。子どもは「危険」を知りません。親は「制止」「禁止」「叱責」によってブレーキをかけます。場合によっては「体罰」を加えるかもしれません。そのことによって、子どもは「生活」のルール(規範)を学びます。「待つ」「我慢する」自制心が芽生えます。さらに子どもは3歳、親を離れて「友だち」とのかかわりを求めるようになります。子どもの生活も「家庭」から、「近所」「公園」「遊園地」などへと拡大し、他人とのかかわりを通して「社会」のルールを学びます。子どもは幼児期を経て学童期へ、「学校」は、「厳格型」で子どもにかかわり、「集団」のルール、善悪の判断、友だちと協力することの大切さなどを教えることになるでしょう。そのことによって、子どもの「自立心」がしっかりと育ちます。

以上が、望ましい「親子関係」のモデルですが、そのとおりに物事が進むわけではありません。目の前の子どもの姿により、親は「期待型」になったり「干渉型」になったり、「不安型」になったり、を繰り返します。時には「矛盾型」「不一致型」で自分を責めることもあるでしょう。とりわけ「子育てに悩まぬ親はなし」、親子共々いくつになっても、子どもに対する「心配」(不安型)が消え去ることはないでしょう。過日の「茶話座談会」に参加したお母さんは、「親の自己訓練が大切」だと話されました。子どもを変えようとするのではなく、まず「親が変わろうとする」こと、知らず知らずに「干渉型」になっている自分を見つめ直し自己訓練した結果、子どもが「安定してきた」というお話は、今後の「親子関係」を考えるうえで、多くの示唆・教訓を含んでいると思います。ありがとうございました。
(2015.7.9)



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村


両親との対話・2・《現代の育児法》

 《話題・1》は、20世紀の初めにアメリカの著名な心理学者・ワトソン博士が提唱した育児法です。その内容は、①乳幼児を「猫可愛がり」すると、健全なエゴの形成を歪め、将来、他人と互角に競争できない人間を作る。②子どもを、大人と同等に扱わなければならない。③子どもを抱きかかえたり、キスしたり、ひざに乗せてあやしたりしないこと。④懇切な言葉で説明し、あたたかい微笑で愛情を伝えられるように、母親は自己訓練しなければならない。⑤「一日中放っておく」くらいが、子どものためになる。⑥赤ちゃん言葉やあやし言葉は絶対につかわないこと・・、に要約されます。

 この育児法をイギリスの動物行動学者デズモンド・モリスは、以下のように批判しています。(『ふれあい 愛のコミュニケーション』(石川弘義訳・平凡社・1974年)より引用)
 ①ワトソン式のアプローチは、「人間にはもともと本能などないのだ。幼児期に獲得したものがすべて年齢を経て、表面に出てくるのである。人間の本性の中に眠っているかくれた能力などというものはあり得ないのだ」という行動主義の思想がその根本にある。鍛錬された大人になるためには、まず幼児の時から訓練することが、最も重要になる。訓練の開始が遅くなればなるだけ「悪い習慣」が形成されてしまう。これは、まったくの誤謬といわねばならぬ。
 ②人間の本性に反したこのやり方は、幼児に深いきずを与えてしまう。幼児が本能的に求める両親(特に母親)とのボディタッチによる親密性がたえず阻止あるいは禁止される結果、泣き声に表現される子どもの悲哀と絶望は、深いきずを作ってしまう。
 ③このようにして育った人間には、大きな欠点がついてまわる。他人への不信感がぬきがたく彼の性格に一部にあるということだ。つまり愛し、愛されるということへの強い衝動が、このように原初的な段階で阻止されていらい、愛するというメカニズムがいつまでも破壊されっぱなしの状態なのである。
 ④だが、このような人間も、世間の慣習通り、一人の男(女)として、配偶者を得、子どもを得ることだろう。そうしてこのサイクルがつづくと、血の通った両親の情愛というものが。地上から消えてしまうことになる。
 
 皆さんなら、ワトソン博士、モリス博士、どちらの「見解」を採用しますか?もう「幼児教育」の段階は終わっているので「答えようがない」というのが実感でしょう。
 しかし、「三つ子の魂百まで」という諺があるように、お子さんの「現在」は、「二歳児までの育ち方、育てられ方」を《原点》にしている、と私は思います。私たちの「現在」は、「過去」からの継続・積み重ねの上に成り立っているのです。映画でもドラマでも「途中」から観たのでは「よくわかりません」。お子さんの「問題」にどう対処すればよいかを考える時、その問題は「いつ」「どのような場面で」発生したか、「なぜ」発生したか、を明らかにすることが先決だと思います。なかでも「なぜ」という観点は大切です、それは問題の「要因」であり、その「要因」を軽減・除去すれば、問題は解決されるからです。
 しかし、「なぜ」という問題に答えるのは容易ではありません。そこで、とりあえず「どうすればよいか」、いわゆる「ハウツー」的な方法を模索するのが現状ではないでしょうか。
 
私の考えでは、ワトソン博士の育児法を「0歳~2歳」児に採用することは危険です。20世紀の中・後期には同じくアメリカのスポック博士が「育児書」の中で、「乳児に早くから自立心を養うために、抱き癖をつけてはならない。子どもが泣いても空腹時、不快時以外は無視・放置すべきである」というような提唱をしていました。その育児書は日本でもベストセラーになり、多くの親たちがかなりの影響を受けたと思われます。今では、哺乳びん、紙オムツ、ベビーカーは育児の必須アイテムとなり、日本の育児法が「欧米化」の一途を辿っていることは間違いありません。「文明の進歩」によって、育児の負担は軽減し、親の生活は安定してきたようにに見えますが、肝腎な「親子関係」の問題は増大しているように感じます。最近では「愛着障害」という言葉も生まれ、親子の絆が薄れつつある現状が指摘されています。私自身が「父子家庭」で育ったためでしょうか、また、私の孫が「自閉症」と診断されたためでしょうか、現代の「育児法」(の欠陥部分)が気になっています。
(2015.7.9)



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村


両親との対話・1・《育児法と親子関係》

《話題・1》
 以下の文章を読んでどのように思われますか。同意する部分に○印、同意できない部分に×印をつけて下さい。

〈無知な母親がいる。彼女たちはいつも子どもにキスを浴びせ、抱きかかえ、揺すり、体をなで、くすぐっているけれども、そういう猫可愛がりは、子どもの健全なエゴの形成を歪めるものなのだ。社会に出て、他人と互角に競争できないような人間を作っているのである。しかもこのことを彼女たちは知らない・・・。賢明な幼児教育はかくあるべきだ。子どもを、大人と同等に扱うこと。・・・絶対に、子どもを抱きかかえたり、キスしたりしないこと。ひざののせてあやさないこと。どうしてもキスしたいなら、「おやすみなさい」のとき額に1回だけにすること。・・・すべての猫可愛がりはやめて、懇切な言葉で説明してあげる、あたたかい微笑で愛情を伝えてあげるなどのように、母親が自己訓練しなければならないのだ。子守が雇えなければ、裏庭に外部からの危険な侵入が防げるだけの柵を設け、その中に一日中放っておくくらいがかえって子どものためになる。できるだけ早く、このような育て方をはじめなさい。・・・そんな放任育児はとても心配で、と思う母親は、のぞき穴かかくし戸を使って、子どもの目に自分の姿が見えないような工夫をすること。そうして最後に、赤ちゃん言葉やあやし言葉は絶対につかわないこと〉。

《話題・2》
お子様との「親子関係」に注目したとき、該当する項目がありましたら○印を付けて下さい。

① 子どもの欠点ばかりが目についたり、気になったりしますか。
② 子どもは信用できないと思いますか。
③ 気にくわないことがあると、子どもにあたりちらしますか。
④ 子どもに口やかましく小言を言いますか。
⑤ 物事を決める時、子どもと話し合わずに決めますか。
⑥ 子どもの行動や成績をよく批判しますか。
⑦ 子どもを他家の子どもと比較して気にしていますか。
⑧ 子どもはもっとやればできるのに、努力していないように思いますか。
⑨ 子どもが一人でできることでも、指図したり手伝ったりしますか。
⑩ 「早く寝なさい」など時間のことをやかましく催促しますか。
⑪ 子どもが悪い遊びをしたり、悪い仲間に入ったりするのではないかと気にかかりますか。
⑫ 親としてもっと子どもにしてやるべきことがあるように思われて心配ですか。
⑬ 子どもを叱れないでほめてばかりいますか。
⑭ 子どもが家にいないと淋しかったり物足りない思いをしますか。
⑮ 子どもが欲しがる物は無理をしても買ってやりますか。
⑯ なにごとも子ども本位にだけ考えますか。
⑰ 子どもは同じことをしているのに、ある時は叱り、ある時はみのがしたりしますか。⑱ あなたは来客時とか、外出先とか、人前とかでは態度を変えがちですか。
⑲ 子どもの教育やしつけについて両親の方法や意見がどうしても合わないと感じますか。
⑳ 子どものことに関しては片親だけが責任を取り、他方はまかせきりですか。
(2015.5.7)



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村



「禁断の実は満月に輝く」というドラマの《核心》

 「禁断の実は満月に輝く」(NHK・Eチャンネル)というテレビドラマを観た。そのあらすじは以下の通りである。(ネットサイト「まんたんウェブ」より引用)
 ◆「ダウン症のイケメン」を自負する主人公・光司(略)はある日、自分の障害が原因で大好きな兄の結婚が中止になったと知り、ショックを受ける。そこで障害を治そうと、統合失調症の真(略)と食べると障害が治る代わりに記憶を失うという「禁断の実」を求めて旅に出る。その実がなるという村にたどり着いた二人は、実が熟するまでの3日間を過ごす宿泊先の民宿で四肢欠損の娘・真由子(略)を見つける。真由子は、父である民宿の主人・那須(略)が、障害を隠すために外出を禁じられていた。真由子に一目ぼれした光司は外へと誘い出す。一方、親から「こんなこともできないのか」と言われ続けてきたことがトラウマとなっていた真は、那須の母で、認知症の駒子の手伝いをして感謝されたことから、自信をつけていく。そして「禁断の実」が熟すという3日目の夜がやってくる……というストーリー。
 このドラマには、①「ダウン症」、②「統合失調症」、③「身体障害(四肢欠損)」④「認知症」と呼ばれる人物が登場する。①②③はいずれも、そう呼ばれる当事者が演じるという趣向で、文字通り「迫真のドラマ」に仕上がっていた、と私は思う。脚本を書いた桑原亮子も「聴覚障害」、〈障害をもってから、人と関わることが少し苦手になりました。相手に迷惑がられるのではないか、同情の目で見られるのではないか、そう思うと、新しく人と出会うのが怖くなるのです。ですが、人は互いに触れ合ったりぶつかったりしながら、少しずつ強くなっていくものだと思います。そのためには、いつまでも居心地のいい場所にいるわけにはいかない。そんな巣立ちを、このドラマで描いたつもりです。〉(NHK・オンラインより引用)というメッセージを寄せている。
 このドラマの眼目は、「親子関係のあり方」とされているが、私自身はタイトルにある「禁断の実」(のあり方)の方に、興味をそそられた。「禁断の実」とは、「食べると障害が治る代わりに記憶を失う」という効能をもっている。ダウン症の幸司は、兄の結婚が成就するために自分の障害を治したい。しかし、それを食べれば記憶を失い「自分は自分でなくなる」とう副作用を伴うのだ。それは過去の清算であり、これまでの自分自身を「全否定」、つまり「死」を意味する。つまり、「兄のために自分は死んでもよい」と幸司は思っている。本当にそれでいいのか、友人の真は心配するが、そんな折も折り、幸司の前に美しいマドンナ・真由子(の顔)が現れた。幸司は、たちまち「一目惚れ」、イケメンの面目躍如で積極的にアタックする。やがて真由子は(四肢欠損の)全貌を露わにしたが、幸司は「動じることなく」彼女をデートに誘い出す。その強靱な、温かい「感性」こそがこのドラマの核心である、と私は思った。やがて、「禁断の実」が輝く満月の夜がやってきた。幸司と真はその実を採りに山に入るが、見つからない。さもありなん、その実はすでに民宿の主人、真由子の父がゲットしていたのだから。幸司と真が民宿に戻ると、「イヤだ、イヤだヨー」という真由子の叫び声が聞こえる。見れば、「禁断の実」を食べさせようとする父、きっぱりと拒否する娘の「修羅場」であった。幸司、たまらず駆け込んで、父からその実を奪い取ると、庭の暗闇に向かって放り棄てた。この瞬間、すべては終わり、新しい「すべて」が始まったのである。「今のままでいい」「今のままがいい」と泣きじゃくる真由子の姿には、これまでの俗情を払拭する、清々しいオーラ(仏性)が漂っているように、私は感じた。 
 民宿の主人・真由子の父親役を演じた神戸浩の演技も輝いていた。「障害児」と呼ばれる愛娘を慈しむがゆえに、「治したい」「治ってくれ」と、逸る気持ちを抑えられない。わが子に「障害」を負わせてしまった苦渋と悔恨、それが真由子の言霊によって浄化される有様は、アップになった号泣の映像の中に、見事に結実化していた、と私は思う。彼自身もまた、ポリオ罹患者と聞く。その独特の口跡が、たいそう魅力的であった。
 このドラマの舞台は、バリバラ(バリアフリー・バラエティー)劇場、スタッフ、キャストの一同が、「禁断の実」の誘惑を「投げ捨てて」、「障害」という俗情と果敢に闘う姿は、多くの俗流番組を凌駕している。敬意を表し、今後ますますの発展をお祈りする。(2015.12.6)



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村

道徳「教科化」・学習指導要領改訂案の《誤り》

 文部科学省は、「道徳」の学習内容に、「節度、節制」「親切、思いやり」「国や郷土を愛する態度」「生命の尊さ」といった徳目(キーワード)を加え、《教科化》するという「学習指導要領改定案」を公表した。しかし、それは、「教科別の指導」と「領域の指導」を混同しているという点で、《完全な誤り》である。「教科別の指導」は、「知識や技能」を、一定のコマ(学習日課表・時間割)の中で、「座学」(机上学習中心)として展開する。一方、「領域の指導」は、学校生活全体の中で、実生活・活動を通して、ダイナミックに展開する。たとえば、「学校教育法第18条」では、小学校の目標について、以下のように規定されている。
一  学校内外の社会生活の経験に基き、人間相互の関係について、正しい理解と協同、自主及び自律の精神を養うこと。
二  郷土及び国家の現状と伝統について、正しい理解に導き、進んで国際協調の精神を養うこと。
三  日常生活に必要な衣、食、住、産業等について、基礎的な理解と技能を養うこと。
四  日常生活に必要な国語を、正しく理解し、使用する能力を養うこと。
五  日常生活に必要な数量的な関係を、正しく理解し、処理する能力を養うこと。
六  日常生活における自然現象を科学的に観察し、処理する能力を養うこと。
七  健康、安全で幸福な生活のために必要な習慣を養い、心身の調和的発達を図ること。
八  生活を明るく豊かにする音楽、美術、文芸等について、基礎的な理解と技能を養うこと。
 これらの目標は、①「~精神を養うこと」、②「~理解と技能を養うこと」、③「~能力を養うこと」に大別されるが、その目標を達成するためには、それぞれの方法(指導形態)を工夫しなければならない。①のために「領域の指導」、②③のために「教科別の指導」という形態をとることは、「教育課程」の《常識》である。言うまでもなく、「道徳」は、上記目標の一、二を達成するために設けられた「領域」であり、「教科《化》」することはできない。「領域」には他に、「特別活動」があり、そこでは、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」(教育基本法第一条)という教育の目的を目指した「活動」が展開される。いわば「特別活動」で、《行動能力》を養い、「道徳」で《精神》を育てる、といった「表裏一体」の関係が存在する。従来の「学習指導要領」では、「特別活動」の(ダイナミックな)《活動》を通して、「道徳」(心)を育てることが企図されている。子どもたちは「特別活動」での様々な(集団的)「活動」を通して、友だちとの対立、葛藤を「経験」し、それを「道徳」で省みることによって、相手の立場を理解したり、協力し合おうとする「気持ち」(精神)を、(みずから)育てていくようになることを目指しているのである。
 今回の改訂案では、そうした(学校生活全体の中で行う)「領域の指導」、「道徳」と「特別活動」の関係を《無視》して、「道徳」だけを切り離し、(「道徳科」を)〈最上位の教科として学校教育の中核〉(「東京新聞・「社説」・2015年2月6日)に位置づけようとしている。それは《完全な誤り》である。(2015.2.6)
小学校学習指導要領 第4版―平成20年3月告示小学校学習指導要領 第4版―平成20年3月告示
(2009/08/21)
文部科学省

商品詳細を見る




にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村

道徳「教科化」の《問題点》

 東京新聞朝刊(1面)に、「難しい心の評価 道徳教科化 指導要領改定案」という見出しのトップ記事が載っている。その内容を要約すると、以下の通りである。
①文部科学省は4日、現在は小中学校の教科外活動の道徳を、正式な教科とする学習指導要領の改定案を公表した。
②文科省は「教材を読むだけの読み物道徳から、考え、議論する道徳への転換を目指す」と説明している。
③改定案は「数値などによる評価は行わない」とし、一般教科と区別して「特別の教科」と位置づけた。担任教諭が原則、授業を行い、現行の週1回程度の年間35コマ(小1は34コマ)を維持する。
④各学年の学習内容は、新たに設けた「節度、節制」「親切、思いやり」「国や郷土を愛する態度」「生命の尊さ」などのキーワードごとに列挙した。(以下略)
 今、その学習内容の中から新たに設けたものを「小3・4年」を例にして挙げると、以下の通りである。
①自分でできることは自分でやり、安全に気を付け、よっく考えて行動し、節度のある行動をすること(「節度、節制」)。
②相手のことを思いやり、進んで親切にすること(「親切、思いやり」)。
③わが国や郷土の伝統と文化を大切にし、国や郷土を愛する心をもつこと(「国や郷土を愛する心」)。
④生命の尊さを知り、生命あるものを大切にすること(「生命の尊さ」)。
 その他にも、以下のような内容が示されている。
⑤働くことの大切さを知り、進んでみんなのために働くこと(「勤労、公共の精神」)
⑥友達と互いに理解し、信頼し、助け合うこと。(「友情、信頼」)
⑦自分の考えや意見を相手に伝えるとともに、相手のことを理解し、自分と異なる意見も大切にすること。(「相互理解、寛容」)
⑧他国の人々や文化に親しみ、関心をもつこと{「国際理解、国際親善」)
⑨約束や社会のきまりの意義を理解し、それらを守ること。(「規律の尊重」)
⑩美しいものや気高いものに感動する心をもつこと(「感動、畏敬の念」)
 この「学習内容」は合計で20項目示されているが、③⑩の「~心をもつこと」のように「情操」に関するものと、①⑤⑥の「~行動をすること」「~働くこと」「助け合うこと」のように「行動」に関するものが、《混在》している。
 従来は、「特別活動」では「望ましい行動能力」を養い、「道徳」では「豊かな情操」を育てるという区分があったが、その点が極めて曖昧である。また、それらは、いずれも「領域」(の指導)として位置づけられ、「時間を設けて」指導するだけでなく、学校生活全体を通して指導するものとされていた。「行動能力」も「情操」も、「教える」ことはできないからである。一例を挙げれば、教科の学習中に、友達が鉛筆を落としてしまった。「気の毒に」思い(道徳)、拾ってあげる(特別活動)ことができるような子どもを育てることが、「領域」の指導なのである。学校教育は、教科の指導を行いながら、《同時に》「道徳」「特別活動」といった領域の指導も行わなければならないのである。今回の「改定案」には、そうした教育課程の「構造」を無視して、とにかく「教えなければならない」「教えればできるはずだ」といった焦りが感じられる。
 現代の子どもたちが「友達と互いに理解し、信頼し、助け合う」ようになることを望むなら、まず、すべての「教科」の指導において、「数値などによる評価は行わない」ようにすることが《先決》である。以下は、私が2年前に綴った「駄文」である。(2015.2.5)

《学校教育の「誤り」》
  学校教育の「誤り」は、以下の2点に集約される。①児童・生徒の成績を評定すること、②卒業を認定し、いわゆる「学歴」を授与すること。①によって、児童・生徒は、当然のことながら、「優秀」「普通」「劣等」に分類され、それが「社会の評価」にまで敷衍される。「優秀」に分類された児童・生徒は、自尊心が満たされ、得意満面の様相だが、つねに「普通に落ちたくない」というストレスに苛まれる。「普通」の場合も同様に、「優秀」になれない苛立ちと、(油断すると)「劣等に落ちる」不安がつきまとう、さらに「劣等」は、最悪。「自分は最低だ」という自責、「どうしようもない」という絶望、「どうにでもなれ」という投げやり、さらには「優秀」「普通」に対する嫉妬、怨恨までが生じる、といった案配で、どこに分類されようが、児童・生徒の「情緒は安定しない」。本来、児童・生徒に「能力差」があることは自明であり、「できない」ことを責められるいわれはない。どんなに努力・精進を重ねたところで、「できない」ことは「できない」のである。学校はその「能力差」を認めずに、児童・生徒の成績を「一律」に評定する。成績を評定することによって(「ストレス」を加えることによって)、児童・生徒の「学習意欲」が高まると信じている。しかし、それは「誤り」である。「学習」は、「安定」「安心」に基づいた「好奇心」によって、はじめて「成り立つ」ものなのだ。にもかかわらず、学校がその「誤り」(成績を評定すること)に拘るのはなぜか。それは、学校が、一般(経済)社会からの「要請」に応えるためである。社会で役立つ人材を「選別」するためである。児童・生徒は6歳で「義務教育書学校」(小学校又は特別支援学校)に入学する(させられる)と同時に、将来、社会の役に立つか立たないか、という観点で「選別」され、その「結果」を保護者に「通知」される。「劣等」に分類された児童・生徒は、「努力が足りない」と決めつけられる。しかし、「劣等」は、どんなに努力しても「優秀」になることはない。なぜなら、入学前の調査(就学時健診)によって、児童・生徒はすでに「優秀」「普通」「劣等」に選別されており、その資料に基づいて「学級編制」が行われるからである。例えば、「優秀」は7%、「普通」は86%、「劣等」は7%、といった具合に配分される。したがって。児童・生徒の「成績」は、学習が始まる以前から
(本人の努力とは関わりなく)決まっているのである。そうした、「からくり」のもとで、性懲りも無く、児童。生徒の成績を評定している。それが、学校教育の(最大の)「誤り」である。さらにまた、②によって、「優秀」「普通」「劣等」の烙印は、駄目を押され、「固定化」する。「中卒」よりは「高卒」、「中退」よりは「卒業」、「高卒」よりは「大卒」の方が「優秀」である、といった(いわれのない)「社会的評価」が、児童・生徒、さらにはその保護者にまでものしかかる。「学歴」が、その人物のステータスとなる。しかし、本来の勉学に「卒業」(終わり)はない。まして、義務教育は、その年齢に達すれば、おしなべて「卒業」が認定され「証書」が(履修の有無にかかわらず)授与されるのが現実である。だとすれば、そのことに、どれだけの意味があるのだろうか。「高卒」「大卒」にしても、学習課目を「本当」に履修したかどうかは、疑わしいではないか。いずれにせよ、学校は児童・生徒に「学歴」(卒業証書)を授与することによって、その人物の「社会的評価」(処遇)に荷担していることは、間違いない。そのこともまた、本来の教育とは無縁であり、学校教育の「誤り」である。「成績をつけない学校」「卒業のない学校」、それこそが「あるべき学校」の姿なのである。(2013.1.14)
道徳教育 2015年 02月号道徳教育 2015年 02月号
(2015/01/13)
不明

商品詳細を見る




にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村

コウちゃんの「知的障害は重い」か?

 東京新聞5月27日付け朝刊(19面)に「コウちゃんのクラス」という記事が載っている。「コウちゃんのクラスは、肢体不自由の特別支援学級の七組。在籍児童はコウちゃん一人で。2010年の入学に合わせて新設された。以来深谷教諭が中心となり、コウちゃんの力を伸ばす指導に取り組んできた」とあり、6年間の交流学習、合同学習を通してコウちゃんが、着実に成長した様子が詳しく紹介されていた。中でも、コウちゃんとの交流により他の児童も「共に成長する効果を実感したという深谷教諭の言葉は、今後の特別支援教育のあり方を示唆していると思う。ただ一点、コウちゃんについて「脳性まひで、全身が不自由。生活全般に介助が必要で、知的障害も重く、コミュニケーションも難しい」という記述には肯けなかった。コウちゃんは、アニメ映画の挿入歌が流れだすと笑顔になる。ゆっくり話しかけると、視線が合い、笑うことができる。「アー、アー、アー」と声の高さを変えながら、あいさつができる。そうした事実は、コウちゃんの「理解力」が正常であることの証しではないだろうか。コウちゃんの学習能力は脳性まひという症状によって著しく制限されているかもしれない。しかし「表現手段」が乏しいというだけで「知的障害も重く、コミュニケーンも難しい」と断定してよいか。素晴らしい教育実践なだけに、その一点が気になった。(2015.5.27)



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村


「ギフティッド・チャイルド 『自閉症』児からの贈りもの」(門野晴子・十月舎・2009年)

 今ようやく、「やっとの思い」で『ギフティッド・チャイルド 「自閉症」児からの贈りもの』(門野晴子著・十月舎・2009年)という本を読み終えた。本書は、2005年に刊行した『星の国から孫ふたり』(岩波書店)の続編である。著者は「はしがき」で、〈前作は6歳と2歳半までだった異星人を、本書では10歳と6歳までのもっともめまぐるしい時期の成長変化を記したいと思う〉と述べているが、その(肝腎な)「成長変化」が、今ひとつ私には伝わってこなかった。著者は、〈本書は、そのときどきのドラマをテーマ別に集めてまとめるようにしたので、時間的な行き来があることをお許しいただきたい〉(「はしがき」)と弁明しているが、その「ドラマ」は、あくまで著者自身の(主観的)「作・演出」に過ぎず、そのことが、かえって「孫ふたり」の成長変化を「ぼやけさせてしまった」、と私は思う。たとえば「エリックの初恋」、7歳になった〈エリックはマリアと出会ったとたん、フォール・イン・ラブになったようだ。授業時間を含めてほとんどを、ふたりは肩を組み、頬を寄せてニコニコしているという〉と記されている。もし、それが事実(多分、事実に違いない)なら、「自閉症」児の療育にとって《革命的》な成果なのである。読者(私をはじめ「自閉症」児の親たち)が最も知りたいことは、その成果が、どのようなアプローチによってもたらされたか、という一点なのに、「時間的な行き来」があるために判然としない。著者の肩書きは「ノンフィクション作家」、だとすれば「事実」は「事実」、「想念」は「想念」とはっきり「区別」して記すことが鉄則だと思われるが、本書の叙述は、すべてに亘って「曖昧模糊」としている。その「想念」が如実にあらわれているのは「褒めまくり」の一節、エリックは「毎年のように普通学級を勧められる」が、〈こう言われると喜ぶ親もいるけれど、私たち家族は子どもに合った環境・療育方法を考えると、スペシャル・エデュケーションで学ぶ権利を手放してなるものか、という考えだ。このババがもっとミもフタもない言いかたをすれば、ふつうや人並みになんかしたくない。せっかくスペシャルないのちに生まれてきたんだから、スペシャル・エデュケーションで心地よく育ってほしい。ある意味で、“ふつう”ほどしんどいものはない〉という文章であろう。その「想念」はよくわかる。では、それを具現化するための「スペシャル・エデュケーション」に関する「事実」とは、どのようなものか。家族は「事実」として、その「スペシャル・エデュケーション」に、どのように協力(または依存)したか、が判然としない。前作の「感想」でも述べたが、著者は「自閉症」に関する《通説》(脳機能障害説)を《そのまま》受け入れ、「自閉症は治らない」ことを前提としている。しかし、著者自身が「少し長いあとがき」で触れているように〈03年にオーティズムに関するアメリカの大掛かりな10年計画が発表された〉〈代表的な政策は、オーティズムの遺伝的・環境的要因の研究に対する資金援助、障がいに苦しむ子どもたちに対してのより充実したサービスの提供、またそのための専門家の養成などである〉という現状を踏まえれば、オーティズムの“環境的”要因の研究もまた不可欠ということであり、著者の「孫ふたり」が「地球人」に変身する「可能性」は十分にあるのである。
 事実、アメリカ・バークレーの「スペシャル・エデュケーション」は日本とは比べものにならないほど、きめ細やかに行き届いており、その結果「孫ふたり」は着実に成長・発達しているように思われる。その「事実」が、著者の「想念」(ドラマ作り)によって霞んでしまうことが残念でならない。そのことには著者自身も気づいているようで、「少し長いあとがき」には、以下のような記述があった。〈ここ数年、毎11月に早稲田大学人間学部で、私のビデオ持参で「星の国からやって来た孫たち」について講演している。(中略)うれしいことに毎年、(受講者)全員が感想文を細かい字でぎっしり書いてくれる。そのいずれもが好意的な驚きや感動にあふれていて、婆あごころを幸せ色に染め上げてくれるなかに、ただひとり女子学生が「孫の自慢話をしているみたい」と付け加えた文があった。彼女の本質を突いた鋭い視点はもちろん、好意的な感想文すべても思いやりの敬老精神ではないかと、若者のセンスにうなるのは素直でないかもしれない。が、「孫自慢」からオーティズムの啓発へと、これから社会で活躍する若者に話せる場に恵まれたことは素直に感謝したい。〉なるほど、女子学生の感想は「講演」の本質を突いている。では、蛇足ながら、私の感想もひとつ、著者は「自閉症」という日本語(訳)は「不適切」だと指摘し、「オーティズム」という言語を「そのまま」使うことを提唱している。それに、私自身も全く同感・同意するが、本書のタイトルに「『自閉症』児からの贈りもの」と付記するようでは、「オーティズの啓発」への道は「遠いみたい」・・・。(2015.2.13)
ギフティッド・チャイルド―「自閉症」児からの贈りものギフティッド・チャイルド―「自閉症」児からの贈りもの
(2009/02)
門野 晴子、秋元 良平 他

商品詳細を見る
 



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村



『星の国から孫ふたり バークレーで育つ「自閉症」児』(門野晴子・岩波書店・2005年) 

『星の国から孫ふたり バークレーで育つ「自閉症」児』(門野晴子・岩波書店・2005年)という本を「ようやく」読み終えた。表紙の裏には〈北カリフォルニアで育ついとしい孫たちは、他人とのやりとりを苦手とする「自閉症」児。だが、この異星人のような幼な子が、公立幼稚園で熱意あふれるスタッフとのふれあいの下、遊び、話し、歌い、絵を描き・・・。その着実な成長を通して、知的障害児を支える福祉と教育のあり方を問いかける。ユーモアあふれ、示唆と希望に満ちた感動的な記録。〉という一文が記されている。著者は、学校教育と子どもの問題、老人介護・老人福祉の問題を執筆するノンフィクション作家ということで、なるほど「文体」は魅力的でユーモアあふれていたが、その「文意」となると、「わかったようでわからない」。私の読後感は「示唆と希望に満ちた感動を味わう」前に「疲れた」というのが本音である。というのも、著者は、序章で『ニューヨーカー誌』から、〈オーティズムに対する考えかたをめぐる米医学界の変遷の部分を抜粋〉紹介しているが、要するに精神分析医・バーナード・リムランドが「オーティズムは悪い子育てが原因ではなく、強い遺伝子的要素による生まれもっての障害であると結論づけた。(略)今日、オーティズムは脳の正常な成長を阻害する複雑な発達障害であるということは広く受け入れられている」という部分を、そのまま《前提》として、孫の記録を綴っているからである。リムランドの第一子が「産院で生まれたその日から抱かれるのを嫌がって、泣き叫んだ。それは幼児期を通して変わることなく続」いたとしても、そのことだけで、「強い遺伝子的要素による生まれもっての障害であると結論づけ」ることができるだろうか。
 著者の「感動の記録」は、著者66歳、孫のエリック5歳(愛称・バンビ)、その妹ジェニファー1歳半の時から始まるが、それ以前の様子について、以下のように「述懐」している。〈バンビがオーティズムと判明したのは3歳半を過ぎてからだった。それまでは母親のオッパイで抱え込むようにして育ててきたため、癇癪を起こしたり、ところかまわず寝転がるといった「ビヘービア」(問題行動。日本では一般的にパニックと言っている)を起こす必要がなかったのだろう。だが、妹のジェファニーが誕生すると、赤ちゃんがえりと相まって彼のビヘービアは一挙に爆発した。変な生きものが突然やってきて、バンビのモノだった母親のオッパイを独占するだけでも十分にパニックだったろう〉(序章 「ふたりの孫、星の国から到来」 ビヘービア)。そして、そのパニックについて、以下のように「解説」している。〈頭を床に打ちつけて泣く自傷行為、耳をつんざくようなキャーキャーというスクリーム(叫び)など、気に入らないと泣き通し、わめき通しの超クソガキになってしまった。本物のクソガキと、オーティズムのクソガキぶりの違いは、前者は叱られると「悪いことをしたから叱られた」とものごとの関連性が理解できるが、後者はなんで叱られたかわからないことが多く、ただババ(注・著者)が大声で怒鳴っている、怖い、とパニクるか、怒鳴る行為だけを学習してしまうことだ。だから厄介なのだ〉(前出・同じ)。著者は、本当にそう思っているのか。それとも、誰か(専門家)の「受け売り」でそう書いているのか。そのことは「ノンフィクション作家」としての著者のあり方が問われる、きわめて重要な「分岐点」だと、私は思う。著者の「述懐」「解説」の内容は「わかったようでわからない」。エリックは3歳半まで、母親のオッパイに抱え込まれるように育てられ、オーティズムが「判明しなかった」。しかし、妹の誕生により、オッパイが独占できなくなり「問題行動」が始まった。周囲から叱られても、なぜ叱られているのか「関連性」を理解できず、「怒鳴る行為だけを学習してしまう」。《だから》、エリックはオーティズムだ。という論脈だが、それでは、エリックは3歳半までどのような「育ち方」をしてきたのか、それまでオーティズムが「判明」しなかったのはなぜか、リムランドの第一子と違って「抱かれるのを嫌がる」ことなく、母親のオッパイを独占できたのに、どこかフツー(クソガキ)と違う「徴候」があったに違いない。わずかに、「2歳くらいまでは壊れてしまいそうなはかなさがあって、(注・著者の)娘はギュッと抱きしめられられなかったと言う」(序章・同・男の子と女の子)記述があるが、その詳細には言及されていない。また妹のジェニファーもオーティズムと判明しているが、〈ジェニーにとっての唇とはもっぱら乳を吸い、食べ物を取り込む入り口にすぎないようだ。そのくせ甘え上手で、はや4か月で表情豊かによく笑い、人に媚びる術を心得ていた。誰も教えないのにオスを取り込む本能なのだろうか、「オーオー」と声をかけ、愛らしい仕草で人を魅了する〉(序章・同・娘、母、女)という記述からは、とうていオーティズム(の乳児)だと「判断」できない。だとすれば、いつ、どんなことがきっかけで、彼女は「発症」したのだろうか。「こぼれるような愛嬌をふりまいていたジェニファーが、1歳を過ぎるとアイ・コンタクトが少なくなり、抱かれるとくるりと背中を向けるようになった」「ジェニファー1歳5か月、障害者センターでチェックを受け、オーティズムと診断された」(序章・同・ジェニーもオーティズム)という記述はあるが、それだけでは「事実」の経過が分かるだけで、《真実・真相》に迫ることはできない。「ノンフィクション作家」の作物としては、甚だ「不十分」ではないだろうか。
 もっとも、「今日、オーティズムは脳の正常な成長を阻害する複雑な発達障害であるということは広く受け入れられている」(前出)という現状に追随する限り、「自閉症」の《真実・真相》など「専門家に任せればよい」ことかもしれない。しかし、以後の「感動の記録」は、「オーティズム」と診断された「孫ふたり」が、「異星人」として振る舞う姿(ビヘービア)の、ロマンチックな、メルヘンチックな「描写」に終始していることは、誠に残念である。
わずかに、終章近く(Ⅱ部 確かな「二歩目」兄六歳、妹二歳の夏)で〈ジェニファニーだって「3(シー)、4(ホー)、5(ハイ)」が「スリー、フォア、ファイブ」になったし、「ティー」と飲み物を要求するし、「オープン」と言ってスナックの袋を持ってくるし、エリックを「オニイチャン」と呼ぶときもある。それだけで家族は十分に満足だし、スティーブ(注・父親)は兄妹がじゃれあって遊ぶ様を見て、「この子たちはオーティズムじゃないよ(そう思いたいのかも)と言いだすほどだ〉という記述があった。まさにおっしゃるとおり、「この子たちはオーティズムじゃないよ」という卓見こそが、「異星人」(と呼ばれている子どもたち)を、地球の世界に「呼び戻す」唯一の方法である。「そう思いたいのかも」という定説・常識に従うか、「そう思う」ことに徹するか、そのことが今、私たちに問われているのである。(2015.1.21)
星の国から孫ふたり バークレーで育つ「自閉症」児星の国から孫ふたり バークレーで育つ「自閉症」児
(2005/05/18)
門野 晴子

商品詳細を見る




にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村

バスの中で

ある土曜日の午後、松戸駅から市川駅行きのバスに乗ると、五人の小学生が乗り込んで来て、私の前の座席にすわりました。〈騒がしくなりそうだな・・・。〉乗客の誰もがそう思ったに違いありません。小学生たちと隣り合わせになってしまった老紳士は、そっと他の座席に移りました。バスが走り出すと、小学生たちはてんでに窓の外を見ながら話し始めました。男の子が二人、女の子が三人、これから社会科のグループ調査にでも行くのでしょうか、五・六年生にみえました。春雨橋を渡った時、一人の女の子が叫びました。「あっ、坂川だ。汚いなあ」すると、もう一人の子が言いました。「みんな江戸川に流れて行くんだね」四人はうなづきました。〈どうも様子が違う・・・〉私はそう思い始めました。そう言えば、誰かの声が大きくなりそうになると、右端の男の子が指を口に当てて「シーッ」と制止するのです。次の停留所でお婆さんが乗ってきました。五人は顔を寄せ合って何事か相談すると、一人の男の子がさっと立って、お婆さんに席を譲り、他の四人は体をくっつけ合うようにして座席をつめ合いました。私はびっくりしました。四人は体と体がぴったりとくっついていても平気でいられるのです。〈何て仲が良いんだろう・・・〉先の老紳士が小学生たちをじっと見つめるようになりました。〈どこの学校の子どもたちだろう・・・?〉私は、女の子が胸に付けている名札を見ました。しかし、どの名札も『赤い羽根』の陰に隠れてよく見えませんでした。五人は上矢切で降りました。バスの中には、何ともいえないさわやかな空気が、しばらくの間残っていました。(昭和63年11月29日)
道徳ドキュメント 第2期 ③人とつながる [DVD]道徳ドキュメント 第2期 ③人とつながる [DVD]
(2012/04/27)
教育≪CD-ROM付≫

商品詳細を見る




にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村


「特別支援学級で体罰」の《真相》は?

 東京新聞朝刊(29面)に「特別支援学級で体罰 茨城・高萩 教諭、被害児童口止め」という見出しの記事が載っている。その内容(抜粋)は以下の通りである。〈茨城県高萩市にある公立小学校の特別支援学級で、担任を務める40代の女性教諭が軽度の発達障害のある高学年の男子児童に体罰を加えていたことが、市教育委員会などへの取材でわかった。(略)市教委や学校によると、教諭は児童が1年生のころから頬を平手打ちしたり、髪を引っ張ったりする体罰を重ねていた。学校が6月に行った聞き取りには、「指導であって体罰ではない。髪を引っ張ったのは、明るい声を出させるためだ」などと説明。学校もこの説明をうのみにし、市教委に「体罰はなかった」と報告していた。教諭は被害児童の両親に体罰の事実が漏れたことを知った際、児童に「学校への文句を両親に言ってはだめ」と口止めしていた。学校は今月、体罰を認めて児童と両親に謝罪した。(以下略)〉
 この記事を読んで、私が最も不可解に思うのは「教諭は1年生のころから頬を平手打ちしたり、髪を引っ張ったりする体罰を重ねていた」のに、どうして児童が高学年になるまで、その問題が明るみにされなかったのか、という一点である。〈教諭は「学校への文句を両親に言ってはだめ」と口止めしていた〉とあるが、それは《いつ》のことだろうか。もし、児童が1年生の時であったとすれば、実に(少なくとも)5年間以上にわたって、児童は「我慢・辛抱」を強いられたことになる。また、教諭は「指導であって体罰ではない」と主張するのであれば、両親への口止めなどする必要はないのではないか。以下は、私の想像・邪推にすぎないが、40代の女性教諭は校内のベテランで「自信満々」、「自分の指導法に間違いはない」と妄信していた。校長を筆頭に校内職員もベテランの「実力」には逆らえず、あるいは「信じて」、女性教諭の言動を容認してきた。しかし、児童が高学年になり、「何かがきっかけで」両親との関係がこじれてしまった。問題が明るみになったのは(今年の)6月、すぐに謝罪すればいいものを、女性教諭(のプライド)を慮ってか、学校が「体罰を認めた」のは半年後・・・という「御粗末」さである。
 いずれにせよ、女性教諭の体罰が5年間以上にわたって明るみにされなかったのはなぜか、明るみになった「きっかけ」は何であったか、が解明されない限り、この事件の《真相》は闇のままで終わる、と私は思う。(2014.12.25)
体罰はなぜなくならないのか (幻冬舎新書)体罰はなぜなくならないのか (幻冬舎新書)
(2013/07/28)
藤井 誠二

商品詳細を見る




にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村


「障害乳幼児の発達研究」・《「正常幼児と異常行動をもつ幼児の母ー子相互関係行動の比較(5)》

Ⅶ 幼児ー母親の相互交渉の型と刺激の特性《映写観察を使用したセット場面での行動的相互交渉の評価》
A 背景
・(幼児ー母親の相互交渉を「映写観察」〈その記録を分析〉することにより)、刺激パタン、刺激の数や多様性、回数・強さで示される刺激の量、刺激時間の評価が容易にできるようになった。映写観察は、評価者間の信頼性を高め、回顧と再検査ができ、また観察の正確さと精密さを向上させる。
B 映写フィルムのプロトコル(手順)
・母親は、来所する1時間前から子どもに授乳しないように、また哺乳びんか食べ物を持ってくるように頼まれた。映写観察のため特別な部屋が設けられ、それは普通の居室と違いすぎないような部屋であった。
・ズームレンズ式の16㎜シングルシステムの音声記録可能なカメラが専門家により操作されて。一方視の観察窓から撮影された。映写の長さは、普通、40分間続けて観察された。
C 幼児ー母親相互交渉のパタン:物語的記述
1.はじめに
・映写フィルムは、何回もくりかえし見られ、幼児ー母親対の行動が注意深く観察された。各々のフィルムは反復して観察され、詳細な叙述が2人の観察者によりなされた。その叙述は、さらに同一フィルムの観察によってチェックされ、修正された。
2.間接的な幼児ー母親相互交渉の系列
a 遊び
・両群の母親は、10分間、部屋の中でのいろいろな玩具、人形に依存する傾向があったが、遊びの相互交渉の質は、明らかに差異があった。
・普通児群の遊びは、組織化され、母親は実際的で、いくつかの遊具は見慣れないものであったが、遊びそのものはそうではなかった。母親は、機嫌よく「おしゃべり」、その他の音声表現を行い、赤ん坊に注意を向け、その場面のおもしろさを維持していた。
・異常幼児の母親は「非常にせわしい」「無為的」「非社交的」などと記述された。少数の母親には、元気のいい活動と静かな冷淡さが交錯してみられた。4名の母親は、映写の最初の10分間に全く無為で非応答的であった。その他の母親は、偶然的で、無定見で、あまり組織化されない貧弱な遊びで時間を過ごした。玩具や人形が選び取られることはなく、その代わり、「はやくやり返し」「忙しそう」にしていた。注意は1つのことから別のことへ「はやく変わり」「持続せず」、次々に変化して行った。
b 顔の表情と他の表現行動
・異常幼児群の母親の表現は、しばしば、ステレオタイプで固いと記述された。2名の母親は、極度に仮面的な表情で、空虚な顔をしていて、決して笑わなかった。母親の声は、通常やわらかで、ときには聞こえないくらいで、単調であった。表情の乏しい状態が、怒りが赤ん坊に向けられているとき、一時的に高められた。
・彼女らの大きい身体運動は抑制され、活気ある活動は見られなかった。偶発的な強い表現は、たとえば“ダメダメ”“悪い子”“馬鹿になったんじゃないの”というような単語や句で、直接赤ん坊に向けられた。これらの母親は、多くの小運動に終始した。小さい物を手でせわしくもてあそぶこと、爪かみ、唇ならしが頻発した。
c 刺激作用のある特質
・異常幼児群の7名の母親の特徴は、明白な反復的な身体的な過度の刺激作用であった。軽い平手打ち、ふざけてかむこと、やさしく打つこと、玩具で赤ん坊のからだを強くなでること、あらあらしくなでること、しっかりつかむこと、つつくこと、ちょっとかむことを含み、幼児の身体のいろいろな部分をなでまわして、多くの時間が過ごされた。
3.授乳
・年長の異常幼児は、母親からの刺激作用によって「かまわれすぎている」ように思われた。以下はその事例。
ⅰ 母親が赤ん坊にポテトチップを与える。母親と赤ん坊はいくつかのチップをつかみ出して、それを持っている。母親は1つ与え、幼児はそれを食べる。母親はバッグからチップを取り出すようにうるさくいうが、赤ん坊が手の届くところからバッグを遠ざける。そして再び赤ん坊をからかう。
ⅱ 赤ん坊は哺乳びんを与えられ、それを口に持っていきそして吸う。母親は赤ん坊をあやし、そして哺乳びんをとりあげ、哺乳びんにキッスし、それからそれを戻す。母親はそれをとりあげ、吸う音を大きく出して、哺乳びんを口にくわえる。
ⅲ 赤ん坊は、母親に抱かれている間吸うためのミルクびんを与えられる。母親は、それを取り上げ、次に再び口に入れてやり、また取り上げて、そしてまた赤ん坊の口に戻してやる。このことが6,7回もくりかえされる。赤ん坊は、びんを吸い続け、母親は、赤ん坊がミルクびんを吸い続けている間中、赤ん坊のおむつをとりかえている。
4.未知の人、分離、再会の系列
・普通幼児6名と異常幼児7名の年齢は、9カ月異常であった。普通幼児の全部が、不安な様子で未知の人の出現に反応し、母親にすがった。母親が部屋から離れると、全部が泣き出し、5分間の母子分離の間、泣き続けた。母親が帰室すると泣くのが弱まり、あるいは泣きやんだ。
・異常幼児の反応は一様ではなく、無反応、引きこもり、回避行動、身体ゆすり、普通の泣き方、母親がいない間中、悲鳴をあげてのひどい泣き方などを含んでいた。また、いろいろの反応が生じた。最も悲嘆していた子どもは、助けを求めた。母親がいなくなっても反応しなかった2名のものは、母親が帰室しても同じ様子であった。また、母親が去ったとき始めた身体ゆすりは、母親の帰室でやんだ。
D 幼児ー母親相互交渉のパタン:母親の刺激作用の特性
1.刺激作用の変数
・母親の刺激作用の質的・量的側面を特徴づけるために、一連の10個の記述が選定された。10個の記述は、4つの感覚的様相のカテゴリーに含まれた。〈表Ⅱ〉
*表Ⅱ 母親刺激作用の変数
a)身体運動的
1.母親が幼児をもてあそぶ。赤ん坊の身体的位置が変わる。高い高いなど。
2.母親が赤ん坊の手足や頭をもてあそぶ。(位置は変化しない)
b)触覚的
3.母親がゆり動かし、キッス、くすぐり、自分の身体部分か事物で可愛がる。
4.母親が幼児の手に物をおくか、幼児が母親が持ってきた事物に手を出し、ふれる・
5.母親が幼児の口の中に哺乳びんかおしゃぶりを入れる。
6.母親が世話をする。衣服の着脱、口を拭く、髪をきれいにする、鼻や耳をほじる。
c)聴覚的
7.母親が幼児に声をかける。話しかけ、合図、はやす。
8.母親が音を出す道具を使う。ガラガラ、ミュージックボックス、ラジオなど。
d)視覚的
9.母親が「惹きつけられる」「目で追う」事物を見せる。
10. 母親がしかめ面をする」。幼児の模倣をする。幼児に笑いかける。視線を合わせ続ける。
2.映写フィルムの評価手続きとその装置
a)評価手続
・各映写フィルムについて、10個の母親の刺激作用変数と6個の幼児の行動状態が、3つの刺激表示ボックスの使用によって連続的に評価され、記録された。
・各ボックスは、母親の刺激作用の4つの種類に応じて押せる4つのボタンを備えている。各ボタンの上方に、12のタイプの母親の刺激作用が選択できるつまみスイッチがつけられている。6名の訓練を受けた評定者のうち3名が、各フィルムの評定を依頼された。1つの行動が観察されたとき、対応するボタンが押され、行動が続いている間、そのまま1onの状態におかれる。3つの群(刺激1~4,5~8,9~12)のそれぞれのボタンからの電気信号が、以下のような値をもつ合成的信号を生じるように2進法値を使って、おくられた。
1X(E1)+2X(E2)+4X(E3)+8X(E4)
Ep=0(刺激がないとき)
Ep=1(刺激があるとき)
p=1~4 ; 5~8 ; 9~12
 合成的信号値は、0(刺激なし)から15(4つの刺激が全部みられるとき)まであることが理解されよう。ボックスの1つは、子どもの6つの水準の行動状態を示すため、6個のボタンをもっている。
b. 同時記録
・3つの合成的刺激と行動状態の信号は、4チャンネルの視覚的記録をするためBeckman
Dynagraph記録用紙に送られる。補助的記録は、Precision Instrument FM磁気テープレコーダーを使ってなされた。
c. 計数記録
・4つの信号は、1秒間に10スカンの割で、Raytheon加算装置で計数された。その結果の数値は、Precision Instrument加算テープ記録機によって磁気式計算テープに記録され、次に、高速度計算作業のために磁気式レコード円盤に記録された。
d. 評価者間の信頼性
・評定者間の信頼度は2つのやり方で測定された。第1は、10個の母親変数が記録されてる全時間についての比較である。ピアソンの相関係数は、0.84~0.99(中央値、平均値も0.91)。第2は、部分的チェックを加えることであった。それぞれの変数は、60個の20分間ずつの部分に分けられ、2人の判定者が両方とも記録された行動例をあげているかどうかをみるために、その各部分について判定者間の比較がなされた。判定者間の一致率は、90.9~95.9である。                             ・評定者間の信頼性の2つの尺度は、本質的な一致がその判定間にあったことを示した。
e. 母親の刺激作用評定の計算
・6つの幼児の行動状態の変数に加え10個の刺激作用の変数の連続的、同時的評定は、多様な問題と統計的方法をもたらす。刺激の量対無刺激作用時間、刺激作用変数の時間数、単一変数の使用、刺激作用の結合、そして、他の幼児の資料との比較によって、広範な尺度が、個人や集団、刺激作用の質の年齢効果を見分けるのに役立つということが明白になった。
3.母親の刺激作用量:間接的相互作用系列の分析からの知見の要約
・母親の刺激作用についての評定は、2つの幼児群の各々7名について実施された。
・刺激作用の全時間の平均の割合は、両群の間に有意差はなかった。(異常幼児群65.3%
普通幼児群61.2%)
・目覚めておとなしいときと泣いているときの刺激作用の割合は、両群間に差はなかった。
・両群間の差異は、統合刺激作用の使用と個別の刺激作用の使用の点で生じた。異常幼児群において統合刺激作用時間が全刺激作用時間の平均61.2%である2つの下位群があった。異常幼児群の4名は刺激作用時間平均42.1%(低)、他の3名は87.0%(高)であった。
・特に、聴覚的、感覚運動面において両群の差があることが示された。異常幼児群において、聴覚的刺激作用の時間数(秒)として測定された聴覚的刺激作用量は、決定的に低く(<0.02)、そして感覚運動刺激作用量は有意に大きかった。
・ある異常幼児の身体感覚運動的刺激作用が高いとすると、聴覚的、視覚的、触覚的刺激作用は、その時間数の面で低かった。普通幼児群では、2つないし3つの主要な刺激作用の併用が特徴的であった。全刺激作用の時間の割合を高めなかったが、むしろ、刺激作用時に強化的特性をもたらした。

Ⅷ 討議
・幼児ー母親対の2つの群の相互交渉のパタンにかなり明白な差異がある。
・これらの研究において集められた資料から、異常行動、異常発達、悩まされそしてしばしば引きこもった母親、赤ん坊の世話や扱いの軽視と虐待、そして多様な個人的、家族的、生活状況的困難、これらが交錯していることがわかった。
・異常行動と異常発達は、不十分な、誤った、あるいは極端な刺激によって誘発され維持される。
・正常な分化と適応の発展に適した環境において、豊かな刺激作用が与えられるということは当然である。適度の強さの刺激作用が反復され、恒常と新奇とのバランスに富み、幼児の状態と要求に適切に提供される。刺激作用の水準は、変化に富むことを必要とするが、過度の刺激作用とか刺激作用の欠如のような両極端を含む必要はないのである。

《注》 
 ここでは、「幼児ー母親の相互交渉」場面を映写し、その記録を分析しながら、普通幼児群と異常幼児群の「実際」を比較検討した結果が述べられている。その場面は、①入室から10分間の自発行動、②母親による授乳、10分間、③2人に他人が加わる、5分間、④母親が部屋を出て、他人と2人だけになる、5分間、⑤他人が部屋を去り、幼児が1人になる、5分間、⑥母親が帰室して再会する、5分間という構成である。①においては、普通幼児群の母子が、そこにある玩具や人形を使って「楽しい」時間を過ごしたのに対して、異常幼児群の母子交渉は、動きが少なく、単調であり、遊びも貧弱で「組織的」に発展していかなかった。母親の表情は固く、微笑み、笑いかけは見られなかった。②においては、母親からの刺激作用によって「かまわれ過ぎて」いる。③においては、普通幼児群の全部が「泣き出し」「母親にすがろう」としたのに対して、異常幼児群の反応はまちまちであり、「無反応」な子どももいた。その子どもたちは、母親が帰室し再会したときも「無反応」であった。 
 著者らは、さらに、これらの場面を「母親の刺激作用の特性」を変数として《統計学的》に研究を行った(ようだが)、その結果は、残念ながら判然としなかった。  
 しかし、子どもの「異常」と、母子の相互交渉のあり方が「交錯」しながら、さまざまな問題・支障を生み出していることは明白であり、たいへん参考になった。(2014.6.22)
 以上で、この論文は終了するが、今後、母親を対象とした「同種」の研究が行われることを期待したい。 
障害乳幼児の発達研究 (精神医学選書)障害乳幼児の発達研究 (精神医学選書)
(2008/10)
J. ヘルムート、 他

商品詳細を見る
 



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村


「障害乳幼児の発達研究」・《「正常幼児と異常行動をもつ幼児の母ー子相互関係行動の比較(4)》

Ⅵ 母親の行動と幼児ー母親の相互交渉《録音面接の際の母親の叙述とそのときの幼児ー母親相互交渉についての観察者による逸話記録に基づいた研究》
A はじめに
・録音面接時の母親の叙述は、面接時の観察者による幼児ー母親相互交渉の描写と比較された。それによって、一致を示した相互交渉が、この研究の知見として報告された。
B 特殊な感覚運動的様相と行動的状態を伴う母親の相互交渉
1 理論的基礎
・幼児の感覚運動のメカニズムは、行動の状態を統制するのに、母親により利用される。そのメカニズムは、授乳、おしゃぶり、抱くこと、運動、笑いをさそいかける音と、視覚的刺激作用などを含んでいる。行動の状態を統制するのに使われる多様な幼児と母親の感覚運動的相互交渉の観察は、興奮の増加と減少の面から幼児の出来事を記述することができる。
・母親ー幼児の均衡は、刺激作用となだめることの特殊なメカニズムにより作用する2つの系から考えることができる。これらの行動状態は、母親の違いにより、異なる反応がみられる。初期の精神構造は比較的単純であるため、これらの相互交渉は、観察可能な幼児と母親の感覚運動的相互交渉から得ることができる。
2 逸話的(面接)資料の使用
・臨床面接の1つの目的は、子どもがもっと小さかった頃の母親の様子について質問し、その頃のお世話行動、刺激パタン、母親と赤ん坊との特殊な(普通でない)相互交渉について、母親から資料を得ることにある。
・この研究で、母親の叙述は、幼児との相互交渉の特徴的なパタンについて知るために使われる。この種の情報は、十分な信頼性があるように思われる。
C 幼児ー母親相互交渉の感覚運動的パタン:子どもの世話の面でのこれらの使用の評価
・幼児ー母親交渉の6つのパタン(焦点)が、異常幼児群の16名の母親と普通幼児群のの16名について比較された。そのカテゴリーは、次のようなものである。
1.新生児の母親のすべての反応(授乳を含む)
2.幼児の泣き声に対する母親の最初の反応とその後の反応
3.あやすこととフラストレーション
4.抱くこと
5.ゴム乳首のようなおしゃぶりの利用
6.幼児との遊びと幼児のすべての楽しみ
D 新生児期の母親のすべての反応
1 最初の出産
・各群16名のうち8名のものが第1子であった。両群の母親は、強い心配、不安定感、無力感、不足感を経験した。泣き叫ぶ子をうまくなだめること、授乳に熟達すること、脆弱な子どもを扱うことの不安定に集中していた。
・8名の異常幼児の母親のうち7名のものが、このような反応を長い期間(3~7カ月)続けていた(普通幼児の母親は2,3日~2,3週間)。
・普通幼児の母親は、幼児から全面的に手を引くことに苦悩を感じ、幼児の世話を他の大人に代えること、泣くのをなだめるのにおしゃぶりを利用すること、授乳以外のときに抱くことが比較的少ないことを示した。
・異常幼児の母親は、生後の最初の1カ月の間における多くの苦悩を示し、子どもの泣き声を統制することに専念していた。そのために、子どもはよく抱き上げられた。
2 2番目の出産
・両群の各8名の幼児のうち各7名は、2人兄弟の2番目である。悩みの期間と不十分さの感情は、一時的であり、普通児群の母親にはそれがみられないこともあった。異常児群の母親は、本質的には、初産についての記述と同じ反応を報告した。
E. 授乳
・異常幼児群の授乳上の障害が、普通幼児群より、多く見られた。異常幼児の母親は、いつも、嘔吐、もどし、拒食、口中保持、弱い吸乳、反すうなどの摂食障害に直面していた。母親は余分な努力を強いられていた、
・異常幼児は、出生後3カ月の体重増加率の遅れが明白だった。
・普通幼児の母親は、おとなしくさせるために授乳と乳房などを吸わせることを利用した。おしゃぶりは、早くから与えられ、よく利用された。
・異常幼児群の母親は、子どもをなだめるために、授乳することは(摂食上の障害がある
ので)気がすすまなかった。
F. 幼児の泣き叫びに対する母親の最初の頃とその後の反応
・両群の母親は、幼児の泣き叫びに対処することの最初の失敗、無力感、不十分感など「共通」していたが、普通幼児群の母親は、(しだいに)余裕ができてきた。泣き叫ぶ原因を軽減するために、おしゃぶりを与えたりした。
・異常幼児群の母親は2つの異なった反応の型を示した。その1は、いつも子どもをなだめ、静かにさせるタイプであり、その方法は、長い時間抱いていることであった。その2は、泣き叫びに対し無関心と放置で対応した。これらの母親は、子どもを打つようになり、7カ月頃から回数も増加した。2人の母親は、赤ん坊が2、3カ月の頃、すでに打っていた。
・異常幼児群の母親は、しばしば、自分の怒りのコントロールを失っていた。
G. あやし静めること欲求不満
・子どもの泣き叫びは、2つの意味をもつ。「苦痛のサイン」と「満足の要求」である。・普通幼児群の母親は、あやしたりなだめたりすることに意識的葛藤(いつもあやされていると、赤ん坊はそれを期待し、要求するようになり、子どもをスポイルするのではないか)を示した。しかし「いつも満足させることは悪い」という自分の考えを実行してはいなかった。」 
・異常幼児群の母親の1つのグループは、泣き叫びを欲求不満のあらわれとして受けとっていないように思われた。泣き叫びは、その子どもがもはやどうしようもなくなったときにひどくなった。もう1つのグループは、「はやく強い子にする」「子どもの要求を無視する」という意識を抱くに従って、「何も感じない」か「無関心」かであった。
H. 抱くこと
・両群の母親とも、“抱くこと”に対して「否定的」であった。子どもに要求ぐせをつけ、わがままにして子どもをスポイルするというのである。
・しかし、実際の行動面では、両群の母親は異なっていた。普通幼児の母親は、遊びと授乳の間に抱いていたが、抱く時間の長さを考えて抱いていた。異常幼児の母親は、多くの時間を抱くことに費やし、料理や洗濯をするときさえ、泣き叫びを防ぐため抱いていた。I.II
I. おしゃぶりの使用
・哺乳びんとおしゃぶりが、普通幼児群の多くの母親に利用された。おしゃぶりは、子どもを抱くことの代わりになった。子どもと一緒に遊び、子どもをよく世話する母親は、おしゃぶりの利用回数が少なかった、
・おしゃぶりは、異常幼児群の母親では、まれにしか使われなかった。
J. 幼児との遊びと全体的楽しみ
・普通幼児群の母親は、幼児との楽しみと家族的参加について自発的な説明を示した。(抱くこと、ほほ笑みかけ、遊び、おしゃべりなど)このことは、異常幼児群の母親にはみられなかった。普通幼児群の母親は、授乳は楽しいと話したのに対し、異常児群の母親は、苦しい試練であると報告した。
・遊び、ほほ笑みかけ、話しかけが、普通幼児群の母親の働きかけの顕著な特徴であった。話しかけや母親の存在は、いらいらしがちな赤ん坊をなだめることになると考えた。赤ん坊のいらいらは、やさしく接してもらうことを求めており、赤ん坊が泣きさわいでいるとき、求めているのは、そばに母親がいること、話しかけることであり、遊びや抱くことを要求しているのだという見解が、普通幼児群の母親の共通のものであった。これらの態度と行動は、子どもが安静になることと、ほほえみ反応によって、いっそう強化された。赤ん坊の安静(ご機嫌)を維持するための方法として、音の出るものと見るものが重視された。
・異常幼児群の母親は、(自発的にも、質問されても)話しかけや、歌ってやることや、赤ん坊にふざけ、刺激することなどを想起しなかった。
 
《注》
 ここでは、「母親の行動と幼児ー母親の相互交渉」の《実態》が、普通幼児群の母親と異常幼児群の母親ではどのように異なるか、について述べられている。その内容を、かいつまんで要約すると、以下の通りである。
1 子どもが第1子の場合、両群の母親は、ともに強い心配、不安定感、無力感、不足感を経験したが、普通幼児群の母親では、それが早くて2,3日、長くて2,3週間で「解消」したのに、異常幼児群の母親は3~7カ月間「継続」した。
2 異常幼児群の授乳上の障害(摂食障害)が、普通幼児群より、多く見られた。その結果、異常幼児群の母親は、子どもをなだめるために「授乳」することは、気がすすまなかった。
3 幼児の泣き叫びに対して、両群の母親は、ともに恐々として無力感、不十分感を感じたが、普通幼児群の母親は、「泣き叫びの性質について考えるように」なり、余裕が出てきたが、異常幼児群の母親は、ただひたすら「抱き続ける」か、「無関心と放置」するか、であった。さらに、「打つ」ことも加わり、その回数が増えていくこともあった。母親自身が「自分の怒り」をコントロールできなくなっていた。
4 普通幼児群の母親は、子どもをあやすことを(わがままになりはしないかと思いつつも)繰り返し続けたが、異常幼児群の母親は、「はやくく強い子どもにする」「子どもの要求を無視する」という意識で、あやすことについて何も感じないか、無関心かであった。
5 普通幼児の母親は、遊びと授乳の間に、抱く時間の長さを考えて抱いていたが、異常幼児群の母親は、泣き叫びを防ぐために多くの時間抱いていた。
6 普通幼児群の多くの母親は、哺乳びんとおしゃぶりを利用したが、おしゃぶりは、異常幼児群の母親ではまれにしか使われなかった。
7 普通幼児群の母親は、授乳や子どもとの遊びが楽しいと話したのに対し、異常幼児群の母親は「授乳は苦しい試練」であり、子どもと遊ぶ楽しさ(ほほ笑みかけ、話しかけ、歌いかけ、おしゃべりなど)を思い起こすことができなかった。
 以上で、私には次のような疑問が生じた。
①出産直後の母親の「心配」「不安」は《皆同じ》である。しかし、それが「まもなく解消に向かう」ケースと「長期間継続または増大する」ケースに分かれるのは、どうしてか。泣き叫ぶ子どもの方に原因があるのか、それとも、泣き叫ぶ原因を究明できない母親の方に原因があるのか。  
②普通幼児群の母親に比べて、異常幼児群の母親が子どもを「抱く」回数・時間が多い。にもかかわらず、子どもが「安定」しないのはなぜか。
③異常幼児群の母親の中に「はやく強い子にする」「子どもの要求を無視する」という育児観が感じられるが、その育児観が子どもを「異常」にしてしまうおそれはないか。いずれにせよ、母親が(子どもの現状とかかわりなく)「幼児との相互交渉」を楽しんでいるか、苦しい試練と感じているか、が子どもの成長・発達に大きな影響を及ぼしていることはたしかなようである。。(2014.6.17)

障害乳幼児の発達研究 (精神医学選書)障害乳幼児の発達研究 (精神医学選書)
(2008/10)
J. ヘルムート、 他

商品詳細を見る
 



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村


「障害乳幼児の発達研究」・《「正常幼児と異常行動をもつ幼児の母ー子相互関係行動の比較(3)》

Ⅳ 方法
A 被験者
1.選択
・母親と幼児被験者は、Illnois大学病院の小児科部門から得られた。被験者は、次のような基準に基づいて対象にされた。
ⅰ. 年齢:30カ月未満
ⅱ. 異常行動:異常行動のリストにあげられた1つ以上の異常状態。
《幼児の異常行動》(リスト)
Ⅰa 哺乳と胃腸系の異常、排泄の障害、身体運動の律動性(常同性)
1b 習慣形成の障害(睡眠障害、くせ)、行動面の誇張表現または興奮
Ⅰc 情緒表出の障害、異常な発達的パタン、初期の事物との関係の障害(回避反応など)、他の身体的(内臓的)障害(皮膚病、呼吸病など)
ⅲ. 身体的健康:生来の中枢的欠陥と他のひどい出産異常を含む大きな障害がないこと。ⅳ. 病院歴:2週間以上の入院の経験がないこと
ⅴ. 母親分離:2週間以上の母親との分離経験がないこと。

・統制群は、ⅱ項(異常行動)を除いて、上記のすべての基準を満たしている16名の男児であった。かれらの母親は、社会経済的に、また夫婦の要因について、異常幼児群の母親と一致させられた。そのうち13名が普通の層であった。
2.標本の大きさ
・45名の異常幼児と16名の普通幼児が扱われた。それぞれの幼児ー母親対は、以下のような資料収集法に基づいて研究された。設定場面での幼児ー母親相互交渉の映写は、11の普通幼児ー母親対(M-CI)と11の異常幼児ー母親対(M-AI)についてなされた。
3.標本の他の特性
・統制群の幼児の母親の学歴がいくらか高く、兄弟の数が少なかった。
・子どもの平均年齢は、13.5カ月であった。
・異常幼児群の出産時平均体重は、6.9ポンド(25パーセンタイル)、研究開始児16.3ポンド(1パーセンタイル)であった。異常行動の幼児群には、(1年後)ひどい発達上の問題があった。
B 資料収集の方法
1.各幼児について
a. 医学的資料:身体的成長についての情報、出産前、出産時および小児科資料のすべて。
b. 幼児の行動目録(IBI):異常行動の特殊な型を見つけ、記録、追跡し、行動の型や結合を決めるために計画された質問項目
2.母親の態度とパーソナリティ
a. 臨床的面接:母親の生育歴や家族の様子、パーソナリティ、態度などについて客観的評価が可能な資料を得るための、録音面接。
b. 投影法:ロールシャッハテスト、TAT、人物画テストが実施された。この資料は、母親の動機づけや人格構造について評価するために用いられる。
c. 個人歴質問項目(両親についての情報 FormⅡ):母親は、自己、家族、医学的資料、教育、興味、職歴を含むいろいろな面についての100項目以上の質問項目票(自己評価による)に答える。
d. 親ー子関係(PCR)質問票
3.母親の行動の評価
a. 母親の行動についての逸話的記述:面接の際、母親から聞いた母親と幼児との相互交渉についての記述。
b. 幼児ー母親相互交渉の逸話的記述:面接の際、別の観察者により観察され、記録されるような・・・。
c. 一定場面での幼児ー母親相互交渉の映写記録
 ⅰ. 指示されない自発的な相互交渉、10分間
 ⅱ. 母親による幼児の授乳、10分間
 ⅲ. 2人に他人が加わる、5分間
 ⅳ. 母親が部屋を出て、知らない人が幼児と一緒になる、5分間
 ⅴ. 知らない人が部屋を去り、幼児が1人になる、5分間
 ⅵ. 母親が帰室して、再開する、5分間

Ⅴ 母親の態度
・母親の態度の比較は、個人歴質問票(FormⅡ)による資料の検討によって行われた。その結果は、次のように要約される。
A 妊娠に対する態度と適応
・妊娠中、異常幼児の母親は、多くのからだの不調をもち、軽い徴候をもったものは少なく、重い徴候をもっていた(P<0,01)。1例を除いて、これらの母親の妊娠は計画的なものではなかった。彼女らはすべて、不幸な妊娠をなげき、ある母親は、自分の子どもの障害の罪を妊娠のせいにした。
B 幼児の問題の認識とその幼児についての意識
・普通幼児群の母親は、自分の子どもの問題よりよく知っているように思われた(P<0.02)。異常幼児の母親は、自分の子どもの将来について、おどろくほど現実的でない話をした。2歳の女児は、全く無視され、歩行もできなくて、面接の間、床の上をはい回っており、母親から全く注意を向けてもらえなかった。その母親は、次のように言った。「よくわかりません。この子は、私たちが非常に可愛がるので、ひどく自己中心的な子どもなのかもしれません」
C 母親の役割
・普通幼児の母親の多くは、満足を与えるものとして、その子ども自身を必要としていたのに(P<0.01)、異常幼児の母親は、満足を与えるものとして、活動に注意を向けていた(P<0.05)
・異常幼児群の母親のかなりのものが、母親としての関心事の面で矛盾しており(P<0.02)、普通幼児の母親よりも、彼女らの関心は、現在に向けられていた(P<0.05)。両群の同じ割合のものが、もう子どもを欲しなかった。
・異常幼児群の母親の大部分は、彼女らの家族の成員は若いものが多く(P<0.05)、そして多分、小さい子どものお世話の機会が少ししかなかった。これらの母親は、普通幼児の母親より、小さい子どもをもち、したがって、自分の子どもについての世話の経験が少なく、実際には、子どもの世話をしなければならないことが多かった。子どもの世話の経験の欠如と未熟な年齢、たくさんの小さい子どもがいるためのひどい忙しさなどの結合が、異常幼児群の母親の「母親としての満足感」を阻害しているかもしれない。
D 家族の役割の認識
・普通幼児群の多くの母親は、父親は家族に情緒的に結びついているとみており(P<0.05)、そして彼女ら自身の第Ⅰの機能は、子どもに愛情を注ぐことであるとし(P<0.01)
、また夫と妻が愛情で結ばれていた。異常幼児群の半分より少ない母親は、夫婦間の結びつきは愛情であることをわかっていた。そして彼女らの多くは、夫と父親としての役割間、また妻と母親としての役割間の区別をあまりしていなかった。

《注》
 ここまでは、著者らが行った研究の「方法」と、結果の一部(母親の態度)について述べられている。「方法」は、42名の異常幼児と16名の普通幼児および両群の母親を「被験者」として選出し、両群の資料(幼児の医学的資料、行動目録、母親との面接記録、投影法、個人歴質問項目、親ー子関係質問票、逸話記述、幼児ー母親相互交渉の映写記録など)を比較検討するというものである。
その結果、「母親との面接記録」「個人歴質問票」を検討した内容が「Ⅴ 母親の態度」であろう。それを、私なりに要約すると以下の通りである。
①異常幼児群の母親は、妊娠中に「何らかのトラブル」(身体的・心理的不調の徴候)があり、その「不幸な妊娠」をなげいていた。
②異常幼児群の母親は、自分の子どもの問題を、よく「知らなかった」。子どもの状態を理解していなかった。
③「普通幼児群の母親の多くは、満足を与えるものとして、その子ども自身を必要としていたのに、異常幼児群の母親は、満足を与えるものとして、活動に注意を向けていた」。「普通幼児の母親よりも、彼女らの関心は、現在に向けられていた」。
④異常幼児群の母親には、子どもの世話の経験の欠如、未熟な年齢、ひどい忙しさなどの結合がめだち、それらが母親としての満足感を阻害しているかもしれない。
⑤普通幼児群の母親は、子どもに愛情を注ぐことが「第1の機能」(役割)であることを自覚し、夫と妻が愛情で結ばれていたが、異常幼児群でそのような母親は「半分より少なく」、多くは、夫、父親、妻、母親の「役割間の区別」があいまいであった。
 以上で、③の一節は、翻訳文体のためか、判然としなかった。私なりに解釈すれば、普通幼児群の母親の多くは、子ども自身の存在、成長を「生きがい」と感じていたが、障害幼児群の母親は、子どもの「問題行動」ばかりが目につき、それが少しでも改善されるような「活動」が現れたとき、はじめて「生きがい」を感じられるようになる。また、したがって、子どもの「現在」の一挙一動(だけに)に関心が(限られて)向けられている。・・・ということになるのだが、はたしてその解釈が正しいかどうかはわからない。 
 いずれにせよ、さしあたって私の関心事は「母親のどの行動が幼児の発達のどの側面に影響するかについて注意深く明確化し、論理的に公式化し、明細化した概念化が欠如している」といった先行研究への著者らの批判(方法論的問題)が、この研究でどのように克服されているかの一点にある。期待をもって読み進めたい。(2014。6.12)
障害乳幼児の発達研究 (精神医学選書)障害乳幼児の発達研究 (精神医学選書)
(2008/10)
J. ヘルムート、 他

商品詳細を見る
 



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村


「障害乳幼児の発達研究」・《「正常幼児と異常行動をもつ幼児の母ー子相互関係行動の比較(2)》

Ⅲ 親子関係に関する批判と幼児ー母親相互交渉の研究
A はじめに
・環境は、児童期の精神的、社会的、情緒的発達に影響するという概括的な仮定は、発達に及ぼす大切な環境要因は、親のパーソナリティと行動の間に見出されるという考えの基礎になる。また、両親の影響は、発達の初期と、母親との接触が主である幼児期において大きいと、一般的に信じられている。
・これらの考えに従うと、母親の行動は、初期の発達のコースを変容させるので、特に人生の最初の期間にある幼児の発達の環境的影響の研究は、普通、幼児ー母親あるいは幼児ー母親代理者関係の調査を含む。そのような概括的な仮定は、一般的な公理を与え、家族間、両親ー子ども、幼児ー母親の相互交渉の研究を必要とするが、これらは、研究計画に必要な詳細な概念化を欠いている。
B 幼児ー母親の相互交渉の直接的研究
・親子関係についてのほとんどの研究の目的は、子どもの行動と発達における親の行動の影響について知ることにあった。相互交渉についての直接的研究は、多様な状況で行われる観察を記録する項目見本法ですすめられた。自然的観察は、要約した叙述、詳細な物語、逸話、印象などの形態で記録されるか、いろいろな尺度が引き出されるプロトコルを利用して行われた。
・他の研究では、観察中あるいはその直後に、親と子どもの行動の相互交渉の特殊な系列や交渉内容を、予め選定したカテゴリーで評定した(Hattfield, Ferguson & Alpert 1967, Baumrind 1967)。相互交渉の系列は、時間見本法による観察により研究された、(Zunich 1962)。最近、相互交渉の継続的な記録は、重要な尺度を与えてくれる電子工学的監視装置により可能になってきた(Matarazzo, Saslow & Matarazzo, 1956)。
C 幼児ー母親の相互交渉の間接的研究
・幼児ー母親の相互交渉、親としての動機や特性や態度、最近の習慣、子どもを育てる上での日課(きまり)を知るために、訪問面接と質問項目が用いられた。
・親の行動と発達に関する多くの研究は、質問法、面接法、回顧的資料に依存している(Freeberg & Payne 1967)。しかし、それらの報告は、はなはだ主観的であると考えられている(Kogan & Wimberger 1966)。回想的研究において、その幼児の年齢を低く評価しがちであるというようなずれが生じやすい(Haggard, Brekstad & Skard 1960)。
・これらの方法は、子どもの初期の発達上の母親の刺激、しつけや世話の影響について知るために行われる研究に、実質的に広範囲に利用されているが、まだわずかのことしかわかっていない。
D 方法論的問題(欠点)
・第1に、母親のどの行動が幼児の発達のどの側面に影響するかについて注意深く明確化し、論理的に公式化し、明細化した概念化が欠如している。
・第2に、2組の資料が与えられたら、たいての研究者は、その共通の概念を報告することができないか、1組の親と幼児の資料を結びつける概念化を行うことができないだろう。そのような公理化、推論が準備されるべきである。
・第3に、標本上の困難な問題があった。被験者として母親を募集する手続きは適切であったか、研究者は被験者の自己報告以外に被験者のことを知らない、代表的と考えられる同一の状況のもとで観察されたかどうか、など。
・また、技術的、手続き的観点からも、観察者にはきびしい限界がある。“意味のある”特殊な、重要な出来事を明確に確認、承認することは、(一般的な尺度がなければ)「評価者間で一致させる」ことは困難である。
・要するに、幼児と母親の相互交渉の研究を可能にするためには、以下の問題が解決されなければならない。
1.観察可能な幼児ー母親の行動的相互交渉の選択を導く初期の発達理論は何か。
2.評価法は、初期発達の概念に関連している相互交渉の情報を得るか。
3.相互交渉の変数は、実際の身体的な母親の行為、行動の記述を含んでいる経験的な観察可能なものとして述べられているか、非経験的変数は、抽象概念として認識されるか、幼児ー母親の相互交渉の変数は、解釈や主観を要する叙述を含んでいたか、あるいはそれが経験的な叙述に近いか。

《注》
・この章では、「幼児ー母親の相互交渉」をテーマとする研究の「ねらい」「意味」と、先行研究に対する批判、また「方法論」上の困難点などについて述べられている(ような気がする)が、翻訳文体のため、その真意は判然としなかった。
・いずれにせよ、「幼児ー母親の相互交渉」は。「育児」上の問題であり、それを「科学的」に究明しようとするためには、多くの困難が「待ち受けている」に違いない。それらを、筆者らがどのように「乗り超えよう」とするのか、興味津々である。期待を持って、次章を読み進めたい。(2014.6.7)
障害乳幼児の発達研究 (精神医学選書)障害乳幼児の発達研究 (精神医学選書)
(2008/10)
J. ヘルムート、 他

商品詳細を見る
 



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村


「障害乳幼児の発達研究」・《「正常幼児と異常行動をもつ幼児の母ー子相互関係行動の比較(1)》

「障害乳幼児の発達研究」(J.ヘルムート編・岩本憲監訳・黎明書房・昭和50年)に収録されている論文「正常幼児と異常行動をもつ幼児の母ー子相互関係行動の比較」(ナーマンH.グリーンベルグ)を精読する。

Ⅰ はじめに
・この報告は、異常行動をもたない幼児と母親(M-CI)および異常行動をもつ幼児と母親(M-AI)の行動的相互交渉の研究に関するものである。情報資料は、録音面接のときの幼児についての話の際に得られた。その幼児被験者は、いつも、面接の際にそこにいて、その幼児と母親との交渉を観察者は観察記録することが可能であった。映写フィルムが、一連の場面での母子について作成され、そのフィルムも重要な情報源であった。
Ⅱ 初期の発達についてのいくつかの一般的概念
A 行動の分化と刺激作用
・われわれは、幼児の発達を、行動パターンと行動の分化の過程であらわれる機能を描き説明することで、あらわす。
・分化的、組織的行動の出現は、発達的進歩や適応水準の向上の証拠資料となる。
・発達的進歩や適応水準の向上の「過程」は、お世話(環境刺激作用、生物学的欲求の充足)、行動的混乱を統制すること、幼児をなだめるというような刺激作用によって強く影響されるだろう。
・発達が進行する上で重要なことは、幼児の側の「行動的可塑性」の向上、「刺激への耐性」、「行動の統制」であり、それらが、適応水準の向上の要因になる。
・内的(内臓の)、外的(身体的)刺激の特性と中枢的メカニズムの機能的使用は、中枢的な神経生理学的分化の程度と質、個性化、中枢的基盤の総合化、感覚閾の発達に影響する。分化の発達的過程は、刺激作用に影響されるから、発達初期の刺激作用の特徴の重要性は、適応の特性とその過程にさがし求められる。
B 刺激作用と母親の行動と幼児の発達
・制限された環境で飼育されている動物を使った研究で、インプット刺激の制限は、破壊的効果をもつし、また、知覚や学習や社会化のような機能を障害した。極端に特殊な行動に対する感受性を発達させる実験動物や、認知的、知覚的、社会的機能の発達に必要な行動の分化に失敗するような動物を育てる環境を計画することは比較的容易なことである。
貧弱な感覚的環境は、行動の発達を阻止し、生物学的発達を遅滞させ、中枢神経系の変容をもたらす。
・幼児の養育は、普通は母親によってなされ、母親は、特に子どもの世話と刺激作用の実際の行動面で、刺激作用の量と多様性に重大な影響をおよぼす。そのような努力の効果性は、吸乳器官・視覚的聴覚的組織・触覚・痛覚・圧覚・位置感覚・運動感覚のような、子どもの感覚運動的組織の要素と母親との相互関係に依存している。幼児ー母親の相互交渉における世話と刺激作用の特性と、子どもの感覚運動器官の機能的使用は、行動分化や組織化の特性に大きく影響をおよぼすし、また、感覚閾を高め、初期の適応的発達を高める。
・要するに、母親の行動は、以下の刺激作用の使用を通して、幼児への刺激作用の重要な要素である。
1.幼児が受ける特殊な刺激の選択。(感覚的環境の形成)
2.分化を促進、維持し、神経感覚的、神経運動的器官の機能的統合を支える。
3.感覚閾を上げ、下げすることによる;
4.行動的状態を変え、興奮状態を統制し、注意深い機敏な行動を養うこと。
5.特殊な世話の方法を実行すること。
・生来の神経欠陥をもたないか、他の重大な出産異常を伴わない幼児の異常行動の出現は、発達の崩壊の証拠と考えられ、また不適な、不十分な、誤った、あるいは極端な虐待的な育て方と刺激作用の結果の証拠と考えられる。乳児と幼児の世話やしつけやその他の刺激作用のそのような障害の結果は、誤った発達、ストレスに対する弱さ、認知的、感覚運動的、社会的、情緒的機能における異常性の発現の大きな可能性を示す幼児の異常な、特殊な行動の出現から知られる。異常行動は、授乳と排便の障害、周期的な多動性、多様な固執的習慣、行動の混乱状態の頻発、行動の主要な領域の誤った、あるいは遅滞した発達を含んでいる。特殊な変化は、吸乳行動と運動パタンと、身体的、感覚運動的、社会的、適応的発達において生じる。
・以前の研究(Greenberg 1970)は、次の4つの異常行動群を示した。
1.失敗ー成功症候:体重増加の低い率、遅滞と悪習
2.鉛中毒による異食症
3.身体ゆすりや頭たたきのような型式化された多動徴候
4.一般的な異常性の徴候

《注》
・ここまでは、この論文の「前置き」(初期の発達についての一般的概念)である。要するに、母親は「子どもの世話」と「刺激作用の実際の行動面」で、重大な影響をおよぼす、ということであり、実験動物の例と同様に「インプット刺激の制限は破壊的な効果をもつし、知覚や学習、社会化のような機能を障害する」のではないか、という仮説である。
・その破壊的な効果、障害の例として、筆者は「身体ゆすりや頭たたきのような型式化された多動徴候」を挙げていることは、大変興味深かった。「自閉症」の「常同行動「自傷行為」に酷似しているからである。
・さしあたっての私の関心は、(「自閉症」という)異常行動をもつ幼児の「母ー子相互関係行動」は、正常幼児の「母ー子相互関係行動」とどのように異なるか、その異なる原因は何なのか、という一点に絞られている。期待をもって、以下を読み進めたい。(2014.6.6)
障害乳幼児の発達研究 (精神医学選書)障害乳幼児の発達研究 (精神医学選書)
(2008/10)
J. ヘルムート、 他

商品詳細を見る
 



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村


「障害乳幼児の発達研究」抄読・《2》 子ザルの異常な社会的行動(2)

【Ⅱ 社会的ディプリペーション環境下の養育から生まれてくる異常行動】
・赤毛ザルの社会的発達に影響するパラメーターを調査するために、Wisconsinの研究室の実験者は、母ザルと仲間ザルの中で養育される環境を、体系的な代償と、この環境における社会的要素をとりのけることによって変えてきた。これらの研究の目的が異常行動パタンをつくりだすことではなかったけれども、ある社会的異常性というものが観察された。これらの異常性の関係を論ずるのがここでのねらいである。
《A 代用母ザルと仲間ザルの中での養育は後日どのような発達をとげるか》
・養育環境の1つの変容として、実の母ザルの代わりに布製の代用母ザルを用いた(Harlow 1958, HarlowとSuomi 1970c)。布製の代用母ザルのもとで育てられた子ザルも、すがりつき反応をするし、見知らぬ事態に対する恐怖反応も緩和されることがわかってきた(HarlowとZimmermann 1959)。代用母ザルと仲間ザルがいる環境で育てられたサルは、いくらか遅れるとはいえ、十分な社会的発達を示し、成熟するにつれて相対的に見て正常な社会的、性的、母性的行動を示すことがわかっている。Hansen(1966)、Rosenblum(1961)、HarlowとHarlow(1968)、SuomiとHarlow(1969)、HarlowとSuomi(1970c)らの研究の結論としては、代用母ザルと仲間ザルの中で育てられると行動異常はほとんど生じないが、ただ自分のからだに口で接触する反応は多くなり、また手足を用いて自分のからだを握りしめたり、定型的な揺すりを時折示した。このようなサルは成体になるまでに、社会的、性的、母性的行動の点では相対的にうかく発達してくるのである。
《B 仲間ザルだけがいる事態で育てられると後日の発達はどうなるか》
・この養育条件は“子ザル同士の共生”事態とよばれてきた。この共生群の成員数は2匹から6匹であるが、ある行動異常はグループの成員数とはかかわりなく生じてきた。子ザル同士で育っているサルはすぐに“汽車ポッポ”型として示されてきたような相互にすがりつくことを学習する。この型は、母ザルと仲間ザルの中で育ってきた子ザルよりも、もっと長くつづく。その要因として2つ考えられる。①すがりついている相手は、お互いに母ザルがするようなきびしさで子ザルを拒否しないから。②母ザルと仲間ザルがいる事態では、子ザルはしばしば探索しているため、腹部の母性的接触よりも他の仲間ザルの方へ誘惑される。子ザル同士の事態では、その集団の成員全員がお互いにすがりついているとすれば、探索行動をとっているものはいないのだから、その行動パタンを破る仲間は誰もいないからである。
・仲間同士で育つサルは、長い間すがりつき反応を示し、それに加えて過度に自分のからだに口で接触する反応を示し、移動や探索行動も異常に低い水準を示し、また遊びの行動や性的身構えの点でも遅滞している。彼らは最小のストレス事態に対しても過敏であるが、このことは社会環境の中で保護的な母性的事物が欠けているからである。
・しかし、仲間同士で育ったサルは、5か月頃からすがりつき反応をしなくなり、正常な遊びの型が生じてくる。遊びの頻数や強度は、母ザルと仲間ザルの中で育てられた同年配のサルと同じ水準までにはならない。攻撃的遊びはめったにあらわれない。自分のからだに口で接触する反応は成体になるまでつづくが、それは恐怖刺激に対する感受性や攻撃行動に欠けているからである。彼らはおくびょうである。性的行動は相対的にみて正常になってくるし、雌はよき母ザルになるのが普通である。
・要約すると、仲間同士で育ってきたサルにみられる多くの行動異常は、生後2年目の終わりまでには消えてなくなり、明らかに残っている行動異常としては、後の社会的、性的、母性的行動にいくらかの影響がある程度のものである。
《C 母ザルだけで育てると、後日どのような発達をとげるか》
・Alexander(1966)の研究によれば、以下のとおりである。
・母ザルに育てられた4匹の子ザルは最初の4か月間、仲間ザルと隔離された(A)が、一方つぎの4匹については最初の8か月間、母ザルとだけ交渉させてみた(B)。Aを、後に仲間と交渉させてみると、すぐに十分でしかも典型的なサルの遊びのパタンを示した。母ザルや仲間ザルと一緒に遊び場で育ったグループ(C)と比較すると、仲間との交渉や攻撃性の面ではいくらか低い水準を示したが、それを除いては社会的にも性的にも有能であった。Bもまた、Aと同じような結果であった。
・これらのサルは12か月のとき、母ザルと隔離された。
・2か月後にこれらのサルを生後6か月になる見知らぬサルと対面させてみると、Bはきわめて攻撃的な行動を示し、Aは普通程度の攻撃的行動を示し、Cはほとんど攻撃的行動を示さなかった。仲間ザルとのディプリペーションは、接触をしたがらなくなり、きわめて攻撃的なサルになり、ディプリペーションの期間が長いほどその徴候が大になってくるようである。
・AもBも、一般的に言えば、総体的にみると後日の社会的ならびに性的行動という面では異常はなかった。
*これまでの3つの養育事態では、いくつかの特殊な異常性を除いては、われわれが正常とよぶ限界内での遊びや性的行動、母性行動をつくりだしている。
*しかし、仲間ザルが存在するとか、母乳をもたない代用母ザルとはかかわりなく、実母ザルとの交渉を断ち切られたサルが、過度にしかも長い期間にわたって自分のからだに口で接触する反応を示すという一貫した結果を見捨てるわけにはいかない。
*仲間ザルとだけで育ったサルは、軽いストレスのかかった事態に対しても異常に反応し、一方母ザルとだけ育ったサルは社会的事態においては極めて攻撃的である。
*実母ザルまたは代用母ザルの存在は恐怖反応を子ザルの行動レパートリーへ統合していくことを促進し、一方仲間との交渉の機会は優性攻撃反応の社会化を促進する。
《D 部分的社会隔離の条件で育てると、後日どのような発達をとげるか》
・部分的社会隔離という養育条件がある。サルは裸針金製の檻の中で個別に育てられ、そこでは他の成員を見たり他の成員の発声を聞いたりはできるが、身体接触はできない場面である。そのような初期経験をすると、後日の発達はきわめて意味深いものになってくる(CrossとHarlow 1965)。
・部分的に隔離された赤ん坊ザルは、自分のからだをぴったりとくっつけ、自分の手足の指を吸う反応をする(すがりつき反射・吸啜反射)。これら2つのパタンは少なくとも最初の6か月間彼らの行動を支配している。これに対応して、移動したり探索することが少なく、その代わりに揺すったり檻の中でぶら下がるといったような反復的で定型的な行動パタンを示す。成長するにつれて攻撃反応をあらわすが、社会的な標的がいなくなると、自分自身に向かい自己攻撃を行う(CrossとHarlow 1965)。
・そのようなあからさまな異常行動パタンは(7歳を過ぎると)減少あるいは解消する。(CrossとHarlow 1965)。しかし、移動とか探索といったような適応的行動も成長するにつれて減少する。10歳になると、目覚めているときはほとんどいつもぼんやりと外を見て家庭檻の前部に坐ってばかりいる(Suomi, Harlowおよび Kimball 1971)。もし外部からの刺激作用をうけると、彼らはしばしば急に極端な自己攻撃や異様な定型的な活動をしだす(CrossとHarlow 1965)。
・部分的社会隔離の条件で生後1年間育てられたサルは、社会的、性的、母性的行動という面ではきわめて欠けている。社会的事態では、かれらはめったに他のサルとの間に交渉をもとうとしないが、そのかわり回避ならびに障害行動パタンをあらわすのが普通である(Pratt 1967,1969)。(社会的交渉の機会を与え続けていると)しまいには、ぎこちないやり方ではあるが遊びの活動のきざしを示す。彼らの性行動は無能である。欲望をもっていることはたしかだが、相手が慣れた構えで性行為を望んでも、身構えやテクニックは適切ではない。雌ザルのうち普通のやり方で妊娠した例はほとんどなく、雄の場合も同様である(Senko 1966)。妊娠して子を産み、母ザルになった場合、多くは自分の子に対して無関心であるか、残酷に虐待する。
*要約すると、部分的社会隔離条件での養育は、赤毛ザルの種に適切な行動の発達にきわめて重大な衰弱効果をもっている。サルがもっている社会的レパートリーは制限され、原始的なものであり、自分のからだに口で接触する、手足を用いて自分のからだを握りしめる、自己攻撃とか定型的行動などの異常行動を示すようになる。
《E 完全な社会隔離条件で育てると、後日どのような発達をとげるか》
・完全に社会隔離され育てられると、子ザルは身体的にも視覚的にもどの霊長類の種の成員とも接触を拒むようになり(Rowland 1964)、ある場合には聴覚的接触も拒むようになる(Sackett 1965)。
・生後3か月間完全に社会隔離されて育てられたサルは、その事態から脱け出すと、極端な抑うつ状態となる。しかし、もし社会的交渉をする機会が与えられると、その後正常な社会的発達をとげる(Boelkins 1963, GriffinとHarlow 1966)。
・生後6か月間以上社会隔離されて育てられると、その後激烈に一層破壊的な行動を示すようになってくる。遊び場に入れられても、ほとんど(普通に育てられた)他のサルと遊ぶということがなく、近寄らない(Rowland 1964, Harlow, Dodsworthおよび Harlow 1965)
・探索したり移動する行動が少なく、一層顕著で怪奇な行動を示す。すべて攻撃的行動をとるようになってくるが、自己に向けられた攻撃であるか、社会的事態においてその向け方が不適切な場合にいずれかである。赤ん坊ザルに対して攻撃したり、優越した成体の雄ザルに対して攻撃をかけたりする。(社会的になれっこになっているサルはやらない攻撃)
・性的には不適切であり、雌は母性的には無能力である。
*要約すると、完全な社会隔離はサルの適切な社会行動の発達に関して破壊的な永続効果をもっている。その有害効果は、隔離された期間に比例している。6か月間隔離されたサルは社会的順応がうまくいかず、1年間隔離されたサルは半動物的植物に過ぎず、自分自身をどの社会的事態においても防衛することができないように思われる(HarlowとHarlow 1968)。
*上記の研究ではっきりしてきたことは、初期における子ザルの社会的環境の性質は、後日の社会的発達におよぼす効果が大きいという点である。初期において母ザルまたは仲間ザルがいないと、微妙でしかも重大な変調をきたし、もしそうでなかったら正常な社会的発達をとげるのである。すべての社会的関係が否定されると、その後社会的発達は全くしかも永久的に衰えていく。
*子ザルの隔離操作が、出生時または生後まもなくはじめられると、それが年長になって操作されるよりも悪影響は少ないということは興味深いことである。生後6か月間社会的環境で育てられ、そして6か月間完全に社会隔離されてきたサルは、その後きわめて攻撃的な社会行動を示すが、それでもなおきちんとした遊びや適切な社会的刺激に対する性的反応を発展させうる(Clark 1968, MitchellとClark 1968)。一定の社会的環境に対してどのようにどれだけの期間当面していたかということが、その環境が特殊なサルの社会的発達におよぼす効果の決定因になってくる。

 以上が、【Ⅱ 社会的ディプリペーション環境下の養育から生まれてくる異常行動】の要約である。ディプリペーションとは「剥奪」というほどの意味だと思われるが、子ザルを実母ザルや仲間ザルから引き離して育てると、様々な「異常行動」をするようになる、という経過が「実証的に」述べられていて、たいそう興味深かった。その異常行動は、(隔離養育によって)本来の優性行動が保障されないために生じる。「反射行動」(すがりつき反射・吸啜反応)が阻害(剥奪)されると、自分のからだを抱きしめる、自分のからだに口で接触する。「社会的偏好」が阻害(剥奪)されると、集団から孤立する。「潜在的行動」(恐怖反応・攻撃反応)が阻害されると、探索や移動の激減、反復的で定型的な行動パタン(常同行動)、自己攻撃、性的行動不全、育児放棄などの徴候が顕著になる。これらの「異常行動」は、明らかに「隔離養育」という《環境要因》によって生じている。サルの事例をそのまま人間にあてはめることはできないにしても、母ザルや仲間ザルとの交渉を「剥奪」された子ザルの「異常行動」は、自閉症児の「異常行動」と「瓜二つ」であることに注目しなければならない、と私は思う。自分の手足で自分のからだを抱きしめる、自分のからだをいつも揺すっている、自分のからだを傷つける(自傷)、人見知りをしない、集団から孤立する等々、その「共通点」は明らかであろう。とりわけ、「自分のからだに口で接触する」行動は、人間の場合「指しゃぶり」と言われ、(母子接触を断たれれば)誰でもが行う「おなじみの」行為ではなかろうか。また、〈10歳になる部分的に隔離されたサルは目覚めているときはほとんどいつもぼんやりと外を見て家庭檻の前部に坐ってばかりいる。もし外部からの刺激作用をうけると、彼らはしばしば急に極端な自己攻撃や異様な定型的な活動をしだす〉という記述は、まさに「自閉症サル」といった様相で、少なくともサルという動物においては(隔離養育という)《環境要因》によって、自閉的症状が生じるという明確な証明である、と私は思った。(2014.3.15)
障害乳幼児の発達研究 (精神医学選書)障害乳幼児の発達研究 (精神医学選書)
(2008/10)
J. ヘルムート、 他

商品詳細を見る




にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村

「障害乳幼児の発達研究」抄読・《1》 子ザルの異常な社会的行動(1)

「障害乳幼児の発達研究」(J・ヘルムート編・岩本憲監訳・黎明書房・昭和50年)を抄読する。今から39年前に発行された本だが、その内容は(私にとって)斬新である。と言うのも、それ以後、科学技術の進歩はめざましかったが、その方向は分子生物学の分野に偏りがちであり、人間のありかたを「総体」として捉えようとする姿勢が減退していったように、私には思われる。例えば、自閉症に関する生物学的研究や遺伝(子)研究が、その端的な例だが、研究者の目は、自分自身の肉眼よりも、コンピューターによる脳波解析、物理工学テクノロジーに基づいたCTスキャン、MRI、PETによる画像診断、光学顕微鏡による染色体の確認、採血によるDNA鑑定などなどに依存しすぎ、明解な成果を見出せぬまま、いわば自縛的な混迷状態から脱出できないでいる、というのが現状ではないだろうか。そんな折り、本書の巻末に収録されている論文「子ザルの異常な社会的行動」(スティーブンJ.スウオミ、ハリーF.ハーロウ)は、たいそう魅力的な内容であった。人間の子どもを、生後まもなく「社会的な環境」から隔離して育てたらどうなるか、おそらく「異常な社会的行動」が生じるであろうことは「強く推測」されるが、それを実験・実行することは許されない。そこで、対象を赤毛ザルに代えて実験した結果が報告されている。なお、この論文は発達心理学者、障害児教育関係者にとってはあまりにも有名、斯界の「必読文献」として、いわば「古典」的価値を有している、と私は思う。以下、その内容をかいつまんで要約する。

《子ザルの異常な社会的行動》
【序】
・生後すぐに完全に社会的隔離状態におかれると、それが後日の社会的発達におよぼす効果といった(そのような)理論的問題は《仮説的》に人間の被験者に関してのみ考えられうるが、動物の霊長類では、これらの問題は仮説的ではなくて《実証的》にとりあげられうるのである。
・自由な野外環境では発達上の行動異常は例外であり、まれにしか観察できないが、実験室の経験をすると本当に“正常な”社会的発達をとげる被験体は生まれ育たない(Jay 1965)。野生で、同腹の子ザルと一緒に育ったサルが出くわす環境と同じ環境を提供できる実験室は世界のどこにもない。
・この章でとりあげられる赤毛ザルにとっては“標準的な”野生環境というものはない。自由区域の赤毛ザルはインドのジャングルの森の中でも、また市街地でも見られる、市街地の赤毛ザルが示す行動のある社会的側面は、森の中で生活しているサルの社会的側面とかなりかけはなれたものである(Singh 1969)。これと対照的に、赤毛ザルの知的行動は、インドの森または市街地から来たサルであろうと、アメリカの実験室で育てられたサルであろうと、本質的に同じ結果を示したのである(Singh 1969, Harlow, Schiltz および Harlow 1968)。換言すれば、赤毛ザルにとっての“正常な養育環境”を定義することは、人間にとっての正常な養育環境を定義するのと同様ほとんど意味がないのである。どの野生環境であっても、サルの一貫的行動によって正常性を定義する方が、その行動に先立つ環境要因によって定義するよりも、もっと有意味なことではなかろうか。
・正常な行動の発達とは、赤毛ザルの野外観察においてみられたきたような行動パタンのことである。Wisconsin霊長類研究所の研究者は、実験室の子ザルが野生養育条件下の子ザルにみられる社会的行動の発達と本質的に同じものを示すような養育の範例を工夫した。反対に、これらの範例を変容させたり分裂させたりすることによってサルの社会的発達を規準的パタンから逸脱させることができる。これらの逸脱の形式、すなわちサルの示す行動異常が本章の根幹になるだろう。
・本章は4部に分かれている。第1部では、養育経験とはかかわりなくすべての赤毛ザルが示す行動、実験室の環境で母ザルや仲間と広く交渉をもつ機会を与えられたサルの“正常な”社会的発達について取り扱われる。第2部では母ザルや仲間ザルと一緒の養育範例の要素を取り除いたり、変容させることによってどのような行動がおきるかについて取り扱われる。第3部では、赤毛ザルの特殊な形式の精神病理学的行動すなわち抑うつをわざわざつくり出し、そのデータが紹介される。第4部では、不完全な初期の社会的経験のために、異常、すなわち現実には存在しない社会的行動を示すようになったサルにリハビリテーションを行うための前向きの努力について取り扱われる。
・われわれはただデータを提出し、ここでひき出されるどんな類推も厳密には読者の判断にまかせたいと思っている。
【Ⅰ 優性行動と“正常な”社会的発達】
・赤毛ザルは、生下時には比較的無力な動物であるが、数ヶ月もたってくると幅ひろい世話を要求しつづけるようになってくる。
・赤毛ザルは、多くの優性行動パタンや反応傾向をそなえて世の中へ出てくる。
(a)反射タイプの行動は、生下時、その直後にあらわれ、動機づけの要因とは比較的独立している。
(b)生まれたての赤ん坊ザルが自由選択事態におかれると一貫した社会的偏好がみられる。(c)潜在的行動パタンは、生下時ではなくて幼少期の終わり頃にあらわれる。
・われわれは、これらのパタンを非学習性または優性行動パタンとよぶ。
A 反射行動
・赤毛ザルは胎内にいるとき、あるいは生後すぐに①すがりつき反射(腹部の表面を他のサルのからだに接触させること)と②捜索吸啜反応の2つの重要な反射行動をあらわす。そのような反射行動によって子ザルは母ザルと親しく身体接触を保ち、母親から栄養を取ることができる。子ザルを平たくて固い平面に上向きに寝かせてみると、すぐさまうつ伏せの姿勢になる。そのとき、柔らかいものでおおわれたものがあれば、そのまま背中をつけてそれにぴったりとくっつけてしまう(MowbrayとCadell 1962)。このことは、脊椎動物におけるすべての反射体系のうちで最も主要で共通のものとしてみられている平衡復帰反射としてのすがりつき反射の優性遺伝を示しているのである(Hnmburgur 1963)。
・生まれたての赤ん坊ザルの顔、口の付近を刺激してやると口による接触がなされるまでは頭を両側にあるいは縦に回転させたりする。しかし、すぐさま吸啜するようになる(HarlowとHarlow 1965)。
・赤毛ザルは正常な社会的行動を発達させるものもそうでないものもすべて生下時にあるいは生後まもなくすがりつき反応や吸啜反応を示す。
B 社会的偏好パタン
・子どもの赤毛ザルは、選択状態におかれると、たとえ以前に1度もどの種の成熟したサルに当面していなくても、赤毛ザルにきわめてよく似た弁髪のある成熟した雌のマカークザルまたは短毛のマカークザルよりも成熟した赤毛ザルへの偏好を示す(Sackett,SuomiおよびGrady 1968, Sackett 1970)。同時に、赤毛ザルの子ザルは、以前に見るという経験をしていなくても、成熟した雄の赤毛ザルよりも成熟した雌の赤毛ザルの方を好む(Suomi, Sackettおよび Harlow 1970)。
・最初の1か月以内に社会的経験をすると、これらの非学習性の偏好が変わりうるのだという結果(Sackett Porterおよび Holmesu 1965)があるが、これは後の時期の正常または異常な社会的行動をもたらすかもしれない要因がすでにこの初期にあらわれているという点で重要な意味をもっている。
C 潜在的行動パタン
・優性反応には、生下時には示されないがずっと後になってあらわれてくる行動があり、これは、明らかに以前のまたは現存の環境条件とは別のものである。そのような2つの行動は恐怖反応と攻撃反応とである。
・赤毛ザルの種(Altman 1962)では、しかめ面をしたり連合発声をするといった恐怖反応は、完全な社会隔離状態で育てられた(Sackett,1966)とか、母ザルや仲間ザルと一緒に育てられた(Harlow, Harlowおよび Hansen 1963)ということとはかかわりなく70日から110日の間にかけてあらわれてくる。つぎに、攻撃反応(“暴力的威嚇”や、かみつき)はおよそ6か月になってはじめてあらわれるが、うまく社会化された子ザルの場合、1年たつまでは比較的おだやかな行動である(Rosenblum, 1961)。
・これら2つの反応体系の出現は、子ザルの現在の行動レパートリーに統合されていくが、その統合のされ方は後の発達にとって決定的な役割を果たす。われわれの仮定としては、恐怖反応の種に適切な社会発達への統合は、母ザルまたは代用母ザルの存在によって促進されるということ、攻撃反応の適切な社会的活動への統合は、年長の仲間ザルと遊ぶことによって促進されるということ、そして母ザルまたは代用母ザルがいない社会的環境、または仲間ザルと交わる機会に欠けている社会的環境で育てられた子ザルは、後には異常な社会的行動をたしかに示すだろうということである。換言すれば、種の規準的な社会的発達にとって、子ザルの環境について最小限度社会的に必要とされることは、ある形式の母ザルがいることと仲間がいるということである。
・実験室内の「遊び場装置」で、生後1年間母ザルと子ザルが生活した経過を観察した結果、以下のことが明らかになった。
*赤毛ザルの子ザルは、母ザルと身体接触をしながら、両腕に抱かれて揺すられながら最初の1か月を過ごす。
*最初の1か月までに、子ザルは母ザルと短時間はなれて自分のまわりの世界を探索しはじめるようになる。
*子ザルが母ザルの保護的なだっこからはなれる程度は、母ザルの許可の関数としてみられる。母ザルの態度はたえず時間とともに変わってくるが、2か月になると子ザルの回復反応は最大に達し、4か月までに母ザルは子ザルを外の世界におしやってしばしば拒絶する。その結果、子ザルが母ザルと接触して費やす時間の量は2か月後には急に減少していく。これは、探索しようとする子ザルの熱心さが増していくことと、子どもを揺すって保育していく母ザルの熱心さが減少することとの間の交互作用に基づくものである。
*子ザルの探索行動の発達は2か月目に入ると急速に増加しはじめてくる。子ザルは母ザルを基地として、無生物の遊具や生き物の遊び仲間を調べるために、遊び場に短時間侵入する。しかし、立腹刺激を与えると、子ザルは母親のもとへチョコチョコと走って戻ってくる。母ザルは子ザルにとって安全な基地となっているのであり、子ザルの恐怖反応が生じる時期では非常に重要な役割を果たしている。母ザルから隔離された3か月の子ザルが恐れると思われる刺激を、子ザルと母ザルが一緒にいるときに与えると、こんどは類似の恐怖反応は生じてこない。
・8か月ないし10か月までに、遊びはサルの行動レパートリーを支配するようになり、成長するにつれてだんだん攻撃的になり性的な面も発達をとげてくる。この時期までに性的役割が分離してくる。8か月の雄は同性の仲間ザルを選ぶが、8か月の雌もやはり雌の仲間ザルを選ぶ(Suomi, Sackett および Harlow 1970)。遊び場では、雄と雄と一緒に遊ぶ傾向が強く、遊びは攻撃的であり、乱暴でもつれ合った遊びである。8か月の雌はまれに雄と遊びはじめるが、その遊びは主として接触のない遊びである。
・生後1年の終わりまでに、攻撃的ならびに性的行動は、母ザルや仲間ザルと交わって育てられているうちにうまく統合されていく。遊びは子ザルの活動性を支配しつづけ、母ザル指導型の行動は減少しつづけ、自分のからだに口で接触するとか、手足を用いて自分の
からだを握りしめる行動とか、定型的なゆすりの行動などは事実上なくなってくる。
・最初の1年間母ザルや仲間ザルの中で育てられてきたサルは、後になって同種の他のサルと交わる機会が与えられると十分な社会的行動を示しつづける。あからさまな攻撃によるというよりもむしろ威嚇とかしかめっ面をするとか、ねらいをつけるといったような一風変わった身振りによる社会的な指図をして、非常に安定した優位ハイラーキーを急速に確立していく。性的に成熟してくると、これらのサルはもっと熱心になり悪ずれしてくる(Senko 1966)ようになり、実験室で生まれた多くの霊長類と対照的にそういう行動をたやすく再現していく。母ザルや仲間ザルの中で養育された雌ザルは、一般的にはすぐれた母ザルになってくる(Harlow, Harlow, Dodsworth および Arling 1966)。
・最初の1年間に広範囲の母性的経験や仲間ザルとの経験をもった赤毛ザルは、実験室で生まれて初期に十分な社会的経験を与えられていない霊長類がもっているような重厚な行動異常をめったにあらわすことはない。過度に自分のからだに口で接触するとか、自己攻撃をするとか、手足を用いて自分のからだを握りしめるとか、強迫的な揺すりとか、定型的な動揺を伴った握りしめなどはめったにおこらない。
・母ザルや仲間ザルの中で育てられたサルは、野生の環境で観察されたサルにまったく匹敵している(Altman 1962, Imanisi 1963, Koford 1963, Southwick, Berg および Siddiqi 1965)
・出生後すぐ母ザルや仲間ザルがいる社会的環境で育てられたサルは、種にとって規準的社会的行動というような範囲内での行動パタンを発達させていくことができる。

 以上が、第1部の要点である。著者らは「序」で〈第1部では、養育経験とはかかわりなくすべての赤毛ザルが示す行動、実験室の環境で母ザルや仲間と広く交渉をもつ機会を与えられたサルの“正常な”社会的発達について取り扱われる〉と述べているが、「子ザルが“正常な”社会的発達」を遂げるためには、①母ザル(または代用母ザル)が必要なこと、②子ザルの生得的な「すがりつき反射」「吸啜反応」が母ザルとの「身体接触」の中で保障されること、③母ザルは子ザルの潜在的行動パタンである「恐怖反応」に対して、「安全基地」の役割を果たすこと、④また「攻撃反応」は、仲間ザルとの「遊び」によって適切に調整されること、といった条件をクリアする必要があることが、明解に「実証」されていた。サルが成体に成熟するまで5~7年かかると言われている。人間が成熟するまでには15~18年かかるとして、約2~3倍の速度で発達するが、だとすれば、サルの生後1年間は、人間の生後2~3年間に相当する、などと考えながら、とりわけ〈子ザルが母ザルの保護的なだっこからはなれる程度は、母ザルの許可の関数としてみられる。母ザルの態度はたえず時間とともに変わってくるが、2か月になると子ザルの回復反応は最大に達し、4か月までに母ザルは子ザルを外の世界におしやってしばしば拒絶する。その結果、子ザルが母ザルと接触して費やす時間の量は2か月後には急に減少していく。これは、探索しようとする子ザルの熱心さが増していくことと、子どもを揺すって保育していく母ザルの熱心さが減少することとの間の交互作用に基づくものである〉。〈子ザルの探索行動の発達は2か月目に入ると急速に増加しはじめてくる。子ザルは母ザルを基地として、無生物の遊具や生き物の遊び仲間を調べるために、遊び場に短時間侵入する。しかし、立腹刺激を与えると、子ザルは母親のもとへチョコチョコと走って戻ってくる。母ザルは子ザルにとって安全な基地となっているのであり、子ザルの恐怖反応が生じる時期では非常に重要な役割を果たしている。母ザルから隔離された3か月の子ザルが恐れると思われる刺激を、子ザルと母ザルが一緒にいるときに与えると、こんどは類似の恐怖反応は生じてこない〉という記述に、特段の興味をそそられた。(2014.3.12)
障害乳幼児の発達研究 (精神医学選書)障害乳幼児の発達研究 (精神医学選書)
(2008/10)
J. ヘルムート、 他

商品詳細を見る




にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村

NHKテレビ「君が僕の息子について教えてくれたこと」の《問題》

午後11時からのNHKテレビ「君が僕の息子について教えてくれたこと」を途中から観た。NHKのホームページには、以下のような番組紹介が載っている。〈いま無名の日本人の若者が書いた1冊の本が世界20カ国以上で翻訳され、ベストセラーになっている。タイトルは「The Reason I Jump」(日本題:「自閉症の僕が跳びはねる理由」)。著者は、当時13歳の東田直樹さん、日本で7年前に出版された、自閉症である自分の心の内を綴ったエッセイである。自閉症者自らが語る極めて画期的な作品だったが、ほとんど話題になることはなかった。それがなぜ突然、7年もたって、遠くイギリスやアメリカでベストセラーとなったのか。この本を英訳したのは、アイルランド在住の作家デイヴィッド・ミッチェル氏。彼にも自閉症の息子がいる。日本語教師の経験があるミッチェル氏は、東田さんの本を読んでまるで息子が自分に語りかけているように感じたと言う。息子はなぜ床に頭を打ちつけるのか、なぜ奇声を発するのか、息子とのコミュニケーションをあきらめていたミッチェル氏に希望の灯がともった。そしてミッチェル氏の訳した本は、自閉症の子どもを持つ、世界の多くの家族も救うことになった。ミッチェル氏はこの春に来日、東田さんと感動の対面を果たした。これは、日本の自閉症の若者と外国人作家の出会いから生まれた希望の物語である。〉
 私自身も、この本が出版されて間もなく拝読し、大きな感銘を受け、その紹介文を綴ったおぼえがあるが、「ほとんど話題になることはなかった」。《それがなぜ突然、7年もたって》という思いは私も同感だが、番組を見終わっても、その「謎」はいっこうに解けなかった。つまり、この「自閉症者みずからが語る極めて画期的な作品」が、なぜ《その時に》《日本国内で》話題になることはなかったのか。そのことの方が問題である、と私は思う。当時、私は紹介文で以下のように綴った。〈私より以前に彼のことを知っていた人たちも少数ながらいました。彼らに「どうしてこれまで話題にされなかったのか、画期的なできごとではないか」と尋ねましたが、その反応が実に「あいまい」なのです。極言すれば、それらの著書は「信用できない」ということなのでしょう。つまり、日頃の彼の生活ぶりを見ると、「そのような文章表現ができるわけがない」という判断をしているのだと思います。私自身も『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』という本を一読して驚嘆しました。<はじめに>では、「自閉症の人の心の中を僕なりに説明することで、少しでもみんなの助けになることができたら僕はしあわせです」「人は見かけだけでは分かりません。中身を知れば、その人ともっと仲良くなれると思います」などという文章が載っています。とても、「障害のある」中学生の文章とは思えません。しかし、私は「信じたい」と思います。なぜなら、「自閉症の人の心の中」を知りたいからです。また、「障害児・者」と呼ばれる人たちの「可能性を信じたい」からです〉。東田直樹氏の作品が信用できるか、できないか、それを判断するのは読者の自由だが、少なくとも国内で「画期的」と評価されることはなかった。それはなぜか、を究明することこそがNHK番組制作担当者の「責務」であるはずである。また、番組に登場した専門家・杉山登志郎氏は(私には沈痛と思える表情で)、直樹氏にMRI検査を依頼、「それが治療に役立ちますか」という問いかけに「あなたの治療に直接役立つことはありません。でも、他の自閉症の人たちを診断する際には役立つでしょう」と答えていたが、検査後のコメントが「できないことではなく、できることに注目、その部分を伸ばす治療を行うべきだ」という程度では、納得できない。いずれにせよ、今、国内の専門家・親たちが彼の「作品」をどのように評価し、そこから何を「教えてもらったか」を明らかにしなければ「片・手落ち」のそしりを免れることはできぬであろう。(2014.8.16)
自閉症の僕が跳びはねる理由―会話のできない中学生がつづる内なる心自閉症の僕が跳びはねる理由―会話のできない中学生がつづる内なる心
(2007/02/28)
東田 直樹

商品詳細を見る




にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村

「言語学習能力診断法」(チェックリスト)をどのように活用するか

「言語学習能力診断法」(チェックリスト)をどのように活用するか

1 チェックリストの構成
対象児の実態を見るのに,「学習態勢」「学習能力」という二つの観点を設けている。
「学習態勢」は,実用可能な「学習能力」を身につけるための土台である。したがって,学習態勢が不十分なまま学習能力を身につけている場合,対象児はその能力を社会生活の中で十分に使いこなせないだろう。
まず「学習態勢」と「学習能力」のバランスを見ることが大切である。
対象児の学習態勢を見るのに,「やりとり」「着席」「集中持続」「模倣」「学習課題の理解・結果の正誤弁別」という五つの観点を設けている。中でも,「やりとり」「集中持続」「模倣」は学習態勢を確立する上で,不可欠の能力だと考える。それらを土台にして,「着席」しての学習活動が可能になるからである。
対象児が同年齢の集団の中で生活したり,学習したりできるかどうかは,「学習態勢」が十分に確立しているかどうかを見ればわかるだろう。集団への不適応,学習への不参加,不登校などの問題が生じている対象児の実態把握に活用したい。
対象児の「学習能力」を見るのに,「聞く能力」「見る能力」「書く能力」「話す能力」
という四つの観点を設けている。                          もっとも大切な観点は,「聞く能力」である。発達的に見ても学習的に見ても,言語学習の第一歩だからである。ヒトは胎児の時代から,母親の心音や音声を聞き分けているといわれている。(小久保正大)したがって,ことばを十分に使いこなせない対象児の場合,「聞く能力」が不十分であることを予測する必要があるだろう。
「聞く能力」は,感度,弁別力,記銘力,分析力,統合力,構成力,聴解力という七つの過程から形成される。(谷俊治)
医学的な聴覚障害がある場合は,まず感度,弁別力に支障が生じていることは明らかである。それが,記銘力,分析力,統合力,構成力といった過程に影響し,結果として聴解力の発達や学習を妨げることになるだろう。感度(聴力)が正常な場合でも,弁別力や記銘力に支障が生じている場合が考えられるので,対象児の実態を的確に把握することが大切である。
「聞く能力」の弁別力,記銘力,分析力,統合力は,「見る能力」「書く能力」の文字学習を土台から支えている。「あ」という文字を見て「ア」と音声化(音読)できるのは「ア」という音と「オ」という音を聞き分けることができているからである。「ア」という音を聞いて「あ」という文字が書けるのも同様である。さらに,「ねこ」という文字を見て「ネコ」と音声化(音読)できるのは,「ネ」「コ」という自分の発音を記銘し,それを「ネコ」と統合化できるからである。そのことで同時に「猫」という意味の理解が可能になり,聴解力(読解力)が養われることになる。また,「カラス」という音を聞いて,「からす」と書けるようになるためには,「カラス」という一まとまりの音を「カ」「ラ」「ス」という三つの音(音節)に分ける分析力が必要である。文字の読み書きが十分でない対象児の場合,以上の実態がどうなっているか的確に把握したい。
また,「聞く能力」の「弁別力」「記銘力」は,「話す能力」の発声,構音(発音),発語の能力に直結している。対象児の発音が気になる場合,まず「弁別力」「記銘力」の実態を明らかにすることが鉄則である。私たちが,外国語をスムーズに話せない要因は,「弁別力」や「記銘力」が不足しているからである。誰であっても,聞き取れない,聞き分けられない,聞き覚えられないことばを話すことはできないはずである。
「聞く能力」の「構成力」「聴解力」は,対象児の会話能力を土台から支えている。「構成力」は「記銘力「統合力」を土台として,例えば「スベリダ・・」という音を途中まで聞いて「イ」という音を類推し,「滑り台」という意味を推理する能力である。私たちの日常会話は,書きことばと違って,多少の不完全や誤りがあっても伝達が可能である。久しぶりに対面した相手と「どう?,元気?」「ええ,何とか」などとことばを交わすことがあるが,意味のやりとりとしては不完全である。それでも十分にやりとりが成立するのは,言外に相手の気持ちや考えを推理し,補っているからに他ならない。不十分な情報を補って聞く「構成力」は,言語学習能力の中で最も重要な役割をはたしていると考えられる。「聴解力」が正確な意味のやりとりを目的とした会話能力に不可欠であることはいうまでもないだろう。
以上,「学習能力」の中で最も大切な「聞く能力」という観点について述べた。
他の「見る能力」「話す能力」「書く能力」については,つねに「聞く能力」との関連を考えながら,実態を把握することが必要である。
「学習能力」の実態は,「学習態勢」の実態を土台にしているが,学習能力の実態が学習態勢に影響を及ぼしている場合もある。医学的な視覚障害,聴覚障害,運動機能障害,その他の疾患をともなう対象児の場合には,「聞く能力」「見る能力」が不十分で「やりとり」「集中持続」「模倣」がスムーズにできないこともあるだろう。
大切なことは,大別した二つの観点で把握した結果を再度吟味し,今,対象児はどんな状態にあるのか(どんなことが,どこまでできるのか,それはいつでも,どこでも,誰とでもできるのか,できたりできなかったりしているのはどんなことか,明らかにできないことはどんなことか)を把握し,「できること」と「できないこと」の相互関係,因果関係を考察することである。なぜできないのだろう,どうすればできるようになるだろうか,できない原因は何か,こうすればできるようになるのではないか,といった試行錯誤を執拗に繰り返し続けることが,解決への糸口を見つけることになるだろう。
言語障害治療学 (1966年)言語障害治療学 (1966年)
(1966)
田口 恒夫

商品詳細を見る

>


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村



言語学習能力診断法・《チェックリスト》

言語学習能力診断法
             ・・・チェックリスト・・・


1 学習態勢

   「やりとり」はできるか
  ① 表情で「やりとり」できるか ・ 相手の顔を見るか
                  ・ 視線は合うか
                  ・ にっこりすると,にっこりするか
                  ・ 恐い顔をすると,行動が変化するか
  ② 行動で「やりとり」できるか ・ 近づいてくるか
                  ・ 体に触ってくるか
                  ・ 手を差し出してくるか
                  ・ 手をつなぐか
                  ・ 抱っこされるか
                  ・ 指差した方を見るか
                  ・ 指差すか
  ③ 物で「やりとり」できるか  ・ 物を手渡すと受け取るか
                  ・ 物を手渡すか
                  ・ キャッチボ-ルが続けられるか
                  ・ 二人で物が運べるか
                  ・ 二人で物を作れるか
                  ・ 流れ作業ができるか
  ④ 声で「やりとり」できるか  ・ 声のする方を見るか
                  ・ 声がすると声を出すか
                  ・ 声がするとその声をまねしようとするか

   着席できるか
  ① 5分間,着席できるか    ・ 着席して物に注目できるか
                  ・ 着席して玩具を使えるか
                  ・ 着席して画面に注目できるか
                  ・ 着席して音声に注目できるか
  ② 10分間,着席できるか   ・ 着席して,行動で「やりとり」できるか
                  ・ 着席して,物で「やりとり」できるか
  ③ 10分~30分間,着席できるか

   集中持続できるか
  ① 5秒間,集中できるか    ・ 静止していられるか    
                  ・ 目をつぶっていられるか
                  ・ 物,画面等を見続けられるか
                  ・ 音声を聞き続けられるか  
  ② 10秒間,集中持続できるか          
  ③ 30秒間,集中持続できるか
  ④ 1分間,集中持続できるか
  ⑤ 5分間,集中持続できるか
  ⑥ 15分間,集中持続できるか

   相手の動作や音声を模倣できるか
  ① モデルに注目できるか
  ② 介助に従うか
  ③ 同時模倣できるか
  ④ 遅延模倣できるか

   学習課題を理解し,学習の結果を正誤弁別できるか
  ① 今,何をすればよいか,わかるか
  ② 今,しなければならないことを,できるか
  ③ 自分のしたことが,それでよかったかどうか判断できるか
  ④ 結果が誤っていたとき,やりなおそうとするか
  ⑤ やりなおして,正しい結果を得ることができるか

2 学習能力

   聞く能力
  ① 感度        ・ 音がした方を見るか(音源を探すか)    
              ・ 音が聞こえたら手を挙げるか(ボタンを押すか)   ・ 音がしてから反応するまでの時間はどれくらいか   ・ 反応は一定(確実)か           ・ 純音聴力検査は「上昇法」「下降法」のどちらが適して いるか  
              ・ 気導と骨導の聴力に差はないか      
  ② 音を聞き分ける   ・ 音の大きさを聞き分けられるか      
              ・ 音の高さを聞き分けられるか       
              ・ 音の長さを聞き分けられるか       
              ・ 音の速さを聞き分けられるか       
              ・ 社会音を聞いて何の音かわかるか     
              ・ 楽器音を聞いて何の音がわかるか     
              ・ 動物の鳴声を聞いて何の声かわかるか    
              ・ 人間の声を聞いて誰の声かわかるか    
              ・ 擬音語を聞いて何の音かわかるか     
              ・ 擬声語を聞いて何の声かわかるか     
              ・ 単語を聞いて何のことかわかるか     
                一音節の単語(木,手,歯,目,火など)    
                 名詞,動詞              
              ・ 句を聞いて何のことかわかるか      
                 形容詞+名詞  副詞+動詞      
              ・ 文を聞いて何のことか分かるか      
                 名詞,動詞,形容詞,副詞,助詞,助動詞    
              ・ 必要な「ことば」を聞き分けられるか    
              ・ 騒音の中で「ことば」を聞き分けられるか    
              ・ 作業しながら「ことば」を聞き分けられるか    
              ・ 録音した声を聞き分けられるか      
  ③ 音を記銘する    ・ 音の数を聞き分けられるか        
              ・ リズムを聞き分けられるか        
              ・ メロディ-を聞き分けられるか      
              ・ 2つの単語を聞いて憶えられるか     
              ・ 3つの単語を聞いて憶えられるか     
              ・ 4つの単語を聞いて憶えられるか     
              ・ 5つの単語を聞いて憶えられるか     
              ・ 句や文を聞いて憶えられるか       
              ・ 電話番号を聞いて憶えられるか      
              ・ 歌を歌えるか              
              ・ 50音を暗唱できるか
  ④ 語音を分析する    ・ 2音節の単語の中の1音節を聞き分けられるか   
・ 3音節の単語の中の1音節を聞き分けられるか   
  (語頭,語中,語尾)          
              ・ 「しりとり」遊びができるか       
              ・ 清音と濁音を聞き分けられるか
              ・ 促音,拗音,長音,拗長音を聞き分けられるか
  ⑤ 語音を統合する   ・ 「しりとり」遊びができるか       
・ 2つの音節をバラバラに聞いて1つの単語を思い浮か べられるか
              ・ 3つの音節をバラバラに聞いて,1つの単語を思い浮 かべられるか           
  ⑥ 語音を構成する   ・ 単語を聞いて他の単語を思い浮べられるか     
               (連想できるか)             
              ・ 修飾語を聞いて,被修飾語を思い浮べられるか   
              ・ 主語を聞いて,述語を思い浮べられるか    
              ・ 不完全な文を聞いて,その意味を想定できるか
              ・ 質問文に答えられるか
              ・ 対話ができるか


   見る能力
  ① 感度        ・ 明暗がわかるか             
              ・ 物の動きを目で追うか          
              ・ 線が見えるか              
              ・ 焦点が合うか(見つめるか)       
  ② 見分ける      ・ 色の違いがわかるか           
              ・ 平面の図形の違いがわかるか       
              ・ 立体の図形の違いがわかるか       
              ・ 人間の顔の違いがわかるか        
              ・ 地の中で図に注目できるか        
              ・ 地図がわかるか             
              ・ 物の上下左右がわかるか         
              ・ 文字の違いがわかるか
              ・ 文字の上下左右がわかるか
              ・ 2文字以上の配列の違いがわかるか
  ③ 見て記銘する    ・ 物を見て,隠された場所がわかるか    
              ・ 2つ以上の物を見て,何が見えたかわかるか    
              ・ 物を順に見て,順どおりに再現できるか    
              ・ 2文字以上の配列を再現できるか
  ④ 見て類推する    ・ 写真を見て,実物がわかるか       
              ・ 絵を見て,実物(写真)がわかるか    
              ・ 略画を見て,実物が(写真,絵)がわかるか    
              ・ 地図を見て,その意味がわかるか
・ 表意文字を見て,実物(写真,絵)がわかる                  ・ 表音文字を見て,実物(写真,絵)がわかるか   
⑤ 見て分析・統合する
・ 図や絵の細かい部分まで見て,違いがわかるか
・ 影絵を見て,何の絵かわかるか      
              ・ 図形の側面図を見て,何の図形かわかるか    
              ・ 図形の展開図を見て,何の図形かわかるか    
              ・ ピクチャ-パズルができるか       
              ・ 漢字の部首がわかるか          
  ⑥ 文字を見て音読する ・ 漢字の配列(名前カ-ド)を見分けられるか
              ・ 漢字の配列(名前カ-ド)を見て,音読できるか
              ・ 名前の氏と名を聞いて,漢字を見分けられるか
              ・ 漢字の配列(氏と名の漢字カ-ド)を見て,音読でき るか
              ・ 名前の氏と名を聞いて,かな文字を見分けられるか
・ かな文字の配列(氏と名の文字カ-ド)を見て,音読 できるか            
              ・ 50音を行ごとに聞いて,行の文字を見分けられるか
              ・ かな文字の配列(行の文字カ-ド)を見て,音読でき るか
              ・ 50音を1音ずつ聞いて,その文字を見分けられるか
              ・ 平がなの文字カ-ドを1字ずつ見て,音読できるか
               (かな文字の拾い読みができるか)
              ・ 2字以上のかな文字の配列を見て,音読できるか
               (単語,句,文のまとめ読みができるか)
              ・ 漢字かなまじり文を見て,音読できる
  ⑦ 文字を見て微音読する。
  ⑧ 文字を見て黙読する。


   書く能力
  ① 握る,持つ,つまむ ・ エンピツ等を握れるか
  ② 塗る        ・ クレヨン等で塗りつぶせるか
              ・ クレヨン等で塗り分けられるか
  ③ 描く        ・ エンピツ等でなぐり書きができるか
              ・ エンピツ等で線が引けるか
              ・ 点と点を線で結べるか
              ・ +,×等の図形を描けるか
              ・ 丸,三角,四角等の図形を描けるか
              ・ 絵が描けるか
  ④ 書く        ・ かな文字をなぞって書けるか
              ・ かな文字を見て,書けるか
               (1字,2字,3字,4字,5字)
              ・ 1つの語音を聞いて,かな文字で書けるか
              ・ ひらがな50音を暗唱して,書けるか
              ・ 濁音,半濁音を聞いて,かな文字で書けるか
              ・ 単語を聞いて,かな文字で書けるか
              ・ 促音,拗音,長音を聞いて,かな文字で書けるか
              ・ 拗長音を聞いて,かな文字で書けるか
              ・ 「絵カ-ド」を見て,単語が書けるか
              ・ 「絵カ-ド」を見て,句が書けるか
              ・ 「絵カ-ド」を見て,文が書けるか
              ・ 場面の絵を見て,作文できるか
              ・ 出来事を思い出して,作文できるか
              ・ 用件にもとづいて,手紙が書けるか

話す能力
  ① 発声する      ・ 他人に聞こえるような声で泣くことができるか
              ・ 必要に応じて泣き声を変化させることができるか
              ・ 泣く時以外に,声を出すか
              ・ 声で他人を呼ぶか
              ・ 声を出すことが好きか
              ・ あやすと笑うか
  ② 構音する      ・ しゃぶることができるか(唇の動き)    
              ・ 吸うことができるか(舌の動き,口蓋の様子)
              ・ なめることができるか(舌の動き)     
              ・ 飲み込むことができるか(口蓋の様子)   
              ・ 噛むことができるか(歯の様子)      
              ・ いろいろな音をだすか(喃語,ジャ-ゴン)
              ・ 「ア-」という音を3秒以上出し続けられるか
              ・ 「パ」「バ」「マ」という音を出せるか
              ・ 「タ」「ダ」「ナ」という音を出せるか
              ・ 「カ」「ガ」という音を出せるか
              ・ 「チャ」「ジャ」「シャ」という音を出せるか
              ・ 「サ」「ザ」という音を出せるか
              ・ 「ハ」という音を出せるか
              ・ 「ヒ」という音を出せるか
              ・ 「ラ」という音を出せるか
  ③ 発語する      ・ 語調のまねをするか
              ・ 「パパ」「ママ」「ネンネ」「ブ-ブ」等と言えるか
              ・ 出している声のまねをして聞かせると,同じ声をくり
               かえして出そうとするか
              ・ 「ウン」「イヤ」等,同意,不同意の気持ちを声であ
               らわすか
              ・ 指を差し,声を出し,相手の顔を見て要求するか。
              ・ 単語で話しかけてくるか
              ・ 「これは何」と尋ねると,単語で答えるか
              ・ 「どうしたの」と尋ねると,単語で答えるか
              ・ 「どっち」と尋ねると,単語で答えるか
              ・ 二語文で話すか(パパ・カイシャ等)
              ・ 助詞を入れて話すか(ボク・ノ等)
ITPAの理論とその活用―学習障害児の教育と指導のためにITPAの理論とその活用―学習障害児の教育と指導のために
(1975/01)
旭出学園教育研究所

商品詳細を見る



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村



「大阪維新の会・家庭教育条例を撤回」・《不毛な対立》

東京新聞朝刊(24面)に「維新の会 家庭教育条例案を撤回」という見出しの記事が載っている。その冒頭文は以下の通りであった。〈橋下徹大阪市長が代表を務める「大阪維新の会」の市議団が、議会に提案予定だった「家庭教育支援条例案」の撤回を決めた。「発達障害は親の愛情不足が原因」などとした内容に批判が相次いだためだ。差別を助長するような規定は問題外だが、行政が家庭内の教育方法に踏み込むことへの抵抗感も強い。条例案が目指したものとは何なのか。(秦淳哉)〉。以下の記事では、条例案の目的は「保育、家庭教育の観点から、発達障害、虐待等の予防・防止に向けた施策を定める」との由、問題はその中身だそうである。曰く、〈十五条では「乳幼児期の愛着形成の不足が軽度発達障害またはそれに似た症状を誘発する大きな要因」とし「それが虐待、非行、不登校、引きこもり等に深く関与している」と一方的に決めつけた〉。〈十八条でも「わが国の伝統的子育てによって発達障害は予防、防止できる」とまで言い切った。さらに「子育ての知恵を学習する機会を親およびこれから親になる人に提供する」と規定。伝統的な子育ての内容は不明だが、まるで子育ての方法が悪いから発達障害になった、と言わんばかりだ〉。これに対して、〈自閉症など発達障害の子どもを持つ保護者会は「偏見を助長する」と抗議。(中略)七日には条例案の「白紙撤回」を決め、美延映夫幹事長が保護者らに陳謝した〉由。市民団体の女性に深々と頭を下げる市議団幹部の写真まで載っている。幹部の姿を見つめる女性(二人)の表情は険しく、心中の「怒りより先にあぜんとした。かつては自閉症の子どもを見た人に、親のしつけが悪いからだと言われた。今も昔と同じ感覚の人がいたことに驚いた」という思いが直截に伝わってくる。しかし、この「市議団」と「保護者会」の対立は「不毛」であり「不幸」なことだ、と私は思う。「市議団」が謝罪する(条例を白紙撤回する)ことによって、「発達障害」「虐待」「非行」「不登校」「引きこもり」といった《家庭教育上の諸問題》が解決できるのだろうか。「市議団」は、少なくとも「発達障害」「虐待等」の予防・防止を試みた。「子育ての知識を学習する機会を親及びこれから親になる人に提供」しようとした。そのことまでも「謝罪」(「白紙撤回)しなければならなかったのだろうか。私の独断と偏見によれば、「市議団」の企図(条例の趣旨)はただ一点、「わが国の伝統的な子育て」の復興にある、と思われる。子育ての第一歩が「乳幼児期の愛着形成」にあることは「いわずもがな」、わが国の伝統的な子育てがその第一歩から着実にスタートしていたことは明白であろう。母乳、添い寝、抱っこ、オンブ・・・、を皮切りに、わが国の親は、乳幼児期が終わる(3歳頃)まで、自分の姿を子どもの「視野」の中に置いていた。(子どもを手放さなかった)そのことで子どもは「安心・安堵」し、「情緒の安定」が図られたのである。しからば、「わが国の現代の子育て」や如何に?、子どもより親の都合が優先され、ミルク、ベビーベッド、バギー・・・を皮切りに、保育所・保育園通いが「あたりまえ」になっていることはないか。そのことが、「乳幼児期の愛着形成」に大きな影響(母子分離不安)を及ぼしていることは否定できないのではないか。たしかに、〈発達障害は脳機能障害によるもので、実際には親の愛情不足とは全く関係ない〉(前出記事)。しかし、子どもの側の要因によって「乳幼児期の愛着形成」が不十分であったことも、事実ではないだろうか。大切なことは、「発達障害」と呼ばれる子どもたちを「どのように育てるか」という視点である。その脳機能障害に対して「わが国の伝統的な子育て」は有効か否か、専門医と連携した現代的な子育ては有効か否か。「市議団」と「保護者会」の対立が、そのような構図の中で展開されない限り、当事者の「子どもたち」は浮かばれまい。悲しい「現実」である。(2012.5.10)
精神科は今日も、やりたい放題精神科は今日も、やりたい放題
(2012/03/23)
内海 聡

商品詳細を見る

>


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村


「特別支援学校」という看板

東京新聞夕刊に「校名変更 分かれる対応」という見出しで、これまでの「盲・聾・養護学校」が「特別支援学校」に名称変更する学校が相次いでいる、という記事が載っている。2007年4月に「学校教育法」が改正された結果だが、その名称変更に「どのような意味があるか」、おそらく関係者の誰もが明確に答えられないであろう。名称が変わっても、現状は「何も変わらない」からである。「特別支援教育」という理念の導入によって、「変わらなければならない」のは、幼稚園、小・中学校、高等学校、大学(いわゆる普通教育)の「現状」である。記事によれば、〈盲・聾学校の設置は、大正十二(1923〉年の「盲学校及聾唖学校令」にさかのぼる〉とあるが、特殊教育(障害児教育)の分野においては、すでに85年前から「特別支援教育」という理念が「実践」に移されてきたのだから、今さら「看板」を掛け替える必要はないのである。(名称変更をしない)新宿区立新宿養護学校の関係者は、〈看板をはじめ、学校名の入ったものはすべて変えないといけないのでお金も掛かる〉と話したそうだが、まさに「そのことが問題だ」と、私は思う。大した意味もない「名称変更」に掛かる費用を、もっと他に使うべきではないか。 千葉県内の「養護学校」は、すべて「特別支援学校」に「名称変更」した。そのために費やした経費の総額はいくらになるか、私は知らない。しかし、校門の「金看板」に拘ったことは確か(手製の作品は皆無であろう)であり、侠客「もどき」の矜持が作用していることは間違いない。全く、嘆かわしい実態ではある。
特別支援学校学習指導要領解説 総則等編(幼稚部・小学部・中学部)特別支援学校学習指導要領解説 総則等編(幼稚部・小学部・中学部)
(2009/07)
不明

商品詳細を見る




にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村



「特別支援教育」とは何か

 文部科学省が、小・中学校の集団生活や学習に参加できず「特別な支援」を必要としている児童生徒(特別な教育的ニーズをもつ子)の数を調査したところ、約6%が該当したという。しかし、この実態は、今はじまったわけではない。近代の学校教育が実施されて以来、つねに6%前後の児童生徒は、「特別な支援」を必要としていた。
 では、なぜ、今、その児童生徒の問題を取りあげようとするのだろうか。
A このまま放置しておくと、多の児童生徒にも「悪影響」を及ぼしかねない。
B 児童生徒の基本的人権(生活権・学習権)を保障しなければならない。
基本的理念としては、Bで説明されているが、学校現場ではAが「本音」ではないだろうか。
いずれにせよ、この6%の児童生徒にどのような支援をすればよいか、その内容と方法が「特別支援教育」なのである。かつての「特殊教育」は、約1%の児童生徒を対象にした「特別支援教育」であった。今後は、その対象を6%にまで拡げようというのである。 そのようなことが可能であろうか。
『平成17年度版・○○県の特別支援教育』(○○県教育委員会)によれば、公立・小中学校の在籍者数は、小学校331,897人、中学校150,490人である。その6%といえば、小学校で19,913人、中学校で9,029人、合計28,942人ということになり、実に29,000人近くの児童生徒が「特別支援教育」を必要としているという計算になる。現在「特殊教育諸学校」「特殊学級」の在籍者数を、合計すると9323人であり、その3倍以上が「特別支援教育」を必要とする対象者として推定されるのである。
 この29,000人に「特別支援教育」を行うのは誰であろうか。
前出書によれば、「小・中学校の学級に在籍しているLDやADHD等の児童生徒への適切な支援を行うため、各学校の要請に応じ、『巡回指導員』がアドバイスを行っています」と説明されているが、「特別支援教育」を行うのは誰なのか。『巡回指導員』は、誰に対して、どのようなアドバイスを行い、その結果はどのようなものなのか、明らかではない。
29,000人に「特別支援教育」を行うためには、最低2900人の「教員」が必要であろう。○○県教育委員会は、その教員数をどのように確保しようとしているのだろうか。児童生徒数が増えたわけではないので、「新規採用」で確保できるはずがない。だとすれば、現在の教員数で「特別支援教育」を行わなければならないことは自明である。 そのようなことが、可能であろうか。
 かくて、「特別支援教育」は、その理念だけが「先走ったまま」、<絵に描いた餅>で終わるのである。そのことは、学校関係者の誰もが予感している。
 実を言えば、「特別支援教育」を実現できるのは、「特別な支援」を必要とされている6%の児童生徒自身に他ならない。彼らは、「注意欠陥多動」「学習障害」「高機能自閉」などという「レッテル」を貼られながら、現今の「学校教育体制」と果敢に戦っているのである。「集団に入れない」と言われる。その集団とはどのような集団なのだろうか。「集中持続力が乏しい」と言われる。何に対して集中持続すればよいのだろうか。集中持続するに「値する」活動を行っているのだろうか。「文字の読み書きが苦手」だと言われる。どのような学習指導を受けているのだろうか。「コミュニケーションが苦手」だと言われる。相手のコミュニケーション能力はどの程度のものだろうか。
 さらに言えば、「特別な支援」を必要としているのは、6%の児童生徒だけではない。それは教員の側が「必要としている」数値にすぎず、児童生徒、保護者の側から「特別な支援」を必要としている数値を調べれば、半数に届くかもしれないのである。
 昨今の学校事故を取りあげるまでもなく、今や「日本の公教育(学校教育)」は、崩壊の一途をたどっている。民営化を視野に入れた「教育改革」は「時間の問題」であろう。 この現状を踏まえ、学校教育の抜本的な改革を実現するために、「特別支援教育」の理念を具現化することが喫緊の課題だと考える。(2006.4.1)



にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村

発達障害の子どもたち (講談社現代新書)発達障害の子どもたち (講談社現代新書)
(2007/12/19)
杉山 登志郎

商品詳細を見る

オリンピックとパラリンピック

(日本の社会では)障害児をもつ母親の表情は、一様に暗い。その表情を見るたびに、私の気持ちも暗くなる。なぜなら、それは、日本の社会全体がが「病んでいる」証しに他ならないからである。障害児は社会の役に立たない、「厄介者」である、障害など「無い」方がいいに決まっている、障害者が居ることでその集団は迷惑する、障害者は隔離すべきである、障害者は「断種」すべきである、等々・・・。そうした見解、価値観で大半が占められている社会、その中でわが子を育てなければならない、だからこそ障害児をもつ母親の表情は、一様に暗いのである。「病んでいる」社会とは、弱肉強食の社会である。強者だけが生き残り、弱者は切り捨てられる社会である。だが、強い、弱いなどという基準は、所詮は「相対的」なもの、強者の栄光は、すぐにでも取って替わられる代物でしかない。そんな折、ロンドンではオリンピックに続いてパラリンピックが開かれた。陸上競技の会場は超満員、各選手の「正々堂々とした」(懸命な)闘いに、感動の嵐が巻き起こる。トラック、フィールド、スタンドに集結した人々の表情は、一様に明るい。その表情を見るたびに、私の涙は止まらない。なぜなら、そこにこそ人間本来の、あるべき社会が映し出されているからである。イギリスでは、オリンピックもパラリンピックも、その価値を「区別」しない。パラリンピックの閉会を待って、双方のメダリストが(一堂に会して)凱旋パレードするとのことである。しかるに日本は、といえば、オリンピックが閉会するや、(パラリンピックの開会以前に)、さっさとパレードを終えてしまったではないか。日本の社会では、オリンピックとパラリンピックのメダリストは「器(役者)が違う」とでも思っているのであろう。悲しくも、心貧しい「現実」である。 
障害者とスポーツ (岩波新書)障害者とスポーツ (岩波新書)
(2004/06/18)
高橋 明

商品詳細を見る

>


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村



「小中高自殺・最多200人」の《原因》

文科省の調査によれば、「昨年度(2011年度)、全国で自殺した小・中・高校生は200人、そのうち、いじめが原因は4人、父母に叱られてが24人、進路の悩みが20人、動機不明が115人だった」そうである。合計が200人にならないので、その他の原因もあるようだが、いずれにせよ、最も多いのは動機不明で、全体の57.5%に相当する。つまり、200人のうち半数以上が「動機不明」まま、自殺したということである。いうまでもなく「動機不明」とは、本人が「わけもわからず」自殺した、ということではない。本人には「確かな動機」があったにもかかわらず、周囲がそれを理解していない(いなかった)、ということである。
子どもの生死に関わる重大事を、周囲の関係者、(祖)父母、兄弟、友人、教員等々が理解していない。そのこと自体が、「小中高自殺」の最大要因である、と私は確信する。そのこととは、言い換えれば「コミュニケーションの断絶」である。同世代、異世代にかかわらず、日本人のコミュニケーションは断絶している。様々なコミュニケーション媒体が開発され、外見上は活発な情報交換が展開されているように見えても、実は最も大切なコミュニケーションが欠落しているのである。東日本大震災以来、「復興」「絆」「家族」「がんばろう」等々、空しい「合い言葉」が飛び交っているが、まず「相手を理解する」ことが、コミュニケーションの「第一歩」であろう。自殺した200人の子どもたちの大半は、自分を理解してくれる人に巡り会えなかった、また、理解できる相手を見つけ出せなかった。文字通り「孤立状態」、すでに「社会的には死んでいる」のだが、健気にも「生きている」振りをする。だから周囲は気づかない。そうした悲劇が、今もまた、日本全国津々浦々で繰り返されているのではあるまいか。「我が子は急に話をしなくなった」「何を考えているのか、見当もつかない」、昔なら、それは「親離れ」(社会的な自立)の第一歩として寿ぐべき現象の一つだったのだが・・・。(2012.9.14)
自殺した子どもの親たち自殺した子どもの親たち
(2003/01)
若林 一美

商品詳細を見る

>


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村



「小中高いじめ7万件 子ども自殺最多200人」の《責任》

東京新聞朝刊(1面)に「小中高いじめ7万件 文科省調査 子ども自殺最多200人」という見出しの記事が載っている。それによると(2011年度に)〈自殺した200人のうち、いじめが原因なのは4人だった。115人(57.5%)は動機が「不明」で、24人(12.0%)は父母らに叱られたこと、20人(10.0%)は進路の悩みが原因とみられる〉とのことである。私が知りたいことは、調査者は、自殺の原因をどのような方法で特定したか、という一点である。例1、遺書があった。そこに「私はいじめられました。だから自殺します」と書かれていた。したがって、この場合は、「いじめが原因」と特定できる。例2、自殺者の周囲に目撃証言があった。友人、家族、担当教員等々が「彼はたしかにいじめられていました」と言っている。したがって、この場合も「いじめが原因」と特定できる。おそらく、その程度の「確証」でしかない、と私は邪推するのだが、では、父母に叱られたこと、進路の悩みは、「いじめ」とは無関係と断定できるだろうか。言うまでも無く、自殺の原因は(大人でも)「単一」ではない。まして、子どもが自殺するなどということは「あってあられんごと」なはずなのに・・・。私の独断と偏見によれば、「子ども自殺」の原因は、動機が「不明」と感じている関係者の「無関心さ」である。加えて、「子どもを叱った父母」、「進路の悩みに対処できなかった関係者」の「鈍感さ」である。自殺志向者は悩んでいる。苦しんでいる。生きる希望を失っている。死ぬことだけが「解決の道」だと思っている。しかし、周囲の関係者の大半(57.5%)は、そのことに気がつかない。だからこそ、動機は「不明」などと、ノーテンキな言辞を吐くことになるのである。大切なことは、自殺志向者の苦悩に「寄り添い」「共有」することである。「そのままでいいんだよ。あなたの苦しみを私も引き受けよう」という、「理解者(責任者)」の存在である。父母の「養育責任」は言うに及ばず、(「文科省」を筆頭にした)学校関係者の「教育責任」は、途方もなく重い。「いじめ」の原因が、弱肉強食の競争社会にあることは明々白々、そのことを百も承知で、子どもの「苦悩」を野放し・傍観している「大人社会」もまた然り・・・、その責任をとって私もまた「自殺」しなければならないのは、確かであろう。(2012.9.12)

いじめ自殺―12人の親の証言 (岩波現代文庫)いじめ自殺―12人の親の証言 (岩波現代文庫)
(2007/02/16)
鎌田 慧

商品詳細を見る

>


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村



「いじめ」による小・中学生の自殺

衆院教育基本法特別委員会で、文部科学大臣は、「いじめ」による小・中学生の「自殺」の問題に関連して、「いつの時代、どの集団でも(いじめは)あることと思うが・・・」と述べた。はたしてそうか。「いじめのない時代」「いじめのない集団」は、「絵に描いた餅」なのだろうか。文科省の調査では、過去数年間にわたって「いじめによる小・中学生の自殺」の発生は0件であった。しかし、「友だち関係」や「厭世」による自殺は数十件に及んだという。政治家は、教育委員会や文科省の「隠ぺい体質」「事実誤認」を問題視しているが、問題は別のところにあるのではないか。
 毎年、理由の如何を問わず数十名の小・中学生が「自殺」しているという「現実」をどう考えるか、が喫緊の問題である、と私は思う。自殺の原因が、「いじめ」以外であれば許容できるのだろうか。大人ですら困難な「自殺」という行為を、「子ども」がいとも易々と(?)決行してしまう社会の「あり方」を問題視すべきではないのか。「人の命は地球よりも重い」という理念もまた、「絵に描いた餅」に過ぎなくなってしまったのだろうか。政治家が、「いじめ」「自殺」という「言葉」を軽々に使いまくることによって、「いつの時代、どの集団でも、あることと思うが・・・」などという「鈍感」な「感性」が国民の間に涵養されることは許されない。
大切なことは、未来永劫にわたって、「いじめによる小・中学生の自殺」の発生を0件にすることである。その覚悟が、文部科学大臣にあるか。総理大臣にあるか。審議に参加した政治家にあるか。報道関係者にあるか。そして、私自身にあるか。そのことが今問われているのだと思う。
(2006.10.30)
いじめ、虐待、うつ、自殺 「カウンセリング支援システム」いじめ、虐待、うつ、自殺 「カウンセリング支援システム」
(2008/11/01)
Windows

商品詳細を見る

>


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村



「夏休み子ども科学電話相談」・《トビハゼのアクビ問答》

 私はほぼ10年前、以下のような雑文を綴った。〈「わくわくラジオこども電話科学相談担当者」様  毎日午前中に放送されている「わくわくラジオこども科学電話相談」(NHK第一)を聞いていて,気になることは「先生」と呼ばれている大人達の言葉遣いである。はじめは丁寧語を遣っていたかと思うと,急になれなれしく「ウン」「・・だ」「・・なぁ「・・よ」「・・さぁ」「・・ねぇ」等の言葉を連発しはじめる。子どもに親しみやすく,わかりやすい説明を心掛けているつもりだろうが,相手が丁寧語で話している場合は聞き苦しい。ラジオという公共の場で「対話」しているのだから,「先生」には正しいスピーチ・マナーが要求される。最後に子どもが「ありがとうございます」とお礼を述べているのに「どういたしまして」と答えられない「先生」もイルンダナァ。(2003.8.2)〉。この番組は、現在「夏休み子ども科学電話相談」というタイトルに改まって、今日も放送されていたが、「先生」方の言葉遣いも改まる気配は一向に感じられなかった。したがって、「先生」方及び番組担当者に何の期待もしていないが、以下の「相談内容」(先生方の回答内容)は、聞き逃すことができなかった。質問者は小学生(中学年・女児)。「ヒトやネコは、肺呼吸をしているので欠伸をします。トビハゼはエラ呼吸なのに欠伸をするのは何故ですか」。回答者の先生、女児に向かって「トビハゼが欠伸をするということを、どうして知りましたか」「テレビで観ました。アクビをしていると書いてありました」。言うまでもなく、トビハゼは欠伸をしない。「欠伸をしているように見える」だけである。その行動を「アクビをしている」と大人(テレビ制作者)が、「虚言を弄した」ことによって、女児の「疑問」が湧き上がった。それはそれで、子どもの「科学への関心」を高めたと言えなくもないが、その契機が大人の「虚言」(非科学的な制作態度)だとすれば、御粗末な結果という他はない。回答者の「先生」は、女児の「テレビで観ました、アクビをしていると書いてありました」という応答に「ああ、そう」と言っただけで、そのテレビ番組に対するコメントを一切しなかった。そのことが問題なのである。もしかして、その番組の骨子は、幼児向けの「擬人化」趣向であったかもしれない。だとすれば、「それはお話の世界」でのことです、とか、アクビをしているように見えるのを「アクビをしている」と、つい言ってしまったのです、ごめんなさい。と謝るのが「先生」(見識者)としての「礼儀」ではないだろうか。回答によって、女児の「トビハゼはエラ呼吸なのに欠伸をするのは何故ですか」という疑問は解けたかも知れない。しかし、ではいったい、あのテレビではどうして「トビハゼが欠伸をしている」などと言ったのだろうか、という疑問は解けぬままであろう。もしかして、件のテレビ番組を制作したのはNHK?、だとすれば、「先生」方がノーコメントを貫くのも肯ける。(2013.8.29)
よばれてとびでてアクビちゃん ミニつぼ スパイスボトルセットよばれてとびでてアクビちゃん ミニつぼ スパイスボトルセット
()
不明

商品詳細を見る




にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村



「アスペルガー症候群」という《役割》

東京新聞朝刊(27面)に、「発達障害被告『再犯の恐れ』 姉殺害 求刑超す懲役20年 地裁判決」という見出しの記事が載っている。その内容を要約すると、以下の通りである。①昨年7月、(現在)42歳の男性が、当時46歳の姉を殺害した。②大阪地裁の河原俊也裁判長は、殺害の動機には、先天的な広汎性発達障害の一種、アスペルガー症候群の影響がある(引きこもりの生活から抜け出したいという願いが実現しないのは姉のせいだと思いこみ、恨みを強めた)と認定した。③また、「男性は十分に反省していない、親族が男性との同居を断っている、の2点から「再犯」の恐れがある」と判断した。④さらに、求刑を超す量刑(を科した)理由は「許される限り長く刑務所に収容し内省を深めさせることが社会秩序の維持にも資する」と説明した。⑤日本発達障害ネットワークの市川宏神理事長は「アスペルガー症候群の人は反省していないのではなく、言われることが分かっていないだけだ。裁判員の理解がないとこういう結果になりやすく、裁判員制度が始まるときに心配していたことが起こった」と批判した。以上の事例から生じた、私の感想は、以下の通りである。①男性は(発達障害の有無にかかわらず)「姉殺害」の罪を償わなければならない。②専門家は、「アスペルガー症候群の人(件の男性)は反省していないのではなく、言われることが分かっていないだけだ」と言うだけでなく、どうすれば「言われることが分かる」ようになるか、その方法を提示すべきである。「裁判員に理解がない」現状を生んでいるのは、専門家の責任である。③「約30年間引きこもり状態だった被告が姉に逆恨みを募らせた動機の形成など」に、アスペルガー症候群の影響があったとする裁判長の認定は正しいか。(それが問題の核心である)
 さて、私の独断と偏見によれば、そもそも「広汎性発達障害」(当然、アスペルガー症候群を含む)などという概念(診断名)自体を疑わなければならない。その正体は、ただ(世間の標準から逸脱した)「行動特徴」が列記されるだけで、その原因が、詳細に解明されているわけではない。〈広汎性発達障害の原因については、これまで親の愛情不足やしつけの仕方が原因ではないかと考えられてきた時期もありました。しかし、今では研究が進み、主な原因は遺伝的な脳機能の障害によることが明らかになってきています。遺伝的な要素が原因かそれとも後天的な要素が原因かについては、双子の障害者に関する研究が行われ、一卵性双生児は二卵性双生児に比べて、非常に高い確率で、二人とも障害を持つことが明らかになっています。しかし、遺伝的なものだけではなく他の要因にも広汎性発達障害を患うリスクを高くするものはあります。まず、妊娠中の母親の心身の状態や、出産前後に生じる様々な事柄により、子供の発達にも相当の影響を与えることが知られています。また、幼少時に受ける様々なワクチンに含まれる、チメロサールと呼ばれる水銀を含む物質が原因ではないかと考えられていたこともありました。現在では概ね否定されていますが、水銀を使わないワクチンを使う努力をしている病院もあり、気になる場合はそのような病院で相談するのが賢明でしょう。広汎性発達障害の原因は、少しづつ明らかになってきてはいますが、まだわかっていない部分も多いというのがその実情のようです。インターネットなどのメディアには様々な情報が氾濫しています。信頼できる出版社の本を読んだり、定評ある医師に相談することによって正確な情報を注意深く確かめるようにすることが大切です〉(「広汎性発達障害早わかりガイド」)要するに、(大切なこと、この疾患の根本的な治療方法・予防方法などは)「何も分かっていない」のだ。にもかかわらず、そのレッテルを貼られた人たちが「存在」することによって、その障害もまた「一人歩き」してしまう。(標準が尊ばれ、それ以外はことごとく排斥されるという)社会自体の「病巣」を弾劾しなければならない(と私は思う)。件の男性は、「約30年間、引きこもり状態」だったという。その原因が(原因不明の)「広汎性発達障害」という(専門家の)「診断」(の影響)にあったことは、明らかであろう。そのことに対して、専門家はどのように責任をとるのだろうか。彼ら曰く「汎性発達障害の原因については、これまで親の愛情不足やしつけの仕方が原因ではないかと考えられてきた時期もありました。しかし、今では研究が進み、主な原因は遺伝的な脳機能の障害によることが明らかになってきています。」そのことで、親族の負担は軽減されたのだろうか。そのことで、男性が抱える問題を(一つでも)解決できたのだろうか。40余年後の今「親族が男性との同居を断り」、社会内での受け皿は刑務所だけという「現実」の中で、件の男性は、生涯「アスペルガー症候群」という「役割」を(絶望的に)演じ続けなければならないのである。今、(専門家にとって)何よりも大切なことは、まず男性の「反省」を《証明》すること(贖罪の可能性を追求すること)であり、「標準的な秩序」を(後生大事に)維持しようとする社会の「病巣」(判決)に敢然と立ち向かう小ことではないだろうか。(2012.7.31)
アスペルガー症候群 (幻冬舎新書 お 6-2)アスペルガー症候群 (幻冬舎新書 お 6-2)
(2009/09/30)
岡田 尊司

商品詳




にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村



徳育の「根幹」

「徳育」(道徳教育)を教科に位置づけても、すべての子供たちに高い規範意識を身につけさせることはできない。なぜなら、そのためには、すべての大人たちが高い規範意識を身につけていることが前提であり、まず大人の社会が子供の「手本」にならなければならないからである。しかし、規範意識に欠ける大人の行動が社会の隅々にまで蔓延しているのが現状ではないか。学校という社会、教員という大人だけに、その高い規範意識を望むことには無理がある。まして「徳育」の根幹は「心を育てること」であり、「知識」を注入することではない。善悪の判断は、「知識」として教えることはできるだろうが、それを行動に移すかどうかは「心情」の問題である。だからこそ、現行の「学習指導要領」においては、「道徳」「特別活動」を「領域」として位置づけ、学校生活全体を通して指導することにしているのである。「真善美」という理念を「知識」として「頭」のなかに入れたところで、「社会規範」として「行動化」されなければ意味がない。大切なことは、「徳育」の格上げではなく、「集団の一員としての自覚を深め、協力してよりよい生活を築こうとする自主的、実践的な態度を育てる」(小学校学習指導要領)ことを目標にした「特別活動」の充実を図ることである。「教育再生会議 第2次報告」を読んでの感想を述べた。(2007.6.2)
渋沢栄一 徳育と実業ー錬金に流されず渋沢栄一 徳育と実業ー錬金に流されず
(2010/09/17)
渋沢 栄一

商品詳細を見る




にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村


「バスケ部主将の自殺」という《問題》

東京新聞朝刊(5面)に「学校に体罰はいらない バスケ部主将の自殺」という見出しの社説が載っている。そこでは、体罰が学校教育法で禁止されているにもかかわらず、全国の学校で、依然と「横行」している実態、それを隠蔽しようとする学校の体質、スポーツの強豪校では、戦績を挙げるために教育的指導の名の下で体罰が黙認される風潮、当該顧問教員が18年間も同一校に勤務している人事の不公正さ、等が指摘されているが、今回の「事件」の問題は、以下に要約される、と私は思う。①顧問教員は、なぜ「体罰」を行ったか。②バスケ主将は、なぜ自殺したか。
 ①顧問教員が「体罰」を行った理由は、単純である。バスケットの強豪校として、自分が(18年かけて)育て上げた大阪市立桜宮高校バスケット部の戦績・栄光を「守る」ためである。バスケット部は、自分の財産(私物)だと思い込んでいる。生徒を、自分が自由に操れる「手駒」(兵隊)だと、信じている。「三十発、四十発殴ったとしても、あいつはオレについてくる」、そうした思い上がりがあったに違いない。しかし、その背景には、「インターハイ出場」は素晴らしいと、その栄誉を讃える「世間」(父母、地域住民)が居ることを、見落としてはなるまい。大阪市長は「事実なら犯罪だ。完全な暴行、傷害だ」と憤慨したそうだが、もし、このような問題が明るみにでなければ、当該校、当該部、当該教員の「功労」を讃えていたはずである。なぜなら、「18年も同一校に勤務させる」という不公正人事を、容認していたのだから。「知らなかった」では、すまされまい。そのことによって、人ひとりが命を絶っているのである。憤慨する前に、自らを「処断」する方が先決であろう。
 ②バスケ主将が「自殺」した理由は、単純ではない。「体罰」が原因だとすれば、なぜ「今、この時期に」という疑問が生じる。主将就任後、「体罰」は日常化(チームの叱られ役)しており、我慢に我慢を重ねてきたが、もう耐えられない、ということだろうか。彼は高校2年生、まして主将を務めるほどの「実力者」なのだから、そんな弱音を吐くとは思えない。社説には「バスケが大好きで、テスト期間中でさえ自主練習に励んでいたという男子生徒。その無念さを思うと胸がつぶれる」と、述べられているが、その「無念さ」こそが、自殺の「動機」に他ならない、と私は思う。「自殺」とは、大好きなバスケットを捨てることである。家族、友人との絆を断つことである。「絶望」することである。「絶望」とは、文字通り「望みを絶つ」ことだが、彼には、どのような「望み」があったのだろうか。私の独断と偏見によれば、彼の「望み」は、「主将を続けること」だった、と思う。しかし、(執拗な)「体罰」を受けることによって、その「望み」は絶たれた(と感じた)。チームメートに対する「申し訳なさ」、自分に対する「ふがいなさ」「情けなさ」、家族に対する「感謝とお詫び」、顧問教員に対する「憤り」「恨み」等々の感情が入り混じって、彼は「孤立」する。その「苦しみ」から逃れるためには「死ぬしかない」・・・、と思ったかどうか。社説の末尾は「体罰を情熱や熱血とすり替え、教育を放棄してはならない。男子生徒の死を無駄にできない」と結ばれている。そのためには、ぜひとも、②バスケ主将は、なぜ自殺したか、という問題が解明されなければならない。(2013.1.11)
自尊心という病―自尊心の傷つきに耐えられない少年たち自尊心という病―自尊心の傷つきに耐えられない少年たち
(2000/11)
町沢 静夫

商品詳細を見る




にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村



いじめの「根源」

「いじめ」の根源は、私たちの心の中にある。「からかう」「あざける」「さげすむ」「もてあそぶ」「悪ふざけ」などという言葉で表現される心情が、「いじめ」の根源である。一方、私たちは「人間の存在価値はすべて平等である」「基本的人権は守られなければならない」という理性をもっている。この理性が、「いじめ」の心情をどのように克服するかという一点が、学校教育(公教育)の喫緊の課題 となってきた。
 いうまでもなく、人間は、顔かたち、能力、性格、思想、信条において「みな同じ」ではない。その「違い」を「価値判断」(評価)することは「差別」であり、「人間の存在価値はすべて平等である」という理念に反する。とりわけ、能力の「優劣」で、その人間の「価値判断」をすることは、「基本的人権」の侵害である。
 しかし、学校教育では、教員が児童・生徒の能力(「学業成績」)を評価している。それが、教員自身の指導(業務)成績を評価する限りにおいては有効であろうが、その「結果責任」をとらされるているのは、児童・生徒(保護者)の側である。「がんばりましょう」「努力を要す」等という評価は、本来、教員に向けてなされるべきものではないか。
 一教員の言動が動機となって、一中学生が「いじめ」られ、自殺した。その教員を知る生徒たちは、「悪ふざけも多かった」と評価しているとのこと(東京新聞10月17日付け夕刊)だが、その教員に「いじめ」の心情があったかどうかにかかわらず、能力(「学業成績」)の評価を児童・生徒(保護者)の側に「結果責任」として「押しつけているかぎり」、教員一般の言動は、つねに「いじめ誘発」の要因になっていることを銘記する必要がある、と私は思う。(2006.10.18)
“いじめ”の根源を問う―集団主義教育の「犯罪」“いじめ”の根源を問う―集団主義教育の「犯罪」
(1995/12)
今村 城太郎

商品詳細を見る

>


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村



教育公務員の《使命》

 @niftyニュース(読売新聞3時8分配信)に、「『食べるのが遅い』両親が小1暴行→病院で死亡」という見出しで、以下の記事が載っている。〈小学1年生の長男に暴行を加えたとして、警視庁小岩署は、東京都江戸川区○○、電気工A(31)、妻のB(22)の両容疑者を傷害容疑で逮捕した。長男は搬送先の病院で死亡し、背中などに複数のあざがあることから、同署は普段から暴行を受けていた疑いもあるとみて25日に司法解剖を行い、死因を調べる。発表によると2人は23日午後8時頃、自宅アパートで、長男で区立松本小1年のC君(7)を「ご飯を食べるのが遅い」と言って正座させ、顔面を平手打ちしたほか、左足をけるなど約1時間にわたって暴行した疑い。C君がぐったりしたためB容疑者が119番したが、24日朝、搬送先の病院で死亡した。死因は不詳で両腕と背中に多数のあざがあった。調べに対し、2人は「しつけのつもりでたたいた」と容疑を認め、A容疑者は「普段からうそをついた時などに平手で殴っていた」と供述しているという。C君はB容疑者の実子で、B容疑者がA容疑者と結婚した後の昨年4月から3人で暮らしていた。松本小によると、昨年9月、C君が数日間学校を休んだため担任が家庭訪問したところ、顔を腫らすなど暴行を受けた形跡が見られたため、同日中に校長と副校長、担任が改めて訪問した。応対した両容疑者に「子供に手をあげてはいけない」と諭し、C君を病院に連れて行くよう勧めると、A容疑者は「今後は絶対にやらない」と約束した。その後、病院にも連れていったと連絡があったため、同小では児童相談所などに通報しなかったという。〉悲しいことだが、昨今では、この種の「児童虐待」は珍しくなくなってしまった。それにしてもB容疑者は22歳、C君が7歳なら、Bが15歳時の出産という勘定になる。尋常ではない。A容疑者は31歳の継父、B容疑者は「子連れの幼妻」(元・シングルマザー?)という構図をみれば、誰が考えても、C君が「きわめて不安定」「危なっかしい」家族関係の中に置かれていることは明らかであろう。まして、4か月前(3人同居から5か月後)には「暴行を受けていた形跡」を確認しているとすれば、松本小学校の「対応」は不十分極まりない、と私は思う。保護者が学校に反発、助言に従わないので学校としては手の施しようがない、という場合ならともかく、〈A容疑者は「今後は絶対にやらない」と約束した〉のではないか。つまり、その時点では学校と家庭の「信頼関係」は成立していたのである。私は部外者、詳細は知るよしもないが、〈近所の女性は「あいさつができる子だった」と話し、別の男性は「父親と仲良くキャッチボールをしていたのに・・・」と驚いた様子だった〉(東京新聞1月25日朝刊・27面)という情報もある。だとすれば「育児」「養育」に未熟すぎた両親が「手加減を知らずに」、(図らずも)犯してしまった「悲劇」ではなかったか。今や、松本小学校に代表される「教育公務員」としての職責は、「保護者・家庭・家族丸抱え」の支援まで「全うしなければ」果たせない時代に入ったのである。いずれにせよ、7歳男児の「尊い生命」が失われたことに変わりはない。(人の命は地球よりも重い、その理念を具現化することが「教育公務員」(松本小学校教員)の使命である、と私は確信する)その責任を「幼い」「未熟な」両親に負わせるだけでは、何の解決にも至らないことを如実に物語る事例であった。(2010.1.25)
毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社プラスアルファ文庫)毒になる親 一生苦しむ子供 (講談社プラスアルファ文庫)
(2001/10/18)
スーザン・フォワード

商品詳細を見る




にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村



「ストレスで教諭自殺」の《要因》

今春大学を卒業し、東京都新宿区の区立小学校に赴任した女性新任教諭が、過重労働やストレスで精神疾患にかかり自殺した。その教諭の両親は、公務災害に当たるとして、認定を申請したという。(東京新聞10月25日付け朝刊)
 新聞記事によれば「教諭は着任後、連日授業の準備に追われ、一カ月の超過勤務時間は百時間を超えた。また、保護者からの連絡帳には指導への疑問や批判が繰り返し記され、『結婚や子育てをしていないので経験が乏しいのではないか』と人格を侵害するような内容もあったという」。後日見つかった教諭のノートには「『無責任な私をお許し下さい。すべて私の無能さが原因です』と書かれていた。
 この事例(悲劇)の特徴は、教諭の「お許し下さい」という叫び・懇願に応えようとする「関係者」が、これまで一人もいなかったし、現在もいないという点である。 
 まず、第一に、教諭は自分自身の「無能さ」を許すことができなかった。
第二に、保護者は、教諭の「指導方法」を許すことができなかった。
第三に、両親(代理人弁護士)は、学校の脆弱なサポート体制、保護者の姿勢を許すことができなかった。
 教員採用試験という「難関」を、現役で突破した女性新任教諭が「無能」であるはずがない。いわば「選考試験の勝者」であった。にもかかわらず、彼女をそこまで絶望させた原因は何だろうか。「自殺するほどの問題ではない。辞職すればよいではないか。彼女は責任感が強すぎたのだ」といえるかもしれない。しかし、それは彼女の「弱さ」を責めることに他ならず、「死者に鞭打つ」結果に終わるだろう。
 大切なことは、お互いに「許し合う」ことができなくなってしまった、私たちの「人間関係」(社会集団)を根底から見直すことだと思う。お互いが「自己主張」しあい、自分の言い分を通そうとすることは「基本的人権」「表現の自由」に関する「権利」かもしれないが、その「権利」を守るためには、同時に、「相手の立場」を理解し、尊重しあうルール(「義務」)が不可欠である。それを「学び合う」のが、他ならぬ「学校現場」でなければならなかったはずである。にもかかわらず、この事例の核心が、お互いの「自己主張」に終始したとすれば、「半年間指導された」児童の空虚感・絶望感は深まるばかりだろう。
 「公務災害」の認定は、「学校再生」という「教育的観点」から検討されなければならない、と私は思う。   
新採教師はなぜ追いつめられたのか―苦悩と挫折から希望と再生を求めて新採教師はなぜ追いつめられたのか―苦悩と挫折から希望と再生を求めて
(2010/03)
久冨 善之、佐藤 博 他

商品詳細を見る
(2006.10.25)
>


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村



劇団素描・「三河家劇団」・《芝居「会津の小鉄」座長の《離れ業》と「特別出演」大導寺たかしの「舞姿」》

【三河家劇団】(座長・三河家桃太郎)〈平成26年2月公演・島田蓬莱座〉
蓬莱座は、JR東海道線藤枝の一つ先(下り)、六合駅で下車、東海道(国道1号)に沿って島田方面に向かい、御仮屋の交差点を越えたところにある。多分(去年)、三軒長屋風の2階建て店舗を「劇場」に改装したのだろう、収容人数50人ほどの瀟洒な佇まいであった。オーナーは、元役者の大導寺たかし、しかも、今日は舞台に「特別出演」するとのこと、まだ彼の舞台姿を拝見していない私にしてみれば「何はおいても」という一念で馳せ参じた次第である。芝居の外題は「浪花遊侠伝・若き日の会津の小鉄と名張屋新蔵」。座長・三河家桃太郎が、小鉄の女房・お吉と名張屋新蔵の二役、会津の小鉄に京華太朗、その兄貴分といろはの幸太郎二役を奥村武仁、新蔵の娘に美河こもも(?)、お吉を訪れた髪結いに甘田千恵子といった配役であったが、見所は、座長二役の「離れ業」、いずれも小鉄のために「死んでいく」役柄だが、お吉は小鉄の「侠気」を奮えたたせ、新蔵は、そのお吉に殉じようとして・・・、といった「心模様」を座長一人で描出してしまう、という「至芸」に私の涙は止まらなかった。惜しむらくは、それに対する小鉄の風情、いずれは幕末の京都を取り仕切るほどの大親分になるという、その「片鱗」を見せてほしかったのだが、まだ京華太朗は発展途上、今後の精進に期待したい。さて、第2部グランドショーでは、いよいよ「特別出演」大導寺たかし、登場。「立ち」は「転がる石」、「女形」は瀬川瑛子の「曲名不詳」であったが、いずれ菖蒲か杜若、どこか哀愁を漂わせ、華麗にかつ可憐に舞う舞台姿は、筆舌に尽くしがたい。とりわけ、女形舞踊は片岡梅之助、故・東雲長次郎と肩を並べる一品で、斯界の「至宝」と言っても過言ではないだろう。桃太郎座長、歌唱の後のトークでいわく「私が最も得意とするのは芝居、次は歌・・、三番目が踊り?かな」、その意味がようやく呑み込めたのであった。幕間には「三河家桃太郎誕生日公演『一本刀土俵入り』・舞踊歌謡ショー」のDVDが売り出されていたのですぐさま購入、やっぱり大雪の一夜が明け、交通機関が混乱する中を、はるばるやってきた甲斐があった、今日もまた大きな元気に「お土産」まで頂いて、心ウキウキ帰路に就くことができた。感謝。
浪花しぐれ「桂春団冶」/会津の小鉄浪花しぐれ「桂春団冶」/会津の小鉄
(2005/12/07)
京山幸枝若

商品詳細を見る




にほんブログ村 演劇ブログ 大衆演劇へ
にほんブログ村 
blogram投票ボタン

観劇 ブログランキングへ

ブログランキングNo.1
ブログランキングNO1


教員の「待遇」と「質」

大分県教育委員会の「教員採用」に関する「贈収賄」事件が、頻りに報道されている。こういった類の事件は、大分県に限ったことではないだろう。「贈収賄」事件に発展するか否かはともかく、教員が「うちの息子をよろしく」などと上司、関係者に「依頼」することは、全国の津津浦浦では「日常茶飯事」ではないだろうか。むしろ「なぜ大分県だけが・・・」という感が強い。しかも「永年に亘って行われてきた体質」などということになれば、「何を今さら・・・」ということになり、当事者は(「運が悪かった」という悔いはあっても)「罪の意識」など微塵も感じないのではないか。私が教職に就いたのは昭和43年度、当時の初任給は24,000円程度で、民間会社より相当低かったと思う。「どうして教員なんかに・・・」という眼で見られたのである。つまり、教員は「冷遇」されており、贈賄をしてまで手にする「職業」ではなかった。いわゆる「デモしか教師」とは、まさに私のことである。いささか「我田引水」になるが、そうした時代に教員を志願する者は、いわば「損得抜きで」(自分のことは二の次にして)「子供が好き」「学校が好き」「教えることが好き」というようなタイプが多かったように思う。(私がそうだったというのではない)しかし、いつのまにやら(田中角栄首相の時代からか、「人材確保法」により教員の待遇は大幅に改善され)、教員は「高給取り」の「安定生活」に「安住」するようになってしまったのではないか。(私もまたその一人であったことは間違いない、そして今も。)当初は、「生活の安定」「身分の保障」が「教員の質」を向上させるのではないかという思惑があったにもかかわらず、結果は、「全く逆」の結果になった、と私は思う。今、教員を志願する者は、まず第一に「自分の安定した生活」を求めているに違いない。「教員になりさえすれば」将来の生活は確実に保証されるのである。報道によれば、大分県の場合、100万円の賄賂が相場とのこと、たったそれだけで「一生の生活」が「安定」するのであれば「安い買物」だという判断が生まれることになるのだろう。 
 教員の待遇が改善されても、教員の質は向上しなかった、という「事実」を今回の事件は証明している。(2008.7.17)
職員室―先生の仕事と待遇の裏表 (新風舎文庫)職員室―先生の仕事と待遇の裏表 (新風舎文庫)
(2003/09)
石川 耕

商品詳細を見る




にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へ
にほんブログ村



スポンサードリンク


プロフィール

ケンモ  ホロロ

Author:ケンモ ホロロ
FC2ブログへようこそ!

最新記事
最新コメント
カテゴリ
検索フォーム
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる